いつもの昼下がり、いつもの空き地。そして顔を合わせる、いつもの面々。けれどもそこに、"在るべき" いつもの空気感は、絶無だった。
「その話、ほ、本当なのか……?」
全ての説明を聞き終えた後、沈鬱な静寂を打ち破ったのは、剛田武の声だった。普段の彼らしくない臆したそのトーンは、彼らを取り巻く状況の凄絶さを、図らずも雄弁に物語っていた。
「ウソを吐くメリットがない」
言下にドラえもんは言い返す。瞳の中に、しかし、その感情の色は見てとれない。曇天を受け鈍色に輝く双眸のガラス眼は、放たれる一切の疑義を拒絶するかのような雰囲気ですらあった。
「でも、ドラちゃん……」
源静香はただただ不安げな表情を浮かべている。並び立つ骨川スネ夫も同様だ。だがドラえもんは揺るがない。四人の小学生から向けられる怯えの視線を受けてもなお、彼の依って立つ場所には一毛の動静もない。
「全ては既定路線なんだ。逃げ場はどこにもない。だから」
闘るしかないんだ。品の字に並べられた土管の最頂点に腰を据えたドラえもんは、見るともなしに地面を見つめて、無表情に言い捨てた。
時は12月22日、都内某所。
小学生4人と、未来からやって来たロボットと。
その日、その場所で、彼らは静かに受け入れた。
『サンタ大戦』
無秩序で暴力的な、濁流の如き運命に呑み込まれるほかない自らの、その存在を。
−−これは、後に歴史の闇に葬り去られることとなる、血塗られたものがたり。
話は12月上旬へと遡る。
迫り来るクリスマスを憂いたのび太は、その旨をドラえもんへと告げた。煌びやかなネオン、街中に流れるポップなミュージック、連れ立ち歩くカップルの影、そして影……その状況を想像するだに、のび太の心には暗い陰が落ちていくばかりだった。
しかしドラえもんの反応は異なる。クリスマスの何が楽しいというのか?呆気に取られたような風情でそう言い放った。のび太ははじめ、それがドラえもん流の皮肉かジョークに違いない、と捉えた。けれど、その虚妄はすぐに打ち消されることとなる。
『クリスマスといえば、ホラ、サンタ大戦だろうが』
要約すると、22世紀のクリスマスの日。世界では人類とサンタとが血で血を洗う殺戮を繰り返しているそうなのだ。なぜそうなったのか、いつの段階からかかる陰惨な光景が展開されることとなったのか。永らくその由来は判明していなかった。
そう、判明していなかったのである。
あの日の、あの瞬間を迎えるまでは。
・・・
ドラえもん「22世紀ならいざ知らず、この20世紀の安穏とした世において、まさか"ヤツ"らもこの時期に襲われるとは思うまいて……」
のび太「そ、そうか……どういうわけか、現代ではまだS.A.N.T.Aの動きは活発化していない……そこを叩けば、あるいはッ……!!」
・・・
こうして二人は、サンタの棲家であるフィンランドへと発った。獰猛なる翼、戦術戦闘機F-22にその身を委ねて。
短い刻の経過の後、サンタ陣営が壊滅的な被害を受けたことは、最早説明するまでもないだろう。圧倒的な奇襲、無秩序なる暴力を前に、被害者が出来ることは、無きに等しい。サンタはただ、ただひたすら、蹂躙されるに任すほかなかった。
生家は朽ちた。
トナカイは、死んだ。
クリスマスに向け子供達に用意したプレゼントも、何もかも。
それは、サンタに内包される精神の死という、あまりにも当然な結論と、共に。
粉雪が降っていた。その一つが虚空を見上げるサンタの頬に舞い落ち溶ける。雫となった雪は表皮を伝い、雪面へと零れ、儚く消えた。
ただ粉雪が、降っていた。
サンタは虚空を見上げていた。
「殺す。全てを消す。何もかも、全てを」
その感情の色が憎悪ひとつに染まりきる、その寸前までサンタは、いつまでも虚空を。
・・・
最初に異変の発生を察知したのはドラえもんだった。サンタを襲撃した3日後、定期メンテナンスのために22世紀に帰ろうとした時のことだった。いつものようにタイムマシンに乗り込んだドラえもんは、やはりいつものように、行き先を22世紀へと設定する。だがタイムマシンはちくとも動こうとしない。しまった、故障だろうか。慌ててタイムテレビで妹に連絡を取ろうとする。けれどスイッチを入れた後、画面に映るのは、無情なる砂嵐ばかりであった。
「察するに、現状のままであれば、『あるべき22世紀への道』が途絶されるのだろう」
ドラえもんは重々しい口調で状況を分析する。その顔には、相変わらず何の感情の色も浮かんでいない。淡々と、プログラミングされたロボットのように平板な声で、言葉を紡いでいった。
「それが証左に、僕が試したところによれば、タイムマシンで行けるのは12月25日までだった。つまるところこの地球の運命は、22世紀どころか、あと3日で、終わる」
目を瞑り、腕組みをしたまま、言った。同時に一同の生唾を飲む音が鈍く響き渡る。
「で、でもおかしいじゃないか!」
沈黙が横たわるのび太の自室のなか、議論の口火を切ったのは出木杉だった。空き地からの道すがら、皆の総意が 『出木杉は仲間へと引き込んでおくべきだ』 そこに向かって収斂していった故のことだった。
「もしもこの世界があと3日で終わるとして……22世紀の、いや、3日後から先の世界がなくなるとしたならば!ここに、こうやってドラえもんくんが居続けること、それは確実な意味での矛盾だよ!未来への道が途絶された時点で、ドラえもんくんの存在もまた、消え去るほかないはずなんだ!」
最後の方はほとんどがなり立てるようにして喋っていた。クラスの、地域随一の秀才と目される出木杉も、この状況を前に冷静ではいられないらしい。肩で荒い息をつきながら、睨めつけるようにしてドラえもんのことを見ていた。
「もっともだと思う。当然、それは僕も考えた。『どうして僕はまだ存在しているんだ?存在できている?』、その辺りのことを。でもね、出木杉くん。この僕の存在こそが、この世界を未来へと繋ぐ希望の鍵なのかもしれないんだよ」
「それは、どういう」
「君の言うとおり、もしも22世紀という世界の在り方が根元から滅しているのであれば、僕は既にこの場に存在していない。というより、存在する根拠がない。しかし、現に僕はここに存在する。いま、この瞬間だけじゃない。君たちと出会った時からいまに至るまで、僕は僕として連綿と存在し続けている。その結果として、僕はサンタに攻撃を仕掛けた。その帰結として、未来への道は途絶された。未来から来たはずの、僕の未来が」
「あ、そうか……」
ドラえもんの言葉を聞いた出木杉は、途端に口の中で何やらぶつぶつと呟き続けている。時に頷き、時に首を振りながら、彼は彼の脳内において無数にロジックを積み上げる。のび太を含む他の小学生たちは、苛立ちながらもその光景を黙ってみつめるほか、なかった。
「もしも真実の意味で未来への道が途絶するのであれば、22世紀という存在そのものが無くなるのであれば……そこで生じるのは、ドラえもんがいなくなる、だなんてチープな現象ではない。もっと壊滅的で、もっと絶望的な」
「あらゆる因果が根こそぎ拗じ変えられるんだ。そこに待ち受けるのは、宇宙の破滅さ」
「けれどもまだ、宇宙は破滅していない。ドラえもんもまた、ここに居る」
「そう、出木杉君。僕たちの運命はいま、まさに揺蕩っているのさ。22世紀からの使者である、僕という存在を担保に」
出木杉は大きく息を吐くと、静かに天井の方に顔を上げ、目を閉じた。鼻梁の通った横顔からは、規則正しい呼吸音以外、何も伝わってこない。ドラえもんを含め、居合わせた全ての者は、まんじりともせず彼の言葉を待った。
「……人手が、必要だね」
5分か、3時間かあるいは10秒ほどが経過した頃、出木杉はようやくそれだけを言った。
「やはり、出木杉君は賢しいな」
呼応するように、ドラえもんは歪な筋動作でほくそ笑む。そこでようやく、たまりかねたようにのび太が叫んだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ!僕には難しくて出木杉君やドラえもんの言ってることがよく分かんないけど、とにかくサンタを襲撃したのがまずかったんだろう!?だったら、タイムマシンであの日に戻って、僕たちを止めたらいいじゃないか!」
「のび太くん。それは少し違う。確かにそうすることで、『君の戻った過去の世界においては』 僕たちを取り巻くような状況が生じることは回避されるだろう。だけどその回避された世界っていうのは、僕たちがいまいる世界とは、何らの関係もない世界なんだ。その世界はその世界として別の軸として流れ続け、この世界はこの世界として、やはり独自の軸として流れ続けるほかないんだよ」
「え?ん……いやでも……過去を変えれば未来も……だって僕としずちゃんのことにしたって……」
「いいかい、のび太くん。それとこれとは話が別なんだ。君の場合、僕という特異点の介入を契機に、偶然変わっていく未来……という体で、実際のところ、全て『決まった』未来なんだ。君はジャイ子と結婚するほかないほどダメなヤツとして生まれる、そして子孫は不遇の目に遭う、だから過去に僕を送り込む、そして歴史に介入し、見事君はしずちゃんと結婚する……そこまで込み込みで、『一つの未来の在り方』として成り立っているんだよ。ある種のお約束、みたいな事例なんだ。だけど今回の話は、全く違う」
「違う……?」
「そう、違う。なぜなら、僕たちがあの日、F22でサンタのところに乗り込もうとした瞬間、未来から誰も現れなかっただろう?誰も僕たちのことを止めなかっただろう?そこからすれば、僕たちがこれから過去に乗り込んだとしても、『僕らの世界において』未来の僕たちが現れなかった以上、この世界はこの世界として、『あの日、誰も僕たちを止めなかった世界』として、あり続ける。だからこの話は、ここでおしまいなのさ」
「な、なんだかよく分からないけど!タイムマシンがダメなら、もしもボックスがあるじゃあないか!『もしもあの日、僕たちがサンタのところに襲撃にいかなかったら』ってやれば、それで全部終わる話でしょ?!」
「無意味だよ、のび太くん。まあ、まるっきり無意味だとは言わない。だけどそれは、『あの日、あの時点において』僕たちがF22での襲撃をif性において否定するだけの行為でしかない。じゃあ次の日に行かなかった、と言えるのか?その次の日は?このやり取りをしている、まさにこの瞬間、そのコンマ1秒前までの行動まで延々ともしもボックスで規定し否定し続けるの?」
「な、何を……難しすぎて、よく分かんないよ……」
「あの日の僕たちの行動原理は、何だ?思いだせよのび太くん。君の場合は『クリスマスが憎い』、それだけのことだ。そして僕の場合は『20世紀の時点でサンタに奇襲をかけたい』、こいつだ。だから、もしもボックスで『あの日の行動がなかったとしたら』と願い、それが叶ったとしよう。のび太くん、のび太、ここでよく考えろ。そこで変わるのは、何だ?」
「ええっ?そこで変わるのが、何……?」
見る間にのび太の顔が紅潮する。まるで頭から湯気でも立ってきそうな風情だ。見ればジャイアンも同様であるらしく、眉間に深い皺を寄せながら必死に何事か考えている。
「その日の行動、だけ」
「その通りだ、スネ夫くん」
先生と生徒とのやり取りに似た光景が眼前で繰り広げられる。違うところがあるとすれば、彼らの関係が上下のあるそれではないこと、そして、スネ夫の回答が正解であるとて、誰も何も喜ばない、マルをつけてくれない、そのあたりのところであった。
「どういうことなんだよ、スネ夫!」
「もしもその日に襲撃に行かなかったら、次の日に行くかもしれない。次の日に行かなかったとしたら、その次の日に行くかもしれない。その次の日に行かなかったらその次の次の日に行くかもしれないーーそういうことなんだろ?ドラえもん、出木杉」
「そういうこと。問題の所在は『あの日にあそこに行かなかったら』なんて、チープな場所にはないんだ。のび太くんの憎悪と、僕の好奇心と。その二つが存在し続ける限り、少しずつ状況の時間軸が動いたとしても、起算点自体は永遠に消え去らないんだよ」
「分かったわ、のび太さんとドラちゃんが、のび太さんとドラちゃんであり続ける以上……!」
「そう。いつか必ず起こるはずなんだ。どれだけなかったことにしようとも。行くはずなんだ。僕は、僕とのび太くんは。フィンランドへ。それは僕の記憶の中に『22世紀にはサンタ大戦が生じている』という事実が存する限り、確実な意味で」
ドラえもんの言葉を最後に、部屋にいる誰もが口を噤んだ。
仮に、空気に色があるとすれば。
その時、のび太の部屋を包んでいた静寂が色を持つのだとすれば。
それは確実に、現存するどの色よりも濁り淀んだ、薄暗い色であったに相違ない。
「んじゃあよう!!」
畳を強く踏みしめながら、立ち上がる。
無理矢理にでも場の空気を明へと転じせしめんとする。
そんなタフなメンタリティを持つのは、やはりガキ大将にしか有り得なかった。
「もうどうしようもねえ、つうんなら、出来ることをやるしかないじゃんか!ウジウジしたってしょうがないだろ!ドラえもん!俺達を呼んだってことは、何かあるんだろ!さっさとそれを言えよ!」
「だから、揺蕩っているのさ」
ジャイアンの言葉を遮るようにして言うと、出木杉はドラえもんの方へと向き直った。
「途絶された22世紀、ここに在る22世紀のドラえもん。アンビバレントな二つの事象。それが意味するものは」
ひとつひとつ、言葉の意味を確認しながら出木杉は声を発する。
「ここが分水嶺、ってことなんだね−−ドラえもん。君が先に言った『希望』という趣旨も、だから」
「……ここで踏みとどまれるか否かなんだ」
初めて感情を顕にしたドラえもんの表情は、実に苦々しげなものであった。あえぐようにして口を開け閉じするのだが、どうにも言葉は続いてこない。顔を上げたり俯いたりを繰り返すその所作を見るに、彼の中で浅からぬ葛藤が渦巻いているであろうことは、容易に推知できた。
「どうあがいても、絶望」
乾いた笑いと共に発せられた言葉の主は、スネ夫だった。一同は弾かれたように彼の方に目を遣る。
「そういうことなんだろう?希望だなんて、よく言ったもんだよ。ドラえもんが存在する、ってことは、ドラえもんが造られた未来、要するに22世紀が存続する可能性も、いまの時点で残されてる、ってことなんでしょ?つまりそれが、希望。だけどそうならない可能性を示しているのがタイムマシンの、22世紀への道が閉ざされた時空航路の存在。僕ら人類がサンタに滅ぼされた先に待ち構える、虚無」
出木杉が何か言おうと立ち上がりかける。ドラえもんはその肩を無言で押さえつけた。出木杉が抗議の視線をその横っ面に浴びせかけるも、ドラえもんは平然とそれを受け流す。受け流し、ただ口角ばかりを釣り上がらせたスネ夫の言葉の続きを、静かに待った。
「22 世紀への道が残されているのだとしたって!その22世紀ってのは、サンタと陰惨な戦いを繰り広げているドラえもんが存在する22世紀、っていうことでしょ?!じゃあ、どうあっても、いまの僕たちはサンタと戦う以外に生き残る方法はない、ってことじゃんか!それだけじゃあない!目の前のドラえもんが、いまここにいるドラえもんが!サンタと戦い続けている未来から送られたドラえもんである以上、いま僕たちがサンタと戦ったとしても、絶対に勝てはしないんだ!勝てるんだったら、そもそも22世紀でサンタと人類が争いをしている、なんて前提がないはずなんだよ!もし勝てるのだとしたら、ここにいるドラえもんは『サンタと争いをしていない、平和な22世紀で造られたドラえもん』であるはずなんだ!そこから逆算したら、僕たちの迎える結末は、良くて引き分けがせいぜい、そういうことだろ!?」
「だから、揺蕩っていると」
「黙れよ出木杉!お前だって分かってんだろ!僕に分かったくらいなんだ、君に分からないはずがないじゃないの!勝てもせず、負けもできない戦い、その難しさくらい!!」
「待てよスネ夫!なんで勝っちゃいけない、なんてことになんだよ!!」
「そ、そうだよスネ夫!この際、皆で力を合わせてサンタなんてコテンパンにやっつけちゃえばいいんだよ!!」
スネ夫の怒声に怯みつつ、どうにかのび太とジャイアンは反論を試みる。静香はと言えば、何かを悟ったようにだらりと頭を垂れていた。
「ハッ!勝つ?コテンパン?よくもまあそんなことが言えたもんだ……じゃあのび太、一つ聞くけどな。もしもサンタに勝てたとして、だ。その時ドラえもんは、どうなる?」
「ええ?それはもちろん、戦いに勝つわけだから……」
「いなくなっちゃうんじゃ、消えちゃうんじゃあ、ないかしら……」
唐突に発された声の主は静香だった。のび太は驚いてその方に振り返る。静香は戸惑いと諦念とを含んだ瞳の示しながら、なおも言葉を紡ぐ。
「いえ、私にもよく分からないけれど、仮にさっきドラちゃんと出木杉さんが言い合ってたような『因果』が変わるってことになるのなら……勝ったその時点で……」
「消滅するだろうね、宇宙は」
ため息混じりに静香の結論を補完するのは、ドラえもんだ。脇に座る出木杉は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。色を失ったような顔つきになる静香と、当を得たように卑屈な笑顔を作るスネ夫とが、醜く並び立つ。のび太とジャイアンとは、なおも理解が追いついていない様子だった。
「僕は『サンタと戦争を続ける22世紀』から来たドラえもんだ。だから、仮にもサンタを根絶やしにする、殲滅する、なんて事態を引き起こせば、その時点で概念矛盾が生じる。『サンタのいなくなった過去』に、『サンタのいる未来から来た僕』が存在してしまう、ってことになる。それは即ち歴史の改編だ。22世紀へと繋がる固有の因果が根底から否定される。その時に何が起こるのか」
「どうせのび太とジャイアンのオツムじゃ分からないよ。簡単に言い換えてやる。のび太、もしお前がタイムマシンで過去に戻って、お前が産まれる前にお前のママを殺したら、どうなる?」
「ママを!?」
「お前を産んでくれた人がいなくなるんだ。当然お前も産まれなくなるだろうさ。でもそれだけじゃあない。お前のママはお前を産むためだけにこの世界にいた訳じゃないんだ。買い物をしたり、近所の人と仲良くなったり、どこかに旅行に行ったり……沢山の、実に色んなことをしているはずなんだ。その全ての行動が根こそぎ消え去る。及ぼしたであろう夥しい数の影響が、まるっきりなかったことになる。その時、お前が産まれなくなるだけじゃなくって、そもそもこの世界が存続し続けるのかどうか?全ての理が、あるがままであり続けるのか否か?そんなのは誰にも分からない、誰にも保証できない。保証できないんだよ、のび太!ジャイアン!!」
最後の方はほとんど叫ぶようになりながら、スネ夫は言った。その内容を完全に理解できた訳ではなかったが、あまりの剣幕にのび太は反論の接穂を見つけられない。それはジャイアンにとっても同じようで、憤怒とも狼狽ともつかない感情を眼に浮かべながら、ただ押し黙っていた。
「それでも、このまま手をこまねいていたところで、待ち受けているのは確実な意味での終焉、世界の破滅だ。それが分かっているからこそ、ドラえもんくんはこうして僕たちを集めたんだろう」
淡々と話す出木杉の表情からは、相変わらず何らの感情も読み取ることができない。とはいえ、淡々と事実を分析する彼の物言いが、集まった面々の心の平静を保たせるのに一役買っていたのは紛れもない事実であった。
「やるしか、ないんだ」
「ドラえもん……」
「のび太くん、しずちゃん、スネ夫にジャイアン、そして出木杉くん……やるしかないんだよ。僕たちに出来ることは、残された選択肢は、それだけなんだ。どれだけ困難な道のりであろうと、可能性が0.1%でも在る方を、僕たちは選ぶべきなのさ」
「たとえそれが、血塗られた道であっても、ってね」
混ぜ返すようなスネ夫の物言いに、思わずジャイアンが気色ばむ。ドラえもんは視線でそれを制すると、そっとスネ夫の手を握った。
「スネ夫くん。君が怖いと言うのなら、僕はその感情を否定しない。君が無理だと叫ぶなら、僕はその言動を否定しない。だからこそ、僕は君と一緒に戦いたい」
「な、何を……」
「怖い、というのは、生きたい、という気持ちの表れからだ。無理だ、と言えるのは、現状を冷静に分析できてのことだ。死にたくないと願う人間の逞しい生命力を、無理を認識する人間の聡明さを、僕は知っている。そんな君であればあるほど、僕は君と、この戦いに臨みたいんだ」
聞けばそれは、馬鹿に陳腐な言葉遊びだった。怖いと、無理だと唱えたスネ夫の真意は、それ以上でもそれ以下でもない。いかに美辞麗句を連ねようとも、あの瞬間スネ夫にあった心持ちを捻じ曲げることは出来ない。
「ど、ドラえもん……」
だがその感情も、1秒後には過去となる。絶えず堆積されていく時間の中、精神は目まぐるしく新陳代謝していく。スネ夫の心にあった絶望という古皮は瞬く間に剥がれ落ち、克己という新皮が、芽吹いて覆う。
「無理に、とは言わない。それはスネ夫だけじゃない。ジャイアンもしずちゃんも、出木杉くんも、のび太くんだって。逃げ出したかったら遠慮なく逃げ出してくれていいんだ。そこにあるタイムマシンで原始時代に行ってもいいし、海底世界や地底世界に行ったっていい。僕にそれを止める権利はない」
「に、逃げないよ!」
「いいんだ、のび太くん。さっきも言ったけど、臆病になることは決して悪いことじゃないんだ。歴史も証明している通り、蛮勇と無謀は違う。君たちは君たちなりに永く生きるチャンスを、幸せになれる選択肢を、適切に判断すべきだ。だから、逃げたっていいんだ。その決断を責めることは誰にもできやしない」
曖昧に笑いながらドラえもんは語る。だがのび太には見えてしまった。言いながら、ガクガクと震えるドラえもんの膝のことが。
「ドラえもん、水くせえじゃねえか。俺様の辞書に『逃げる』なんて言葉が存在しないのは、とっくに知ってんだろ?」
ドラえもんの肩を引き寄せ、町一番のガキ大将は力強く宣言する。俺は逃げない、と。お前の目指す先は、俺の目指す先でもあるのだ、と。
「ぼ、僕だって!」
「私もよ!」
のび太と静香が続けざまにジャイアンの言葉に呼応した。スネ夫は相変わらず卑屈に笑っていたが、次第にそれは能面のような表情へと変わり、ついに大きなため息をついたかと思うと、唐突に弾けるような笑顔を見せた。
「僕だけ仲間はずれになんて、させるわけにはいかないでしょ!」
言うが早いか、スネ夫の頭頂部にジャイアンのゲンコツがお見舞いされた。それを見て一同は腹を抱えて笑いあう。先ほどまで室内に蔓延していた沈鬱な空気がウソのように吹き飛んでいた。
「やってやるぞ!」
「おう、サンタがなんだってんだ!なあスネ夫!」
のび太が笑う。静香が笑う。ジャイアンとスネ夫が笑う。
そして出木杉とドラえもんもまた、笑った。
「いやはや、策士と言うべきかペテン師と言うべきか……流石だよ、ドラえもんくんは」
「ハ、出木杉くんは相変わらず食えないヤツだ……」
余人に悟られぬよう、押し殺した声でささやき合う二匹の獣。
「それにしても、膝を震わせる演技までするなんてね……まったく、大した役者だ」
「マヌケ。あれは−−」
そこにいたのは、狸。
狸の精神を持つ、狸の皮を被った、獰猛なる狼。
「武者震いよ」
獣はそっと、牙を研ぐ。
誰にも気付かれないように。
何にも気付かれないように。
『いつ、いかなる時に、何が起こるか分からない』という出木杉の提案を受け、一同はポンプ地下室で造られた地下部屋へと移動し、ひとまずそこを仮の基地とした。もちろんそのままではあまりに殺風景なので、取り急ぎのび太の部屋と同じような調度品を設えた。
「それにしても、地下に潜ったくらいで何か変わるっての?」
「まァ、気分ってのはのび太くん、君が思ってるよりずっと重要なもんだ。現に、多少なりとも緊張感みたいなものが芽生えただろ?それに、安穏と地上でバカ面を晒してるよりゃあ余程安全だし、そうそう奇襲もされないだろうよ」
開いた手帳に目を落としたまま、ドラえもんは素っ気なく語る。皆薄々気づいていたことであるが、彼の纏う雰囲気は数分前を境に突如として変化していた。普段の柔和な物腰は消え、粗野というか、無骨というか、まるで三文小説に登場する風来坊のような口調となっていた。
「それで、ドラえもんくん。人手のアテはあるのかい?」
「いま探してるんだが……状況が状況だ、一体どれだけの奴らが諸手を挙げて賛同してくれるのか、皆目見当もつかん。それに、誰でも戦闘に介入できる、という訳ではないしな」
「それは、どういう?」
「言ってなかったな。サンタとの戦闘に参加するには、必須の条件がある。クリスマスを忌む心持ち、綺羅びやかなネオンを憎む性根、最大公約数的な不幸を喜べるタフなハート。そういうモンが要る。まァ端的にサンタへの憎悪、っていうのでも十分だがね」
「なるほど。ここにいる面々はさて置き、僕らが誰かのところに赴いて、唐突に『サンタを憎め』と言っても、それは少々現実的ではないね。狂人扱いされるのが関の山だ」
「その意味からすれば、一定程度以上世間に対するルサンチマンを抱えている人物か、無条件にこの日本を、地球を守らんとする、並ならぬ矜持を持つ人物。そういう輩を揃えなくてはならない」
「ルサンチマンに、矜持か……」
出木杉とドラえもんは難しい顔を浮かべながら何やら話し合っている。一方、のび太、ジャイアン、静香はといえば、ただその様子を見守ることしかできなかった。とりわけ静香は、取り巻く現状の切迫していることは認識すれど、未だサンタと戦う、という目的について、臆する部分が消えたわけではなかった。それはのび太とジャイアンにしても、少なからず同じであった。
「厚木の方に、パパの知り合いがいる。どうにかそれを上手く使えないかな」
「厚木?ってことは、米軍か?」
出木杉の問いかけに、曖昧な笑みを浮かべながらスネ夫が頷く。飢えた野良犬のようにぎらついた光を見せるその瞳から察するに、彼の腹はとっくに決まっていたのだろう。臆病である人間は、臆病であるがゆえ、誰よりも生への執着が強い。だからドラえもんは思う。強者とは、本来、臆病者であるはずなのだと。
「基地の内情には詳しいのか?」
「定期的に出入りしているから、相応には」
「なるほど。いや、かなり助かる。武器を揃えるにあたっては、どうしてもその辺りの軍事力を頼りにしなくちゃならないからね。もちろん、正面きって助力を願えるわけもないから、こっそり忍び込んで武器だけ拝借する、ということになる訳なんだが……それでも、どこでもドアで当てずっぽうに基地に忍び込む手間を考えたら、随分楽にはなりそうだ。礼を言う、スネ夫」
「さすがじゃあないかスネ夫くん」
ドラえもんと出木杉は口々にスネ夫を褒める。スネ夫としてもまんざらではないようで、どこか誇らしげな様子で照れ笑いを浮かべていた。
もっとも、ドラえもんと出木杉の見せた態度は、完全におためごかしであった。実際のところ、第三者の協力など要するまでもなく、ドラえもんの秘密道具を駆使すれば、世界中のどこであろうと簡単に侵入することが可能だ。その際、内部の人間を洗脳することも、やはり造作ないことである。だがドラえもんと出木杉とは、敢えてスネ夫に華をもたせた。そうやって『自分は集団において必要欠くべからざる力を具備しているのだ』という虚妄を抱かせておけば、いかな愚図でも、有事の際に獅子奮迅の努力を厭わない、そのことをよく理解していたからだ。
「ヘヘッ、僕がいて随分助かったでしょ!」
「ああ、本当にスネ夫くんは」
「大した、もんだよ」
言い終えるか終えないかのギリギリのタイミングに。ドラえもんは僅かにのび太たちのことを見遣った。その行為に特別な意味を持たせようとした訳ではない。だがドラえもんは知っている。一見すると何の意味もない行動であるほど、無意味な所作であればあるほど、何がしか後ろ暗いものを覚えている人間たちは、目の前の無為の中に無理やり意味を見出そうとする、そんな悲しき習性の存在を。
「お、俺だって!俺だって、スネ夫なんかよりよっぽど役に立てらぁ!」
「私も……ううん、ごめんなさい、今は何ができるか分からない。だけど、今回のことでは出来る限りのことをするつもりだわ!その気持ちは、スネ夫さんにも勝るとも劣らないものよ!」
期待通り、というべきか。ほんの短い時間に、たわいのないやり取りをしただけで、二人はこうも戦意を高揚させてくれた。実に自然に、実に自発的に。ドラえもんは高笑いしたくなる気持ちを抑え込みながら、二人に向かって鷹揚に微笑んだ。
「ありがとう。でも、決して無理はしないでおくれ。何度も言うようだけれど、辛くなったらいつでもそこの……」
タイムマシンで逃げてくれ。そう言いかけたとき、その部屋からのび太の姿が雲散していることに気付いた。ジャイアンたちの背後にある襖が少しだけ開いているのが見える。逃げ出したのか?まさか!ドラえもんは慌ててその思いを振り払う。彼に限って、ほとんど類を見ないような規模のルサンチマンを抱えるのび太に限って、サンタを前に逃げ出すという選択肢を選ぶことは、あり得ないと確信していた。
「のび太くんの姿が見えないようだが……」
出木杉が怪訝そうな空気を隠そうともせず声を発する。思わず舌打ちが零れかけた。彼はまだ、ドラえもんに対し完全に心を開いたわけではない。その頭脳が賢しければ賢しいほど、安っぽい感情に棹される可能性はゼロに近づく。故に、彼の弾きだす損益分岐点において、この戦いが『損になる』と判断された時点で、彼はすぐさま戦線を離脱するであろう。それこそ、タイムマシンに乗ってでも。
「のび太くんは、うん、そうそう、いま頼りになる助っ人に協力を取り付けにいったのさ」
出鱈目を喋った。そんなアテがあるのなら、そもそもここに連れてきているはずなのだ。そのあたりのことは出木杉にしてもすぐに喝破するだろう。事実、出木杉の放つ訝しげな様子は、一分たりとも揺らいでいない。いま、彼の脳内にある損益分岐点は、どのあたりを彷徨っているのだろうか。いや、ともすればのび太がその姿を消した以上、既に−−
「ドラえもぉん!!」
その首から冷えた汗が滴り落ちんとするまさに直前、息せき切ってのび太が部屋へと戻ってきた。手にはタケコプターが握られている。のび太が戻ってきたことに安堵する反面、ドラえもんの胸中に名状しがたい怒りが渦巻く。この馬鹿野郎は非常時にどこをほっつき飛んでいたというのか。
「のび太くん、君ねェ!」
「ドラえもん、お願いだから悪魔のパスポートを貸しておくれ!なんなら、どくさいスイッチでもいい!!じゃないと会えないんだ!!あの人に会おうとすると警備員が、色んな人が僕の邪魔をするんだ!!」
要領を得ない言葉を喚きちらしながら、のび太は半狂乱でドラえもんに詰め寄る。その後も何事か切実に叫び続けていたが、どうにも言わんとすることが伝わってこなかった。
「待て、待て。のび太くん、ちょっと落ち着け」
「落ち着いてなんていらんないよ!もうすぐサンタが来るんでしょう!?だったら一刻も早く助っ人が、あの人に会ってあの人のいう『大切な人』に助けを頼んで、それで、それで!」
「落ち着けってんだこのクソメガネ!サンタを屠るより前に手前の口を二度と開けないようにされてェのか糞袋が!!」
のび太の顎を万力のように締め上げながら、ドラえもんが叫ぶ。初めて見せる生々しい怒気、そして明確な殺意に、一同は凍りつくようにして固まった。ただ出木杉だけは、おどけるようにして口笛を吹いていた。
「いいか、のび太。戦いは何も武力だけで決まる訳じゃない。知略や謀略、要するに情報の力だって同じくらいに重要なんだ。その意味からすれば、俺やお前、並びにここにいる全員が『何を知っていて』『何を知らないのか』、その辺りのことを適切に知ることもまた、戦いにあっては不可欠な要素なんだよ。分かったか?分かったな?分かったなら俺がこの手を離した瞬間、お前はお前の知っていることを、飼い慣らされた子犬のようにペラペラと喋り始める、そうだな?」
矢継ぎ早に言葉を受けたのび太は、もの凄い勢いで瞬きを繰り返す。尋常ならざる力で締め付けられているため、頷くこともできないらしい。ドラえもんはその瞬きを質問に対する肯定の意味だと認め、顎を掴む手からゆっくり力を抜いた。
「あ、会いに行こうとしたんだ。助けを得ようとして、あの人に、でも会えなくて、止められたんだ!だからドラ、ドラえもんに」
「もう一度だけ言う。要点のみ述べろ。今度は顎を潰すぞ」
「ほ、星野スミレさんに会いにいこうと思ったんだ!」
時代をときめくスター女優、星野スミレ。それはその場にいる誰もが見知った存在だった。しかし彼女の存在と、いまドラえもんたちを取り巻く現況と、その両者が一体いかなる親和性を有するというのか。
「以前、ドラえもんと一緒にスミレさんと会ったことがあったろ?その時、僕は聞かされたんだ。スミレさんの好きな人は、遠い遠いところで必死に頑張っているんだ、って。その人は、そう、まるでスーパーマンのような人なんだ……って、そんなことを。だからそのスーパーマンのような人の力を借りられれば、そう思って僕はスミレさんに!」
確かにドラえもんらと星野スミレとは、以前、つまらぬ事件をきっかけに会話をする機会に恵まれた。ただ、ドラえもんはその仔細を記憶してはいなかった。そのところからすれば、のび太のまくしたてる会話の内容は、ほとんど初耳に近い。
「まあ、落ち着きなよのび太くん。星野スミレさんはもちろん僕も好きだけど……いくら彼女のいう『好きな人』が『スーパーマン』じみているのだとして、そのポテンシャルは結局、ドラえもんくんの持つ秘密道具には到底及ばないんじゃあないのかい?そうであるならば、その見も知らない人に拘泥する意味は、あまりないと思うのだけれど」
「いや、でも、出木杉くん!普通に考えたらそうかもしれないけど、けどあの時、スミレさんは不思議な道具を見せてくれたんだ。それこそ、まさに、ドラえもんが持っているような、秘密道具みたいな感じで……」
「おい、待てのび太。そんなもん、俺は見た覚えないぞ」
「そりゃあ、そうだよ。だって君がトイレで用を足している間のことだもの。スミレさんも『これは二人だけの秘密よ』って言っていたし……ウフフ」
全身が総毛立つかの如き気持ちに襲われた。どうして目の前にいるバカは、全ての言を額面通りに受け取ってしまうのか。不意に獰猛な殺意が鎌首をもたげそうになる。
「それは一体、どういう代物だったんだい?」
出木杉がいてくれて良かった。ドラえもんは心からそう感じた。もしこの場に自分とのび太としかいなかったら、およそまともな会話など成立していなかったに相違ない。百度ミンチにし、百度タイム風呂敷で復元してからでしか、冷静にはなれなかったであろ。
「コピーロボット、っていう道具でね。見た目は普通の人形、っていうか、のっぺらぼうのマネキンみたいな感じで、小さい姿形をしてるんだ。で、その人形の鼻っ柱がボタンみたくなってて、そこを押すとね、その鼻を押した人と人形とが、まるっきり同じ人間になっちゃうんだよ」
のび太の語った内容は、まるで出来の悪い絵空事のような話だった。事実スネ夫も静香もジャイアンも『あのスミレさんが、まさか……』という風に失笑している。比較的懐の深い出木杉ですら、隠そうともせず呆れたような顔をしていた。だが、ドラえもんだけは例外だった。
「お前のいうコピーロボットってのは、こいつか?」
「そう!それだよ……て、え?どうしてドラえもんがそれを」
のび太が最後まで言い終えるより早く宇宙完全大百科を取り出し、猛烈な勢いで『星野スミレ』の項を検索する。その間、出木杉やのび太が何事か問いかけてきた気もしたが、最早ドラえもんの耳には届かない。数分後、検索結果が端末より吐き出された。
【星野スミレ】
かつては美少女アイドルとして幅広い世代に支持され…(略)…その後はスター女優としての地位を確立…(略)…星野スミレのもう一つの顔は、正義のヒーロー『パーマン』の三人目のメンバー・パーマン3号(通称パー子)である……(以下略)。
「パーマン……?」
「え、ドラえもんってば、パーマンのこと知っているの?」
何気なく呟いた単語に、スネ夫が並ならぬ興味を示した。
「いやあ、うちのスネ吉兄さんが小学生の頃の話なんだけどね、そのパーマンっていうのがとにかく大人気だったらしいんだ。立ち居振る舞いは小学生みたいなんだけど、空を飛んだり怪力を振るったりで、縦横無尽の大活躍!それを見た当時の小学生は、そりゃもうパーマンに憧れたもんだって。スネ吉兄さんがいつか話してたなあ」
「つまり、それは特撮、ということなのか?」
「ええっ?そりゃ、そうなんじゃないの?だって子供が空を飛んだり悪人をやっつけたりだなんて、普通はあり得ないでしょ」
普通は。スネ夫の発したその単語がドラえもんの脳内で幾度と無くリフレインする。普通は、普通に考えれば、確かにスネ夫の言う通りだ。しかし歳相応の素直さを持ち合わせるスネ夫は、未だ気がついていない。22世紀から来たと称するロボットであるドラえもんが眼前にいる状況、それこそまさに『普通ではない』という、明白過ぎる事実に。
「つまり、パーマンは存在する。あるいは、した」
口元を吊り上げながら出木杉は呟いた。パーマン、その存在はフィクションではない、特撮などではない、現実の存在なのだと、彼はすぐに確信したのだ。同時にドラえもんは思う。
この少年は理解が早い。
否、あまりにも早すぎる、と。
「……やけに嬉しそうだね、出木杉くん」
「そうかい?いや、少しばかり愉快になってきたのは否定しないけれど。あと、僕のことは呼び捨てで構わない。まどろっこしいだろう?だから今後、僕もキミの呼び名は皆に倣うことにするよ」
なあ、ドラえもん。
出木杉はねっとりとした口調でそう告げる。
その何もかも、全てが既定路線であるかのように。
いけ好かなかった。
かかる感情を携えつつなお、出木杉の助力を得なくてはならない自らの存在が。
何よりも疎ましかった。
「ドラちゃん、どういうことなの?分かるように説明してくれないかしら」
「ああ、ごめんよ。どうもさっきから気ばかりが焦っちゃってね。結論から言えば、のび太くんの言っていたことは全部本当だと思う。また、スネ吉さんが熱狂していたというパーマン、それについても過去確実に実在した『ヒーロー』だったと言えるだろう」
「やったじゃん!」
即座にジャイアンが嬌声を上げた。次いでのび太が得意気な表情を浮かべ、静香とスネ夫とが安堵したように笑う。まことに小学生の思考回路というものは単純だ。
「だけど、まだ彼ら−−パーマンが、今回の戦いに協力してくれると決まったわけじゃない」
ドラえもんの思考を出木杉が代弁する。やはり彼は聡い。そしてその頭脳が聡ければ聡いほど、ドラえもんの抱える疑念はその濃さをいや増してゆく。
「出来杉く、いや、出木杉の言う通りだ。いま判明したのは、かつてパーマンという集団が存在したこと、並びに星野スミレがその関係者であったこと、その二点のみだ。そのことと本件とは、未だ結び付くには至っていない」
「だから、どこでもドアと悪魔のパスポートを!」
「それで、のび太、お前はどうするんだ?『スミレさん、あなたはパーマン3号なんですよね、近日中にサンタが襲いかかってきます、だから手助けして下さい』とでも請願するつもりか?そうだとすれば、お前は底抜けのマヌケだ」
どうやら図星であったらしい。見ればのび太は、空気を求める金魚のように口をパクつかせている。
無策による特攻が常に悪だ、と言うつもりは毛頭ない。何も考えずにぶつかるのが最善という局面もあるにはある。
だが、状況は未だその段階にない。
「うん、のび太くん。それはあまりにも愚策だよ」
少なくとも出木杉とドラえもんとは、そう感じていた。
「まァ交渉には俺が臨む。星野スミレとは例の一件で面識もあるしな。ただ、のび太、お前が星野スミレというケースを思い出してくれたこと、そいつについては礼を述べておく」
のび太は未だ釈然としていない様子だったが、ドラえもんが右手を掲げる動作をすると直ぐに縮こまった。体罰は本意ではない。それでも、覚えの悪い犬には厳しい躾が必要だ。ドラえもんはそう信じている。
「ドラえもん、僕にもさっきの機械……宇宙完全大百科と言ったかな、それを貸して欲しいのだけれども」
ドラえもんは思う。目の前のいる、おそらくは猛犬であろう少年についても、躾が必要なのだろうか、と。
「……あァ、いい。出木杉、まだるっこしいことはやめだ」
「それは、どういう」
「貸してやるよ」
言いながら、白い布状のものを出木杉の方へと放り投げた。そのものは僅かにその身をはためかせ、曖昧な放物線を描きながら、出木杉の両手へと収まった。
「これは?」
「四次元ポケットのスペア。要するに俺の持つ秘密道具の保管庫の第二の鍵だ。そいつをお前に託す」
瞬時に一同に緊張が走る。スペアポケットといえば、ドラえもんのアイデンティティの大半を組成するといっても過言ではない代物なのだ。あるいは、ドラえもんの第二の心臓、と言い換えてもよい。それを第三者に、託す。それが一体何を意味するのか。
「……いいのかい?そんな、軽々に」
愚鈍な犬には躾を要する。それは時に、体罰を要する躾で以て。ドラえもんは信じているし、その信念はこれまでもこれからも、僅かばかりも揺るがない。
「勿論さ。だってお前は」
ドラえもんは同時に、信じる。
俊秀なる犬には、手綱を着けてはならないのだと。
認めて、放つ。
任せて、委ねる。
そうすることでしか勝ち取れない信頼が確かにあるのだと、ドラえもんは、確信と共に。
「俺の大切な、友達だろう?」
俊秀な人間にしか知覚できない、微量な毒気を混ぜ込みながら。
「見ての通り、ポケットは二つに分けられた。これにより、参謀も二つに分けられた、と考えてもらっていい。勿論、最重要課題は皆で合議して決める。だが、局面的な判断については、俺か出木杉に任せて欲しい。そこまでのことに異論はあるか?」
地下室は静寂に包み込まれる。反論などないことは端から織り込み済みだ。それでも、一応でもなんでも『話し合いをした』という事実が重要なのだ。故にドラえもんも出木杉も、ある意味迂遠なまでに皆の意思を確認し続けた。
「……では、おおまかにではあるが、我々の意思が疎通できたと仮定して。ここから決戦までの間、皆にはそれぞれ役割を与え、それぞれ動いてもらうこととなる。まず、ジャイアン」
「お、おう!」
「お前には戦術担当を任命する。まァ、噛み砕いて言えば、暴力省大臣といったところだな」
「おお、任されよう!俺様に適任だな!!で、何をすればいいんだ?」
「なァに、簡単さ。お前にはまず『おもちゃの兵隊』と『無敵砲台』とをそれぞれ二組与える。それをまァ……そうだな、紅白両軍にでも見立てて、その両軍を戦わせ、その上でお前は色々な戦術を考案すりゃあいい。どうだ、楽だろ?」
「んん?するってえと、俺はこのおもちゃどもが戦うのを見て、その勝ち負けを見て、どうすりゃ勝てるかってのを考えて……ってことか?そりゃいくらなんでも退屈すぎないか?」
「ふむ、それもそうか。ではジャイアン、ちょっとこの鏡を見てくれ」
「おう、これでいいのか?」
ドラえもんが四次元ポケットか取り出した鏡の前にジャイアンは素直に立つ。しばらくして後、鏡の中からジャイアンとまるで同じ造形をした何かが出現した。
「え、お、俺、俺が!?」
「俺が、俺、お、え?!」
「フエルミラーだ。原理上、これでジャイアンはこの世に二人誕生したこととなる。さあ、血沸き肉踊る楽しい殺し合いの始まりだ。右のジャイアン、お前は紅軍を率いろ。左のジャイアン、お前は白軍を率いろ。それで勝敗を競え。期日は12月24日正午まで。白星の数で負けた方は、俺が責任を持ってその存在を消す。なァに、両方同じジャイアンだ。二人いた方が困るんだ、どちらにせよ一方は消えなくちゃあならん。紅白のジャイアンよ、消されたくなければ、必死に勝て」
それだけ言い捨てると、ドラえもんはまたぞろポンプ地下室で地下空間を造り上げる。今度はばかに広大な土地であるらしい。
「千代田区くらいの面積はある。ここで存分にやり合えばいい」
最後にノートと鉛筆だけを双方のジャイアンに押し付けると、そのままケツを蹴って地下室へと突き落とした。その間際、何事か叫び声が聞こえた気もしたが、もはやドラえもんの耳には届かない。
「で、スネ夫。お前には武器収集の用を命じたい。出来るな?」
「あ、ああ。もちろんさ」
「再三になるが、今回サンタを相手取るうえで、勝ち過ぎはまずい訳だ。いい按配で引き分けるか、26日を迎えるまでギリギリの消耗戦を続けるか、そのラインは守らなくてはならない。その意味からすれば核兵器なんかは当然使用できない、それは分かるな」
「か、核……!?そんな、頼まれても嫌だよ!!」
「オーケー、それでいい。現代の地球がぶっ壊されちゃあ、未来の地球だって元も子もないしな。つまりスネ夫、お前にはそういう事情を斟酌した上で、各種武器を取り揃えて欲しいワケだ。とりあえずラプター(F22)は2機ある。これは俺の方で増やしておく。それ以外のブツを、お前の言う “厚木” の方で、潤沢に取り揃えて欲しい」
「分かったけど……一人じゃ限界があるでしょ。誰か手助けしてくんないと」
「ゴシャゴシャうるせえな。とりあえず『ゆめふうりん』貸してやるから、それで安雄とはる夫でも連れてどうにかして来い。あと通り抜けフープと悪魔のパスポートとスモールライト。こんなもんで十分だろうが。理解できたか?」
スネ夫は納得がいかないという様子だったが、ドラえもんがケツを蹴るモーションをとった瞬間、弾かれたように部屋を出ていった。それを見てドラえもんと出木杉は腹を抱えて笑った。のび太と静香は彼らが何を笑っているのか、まるで理解できなかった。
「さて、のび太としずちゃんだが……二人については、率直に言って、特に何かしてもらうことはない」
「それは、どういう」
「まず、のび太。お前の射撃のセンスは天性のものだ。おそらく、歴史を紐解いたところで5人といない腕前だろう。ムカつくが、それは俺も認める。だからお前はそれでいい、逆に言えば、それだけでいい。で、しずちゃん。本音をいえば賢しいあんたにも何か仕事をして欲しいところなんだが……それでも俺は、敢えてあんたにはバランサーの役を負ってもらいたいと、そう思ってんだ」
「バランサー?」
「俺たちはこれから、サンタとの戦いに向けて意識を先鋭化させていく。それは激戦へと向かうにあって実に重要な精神鍛錬でもある。だが、同時に脆い。全ての状況、環境、意識状態が『それ』だけしか見ないことになる。他を一顧だにせず目的に邁進するのは効率的ではあるが、思いがけない死角をも生み出し得ない。だから、そこを起動修正する役割、あえてサンタとの戦いから身を離し、『冷静な』視点から俺たちの暴走を止めてくれるためのパーツ……そいつをしずちゃんにお願いしたい」
ドラえもんは未来の世界で沢山の戦いを見てきた。個人が全体化し、全体が固体化していった結果、様々な弊害が生まれるのを何度となく目の当たりにしてきたのだ。硬直化してしまった組織というのは、強くも儚い。穿たれた一つの穴が、壊滅的な崩落を生じせしめんとする。そういう側面は確かにあるのだ。
「分かったわ。要するに私は、何もしなければいいのね」
「敢えて言わせてもらうなら『何もしない、をする』、そういう積極的な役割を担っているのだと……そう捉えてもらえるなら、俺も嬉しい」
それはある種の詭弁だった。だが、紛うことなくドラえもんの本音でもあった。誰しも、有事を前に無為を生きるのは歯がゆい。どれだけそれが重要であると諭したとて、ジャイアンやスネ夫、あるいは出木杉であっても、その役目に不服を覚えることだろう。だが、静香であれば。あるいは俺の真意を汲んでくれるのではないか。ドラえもんはそう願った。
「ウィンドウ、ブロウィン、フロムザ、エイジア……」
何ごとか口にしながら静香はそっと部屋を後にする。すぐにドラえもんがその後を追おうとするが、出木杉がその肩を掴んで押しとどめた。
「出来杉くん、何を」
「女は海、ってことさ。大丈夫、君の気持ちは十全に伝わっただろうよ」
狐につままれたような思いであったが、出木杉が余裕のある雰囲気を醸しているのを察知し、とりあえずその言葉を信じることにした。餅は餅屋、級友の心の機微には彼の方が余程理解が深いだろう。ドラえもんはそう考えた。
「さて、出木杉。君と僕とは両翼の翼だ。今更どちらが上、なんてチープな議論をするつもりはない。君は君として、僕は僕として、それぞれするべきことをやるだけだ。その上で聞くが、君はこれからどんな手立てを打つつもりだい?」
「人手がね、必要なのさ。それも、圧倒的な存在感を持つ、人手が」
畳の上に腰を下ろし、出木杉は宇宙完全大百科と睨み合う。その画面に何度となく『error』の文字が表示され、その度に負けじと激しい勢いでキーボードを叩きつけた。
「お、おい。出木杉、お前は一体何を……」
「祖父さんから聞いたんだ。かつて、この日本、いや、大日本帝國に、まるで奇跡のような戦略兵器がいた、って話を。だがそいつは、いつの間にか歴史の闇に葬り去られた。だけど祖父さんは確かに僕に語ったんだ。そいつは−−」
宇宙から来た、謎の巨人。
そいつはあの時代、どこかの場所に、確かにいたのだ、と。
「……いた、見つけた、こいつだ……!!」
端末から検索結果が吐き出される。出木杉は千切るようにしてその紙片を手に取った。
【ガ壱号】
昭和20年3月、大熊諸島の南東にある無人島で、日本兵たちが出会った巨人。「ガリバ」を自称する。ガ壱号は、大東亜共栄圏の理想に共感し、同年4月1日、日本兵として初陣。だが奮戦虚しく、戦争に敗れる。
「こんな、まさか、こんなものが……」
紙片に目を通すドラえもんの手がわなわなと震える。歴史に埋没していった闇、超兵器ガ壱號(ちょうへいきがいちごう)。その実存は静かに、しかし確かに、祖父から孫へと受け渡され、そして
「待っていろよ、ガ壱号。再びお前を『お国のために』働かせてやろうじゃあないか……!」
陰惨なる戦いへと、否応なしに、目覚めを賜る。
戦いに向けてのアウトラインは、非常に粗雑ではあったが、まずは整いつつあった。もちろん、まだまだ詰めるべき箇所は山積している。出木杉とドラえもんとは日が落ちてもなお、膝を付き合わせての議論を繰り広げていた。
「22世紀の世界にあって、どうして人類はサンタを叩きのめせないのだろう。撃滅できない理由は、ドラえもん、どこにある?」
「その答を提示するのは簡単だが……その前に、出木杉。お前は、なぜ俺達が奴らを撃退できないままでいると考える?」
「思うに、ひみつ道具の無効化、じゃないだろうか」
「その通りだ。まァ、厳密に言えば少し違う。通じる道具もあるが、大半の道具は奴らに通じない」
「通じるものと、通じないものとの別は、何だ」
「完全に判明した訳じゃない、というエクスキューズを付させてもらったうえで聞いてくれ。思うにあいつらには、直接的強制力のある道具しか通用しない。それ以外の影響……例えばあいつらに対し、『因果律をねじ曲げるような干渉』を行おうとしても、軒並み無力化される」
「要するに、もしもボックスで『もしサンタがこの世からいなければ』というのは、まるで効果を発揮しない、という理解でいいのかな?」
「そうだ。ほかにも、悪魔のパスポートで『人類に従え』という命令をしても、それは通じない。現にそれを試した人間もいたが、結果は無残なものだった。どくさいスイッチなんかもまるでダメだ。ただ、ショックガンや空気砲、無敵砲台とか……そういうものは有効だった」
「一体、どういう原理なんだろうな」
「それは分からん。だが西暦2105年の戦闘において、奴らは印象深い台詞を残している。曰く『理屈の分からん科学を何とする?敢えて言おう、それは魔法である』と」
「その話から逆算すれば、サンタ陣営は22世紀の世界において、現存する科学知識とは異なる独自の科学体系を有している、という仮説が構築できる。奴らは、22世紀の人間からすれば及びもつかない知的財産を指し、『魔法である』と称した……」
「分析の無力さを感じるだろう?出木杉よ。それが分かったところで、じゃあ俺達に何ができる?何ができた?奴らが俺達の持つそれを凌駕する科学を有している、おそらくそうであるらしい。そいつが分かったところで、出木杉、そんなもんに何の意味もないのさ。大事なのは奴らの体にはきっちり鉛玉が届く、そこのところだけだ」
「もう一度確認したい。ひみつ道具について、サンタ側に『物理力的な影響を与えられる道具』以外のものは、無力化される。では、フィンランドまでどこでもドアで赴くこと、こいつは可能なのか?」
「可能だ」
「奴らの本陣に直接乗り込むことは?」
「それは、できなかった」
「たとえば悪魔のパスポートで、戦闘意欲のないものを無理やり洗脳し、サンタ側に特攻させることは?」
「可能だ」
「なるほど……何となく分かった。これはひとつの推論だが、もしかすると奴らは『遊んでいる』のかもしれない。サンタ側が本気になれば、ドラえもんのいう『直接的強制力』そのものだって排除できる可能性もある。F22での攻撃は奏功するのに、それよりもっと先進的な技術であるはずのふしぎ道具が通用しないという事実について、合理的な解を導くとすれば、いまのところそう考えるのが自然だ」
「遊んでいる、か。出木杉、おそらくお前の見立ては正しい。奴らは基本的にフェアだ。俺たちの仕掛けるやり方と、大体同じような戦術概念で以て襲いかかってくる。想像の裏をいくような搦め手は使ってこないし、ほとんどにおいて火力オンリーだ」
「ほとんど。では、例外もある?」
「あるには、ある。ただ、それにしても直接強制力の枠からは出ない。奴らは時に、奇妙な歌で以て我々のことを惑わしてくる。歌を耳にした者は即座にその精神を崩壊させる。メカニズムは謎だ。防ぐ手立ても見つかっていない」
「まさに魔法、だな」
出木杉はひとつ息をつき、じっと天井を見上げた。物言わぬ木目が静かに少年の顔を見つめ返す。『理屈の分からない科学、それは魔法』−−先にドラえもんの発した台詞が、しつこいほどに頭の中でリフレインした。
「いずれにせよ、出来ることは限られているんだ。熟考は大事だが、迷妄は無駄でしかない。考えすぎてドツボにハマるよりゃあ、小さいことを地道に積み上げてく方がなんぼかマシだろうよ」
言いながらドラえもんは四次元ポケットに手を突っ込む。それほど広くない室内が、あっという間にひみつ道具で満たされた。それら道具の群れをしばらく眺めた後、手早くリストアップを始める。察するに、来るべき戦いにおいて使える道具とそうでないものとを仕分けているらしい。確かにそれは、小さいながらも重要な作業だ。
「ドラえもん、どこでもドアを借りるよ」
「構わんが……どこに行くんだ?」
「さっき情報を得たデカブツ、まずはあいつを説得しなけりゃならない。とはいえ、かつての日本に心酔し、『忠臣は二君に仕えず』とまで言ってのけたヤツなんだ。そう難しい交渉にはならないだろう」
「うん、まァそのあたりのことは、全て任せるよ」
助かる。それだけ言って、出木杉はすぐに部屋から姿を消した。
後に残ったのはドラえもんと、そしてのび太。
「一体、どうなっちゃうんだろうね。ドラえもん……」
弱々しいトーンで話しかけるが、その背中は黙して何も語らない。ドラえもんは相変わらずひみつ道具の確認作業に余念がない。
「26日を迎えたころ、僕たちの地球は、どういうことになっているんだろう。僕たちの町は、僕たちの世界は、それまでと同じようでいられるのかな?いつもの皆が、いつものままで、そこで笑っててくれるのかな?」
なおもドラえもんは語らない。ドラえもんとのび太とを隔てる空間には、あたかも粘度のある障壁が介在しているかのようで、声も温度も、届かない。それでものび太は問わず語りに言葉を投げる。何が起きちゃうんだろう、と。僕たちの周りは、どう変わってしまうんだろう……と。
「なァ、のび太」
どのくらいの時間が経った頃であろうか。出し抜けにドラえもんが口を開いた。重く鈍く、錆びついたような声色だった。
「俺は運命論者じゃない。全ての理は最初から決まってる……なんて意見は、糞にまみれたゲロ袋みたいなもんだ。ひどくつまらないし、空疎だろ。そんなのって」
「それは、どういう」
「仮に全ての運命が変えようのないものだとしても。そんなモン、俺からすりゃあ知ったこっちゃない。なぜなら、運命がどうあろうと、『俺の認識する』『俺だけの世界』は、誰にも、何にも、揺るがすことは出来ねえからだ」
ドラえもんの認識する、ドラえもんだけの、世界。のび太はその時、ふと思った。彼の目にする世界は、果たしてどのような色彩に満ちているのだろう。彼はその双眸で何を見て、何を見ていないのだろう、と。
「取り巻く世界が100回瓦解したところで。俺の認識する世界が壊れていなけりゃ、俺はそれでいい。全てを決めることが出来るのは、他の誰でもない、俺だけだ。そこんところからすりゃあ、のび太。世界ってなァ、どうにか『なっちゃう』もんじゃあない。俺の考えからすりゃなあ、のび太。世界ってなァ、どうにか『する』もんなんだ」
「どうにか、する、世界……」
それだけ言ってから、ドラえもんは再び口を噤んだ。その瞳には、既に彼の世界しか映っていないのだろう。彼にしか見えない、彼だけが描ける、孤独で優しい、虚無の世界が。
「それでも僕は−−」
そこから先は言葉にならなかった。言えば、全てが嘘になる気がした。ドラえもんの見える世界とのび太のそれとは、決して同じではない。時に近寄ることはあったとしても、焦点を結ぶことは、永劫ないのであろう。だからのび太は、黙って部屋を後にした。
「それでも僕は、君と僕と、僕を取り巻く世界の全てを、守りたい」
『なる』世界を、『する』世界へと導くために。
「……なァ、のび太くん」
ドラえもんは呟く。
「何かを守るって決め、それを達成した、その瞬間。
それは確実に−−
別の誰かの抱く、別の世界を。
こなごなに壊しちまうんだ」
誰もいなくなってしまった部屋の、虚空に向かって。
ーー同刻、フィンランドーー
粉雪が舞っていた。あの日と同じように、美しくも儚い、物言わぬ粉雪が。
「あなた」
妻の声に後ろを振り返る。見れば、絹のように美しい掌をこちらに向かって捧げている。その中には小さな小さな、人形のような物体がひとつ、ちょこんと鎮座していた。
「S.AN.TA、完成しました」
「そうか、ご苦労だった……」
Soldier of ANti-human TAlisman(排外の守人)。
その日、北欧で誕生した凄惨なる撃滅兵器。
それはサンタクロースの妻の手の中に、確かに。
「いつ出立なされるのですか?」
穏やかに微笑みながら妻は問う。それはまるで、夫の旅程を確認するように緩やかに、優しげに、一握の狂気と共に。
「わしは、サンタじゃ」
妻の手からSANTAを受け取り、指先で弄ぶ。最前まで小指の先ほどの大きさだった人形が、見る間に十尺ほどの巨躯へと姿を転じた。
「サンタが夢を運ぶとあれば、聖夜をおいて他にあるまい」
獣と化したSANTAは、ねっとりとした唾液を撒き散らしながら咆哮を上げる。ひとつの地点から発せられた雄叫びは、やがて海練となり津波となる。気づけばそこに、数千数万のSANTAの実存が、猛り生じた。
「聖夜に運ぼう。醒めない夢を。終わる世界の朝日を前に」
サンタの顔が悪意に染まる。気高く歪んだ横顔を肴に、妻は己が股間をまさぐる。漆黒の森と化した獣の群れは声を限りに叫び続けた。空気が震え、大気が揺らぐ。その時、雪嶺から大規模な雪崩が生じた。
見える世界、見えなかった世界。
なる世界と、する世界。
崩落に任せるほかない雪を契機に。
取り巻く世界の、終焉が始まる。
累計167回目となる戦いが終わりを告げた。剛田武は息をつく。見えぬ地平にいるはずの剛田武も、おそらくは同じ心持ちであろう。168回目の開戦がいつになるのか、果たしてそれは分からない。分からないが、少なくともいま、俺は寝たい。それはおそらく、向こうの剛田武にしても同じであるに違いないのだ。あちらにいるのが俺と同じく剛田武であるのであれば。
『紅白のジャイアンよ、消されたくなければ、必死に勝て』
ドラえもんから向けられた言葉が耳朶に蘇る。あまりにも唐突な発言にあの時は何も思わなかったが、思えなかったが、今なら分かる。自分に自分を打ち倒させようと、殺させようとする、その行為の意味。
ドラえもんは、まさに神殺しに挑もうとしているのだ。
「……各員準備。これより敵軍に奇襲をかける。俺の放つ合図と共に、総員突撃だ」
寝不足でフラフラになりそうな頭に無理くり活を入れた。どうあっても俺は、この境を越えなくてはならない。剛田武は二人もいらない。そう思えばこそ、限界を突破した後に何があるのかを、俺は見据えなければならない。
「進軍、開始!」
叫びが放たれるのと同時に。地平の先からマズルファイアが明滅するのが見えた。だからきっと、向こうからも同じ光景が見えているのであろう。累計168回目となる、一毛も変わらない戦局が。
「俺が俺に克て、つうのかよドラえもん……」
寸分違わぬ塩基配列を有した二人が対峙したとき、果たして如何なる結末を迎えるのか。それは壮大極まりない思考実験の渦。何の罪も負わない一個の小学生は、ただそれに翻弄されるばかりで。
「全軍前進!Aチームは南西から威嚇射撃を続けろ!」
極北に設えられたひみつ道具、『時門』。ひたすら緩やかにその門扉を開いていくその様子は、だから、いつかこの戦いが終わりを迎えることを雄弁に物語る。
「剛田隊長!Aチーム、敵軍の陽動部隊を撃滅と共に全滅!前進部隊は一進一退の攻防を繰り広げております!」
「負傷兵の中で、動けるヤツだけ叩き起こせ!Aチームの亡骸から使える武器を回収すんだよ!」
剛田武、町一番のガキ大将。
地下空間に降りて、既に1年。
対峙するは、同じ暴力と同じ矜持と、同じ愛情とを有する、町一番のガキ大将。
時門の門扉は、まだ半分も開いていなかった。
−−同刻同夜、骨川スネ夫
「米軍基地からめぼしい重火器は掻っ攫ってきたけど……本当にこんなので大丈夫なのかなあ?」
スモールライトですっかり小さくなった武器群を眺めながら、スネ夫の抱える不安はいつまでも尽きようとしない。ドラえもんのいる22世紀の科学力で以てしても太刀打ちできない、サンタの存在。どうして20世紀のポンコツ武器で途方も無いサンタ陣営と渡り合えるというのだろうか。
「いくらなんでも、無茶だよ……」
勝ちたい、勝てればいい、勝てるのか、勝てない気がする、勝てない、きっと負ける。思考は堂々巡りするばかりだった。ドラえもんが自分に向けてくれた優しい言葉、そいつが場当たり的でおためごかしであった事実にも、とっくに気付いていた。
半ば絶望しながら安雄とはる夫のことを見遣る。ゆめふうりんで強制的に動かされている彼らは、立ちながらにして安らかな眠りを貪っていた。
「ちぇ、僕がこんなに悩んでいるってのに、こいつらは呑気なもんだ。ああ、僕も彼らみたいに、違う世界に埋没できたらいいのに!今と全く同じ世界で、でも今の世界とは全く関係ない、争いも面倒事もない、ただ静かなだけの世界に……」
そこまで考えたとき、スネ夫の頭に小さな火花が勃った。それはおそらく、賢しくて小狡い、誰より保身に長けたスネ夫にしか気付けないほど、小さな火花だった。
「あるじゃないか……」
泥濘の中に埋没していたかつての記憶が恐ろしいほどの速さで蘇ってくる。ここと同じで、ここと関係のない、争いの存せぬ、ただ静かな、揺るぎない世界。
スネ夫はかつて、確かにその世界に、いたのだ。
スネ夫は駆け出した。基地を外に走り抜け、やきもきしながらようやくタクシーを拾った。こんな夜更けに外をうろつく小学生の姿に運転手は訝しがっていた様子であったが、万券の2枚も握らせると、すぐにえびす顔で笑った。
「練馬区月見台、すすきが原まで」
それだけ告げると、腕組みをして瞼を閉じた。助手席と隣の席からは、安雄とはる夫のたてる穏やかな寝息が聞こえる。反面、スネ夫の頭脳は凄まじい勢いで回転し続けていた。
(あの時点における過去の改変……伴う鉄人兵団の滅失……リルルの再訪……ドラえもんの技術の介在……因果の途絶、あるいは、連続……)
タクシーが首都高に差し掛かった頃、スネ夫は静かに瞼を開いた。
「鉄人兵団は消えた。タイムマシンによる過去への介在によって、奴らは確かに、消えた」
車窓越しに橙色の街灯が、鈍くその顔を照らし出す。
「だが、ドラえもんが手を加えた鉄人兵団の集積回路は、どうか。それまで併せ消え去ったのか?否、きっと違う。ドラえもんの手により加工されたその集積回路は、ドラえもんという因果が介在したことにより、消え去ることなく鏡面世界の中で……」
いつか、パパとのドライブの最中。まどろみの中、こんな風景を見たことも、あったっけ。
「ザンダクロス。だからお前は、鏡面世界の中に、確実に−−」
タクシーはすすきが原に向かってひた走る。
いつか見た風景と、いま見ている風景と、これから見るべき風景と。全ての風景が綯い交ぜに、スネ夫の網膜にきらきらと、きらきらと映し出されていた。
−−同刻同夜、出木杉英才
大隅諸島南東○○キロに位置する無人島に。
出木杉英才のものと思しき亡骸が、およそ数十体。海辺に散っていた。
「出木杉サン……コレハ本当ニ『日本ノ為』ナノデショウカ」
全身に裂傷を負いながら、あまりにも巨躯なる異星人−−ガ壱号が、悄然と呟く。湾岸に並び伏す出木杉英才の亡骸は、そのいずれもがガ壱号と比べ遜色の無い程の巨躯であった。
「勿論だよ、ガ壱号。この行為は、紛れも無く『お国のため』のことだ。それに、殺されている僕自身がそう言うんだ。何を憂うことがある?」
言いながら、出木杉は再びフエルミラーの前にその身を写す。しばらくして後、出木杉と寸分違わぬ個体が、鏡の中より生じて立った。
「やあ、僕。とりあえず君には……」
「大丈夫だ、僕。みなまで言わなくてもいい。さ、早くビッグライトで僕のことを大きくしておくれ」
ガ壱号と同じくらいに。言いながら、出木杉と出木杉とは怪しく笑い合う。すぐに出木杉の手元から眩い光が放たれ、対面の出木杉はガ壱号と同じくらいの大きさと化した。
「出木杉サン、コンナコト、モウ……!」
「ガ壱号。これも皇国のためのことだ。分かってくれ」
言下に出木杉は言いのける。それは何の色も、何の温度も有さない言の葉だった。故にガ壱号は二の句を継げない。皇国という響きを前に、意識が感情が、動こうとしないのだ。
「そろそろ手強くなるぞ。僕だって、ただ死んできたわけじゃない。彼我における身体的特質の差異も分かってきた。だからガ壱号、お前も必死に殺せ。僕を殺せ。お国の為に、目の前の僕を殺すんだ」
言い終えるが早いか、出木杉はガ壱号へと襲いかかる。ガ壱号も半ば反射的にそれに呼応し、次の瞬間、出木杉の肋骨が砕け散った。
「やはり、と言うべきか……身体的能力に差がありすぎる」
漸次ボロ雑巾となり果ててゆく己の姿を眺めつつ、出木杉はメモをとる。たゆまぬ反復と分析と、偏執的なまでの情報収集と。それが秀才をして秀才ならしめる、唯一の要因なのだ。少なくとも出木杉はそう理解していた。
3桁にも及ぶ自らの亡骸を積み上げた末、出木杉は知る。
ひとつ、我々が巨大化したところで、その基本性能はガ壱号のそれには到底及ばないこと。
ひとつ、ガ壱号は、地球における物理法則を無視したレベルの攻撃力、防御力を有しているということ。
ひとつ、ガ壱号は原則的に温厚であるが、ひとたび『日本のために』というプロパガンダを掲げれば、容易に小学生を撲殺できる程度には従順であること。
「成程、ね」
メモ帳を閉じ、ぼんやりとした瞳で目の前に展開される巨人対決を見守る。決着は2秒も経たないうちについた。見れば側頭部を滅茶苦茶に破壊された出木杉が、静かに小波を横顔に受けていた。ガ壱号はそっとその亡骸を抱え上げると、もう何体になるか分からない亡骸の群れへと、それを並べる。
「出木杉サン、今日ノワタシハ、疲レマシタ。ドウカ、コノアタリデ……」
ほとんど泣きそうになりながらガ壱号が懇願する。だから出木杉は喝破する。彼が疲れたのは肉体ではなく、精神の方なのであると。『お国のために』、そのプロパガンダを隠れ蓑に小学生を撲殺しながら、その実、自らの心を壊しきれない、巨人の心の在り方を。
「そうだな……ありがとう、助かったよ。じゃあガ壱号、ちょっとこっちに来てくれないか」
巨人は言われるがままに出木杉の方へと顔を近づける。すっかり正体を失ってしまった目で。半ば壊れかけている心を、それでも何とか立て直そうとする、そんな健気な眼とともに。
「ごめんね、ガ壱号」
出木杉は手に握った『わすれろ草』をさっと付きつけた。すぐにガ壱号の目が曖昧にまどろむ。
「忘れるんだ。何もかも。薄汚い記憶は、全て」
巨人は砂浜に突っ伏した。出木杉はその巨躯にタイム風呂敷をかける。擦傷も、蒼痣も、心の疵痕も。お前は何も知らなくていい。そう願いながら、祈りながら、出木杉はタイム風呂敷を取り去った。綺麗な身体となったガ壱号は、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠っていた。
出木杉は湾岸へと足を向ける。夥しい数の死体が眼前へと迫ってくる。それは他ならぬ自らの亡骸。その時々の僕は何を思い、何を願って、死んでいったのだろうか。出木杉はひとり考える。打ち寄せる波の音を聞かないようにしながら、そっと一人で、考える。
「やっとこの日がきたんだ……」
思考はすぐに波へと消える。溶けて流れて、どこかへ朽ちる。出木杉は聡い。聡い出木杉は、だから、考えるまでもなく答を知っている。
「個体としての僕の、意味を」
スモールライトに照らされ、数多に朽ちた巨躯の亡骸がたちまちのうちにマッチ棒の如き大きさへと変じていく。そして出木杉は両手にそれを拾う。拾って海に、投げ捨てた。
かつて出木杉だったものが、波に呑まれ洋の向こうへ消えていく。いつかそれは魚の臓腑へ吸われ収まり、新たなる生命を繋いでいくに違いない。だが、出木杉の心は、かかる感傷とはまるで無関係だった。
「僕はようやく、僕になるんだ!」
十六夜の月に照らされ。
南の果てに、少年が、叫んだ。
・・・
雪が、雪が降っていた。
はらはらとか細い、いまにも虚空に消えてしまいそうなほど、儚い雪が。
「準備はいいかーー」
F22に乗り込んだドラえもんが全員に告げる。どこからも返事はない。それで良かった。決戦を前に、言語化された意思表示などあまりにも無意味だ。いまや応諾の有無を問う段階は、遥か彼方に過ぎ去っている。
「ジャイアン隊、突撃」
そう言い終えるが早いか、サンタ本陣に向かい黒山の人だかりが特攻を開始する。瞬間、出木杉隊とスネ夫隊が右翼と左翼とに展開した。それと呼応するように、敵方本営からS.A.N.T.A.の先発隊が獰猛なる勢いで進撃を開始する。
「ジャイアン隊とS.A.N.T.A.……やはりと言うべきか、戦力は拮抗しているらしい」
右翼へと広がった出木杉が双眼鏡を目に当てながら呟いた。『基本的にヤツらは、遊んでいる』ーーいつかドラえもんと交わしたやり取りが耳朶に蘇る。だからやはり見えてこない、敵の底が。
「ガ隊、射撃用意」
「し、しかし出木杉サン!それでは、ジャイアン隊もろとも……!」
「繰り返す。射撃用意。ガ壱号、俺が貴様と戦術会議をしたいと言ったか?これは相談ではなく、号令だ。命令なのさ。故にお前らは俺の指示に粛々と従うべきだ」
双眼鏡を覗き込んだまま言った。レンズの向こうにジャイアン隊の先端とS.A.N.T.A.の先端とが激突せんとする様子を目の当たりにする。一人が一体を倒す。一体が一人を倒す。その戦力、まさに五分。出木杉はそれを確認すると、満足気に笑ってから、言った。
「撃て」
ガ壱号は声なく喘ぐ。抗議の意を表せんと出木杉を見遣る。視線の先にあったのは、無表情にゲーム盤へと目を落とす優秀なる司令官の横顔だけだった。
「……総員、放テ」
ガ壱号の号令一下、放射状の光線がS.A.N.T.A.へと向かい収斂してゆく。次いで、火球。次いで、轟音。禍々しい色彩が明滅し、大気は鳴動する。超兵器ガ壱号の放つ光線銃は、着弾した周囲1キロを軒並み虚無へと飾って消した。そしてそれは、ジャイアン隊の一部も例外ではなく。
「さあ、どう出る……?」
出木杉は全ての事象をデジタルにしか捉えない。そこに一切の感傷はない。生じたもの、残るもの、あるいは、消えるもの。全ては彼の脳内において数値化され、記号化され、無限の蓄積とリセットとが繰り返されるばかりだった。それは学生生活においても、生殺与奪の場においても。出木杉はデジタルに考える。現況、S.A.N.T.A.の戦力は8割が削がれた。比して、ジャイアン隊の現象は2割に満たない。であるならばーー
「来、た……!」
出木杉は見る。遥か遠方にて禍々しい光の明滅するのを。同時に出木杉は直感する。あれは、あの光は。最前こちらの放ったそれと、ほとんど同意義の排除力を持つそれであると、そのことを。
ほぼ同刻。出木杉の見たそれと、全く同じ光を目の当たりにしながら。剛田武はひとり呪った。
「結局俺には、戦術的価値しかねえってことかよ……!」
呪いの対象は、自己。地下空間に閉じ込められて2年、何度となく命のやり取りを強要された自分であるはずなのに、地上に出てもなお自らの命を賭すことしかできない、己の不甲斐なさを。剛田武は静かに呪った。そしてその呪いの最中ーージャイアン隊は、その6割を滅失させる。直前に見たS.A.N.T.A.の撃滅、それと全く同じような風情で以て。
「アンタは、どう見る」
眼下に広がる凄惨な光景を眺めながら、ドラえもんは口を開いた。その問いかけに須羽ミツ夫ーーかつてパーマン1号と呼ばれた人物が、楽しそうに口を開いた。
「いい……実にいいねェ!!これぞ正に "地球のピンチ" ってやつじゃァないか!!まァ仮にそのピンチを招いたのが他ならぬ君なのだとしても!?まるごとそれが "自業自得" ってヤツなのだとしても、だ!!いい、いいじゃァないか!!これでこそパーマン……否!『バードマン』としての面目躍如ってやつじゃァないか!!そう思わんかね?!きみィ!!」
壊れた人形のように両手を叩き、笑う。それはかつてのパーマン1号。それは現在のバードマン。灰色のタイツに身を包み、動力源の不明な装置で空を飛び、狂人のような鳥人、超人は、笑った。
「剛田隊長!左舷より急襲した兵力により、戦力の大半は消失!の、残ったのはいま、ここから見える範囲にいる兵力、それだけであります!!」
「……言われなくても分かってるぜ」
図らずも見通しの良くなってしまった雪原を睨みつけながら、ジャイアンは感じる。焦土と化してしまったこの戦場の向こう、雪の彼方に。おそらく自分と近い、あるいは同等以上の "暴力" を有した敵士官のいることを、その本能で以て。
「戦略的勝敗の帰趨は、出木杉、ドラえもん。お前らが好きに考えてりゃいい。そのためなら俺はいくらでも捨石になってやらぁ」
雪原を踏みしめ、極北を歩む。その右手に血塗られたバットを握り締めながら。
「剛田隊長!指示を、指示をお与え下さい!!」
「微速前進。ジャイアン隊に小細工は無ぇ。見つけて、襲う。叩いて、潰す。お前の敵は俺のもの。俺の敵は俺だけのもの。分かるか。分かったな。分かったら黙ってついてこい」
背中で言い捨て、黙々と雪原を踏み越える。どこかから出木杉の、ドラえもんの、あるいは誰だか分からない者の視線を感じた。
観測者の視点、ゲームマスターの掌。世界は、規律は、全てあずかり知らぬところで決定されている。だから俺は、ただの駒だ。どれだけ駒として優秀だとしても、規律から外れたところではただの木偶なのだ。
それは、麻雀牌で将棋を指せないのと、同じくらいの意味合いで。
「あれは……ダッシャー、か?」
およそ数キロ先、ジャイアンとほぼ対置した場所にいる巨像を見ながら、ドラえもんは言った。ダッシャー、それはサンタクロースに仕えるトナカイ、"オリジナルエイト" と呼ばれる最古参の猛者の一体だ。ジャイアンと、そしてダッシャーとは、寸分違わぬ行軍速度で互いの陣を率いんとしていた。
「サンタは遊ぶ……か。さて、その仮説が正しいのであれば。あのデカブツと剛くんとの実力差はほとんどない、ということになるが……しかし、どうにも信じがたいな。あんなのはまるでーー」
バケモノじゃあないか。双眼鏡を覗き込みながら出木杉は言う。歌うように、弾むように、どこか自分とは関係のないフィクションを楽しむような、口ぶりで。
「俺には分かる。この雪を越えたところ、白の果てに。人ならざる獣のいることを。そいつだけじゃあない。その後ろには、それと同じような獣が何匹も何匹もいることを。俺には分かる、俺にはーー」
葡萄色に染まったバットの先が、雪面に滑らかな線を描いた。それはジャイアンの行く先をいつまでもいつまでも、どこかの童話の物語のように、刻銘に実直に、描き描きながら。
「"俺殺しの俺" には、どうしても分かっちまうのさ」
ぶつかり合うは、獣と化物。
人間を超越した存在と。
自らを調伏した少年と。
それは正しく、ふたつのケダモノ。
こうして、12月24日午前0時。
ドラえもん陣営とサンタ陣営とが、遠くフィンランドの地において、激突を開始した。
時計の針は、再び少し遡る。
1999年12月25日
1998年10月10日
1983年10月15日
case2
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case2
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「鮎川のヤツ、連絡着かないっす」
「ふざけんなよ。早くとっ捕まえて売血の金持って来させろやカス!」
俺は声を荒げると康文の頭をはたいた。康文はしぶしぶと言った様子で部室を後にする。その姿を見送りながらタバコを取り出すと、机の上に転がっていたライターで火を点けた。
唇の端でタバコを咥えつつ、懐から手帳を取り出して今月の『集金』の額を確認した。
『集金』。カツアゲなんて犯罪めいた言葉は使わないし、第一古い。この高校に入ってから数ヶ月した頃から俺は『集金』を始めた。理由は金が欲しかったから。遊ぶ金は幾らあっても足りることがない。とは言えバイトなんて面倒くさくてやってられない。だったら、あるところから掠め取るだけの話だ、単純に。
もちろん誰彼構わず金を巻き上げているわけじゃないし、大体がそんな見境のないことをしたらたちまち足が着く。警察沙汰になるのはご免だった。少年院に行けばハクが着く、そんなのはセンパイたちの古い古い美学でしかない。だから俺らの『集金』は、決まった奴らから決まった期日にだけ行っていた。
そしてそれが今日――つまり売血の日だった。
全く、便利な世の中になったものだと思う。どんなやつでも健康な体一つさえあれば簡単に小銭が手に入るというんだから。血を売って金にする。金が手に入った奴は喜ぶし、病院にいる奴らも血が手に入って喜ぶ。本当に素晴らしい仕組みだ。 これを考えたヤツはマジで天才だと思う。
改めて手帳を見てみる。先月、血の買い取り価格が上がったから今月はおよそ30万円ほど手に入る予定だ。今のところ集まっている金が22万円。残りの8万円のうち7人分はこれから間もなく収められることになっている。問題は後一人の鮎川のヤツだけだ。康文の野朗、そろそろとっ捕まえた頃か?
ピリリリリリ
と、その時電話が鳴った。康文か?ひったくる様にして携帯のディスプレイを覗き込む。しかしそれは康文からの連絡ではなく、目に入ってきた画面には最も忌むべき男の名前が表示されていた。思わず奥歯を噛み締める。数秒悩んだが電話に出る後悔と、出ないことへの後悔を頭の中で天秤に乗せ、結局通話ボタンを押した。
「……はい、柏田です」
「電話にはさっさと出ろって言ってんだろうが」
もしもし、という言葉すらなく相手は出鼻から電話越しに凄んできた。不快感に思わず舌打ちをしそうになるが、慌てて押し留める。そんなことをしたら間属いなくアウトだ。
「すいません。ちょっとトイレに行ってて」
「持ち歩いとけやそんなもん。まあそりゃどうでもいい。で、今日が返済日だってのは分かってるよな?」
「はい、それはもう……」
「おし、じゃあ今から取りに向かうからな」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
「あ?何だよ、払わないつもりかよ?」
「いや、そういう訳じゃなくて……あの、今日中には必ず払うんで……」
この男に払うべき金は、丁度30万円。残り8万円は、未だ手元にない。今こっちに来させるわけにはいかなかった。
「今日中っていつよ?俺も暇なわけじゃねえんだぞ、コラ」
「いやホント……もう少ししたら必ず連絡しますんで……」
「3時な」
「え?」
「今日の午後3時。その時間にお前のとこに向かう。その時までにきっちり返す金用意しとけよ。じゃあな」
一方的にそう告げると、電話は掛かってきた時と同じように無遠慮に切れた。俺は身勝手な男の態度に思わず携帯を叩きつけそうになったが、拳を握ってじっと堪える。呼吸を落ち着けながら怒りが引くのを待って、携帯に表示される時刻を見た。丁度1時を回ったところだった。俺は康文に電話を掛けた。
「……あっ、柏田さん」
「あっ、じゃねえよカス。で、鮎川は見つかったのかよ」
「あー、他の7人の分の金は回収できました」
「んなこと聞いてねえよ!鮎川は見つかったのかってんだよ!」
「いやそれが……あの……いるにはいたんですが……その……」
歯切れの属い言葉に思わずキレそうになる。しかし目の前にいない相手を殴りつけることもできない。
「てめえコラ、さっさと喋れボケ!」
「すいません!あの、こいつ、売血金、どっかのバカに毟られたらしいんですよ。一円も持ってないんですよ。どうしましょ」
「は?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。鮎川のヤツが本当に金を持っていないとすると予定が狂う。
「それマジで言ってんの?」
「マジっすよ。俺も適当言ってんじゃねえかって二、三発殴ったんですけど、どこひっくり返しても金持ってないんですよね。どうしましょ」
「どうしましょ、じゃねえよカス!お前は死ね!」
ついにキレて俺は電話を切った。
最近は、何をするにも金がかかる。酒を飲むのにも、ガソリン代にも、デート費用にも、とにかく金がかかって仕方がない。特に金を食うのが、女だ。
(晴美のヤツ、来月は何が欲しいって言ってたっけ……)
こんな時だというのに、思わず手帳を繰る。とにかく今付き合っている女にはやたらと金がかかるのだ。毎月のようにブランド物の品をねだってくる。見栄っ張りな俺はそれを断ることが出きず、要求に応えてプレゼントをしてしまう。あいつに笑顔で頼まれると、断る言葉を忘れてしまった。古き良き不良の美学は理解できない代わり、女を大事にするくらいの硬派な部分は備えているつもりだ。
そうすると、自然と金が追いつかなくなった。自分が遊ぶ金程度なら『集金』でなんとか賄える。けれど女の分までとなると話が違った。バイトもしていない未成年が金銭を得る手段などそうあるものではない。月何十万かの『集金』も、好き勝手に遊べばたちまちに尽きていく。
そして困った俺はついに闇金に手を出した。もちろんその前にサラ金へと赴いたりもしたが、18歳にも満たない俺には契約に必要な書類さえ用意できなかった。
闇金業者。結局奴らにとって年齢など大した問題じゃない。審査もない。法律の枠など端っから無視している奴らにとっては返済できそうな借り手は誰でも『客』なのだ。
俺としても金が入ればそれで良かった。
ほんの数万なら、と思って俺は気軽に手を出したのが始まりだった。
数万の金なら、いつでもどうにでもなる、という目算もあったかもしれない。
甘かった。俺は世間を知らなかった。
奴らの金利と取り立ての仕方は常軌を逸する。ほんの数万のつもりが、いつの間にか借金は何倍かに膨れ上がっていた。おかげで毎月末には取り立てに苦しんでいる。それもこれも金、金、金がないのが全部悪い。どうしてこんなに金がないのだろうか。
考えているうちに俺は苛立ちが募った。机の上の灰皿を掴むと、壁に向かって思いっきり投げつけた。ステンレス製の灰皿はへこむこともなく、クワンクワンと音を立てて俺の足元に転がる。
---
2時に差しかかろうかという頃に、康文が部室に戻ってきた。
「おい、金は」
「あ、はい。これっす」
俺はひったくる様に差し出された金を掴むと、一枚ずつ勘定する。そこには丁度7枚あった。
「おい、てめえ7万円しかねえじゃねえか」
「あ、はい。鮎川の野朗がバカなせいで……」
「鮎川が、じゃねえだろうが。俺は8万円必要なんだよ!どうすんだよ。足りねえじゃねえかよ!」
俺は叫んで、持っていた竹刀で康文のわき腹を思いっきり叩き付ける。ここは元々剣道部の部室だった。それを俺たちが乗っ取ったのだ。康文をわき腹を抑えると、ううう、と低いうめき声を上げた。俺はそのまま竹刀を背中に叩きつける。康文は、すいません、すいません、と情けない声で呟くばかりだった。
「死ねよカス!どうすんだよ!オイ!どうすんだよ!」
俺はハアハアと肩で息をつきながら竹刀を脇に置くと、康文のポケットから財布を抜き取った。開いて中を見るが、案の定小銭が幾らか入っているばかりで1万円など到底望むべくもなかった。俺は舌打ちして康文の頭を蹴り上げそのまま部室を後にした。
時間はいくらもなかった。まだ日も高いこの時分、人通りも少ないこの辺りではさすがに恐喝はできそうになかった。歩きながら色々なことを考えたが、最早他に方策のないことは理解していた。
俺はその足で売血センターに向かった。
次へ
case2
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「鮎川のヤツ、連絡着かないっす」
「ふざけんなよ。早くとっ捕まえて売血の金持って来させろやカス!」
俺は声を荒げると康文の頭をはたいた。康文はしぶしぶと言った様子で部室を後にする。その姿を見送りながらタバコを取り出すと、机の上に転がっていたライターで火を点けた。
唇の端でタバコを咥えつつ、懐から手帳を取り出して今月の『集金』の額を確認した。
『集金』。カツアゲなんて犯罪めいた言葉は使わないし、第一古い。この高校に入ってから数ヶ月した頃から俺は『集金』を始めた。理由は金が欲しかったから。遊ぶ金は幾らあっても足りることがない。とは言えバイトなんて面倒くさくてやってられない。だったら、あるところから掠め取るだけの話だ、単純に。
もちろん誰彼構わず金を巻き上げているわけじゃないし、大体がそんな見境のないことをしたらたちまち足が着く。警察沙汰になるのはご免だった。少年院に行けばハクが着く、そんなのはセンパイたちの古い古い美学でしかない。だから俺らの『集金』は、決まった奴らから決まった期日にだけ行っていた。
そしてそれが今日――つまり売血の日だった。
全く、便利な世の中になったものだと思う。どんなやつでも健康な体一つさえあれば簡単に小銭が手に入るというんだから。血を売って金にする。金が手に入った奴は喜ぶし、病院にいる奴らも血が手に入って喜ぶ。本当に素晴らしい仕組みだ。 これを考えたヤツはマジで天才だと思う。
改めて手帳を見てみる。先月、血の買い取り価格が上がったから今月はおよそ30万円ほど手に入る予定だ。今のところ集まっている金が22万円。残りの8万円のうち7人分はこれから間もなく収められることになっている。問題は後一人の鮎川のヤツだけだ。康文の野朗、そろそろとっ捕まえた頃か?
ピリリリリリ
と、その時電話が鳴った。康文か?ひったくる様にして携帯のディスプレイを覗き込む。しかしそれは康文からの連絡ではなく、目に入ってきた画面には最も忌むべき男の名前が表示されていた。思わず奥歯を噛み締める。数秒悩んだが電話に出る後悔と、出ないことへの後悔を頭の中で天秤に乗せ、結局通話ボタンを押した。
「……はい、柏田です」
「電話にはさっさと出ろって言ってんだろうが」
もしもし、という言葉すらなく相手は出鼻から電話越しに凄んできた。不快感に思わず舌打ちをしそうになるが、慌てて押し留める。そんなことをしたら間属いなくアウトだ。
「すいません。ちょっとトイレに行ってて」
「持ち歩いとけやそんなもん。まあそりゃどうでもいい。で、今日が返済日だってのは分かってるよな?」
「はい、それはもう……」
「おし、じゃあ今から取りに向かうからな」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
「あ?何だよ、払わないつもりかよ?」
「いや、そういう訳じゃなくて……あの、今日中には必ず払うんで……」
この男に払うべき金は、丁度30万円。残り8万円は、未だ手元にない。今こっちに来させるわけにはいかなかった。
「今日中っていつよ?俺も暇なわけじゃねえんだぞ、コラ」
「いやホント……もう少ししたら必ず連絡しますんで……」
「3時な」
「え?」
「今日の午後3時。その時間にお前のとこに向かう。その時までにきっちり返す金用意しとけよ。じゃあな」
一方的にそう告げると、電話は掛かってきた時と同じように無遠慮に切れた。俺は身勝手な男の態度に思わず携帯を叩きつけそうになったが、拳を握ってじっと堪える。呼吸を落ち着けながら怒りが引くのを待って、携帯に表示される時刻を見た。丁度1時を回ったところだった。俺は康文に電話を掛けた。
「……あっ、柏田さん」
「あっ、じゃねえよカス。で、鮎川は見つかったのかよ」
「あー、他の7人の分の金は回収できました」
「んなこと聞いてねえよ!鮎川は見つかったのかってんだよ!」
「いやそれが……あの……いるにはいたんですが……その……」
歯切れの属い言葉に思わずキレそうになる。しかし目の前にいない相手を殴りつけることもできない。
「てめえコラ、さっさと喋れボケ!」
「すいません!あの、こいつ、売血金、どっかのバカに毟られたらしいんですよ。一円も持ってないんですよ。どうしましょ」
「は?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。鮎川のヤツが本当に金を持っていないとすると予定が狂う。
「それマジで言ってんの?」
「マジっすよ。俺も適当言ってんじゃねえかって二、三発殴ったんですけど、どこひっくり返しても金持ってないんですよね。どうしましょ」
「どうしましょ、じゃねえよカス!お前は死ね!」
ついにキレて俺は電話を切った。
最近は、何をするにも金がかかる。酒を飲むのにも、ガソリン代にも、デート費用にも、とにかく金がかかって仕方がない。特に金を食うのが、女だ。
(晴美のヤツ、来月は何が欲しいって言ってたっけ……)
こんな時だというのに、思わず手帳を繰る。とにかく今付き合っている女にはやたらと金がかかるのだ。毎月のようにブランド物の品をねだってくる。見栄っ張りな俺はそれを断ることが出きず、要求に応えてプレゼントをしてしまう。あいつに笑顔で頼まれると、断る言葉を忘れてしまった。古き良き不良の美学は理解できない代わり、女を大事にするくらいの硬派な部分は備えているつもりだ。
そうすると、自然と金が追いつかなくなった。自分が遊ぶ金程度なら『集金』でなんとか賄える。けれど女の分までとなると話が違った。バイトもしていない未成年が金銭を得る手段などそうあるものではない。月何十万かの『集金』も、好き勝手に遊べばたちまちに尽きていく。
そして困った俺はついに闇金に手を出した。もちろんその前にサラ金へと赴いたりもしたが、18歳にも満たない俺には契約に必要な書類さえ用意できなかった。
闇金業者。結局奴らにとって年齢など大した問題じゃない。審査もない。法律の枠など端っから無視している奴らにとっては返済できそうな借り手は誰でも『客』なのだ。
俺としても金が入ればそれで良かった。
ほんの数万なら、と思って俺は気軽に手を出したのが始まりだった。
数万の金なら、いつでもどうにでもなる、という目算もあったかもしれない。
甘かった。俺は世間を知らなかった。
奴らの金利と取り立ての仕方は常軌を逸する。ほんの数万のつもりが、いつの間にか借金は何倍かに膨れ上がっていた。おかげで毎月末には取り立てに苦しんでいる。それもこれも金、金、金がないのが全部悪い。どうしてこんなに金がないのだろうか。
考えているうちに俺は苛立ちが募った。机の上の灰皿を掴むと、壁に向かって思いっきり投げつけた。ステンレス製の灰皿はへこむこともなく、クワンクワンと音を立てて俺の足元に転がる。
---
2時に差しかかろうかという頃に、康文が部室に戻ってきた。
「おい、金は」
「あ、はい。これっす」
俺はひったくる様に差し出された金を掴むと、一枚ずつ勘定する。そこには丁度7枚あった。
「おい、てめえ7万円しかねえじゃねえか」
「あ、はい。鮎川の野朗がバカなせいで……」
「鮎川が、じゃねえだろうが。俺は8万円必要なんだよ!どうすんだよ。足りねえじゃねえかよ!」
俺は叫んで、持っていた竹刀で康文のわき腹を思いっきり叩き付ける。ここは元々剣道部の部室だった。それを俺たちが乗っ取ったのだ。康文をわき腹を抑えると、ううう、と低いうめき声を上げた。俺はそのまま竹刀を背中に叩きつける。康文は、すいません、すいません、と情けない声で呟くばかりだった。
「死ねよカス!どうすんだよ!オイ!どうすんだよ!」
俺はハアハアと肩で息をつきながら竹刀を脇に置くと、康文のポケットから財布を抜き取った。開いて中を見るが、案の定小銭が幾らか入っているばかりで1万円など到底望むべくもなかった。俺は舌打ちして康文の頭を蹴り上げそのまま部室を後にした。
時間はいくらもなかった。まだ日も高いこの時分、人通りも少ないこの辺りではさすがに恐喝はできそうになかった。歩きながら色々なことを考えたが、最早他に方策のないことは理解していた。
俺はその足で売血センターに向かった。
次へ
case3
-----
case3
-----
私は幼い頃から体が弱かった。ちょっとした運動にも息を切らし、少しでも外を走ろうとすれば慌てて親が飛んできた。
自分の身体だというのに、自分の思うままに動かした記憶というのがまるでない。
けれど、育ちだけは良かった。
物心付いた頃から、何かに不自由したという記憶は無かった。
家は裕福だったし、望めば大抵の物は手に入った。
年齢を重ねるにつれ、望んでも決して手に入らないものもあることが分かるようになった。
その一つが健全な身体だった。
健康な身体。
普通の人と同じように。
私にはそれが全てだった。
私は病弱だった。
私は自由に走りたかった。
私は自由に踊りたかった。
私は自由に泳ぎたかった。
私は自由に――自由でなくとも、ただ他の人と同じように、動き、飛び、駆けたかった。
いつかはそんな日が来るのだと、幼い頃から何度も自分に言い聞かせた。
そしてそれらは全て望むべくもないものだったと知った時は、私は12歳になっていた。
中学校に上がる頃、私は自分の身体が治らない病に冒されていることを知った。
――父の仕事が誰からも恨まれるような仕事であることを知ったのもこの頃だったように覚えている。
思い出す。
何不自由のない家庭だったけれど、不自由でないことは決して自由を意味しないことや、本来的な幸せを意味しないことが、段々と分かるようになった。
にこにこと微笑んでいた近所の人たちは、穏やかな言葉を囁きながらその実、父の仕事を蔑んでいた。
時にメディアですら、父の仕事をこき下ろした。
12歳の私は、自分の裕福さが、たくさんの人たちの罵詈雑言の上に立脚していることを理解した。
それはあたかも、自分の出生から今この瞬間、そう、たった今秒針が進んでいるこの一点まで余すことなく周囲全ての人間から呪詛を吐かれ続けているように思えた。
負にまみれた身体に、生育に、父に自分に。
意識したことではない。が、家には自然と帰らないようになった。
(治らない病に罹ったこの身体だ、どうせいつかは死ぬ。
それが早いか遅いかなら、好きなように生きてそして死んでいけばいい)
そんなことを思うようになった。
繁華街をぶらぶらと歩いていると、色んな男から声を掛けられた。
特に何も思うこともなく、適当に付いて行くことがしょっちゅうになるまでそう時間は掛からなかったように思う。
―――いつの夜か、破瓜の血を流しながら、腰だけの振動を味わいながら思った。
(私がしたかったのはこんなことだったのだろうか)
けれどもそれは刹那のことで、情緒的な情感はすぐさま消え去った。
そして思い直す。
どちらにしても私がしたいことなど、できることなど初めからどこにもないのだ、と。
痛みも悲しみも感動も、振り返ればおよそ情感の得ることのない初体験だった。
私は自然と男に寄生するようになった。
常時2〜3人の男をローテーションしていたが、メインにしていたのはこの辺りでそれなりに有名な不良の柏田という男だった。
この男に経済力を期待していたわけではない。
それよりも、放っておけば弱い者を殴り散らすその様を見るのがたまらなく好きだった。
おそらくそれは、代償行為なのだろう。
私は誰かと満足に殴り合いをする体力もない。
だからそれをこの男に託す。
そしてこの男はそれを受け、他人を殴りつける。
殴りつけられた奴らは、ほとんど動けない程に痛めつけられた。
私はたぶん、その様を見ながら動けなくなった彼らにようやく優越感を抱いているのだと思う。
合理的な代償行為だと思う。
決して誰も得しないメンタルケア。
柏田は隠しているようだったが、彼が闇金から金を借り入れていることも知っていた。 どうやら毎月、その資金繰りにキリキリ舞いしているらしい。
お金の使途は、私だ。
彼は毎月、私が望むものを一つ買ってくれる。
私は毎月、プラダやグッチ、ヴィトンなど、彼が破綻しない程度のギリギリの額を狙ってプレゼントをねだる。
彼はギリギリのラインで毎月やり繰りし、私に貢いでくれる。
私はそれを嬉しそうに受け取る。
私はそれを嬉しそうに質に入れる。
そうして手にしたお金を、夜、一人になった時に一枚ずつ燃やす。
目の前でめらめらと炎を上げて、お金は燃えていく。
私は、こんなことをすれば、自分を育てた汚い裕福さが消えると思っているのだろうか。
分からない、何も。
ただ、火を見ていると少しだけ落ち着いた。
どんな形にしろ、自分を苛む環境を克服しようとしている自分は偉いのかもしれない、と思う。
こんな形でしか、自分を苛む環境を克服できない自分は、もうどこにも存在できないのかもしれない、とも思う。
私はいつも考える。
そう、考えているのだ。何を考えていたか、それすらも忘れるほどにたくさんのことを。
それでも私は分からない。
何も分からない。
次へ
case3
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私は幼い頃から体が弱かった。ちょっとした運動にも息を切らし、少しでも外を走ろうとすれば慌てて親が飛んできた。
自分の身体だというのに、自分の思うままに動かした記憶というのがまるでない。
けれど、育ちだけは良かった。
物心付いた頃から、何かに不自由したという記憶は無かった。
家は裕福だったし、望めば大抵の物は手に入った。
年齢を重ねるにつれ、望んでも決して手に入らないものもあることが分かるようになった。
その一つが健全な身体だった。
健康な身体。
普通の人と同じように。
私にはそれが全てだった。
私は病弱だった。
私は自由に走りたかった。
私は自由に踊りたかった。
私は自由に泳ぎたかった。
私は自由に――自由でなくとも、ただ他の人と同じように、動き、飛び、駆けたかった。
いつかはそんな日が来るのだと、幼い頃から何度も自分に言い聞かせた。
そしてそれらは全て望むべくもないものだったと知った時は、私は12歳になっていた。
中学校に上がる頃、私は自分の身体が治らない病に冒されていることを知った。
――父の仕事が誰からも恨まれるような仕事であることを知ったのもこの頃だったように覚えている。
思い出す。
何不自由のない家庭だったけれど、不自由でないことは決して自由を意味しないことや、本来的な幸せを意味しないことが、段々と分かるようになった。
にこにこと微笑んでいた近所の人たちは、穏やかな言葉を囁きながらその実、父の仕事を蔑んでいた。
時にメディアですら、父の仕事をこき下ろした。
12歳の私は、自分の裕福さが、たくさんの人たちの罵詈雑言の上に立脚していることを理解した。
それはあたかも、自分の出生から今この瞬間、そう、たった今秒針が進んでいるこの一点まで余すことなく周囲全ての人間から呪詛を吐かれ続けているように思えた。
負にまみれた身体に、生育に、父に自分に。
意識したことではない。が、家には自然と帰らないようになった。
(治らない病に罹ったこの身体だ、どうせいつかは死ぬ。
それが早いか遅いかなら、好きなように生きてそして死んでいけばいい)
そんなことを思うようになった。
繁華街をぶらぶらと歩いていると、色んな男から声を掛けられた。
特に何も思うこともなく、適当に付いて行くことがしょっちゅうになるまでそう時間は掛からなかったように思う。
―――いつの夜か、破瓜の血を流しながら、腰だけの振動を味わいながら思った。
(私がしたかったのはこんなことだったのだろうか)
けれどもそれは刹那のことで、情緒的な情感はすぐさま消え去った。
そして思い直す。
どちらにしても私がしたいことなど、できることなど初めからどこにもないのだ、と。
痛みも悲しみも感動も、振り返ればおよそ情感の得ることのない初体験だった。
私は自然と男に寄生するようになった。
常時2〜3人の男をローテーションしていたが、メインにしていたのはこの辺りでそれなりに有名な不良の柏田という男だった。
この男に経済力を期待していたわけではない。
それよりも、放っておけば弱い者を殴り散らすその様を見るのがたまらなく好きだった。
おそらくそれは、代償行為なのだろう。
私は誰かと満足に殴り合いをする体力もない。
だからそれをこの男に託す。
そしてこの男はそれを受け、他人を殴りつける。
殴りつけられた奴らは、ほとんど動けない程に痛めつけられた。
私はたぶん、その様を見ながら動けなくなった彼らにようやく優越感を抱いているのだと思う。
合理的な代償行為だと思う。
決して誰も得しないメンタルケア。
柏田は隠しているようだったが、彼が闇金から金を借り入れていることも知っていた。 どうやら毎月、その資金繰りにキリキリ舞いしているらしい。
お金の使途は、私だ。
彼は毎月、私が望むものを一つ買ってくれる。
私は毎月、プラダやグッチ、ヴィトンなど、彼が破綻しない程度のギリギリの額を狙ってプレゼントをねだる。
彼はギリギリのラインで毎月やり繰りし、私に貢いでくれる。
私はそれを嬉しそうに受け取る。
私はそれを嬉しそうに質に入れる。
そうして手にしたお金を、夜、一人になった時に一枚ずつ燃やす。
目の前でめらめらと炎を上げて、お金は燃えていく。
私は、こんなことをすれば、自分を育てた汚い裕福さが消えると思っているのだろうか。
分からない、何も。
ただ、火を見ていると少しだけ落ち着いた。
どんな形にしろ、自分を苛む環境を克服しようとしている自分は偉いのかもしれない、と思う。
こんな形でしか、自分を苛む環境を克服できない自分は、もうどこにも存在できないのかもしれない、とも思う。
私はいつも考える。
そう、考えているのだ。何を考えていたか、それすらも忘れるほどにたくさんのことを。
それでも私は分からない。
何も分からない。
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case4
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case4
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【吸血大臣ご乱心?! 売血額引き上げへ】
新聞には世俗の歓心を煽るような惹句で見出しが踊っていた。
私はふん、と鼻を鳴らして新聞を屑籠に放り込むと、重厚なソファーから腰を上げて背後の窓の前に立った。
眼下に広がる霞ヶ関の風景を眺めながら、初めてこの部屋に来た時は一体どういう気持ちだったか思い返す。記憶はしかし、思い返そうとするほど遠く朧げになり、あたかも蛇のようにするするとこの手から逃げていく。
初当選してから十数年。
衆議院議員会館のこの一室で、国政を担い懸命に働くほどに自分は磨り減っていったように思う。
「大臣、失礼します」
ノックと共に公設第一秘書の山辺が部屋に入って来た。私は振り返ることもせず彼の言葉を待つ。
秘書室と議員室は扉を隔てて別々に設けられている。広さは両方でおよそ15畳ほどだろうか。雑事は隣の部屋で秘書たちが捌き、私はこの部屋でそれ以外の重要な仕事を処理する。大抵の事項は山辺のところでストップし、煩雑な事案の8割はそこで淘汰される。だから、山辺がこの部屋に来たということは残りの2割を持ち込んできたことに他ならない。
「先日施行した改正売血法ですが、やはり内外からの批判が相当に強いです。首相も各方面からの影響を懸念しております。ここは大臣自ら法改正に対する適切な説明を」
「それに関してはもう終わった話だろう。法案は通った。そして無事に施行された。我が国は民主国家であり法治国家だ。施行された法律に文句があるのならば、選挙によってのみ是正されるべきだ。あの法案が本来的に悪法であるならば、それは自然に淘汰されるのだ。以上、私が述べることはそれ以上にはない。山辺君、つまらない事案は君のところで処理するよう言っていたはずだが?」
「……申し訳ありませんでした」
山辺は目礼をすると、そのまま秘書事務室の方に踵を返した。
売血法が施行されたのは、私が大臣になって間もなくのことだった。
法案を提出した当時は、議員の誰もが「何を馬鹿なことを」と一笑に付した。
けれど、私は本気だった。
議員生命を、いや、己の人生の全てを掛けてでもこの法案を通す気概だった。
連日、接待に奔走した。あらゆるところでカネをばら撒いた。時に宥め、時に脅しすかし、ゆっくりとじっくりと種を散らしていった。
そして2年前、ついに法案を決議に通したのだった。
国内からの反発は想定内のことだった。けれどそれは所詮烏合の声であり、恐れるに足るものではない。問題は諸外国からの圧力だった。人倫的に考え、血を売るなどという時代に逆行した政策が好意的に評価されるはずもなかった。
けれど、否めない事実として先進各国、いや全世界で血は慢性的に不足していた。私はそこに目をつけた。売血法が通れば、必然的に国内の血は余り始める。それを先進各国に秘密裏に輸出することを確約したのだ。それも破格の値段で。
もちろん、構図としてはそれほど単純なものとはならなかったが、この妥協案を提示することによって何とか諸外国からの批判は回避することができた。結局私が欲しかったのは大量の血ではない。どれだけ海外に我が国民の血をばら撒こうが、そんなことは私の預かり知るところではなかった。
(晴美……)
タバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。
私の娘は、生まれつき難病を患っていた。
「持って、20歳まででしょう」
保育器を前にして、担当医が無表情にその事実を告げた時は思わずその若い医師の襟首を掴み上げた。
ようやくできた一人娘だった。
幾度も不妊治療に失敗し、それでも諦めず、ようやく授かったのが晴海だった。 妊娠の一報を聞いた時、それは天にも昇る気持ちになった。
それなのに、この仕打ちはなんだ。
どうして私の娘がこんな目に遭わなければならないのだ。
他にも子供は、腐るほどいるというのに――。
私は方々手を尽くし、どうにか娘の病気を治すことのできる医師がいないか懸命になって探した。腕のいい医者がいる、と聞けばそれが世界の果てであろうとすぐに飛んで行った。
その間、すくすくと成長していく娘を見るにつけ、その成長を喜ぶ気持ちとそれを手放す絶望とを同時に感じた。一国の国政を担う身分にありながら、自分はあまりにも無力であるように思った。娘の笑顔を見ながら、何度も泣いた。
そうして私は5年待った。
「先生!ついに娘さんの治療法が見つかったそうです!」
初めは私も耳を疑った。
この頃になると、半ば「娘をどう生かすか」よりも「どれだけ充実した死を迎えさせることができるか」という考えに至っていたからだ。この思わぬ吉報に、私は溜まった仕事も投げ捨てて医師の元へ向かった。これで娘が助かる――そのような大きすぎる期待を抱きながら。
娘が幼い頃から担当していた医師はしかし、そのように喜ぶ私とは対照的にひどく浮かない顔をしていた。その表情を見るにつけ、次第に私の中の期待もするするとしぼんでいくようだったが、それでも私は5年越しの希望にすがりついた。
「先生、どうなんですか?娘は治るんでしょう?」
「……確かに、娘さんを治す方法は見つかりました。しかし……」
「しかし?」
「これは、非常に困難を極める……と申しますか、ほとんど無理と言っても差し支えない方法でして……」
医師の言うことをまとめると、こういうことだった。
娘の治療のための手術は非常に困難を極めるが、成功率自体はそれほど低いものではない。むしろ高いといってもいい。
ただ、大量の血液が必要になるのだ、と。
「それが一体……どうして無理になるんですか?」
「ええとですね、これは娘さんの病気とは直接関係あることではないので申し上げていなかったのですが、実は娘さんの血液というのが非常に特殊な性質のものでして……その、世界を見ても類を見ないほど稀有な血液なのです。正直なところ、まず手に入らない、と言っても過言ではありません。そして手術に必要な血液量は、およそ10L。つまり現状では物理的に……娘さんの手術を行うことは不可能なんです」
私は、最後の最後の希望まで粉々に打ち砕かれた気持ちだった。
---
「あんな法案は……やっぱりおかしいわよ……」
家に帰ると、妻は憔悴した様子で私を出迎えた。
ここのところ、いや厳密に言えばここ数年ずっと、妻の笑顔を見ていない。
原因は、分かっている。
一つには、娘が家に寄り付かなくなったこと。
もう一つは、私が通した「法案」のことだった。
「ねえあなた、もう止めましょう。私たちの私事のために、一国の法律を創設するなんて、どう考えてもおかしいに決まってるわ」
「私事などではない」
妻の言葉に、私は厳として声を上げた。
「いいか、私はあの法案を通すことによってこの国の医療現場に多大な貢献をした。いや、この国ばかりではない。世界各国の医療現場に、だ。それを証拠に見ろ、血液不足などどこでも生じなくなったではないか。それに、だ。まともに金銭を稼ぐこともできなかった者たちに対しても所得を得られる途を開くこともできた。少しずつだが、血を売った金のお陰で経済も循環し始めている。何らのデメリットも存在しないんだよ」
「それによって生じる犯罪に目を伏せれば、ですか?」
私の言葉に、妻は強い口調で反論をしてきた。
その勢いに気おされて、思わず私は口をつぐむ。
「あなただってご存知でしょう?売血法の影響でどれだけの脱法行為が生まれているかは。立場の弱い人たちをけしかけて血を売らせて金を得ている人がどれだけ増えているかを。売血金融、なんて言葉も出始めたそうですよ。それでもあなたは、国に貢献していると言えるの?」
「黙れ。だったらお前は、娘を、晴美を助ける途がなくなってもいいと言うのか」
「だったらあなたは、たくさんの人を不幸にさせてまであの子を生かせて、幸せにできると思ってるんですか?その先に何が残されてるの?今でさえ、あなたの仕事を憎んで家に寄り付かない有り様だって言うのに!」
「黙れ!」
衝動的に妻の頬に手を張った。
腰が砕けるように床に突っ伏した妻は、一瞬だけ私の方を睨み付けたがすぐに顔を伏せ、情けない、情けないと呟きながら涙を流し始めた。
「道は前にしかないんだ。
法案は通った。
結果は自ずと出る」
私は妻を残して書斎に戻った。
当選以来愛用している鞄の中から、幾つかの書類を取り出す。
私はその中の一つを手に取ると、引き出しから万年筆を取り出し、インクを満たして一字一字丁寧に書きつけ始める。
【改正売血法草案 30円/1cc】
法案をねじ込むことには成功したが、娘に必要な血液は未だ見つかっていない。
ならば、見つかるまで足掻くまでだ。
残された時間は絶望的に少ない。
金だ。
金をして、より多くの血を集めなければならない。
娘に適合する、その血を見つけなければ――たとえそれが、人倫に反する行為であったとしても――。
「適合者が見つかりさえすれば……こんな法案……」
呟きと共に、手に力がこもる。
万年筆の先が、ぶちりと音を立てて潰れた。
次へ
case4
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【吸血大臣ご乱心?! 売血額引き上げへ】
新聞には世俗の歓心を煽るような惹句で見出しが踊っていた。
私はふん、と鼻を鳴らして新聞を屑籠に放り込むと、重厚なソファーから腰を上げて背後の窓の前に立った。
眼下に広がる霞ヶ関の風景を眺めながら、初めてこの部屋に来た時は一体どういう気持ちだったか思い返す。記憶はしかし、思い返そうとするほど遠く朧げになり、あたかも蛇のようにするするとこの手から逃げていく。
初当選してから十数年。
衆議院議員会館のこの一室で、国政を担い懸命に働くほどに自分は磨り減っていったように思う。
「大臣、失礼します」
ノックと共に公設第一秘書の山辺が部屋に入って来た。私は振り返ることもせず彼の言葉を待つ。
秘書室と議員室は扉を隔てて別々に設けられている。広さは両方でおよそ15畳ほどだろうか。雑事は隣の部屋で秘書たちが捌き、私はこの部屋でそれ以外の重要な仕事を処理する。大抵の事項は山辺のところでストップし、煩雑な事案の8割はそこで淘汰される。だから、山辺がこの部屋に来たということは残りの2割を持ち込んできたことに他ならない。
「先日施行した改正売血法ですが、やはり内外からの批判が相当に強いです。首相も各方面からの影響を懸念しております。ここは大臣自ら法改正に対する適切な説明を」
「それに関してはもう終わった話だろう。法案は通った。そして無事に施行された。我が国は民主国家であり法治国家だ。施行された法律に文句があるのならば、選挙によってのみ是正されるべきだ。あの法案が本来的に悪法であるならば、それは自然に淘汰されるのだ。以上、私が述べることはそれ以上にはない。山辺君、つまらない事案は君のところで処理するよう言っていたはずだが?」
「……申し訳ありませんでした」
山辺は目礼をすると、そのまま秘書事務室の方に踵を返した。
売血法が施行されたのは、私が大臣になって間もなくのことだった。
法案を提出した当時は、議員の誰もが「何を馬鹿なことを」と一笑に付した。
けれど、私は本気だった。
議員生命を、いや、己の人生の全てを掛けてでもこの法案を通す気概だった。
連日、接待に奔走した。あらゆるところでカネをばら撒いた。時に宥め、時に脅しすかし、ゆっくりとじっくりと種を散らしていった。
そして2年前、ついに法案を決議に通したのだった。
国内からの反発は想定内のことだった。けれどそれは所詮烏合の声であり、恐れるに足るものではない。問題は諸外国からの圧力だった。人倫的に考え、血を売るなどという時代に逆行した政策が好意的に評価されるはずもなかった。
けれど、否めない事実として先進各国、いや全世界で血は慢性的に不足していた。私はそこに目をつけた。売血法が通れば、必然的に国内の血は余り始める。それを先進各国に秘密裏に輸出することを確約したのだ。それも破格の値段で。
もちろん、構図としてはそれほど単純なものとはならなかったが、この妥協案を提示することによって何とか諸外国からの批判は回避することができた。結局私が欲しかったのは大量の血ではない。どれだけ海外に我が国民の血をばら撒こうが、そんなことは私の預かり知るところではなかった。
(晴美……)
タバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。
私の娘は、生まれつき難病を患っていた。
「持って、20歳まででしょう」
保育器を前にして、担当医が無表情にその事実を告げた時は思わずその若い医師の襟首を掴み上げた。
ようやくできた一人娘だった。
幾度も不妊治療に失敗し、それでも諦めず、ようやく授かったのが晴海だった。 妊娠の一報を聞いた時、それは天にも昇る気持ちになった。
それなのに、この仕打ちはなんだ。
どうして私の娘がこんな目に遭わなければならないのだ。
他にも子供は、腐るほどいるというのに――。
私は方々手を尽くし、どうにか娘の病気を治すことのできる医師がいないか懸命になって探した。腕のいい医者がいる、と聞けばそれが世界の果てであろうとすぐに飛んで行った。
その間、すくすくと成長していく娘を見るにつけ、その成長を喜ぶ気持ちとそれを手放す絶望とを同時に感じた。一国の国政を担う身分にありながら、自分はあまりにも無力であるように思った。娘の笑顔を見ながら、何度も泣いた。
そうして私は5年待った。
「先生!ついに娘さんの治療法が見つかったそうです!」
初めは私も耳を疑った。
この頃になると、半ば「娘をどう生かすか」よりも「どれだけ充実した死を迎えさせることができるか」という考えに至っていたからだ。この思わぬ吉報に、私は溜まった仕事も投げ捨てて医師の元へ向かった。これで娘が助かる――そのような大きすぎる期待を抱きながら。
娘が幼い頃から担当していた医師はしかし、そのように喜ぶ私とは対照的にひどく浮かない顔をしていた。その表情を見るにつけ、次第に私の中の期待もするするとしぼんでいくようだったが、それでも私は5年越しの希望にすがりついた。
「先生、どうなんですか?娘は治るんでしょう?」
「……確かに、娘さんを治す方法は見つかりました。しかし……」
「しかし?」
「これは、非常に困難を極める……と申しますか、ほとんど無理と言っても差し支えない方法でして……」
医師の言うことをまとめると、こういうことだった。
娘の治療のための手術は非常に困難を極めるが、成功率自体はそれほど低いものではない。むしろ高いといってもいい。
ただ、大量の血液が必要になるのだ、と。
「それが一体……どうして無理になるんですか?」
「ええとですね、これは娘さんの病気とは直接関係あることではないので申し上げていなかったのですが、実は娘さんの血液というのが非常に特殊な性質のものでして……その、世界を見ても類を見ないほど稀有な血液なのです。正直なところ、まず手に入らない、と言っても過言ではありません。そして手術に必要な血液量は、およそ10L。つまり現状では物理的に……娘さんの手術を行うことは不可能なんです」
私は、最後の最後の希望まで粉々に打ち砕かれた気持ちだった。
---
「あんな法案は……やっぱりおかしいわよ……」
家に帰ると、妻は憔悴した様子で私を出迎えた。
ここのところ、いや厳密に言えばここ数年ずっと、妻の笑顔を見ていない。
原因は、分かっている。
一つには、娘が家に寄り付かなくなったこと。
もう一つは、私が通した「法案」のことだった。
「ねえあなた、もう止めましょう。私たちの私事のために、一国の法律を創設するなんて、どう考えてもおかしいに決まってるわ」
「私事などではない」
妻の言葉に、私は厳として声を上げた。
「いいか、私はあの法案を通すことによってこの国の医療現場に多大な貢献をした。いや、この国ばかりではない。世界各国の医療現場に、だ。それを証拠に見ろ、血液不足などどこでも生じなくなったではないか。それに、だ。まともに金銭を稼ぐこともできなかった者たちに対しても所得を得られる途を開くこともできた。少しずつだが、血を売った金のお陰で経済も循環し始めている。何らのデメリットも存在しないんだよ」
「それによって生じる犯罪に目を伏せれば、ですか?」
私の言葉に、妻は強い口調で反論をしてきた。
その勢いに気おされて、思わず私は口をつぐむ。
「あなただってご存知でしょう?売血法の影響でどれだけの脱法行為が生まれているかは。立場の弱い人たちをけしかけて血を売らせて金を得ている人がどれだけ増えているかを。売血金融、なんて言葉も出始めたそうですよ。それでもあなたは、国に貢献していると言えるの?」
「黙れ。だったらお前は、娘を、晴美を助ける途がなくなってもいいと言うのか」
「だったらあなたは、たくさんの人を不幸にさせてまであの子を生かせて、幸せにできると思ってるんですか?その先に何が残されてるの?今でさえ、あなたの仕事を憎んで家に寄り付かない有り様だって言うのに!」
「黙れ!」
衝動的に妻の頬に手を張った。
腰が砕けるように床に突っ伏した妻は、一瞬だけ私の方を睨み付けたがすぐに顔を伏せ、情けない、情けないと呟きながら涙を流し始めた。
「道は前にしかないんだ。
法案は通った。
結果は自ずと出る」
私は妻を残して書斎に戻った。
当選以来愛用している鞄の中から、幾つかの書類を取り出す。
私はその中の一つを手に取ると、引き出しから万年筆を取り出し、インクを満たして一字一字丁寧に書きつけ始める。
【改正売血法草案 30円/1cc】
法案をねじ込むことには成功したが、娘に必要な血液は未だ見つかっていない。
ならば、見つかるまで足掻くまでだ。
残された時間は絶望的に少ない。
金だ。
金をして、より多くの血を集めなければならない。
娘に適合する、その血を見つけなければ――たとえそれが、人倫に反する行為であったとしても――。
「適合者が見つかりさえすれば……こんな法案……」
呟きと共に、手に力がこもる。
万年筆の先が、ぶちりと音を立てて潰れた。
次へ
case5
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Case5
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息子が酷い怪我を負って帰って来た。
ここのところ毎日こうだ。
原因は分かっている。どうやら、学校で常習的に不良に殴られているらしい。息子は口を閉ざして語ろうとはしないが、私も親だ。それくらいは分かる。
それにしても今日の怪我は普段に増して一段と酷い。心なしか、顔からも血の気が引いているようだった。
流石に私も心配して息子に声を掛けようとしたのだけれど、彼は私の声を無視して部屋に閉じこもってしまった。
多感な時期の子供は、何かと難しい。
(柏田……と言っただろうか、あの不良の名前は)
色々調べたところでは、どうもこの辺りでは札付きのワルが息子を標的にしているらしかった。
自分の若い頃を思い出す。
昔の不良には、それなりの仁義というものもあった。
任侠とまでは言わないが、理由のない蛮行はほとんどなかったし、あったとしても『正しい暴力』によってそれらは押さえつけられていった。
最近の若い奴らにはそういったものは一切ないらしい。
暴力に恐喝は当たり前、弱きを挫き強きに巻かれる。怪しげな薬に手をだす輩もいると聞く。
最近の子供の手口は陰湿で、悪質だ。
もう私の理解の範疇などとうに超えている。
グラスに残ったビールを煽りながら、昔は良かったな、と思う。
悪いことをすれば、きちんと叱れる大人たちがちゃんといた。
家庭のみならず、社会が子供を教育していた。
今の社会にはそういった姿勢がすっかりと失われてしまった。
このままでは、この国はいったいどうなってしまうのだろうか――憂慮は決して尽きることがない。
大体女が強くなりすぎた。それに反比例して男が弱くなりすぎた。
先ほどの柏田にしてもそうだ。
彼の後ろに、何やら女がいることを私は知っている。
そしてそのお陰で、彼は検挙もされずにのうのうとのさばっているのだ。
大臣の娘――いわゆる彼の「オンナ」は、時の厚生労働大臣の一人娘だった。結局あの男を検挙してしまえば、それとセットになってあの娘も逮捕される。だから柏田の悪行はことごとく封殺されてしまうのだ。
こんな蛮行が許されていいのだろうか?
いつの間にこの国はこうまで腐ってしまったのだろうか……。
とめどなく溢れてくる呪詛に飲み込まれそうになりながら何とか平静を保とうと努力した。今日は久しぶりに早く帰れた。
が、結局それは仕事を持ち帰っただけにすぎなかった。明日からの仕事に備えて今日目を通しておかなければならない資料は山ほどある。
机の上に資料の束を広げた。空になったグラスを脇に置き、その一番上にある資料を手に取る。
見覚えのある一通の書類を手にした。見覚え、といってもそれは決してポピュラーであることを意味しない。おそらくこの冊子を手にしているのは現在、特殊な地位で仕事に従事している私だけだろう。だからこれは、私だけにとっては卑近な書類なのであった。
【極秘 先月分血液型に関する報告】
「ふん……」
私は鼻を鳴らして書類に目を通す。
先月は国内において、α種の血液例が1件報告されたようだ。
私はその部分を黙って0へと書き換える。
もはやこれは通例行事のようなものだった。
とは言え、このα種の報告書が最初から0でないことの方が珍しい。
何でもかなり稀有な血液だそうで、世界でも僅かにその存在が確認されたに留まる程度の血液だそうだ。
私はそれを発見する度に「存在しなかった」ことに書き換えている。
α種。
私を含め、ほんの数名しか知らないことではあるが、厚生労働大臣はどうやらこの血液を探すのに躍起になっているらしく、それが為にあの天下の悪法 ――売血法―― を策定した、とのことだ。
全国の売血センターで採取された血のデータは、一度私の勤める血液統合管理ファームに集められる。その時点では血に含まれる成分の数字が羅列された資料が手元に集まるに過ぎないのだが、そのデータをファームで再解析することでα種の存否が確認されるのだ。これを一手に引き受けているのが我がファームであり、更にそれをチェックするのが私に与えられた仕事である。
つまるところあの法案は、このα種発見のためだけに作られた。
(あのろくでもない娘のために、息子は……)
役得、と言えるのかどうかは分からないが、私はこの仕事を始めるにあたり国内の売血液が大あの娘の病気を治療するために集められていることを知った。
「あんな娘を生かすがためだけにこんな法案を?」
知った時、私は呆れてものも言えなかった。それ以上に、息子を苦しめている原因たる娘のために、一国の法律までもが左右されていることに強い憤りを覚えた。
(絶対にα種をあの娘のもとに渡すことはしまい)
この仕事の任に就いてから思うことは、ただそれだけだった。
(腐敗した社会に成り代わり、私が若者に制裁を下さなければならないのだ。
そしてこの手で、息子を守ってやるのだ)
私は再び報告書を手にすると、【α種】欄の横の0を黒く、何度も何度も黒くなぞり返した。
(息子よ――間もなくあの娘は、死ぬ。
私の手により、粛清されるのだ。
そうすればお前への暴力もなくなるだろう。
だからもう少し、いま少しだけ――辛抱してくれ)
朱肉を取り出すと書類をと閉じ、その末尾にしっかりと判を押した。
[検印 血液統合管理ファーム所長 鮎川潤一郎]
(終)
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Case5
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息子が酷い怪我を負って帰って来た。
ここのところ毎日こうだ。
原因は分かっている。どうやら、学校で常習的に不良に殴られているらしい。息子は口を閉ざして語ろうとはしないが、私も親だ。それくらいは分かる。
それにしても今日の怪我は普段に増して一段と酷い。心なしか、顔からも血の気が引いているようだった。
流石に私も心配して息子に声を掛けようとしたのだけれど、彼は私の声を無視して部屋に閉じこもってしまった。
多感な時期の子供は、何かと難しい。
(柏田……と言っただろうか、あの不良の名前は)
色々調べたところでは、どうもこの辺りでは札付きのワルが息子を標的にしているらしかった。
自分の若い頃を思い出す。
昔の不良には、それなりの仁義というものもあった。
任侠とまでは言わないが、理由のない蛮行はほとんどなかったし、あったとしても『正しい暴力』によってそれらは押さえつけられていった。
最近の若い奴らにはそういったものは一切ないらしい。
暴力に恐喝は当たり前、弱きを挫き強きに巻かれる。怪しげな薬に手をだす輩もいると聞く。
最近の子供の手口は陰湿で、悪質だ。
もう私の理解の範疇などとうに超えている。
グラスに残ったビールを煽りながら、昔は良かったな、と思う。
悪いことをすれば、きちんと叱れる大人たちがちゃんといた。
家庭のみならず、社会が子供を教育していた。
今の社会にはそういった姿勢がすっかりと失われてしまった。
このままでは、この国はいったいどうなってしまうのだろうか――憂慮は決して尽きることがない。
大体女が強くなりすぎた。それに反比例して男が弱くなりすぎた。
先ほどの柏田にしてもそうだ。
彼の後ろに、何やら女がいることを私は知っている。
そしてそのお陰で、彼は検挙もされずにのうのうとのさばっているのだ。
大臣の娘――いわゆる彼の「オンナ」は、時の厚生労働大臣の一人娘だった。結局あの男を検挙してしまえば、それとセットになってあの娘も逮捕される。だから柏田の悪行はことごとく封殺されてしまうのだ。
こんな蛮行が許されていいのだろうか?
いつの間にこの国はこうまで腐ってしまったのだろうか……。
とめどなく溢れてくる呪詛に飲み込まれそうになりながら何とか平静を保とうと努力した。今日は久しぶりに早く帰れた。
が、結局それは仕事を持ち帰っただけにすぎなかった。明日からの仕事に備えて今日目を通しておかなければならない資料は山ほどある。
机の上に資料の束を広げた。空になったグラスを脇に置き、その一番上にある資料を手に取る。
見覚えのある一通の書類を手にした。見覚え、といってもそれは決してポピュラーであることを意味しない。おそらくこの冊子を手にしているのは現在、特殊な地位で仕事に従事している私だけだろう。だからこれは、私だけにとっては卑近な書類なのであった。
【極秘 先月分血液型に関する報告】
「ふん……」
私は鼻を鳴らして書類に目を通す。
先月は国内において、α種の血液例が1件報告されたようだ。
私はその部分を黙って0へと書き換える。
もはやこれは通例行事のようなものだった。
とは言え、このα種の報告書が最初から0でないことの方が珍しい。
何でもかなり稀有な血液だそうで、世界でも僅かにその存在が確認されたに留まる程度の血液だそうだ。
私はそれを発見する度に「存在しなかった」ことに書き換えている。
α種。
私を含め、ほんの数名しか知らないことではあるが、厚生労働大臣はどうやらこの血液を探すのに躍起になっているらしく、それが為にあの天下の悪法 ――売血法―― を策定した、とのことだ。
全国の売血センターで採取された血のデータは、一度私の勤める血液統合管理ファームに集められる。その時点では血に含まれる成分の数字が羅列された資料が手元に集まるに過ぎないのだが、そのデータをファームで再解析することでα種の存否が確認されるのだ。これを一手に引き受けているのが我がファームであり、更にそれをチェックするのが私に与えられた仕事である。
つまるところあの法案は、このα種発見のためだけに作られた。
(あのろくでもない娘のために、息子は……)
役得、と言えるのかどうかは分からないが、私はこの仕事を始めるにあたり国内の売血液が大あの娘の病気を治療するために集められていることを知った。
「あんな娘を生かすがためだけにこんな法案を?」
知った時、私は呆れてものも言えなかった。それ以上に、息子を苦しめている原因たる娘のために、一国の法律までもが左右されていることに強い憤りを覚えた。
(絶対にα種をあの娘のもとに渡すことはしまい)
この仕事の任に就いてから思うことは、ただそれだけだった。
(腐敗した社会に成り代わり、私が若者に制裁を下さなければならないのだ。
そしてこの手で、息子を守ってやるのだ)
私は再び報告書を手にすると、【α種】欄の横の0を黒く、何度も何度も黒くなぞり返した。
(息子よ――間もなくあの娘は、死ぬ。
私の手により、粛清されるのだ。
そうすればお前への暴力もなくなるだろう。
だからもう少し、いま少しだけ――辛抱してくれ)
朱肉を取り出すと書類をと閉じ、その末尾にしっかりと判を押した。
[検印 血液統合管理ファーム所長 鮎川潤一郎]
(終)
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歳火 ver.2
その言葉を聞いて僕は携帯を切った。ほんの短いやり取りではあったが、幾分恐怖もやわらいだし、何より帰路への光明が見えた。僕は早速仲間を促すと、右に向かって懐中電灯を照らして歩き始めた。
「…おい、来た道じゃなくていいのかよ。こっちであってんのかよ」
仲間の一人が不安そうな声を上げる。僕は黙って、大丈夫だ、と呟くとそのままずんずんと歩き始めた。確かにこちらの道は、先ほどまでのそれと比べると幾分踏みしめられたような後があり、獣道のような風情が漂っている。それほど足を取られることもなくスムーズに歩くことができた。
けれど道の雰囲気はそれとは反対にどんどんと暗いものになっていく。それもそのはずで、どうも先ほどよりも木の量が増えたように思う。これまでもうっそうとした雰囲気ではあったが、今首を上げると先ほどまでは僅かばかり見えていた空すらも、もう見えなくなっていた。それほどまでに木の量が増えている。
僕らは黙って歩き続ける。誰も声を発する者はいない。
そうしてそのまま20分ほど歩き続けた頃だった。
ついに仲間の一人がしびれを切らし声を上げた。
「おい!いい加減にしろよ!どこにも出ねえじゃねえか!」
「知らねえよ!俺だってこっちって聞いたから歩いてんだよ」
「聞いたっておま」
「あっ、おい!あっち、視界が開けてんじゃねえの?!」
罵倒の言葉は遮られ、僕らは示された方向を見た。そう、確かに声の通りに木々が開け、これまでの視界とは様子を異にしているような場所が目に見える。
「やった!やっぱこっちでよかったんだな!」
「さっさと抜けようぜ!道路に出ればなんとかなるだろ!」
そういって次々と駆け出していく。僕も内心不安だったから、安堵の息を漏らしながらそれに続いた。と、その時である。僕はさっきまで口論していたヤツに、腕をグッと掴まれた。
「おまえ、聞いたって、それ、誰から聞いたんだよ」
「いや、知り合いから…」
「その知り合いは、なんで祠からの道順を知ってたんだ…?」
「え?そりゃあ、黙ってたけどさっき携帯で聞いたんだよ…」
そういうと彼は凍りついたように口を閉じた。どうしたというのだろう、僕が黙っていたことを怒っているのだろうか。
「お前、怒ってんの?そりゃあ説明もせずにスタスタ歩かせた俺も悪かったけど、こうやって無事に出れたから良かったじゃ」
「……い」
「は?」
彼は唇をわなわなと震わせながら、こう呟いた。
「・・・がい・・・この、林・・・ずっと・・・・圏外・・・・・・」
僕は一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。圏外?そんな馬鹿な話があるはずない。僕はポケットから慌てて携帯電話を取り出すと、画面を開いて電波の状態を確認した。
圏外
うわあああああああああああああ!!!
不意の叫び声が森を切り裂く。
僕らは、その刹那に恐怖を忘れ、弾かれたように駆け出した。
もつれる足を懸命に持ち上げる。わずかに開けたその場所に向かって、僕らは全力で走った。
がさっ、という音とともに、僕らは林を抜けた。そこには仲間の4人が、腰を抜かしてへたり込んでいる。どうした、と声をかけようとしたが、よく見ると彼らは一様にぶるぶると震える腕で何かを指し示していた。僕は顔を上げてその方向を見る。
視線の先には―――
湖があった―――
――エピローグ
『超常現象?!大学生六人集団失踪の怪』
先日、Y県A市のM××大学に通う大学生6人が集団で消え去った。
目撃証言によると、失踪の当日、その6人は大学構内で集まっていることが確認された。
彼らの近くで話を聞いていた知人は、彼らがN山林に向かうことを計画していたようだった、と話してくれた。
警察はその証言を受けN山林周辺を捜索、山林の外でメンバーの一人が運転していたと思しき車が発見され、彼らがN山林に踏み入ったことは確かなものと思われる。
しかし、捜査員は数十名規模で山林に分け入ったのであるがついに彼ら6人が見つかることはなかった。事件から既に一ヶ月、以前大学生の足取りは掴めぬまま捜査は続いている。
「うん、これでいいんじゃねえのかな。印刷所に回しとけ」
原稿から目を上げ、男はタバコを乱暴に揉み消した。この手のネタは三流ゴシップ誌である彼の雑誌が得意とするところである。
それにしても…と彼は考える。大学生が6人も集団でいなくなるか?普通。海沿いで拉致された、とかならまだ考えられるし、あるいは金銭のトラブルで山に埋められた、というのも、まああり得るだろう。
しかし、当日までの彼らにはなんら事件の匂いはない。いや、噂を聞くに、どちらかといえば模範的な学生たちだったようだ。それなのに、前後の文脈なくして彼らは突然に姿を消しているのである。そう、まさに煙のように。これは一体どうしたことなのだろう。
そういえば、と彼は思った。先日、ある情報筋から聞いた話だ。
確かに彼らの姿は見つからなかったのだが、唯一、その内の一人の持ち物と思しき携帯電話が見つかったというのだ。
携帯電話自体には、事件前後に一緒にいたと思しき知人との連絡を取った形跡しかなかったそうで、これという手がかりはなかったらしいのだが、その中に一つ、奇妙なメールが残っていたというのだ。
それは着信したメールでもなければ、送信したメールでもなく、作成途中のメールだったという。
「いや、それがね、まったく意味をなしてないメールでしたからね、少しばかり気になっちゃいましてね」
そういって男は、調べてきた(作成途中の)メール本文を俺に見せてきたのである。
そこにはアルファベットで、こう書かれていた。
Tiboshi
Toshibi
Shibito
「なんのこった、これは」
「そうなんですよー。全く意味が分からなくって」
俺は何のことかさっぱりわからないメモを手にし、ボリボリと頭をかきながら
「じゃ、ま、これは一応頂いておくよ」
と男に声を掛けて、その場は別れたのである。
そのメモを片手に、もう一度それを声に出して読んでみる。
チボシ、トシビ、シビト…
「なんのこっちゃ」
相変わらず体をなさないメモを机の奥に押し込むと、俺は再び校了の作業に取り掛かった。
春…新入生がまたこの地に訪れる。
彼は、間取りや立地からすれば格段に安い物件を見つけることができた。
それにしても安い。相場からすれば、実に半値ほどである。
彼は訝しがって、不動産に強く問いただした。
すると不動産屋はついに諦めたように、彼に対して真実を教えてくれた。
「いやね、何年か前にこのあたりで失踪事件があったんですけどね、実は以前ここに住んでいた人ってのが、その時失踪した人なんですよ」
なんだ、そんなことか。馬鹿らしい。そんな理由で安くなるんだったら、むしろ願ったり叶ったりである。
「ああ、いいですよ。僕、そういうの全然平気ですから」
そうですか、と若い不動産屋の社員は顔をほころばせた。
「で、一応住む上で聞いておきたいんですが、僕の隣に住んでる人ってのは…」
「ああ、アナタが住む部屋は角部屋ですから」
「え、でも一軒は隣に部屋があるはずですよね?」
「そこなんですけど、なんか昔からずっと借り手がおりませんで。まあ、やはり角部屋の方が人気がありますからね。基本的にはあなたのように角部屋を勧めてるんですよ」
ふーん、そういうもんか、と思いながら、でも隣に住んでる人がいないのなら気兼ねしなくていいな、と思った。不動産屋の車が街を走っていく。窓から吹いてくる爽やかな春の風が、彼の鼻をくすぐった。
(END NO.1)
1983年10月14日
歳火 ver.3
僕はしばらく考えたが、やはりこれから更に進むというのには気が引けた。迷う可能性はあったけれど、来た道を引き返すのが一番無難だと考えたのである。
「どうしたんだ?」
ツレの一人が僕に声をかける。僕は、なんでもないよ、という風に曖昧に笑うと携帯をポケットに収めて皆のところに戻った。
びゅう、とまた風が吹いた。ただ、今度の先ほどのように風は長く続くそれではなく、一吹き、僕らをからかうように吹き抜けていっただけだった。
「なあ、どうするよ…」
ツレが暗い顔で呟く。疲れ、怯え、そして恐怖。肉体的な疲れはさるものながら、精神的な疲労もかなりのものだった。千星さんの言葉を信じないわけではないが、これ以上知らない道を進むよりは今進んできた道を引き返すほうがまだ精神的に楽だと言えるだろう。
「戻ろう」
僕は皆にそう告げた。誰も言葉を発しないが、同意していることはなんとなく伝わってくる。僕は懐中電灯を握り締めると進んで先頭にたち、来た方向に向かって歩き始めた。
僕が二、三歩進んだ時、再び携帯が震えていることに気付いた。確認するまでもない、着信の主は千星さんだろう。僕はディスプレイも見ずに電話に出た。
「…もしもし」
「自分、どこに向かっとるん?」
「ええ、道路を目指して」
「いや、祠から右に行っとらんやろ?」
「え?」
「俺、言うたやん。祠に向かって右に進めって言うたやん」
「いや、それは…」
「何してんの自分?!死にたいんか!!」
瞬間、電話の向こうで千星さんが尋常ならざる絶叫を上げた。思わず携帯から耳を離す。これほどまでに狼狽しているということは…やはり僕らの進む方向は間違っているのだろうか。
僕は携帯を片手に持ったまま、進路を相談するために後ろを振り向いた。
「なあ…」
仲間たちは、僕の顔をまるでバケモノでも見るかのような目で見つめている。ある者は腰を抜かしそうになっており、またある者は歯をガタガタと震わせていた。
(まさか、歳火が…)
と思って僕は周りを見渡したのだけれど、視界はなんら変化するところはなかった。
「一体、どうしたん……」
そして僕は気付いた。彼らが恐怖しているのは僕以外の何かへではなく、間違いなく僕自身を恐れているということに。
「ちょ…ちょっとなんだよ!一体どうしちまったんだよ!何に怖がってるんだよ!」
僕は慌てて問いただした。俺をバケモノとでも思ってるのか?冗談じゃない。僕は正常だ。いや、もしかして…まさかこいつら、知らない間に歳火を見てしまったのか?それで既に発狂したのか?
考えたくなかったことだ。しかし、この異常な状況では何が起きてももはや不思議ではないような気すらしてくる。彼らが発狂しているかもしれない。その考えは少なからず僕へも恐怖を伝播し、僕はカタカタと震えながら彼らに問うた。
「おまえら、もしかしてもうと」
「・・・・・・がい」
質問は途中で遮られ、ツレが何かを喋りかけた。なに?と俺は聞き返す。
「・・・がい、だよ?この林・・・入ったときからずっと・・・圏外なんだよ・・・・・!!!」
「おまえ・・・誰と、何を喋ってたの・・・・??!!!」
全身から、血の気が引いた。ここが圏外?そんな、そんなことは…僕は慌てて握り締めていた携帯に目を遣る。そこには『通話中』文字が躍っていた。そしてその左上、アンテナ表示の部分には――
圏外
「…ああああああうあああああああ!!!」
僕は思わず叫び声を上げて携帯を地面に叩きつける。そして何度も、何度も踏みつけた。ガッ、ガリッ、バキッ。折りたたみ式の携帯は二度三度踏みつけると完全に真っ二つに割れた。そして僕らはお互いの手を握り合うと、小枝で顔を擦ることすら気にせず来た道を一気に駆け戻った。
どれくらい走っただろうか。途中で何度もコケたり転んだりしてボロボロになりながら、ようやく国道を見つけたのはうっすらと東の空が白んでいた頃だと思う。道路を見つけた僕らは、歓声を上げる気力すらもなく、6人揃ってヘナヘナと道路の脇に座り込んだのだった。そこで、ようやく電波を取り戻した携帯電話を使って、僕らは警察に連絡を入れた。
警察に保護された僕らは、私有地に立ち入ったことをひどく咎められた。無理もない、僕らの行為は不法侵入である。ただ、そんな微罪で検挙するほど警察も暇ではないらしく、僕らは喉頭での厳重注意ということで見逃してもらえた。ただ、ひとつ警察は気になることを言っていた。
「にしても、お前らよくあそこに入って無事だったよなあ」
「ああ、言い伝えのようにならなくて良かったですよ」
「言い伝え?何のこった」
「え?だからこの辺りに伝わる歳火のはなし…」
「トシビ?なんだそれ。そんなんじゃなくて、ここ何年かであそこに立ち入った人間が急に発狂する事件が相次いでたんだよ。言い伝えなんて大げさなもんじゃないよ。ホント、ここ数年の話だからな」
「……」
そういえば、ここに昔から住んでいるツレもこの歳火の話は知らなかったようだ。というか、この話をしていたのも、よく考えたら千星さん以外にはいなかったことに僕は気付いた。いや、そうだ。そもそも千星さんはなぜ電話をかけることができたのか?なぜ圏外にいたはずの携帯に電波が届いたのか?
(彼に聞くべきことは、どうやら山ほどありそうだな)
そう考えながら、僕は方々の体で下宿に戻った。
角部屋に位置する僕の部屋。東向きで日当たりもよい。家賃はそれなりに張るけれど、間取りも広くていい物件だと思う。僕は自分の部屋に帰るより先に千星さんの家のチャイムを鳴らした。
ピンポーン
返事は、ない。
(旅にでも出たのだろうか?)
いや、そんなはずはない。昨日の今日である。それにあんな電話をかけているくらいだ、いくらなんでも僕のことを心配していないはずがない。
ピンポーン
もう一度チャイムを鳴らす。しかし、相変わらず返事はない。
「千星さん!いないんですか千星さん!僕です!いるんなら出てきて下さいよ千星さん!」
「どうしたんですか?」
声に振り返ると、そこにはどこかで見た顔があった。
誰だ?昔どこかで会ったような…僕は記憶を必死で掘り返す。
『…ちょっと値は張りますがね、いい物件ですよ、ここ』
そうだ、この人は2年前僕にこの物件を紹介してくれた不動産会社の従業員だった。実に2年ぶりである。記憶の隅に引っ掛かったのが奇跡的なほどだ。
「どうなさいました?」
訝しげな顔で僕の方に近づいてくる若い従業員。僕は彼の方に向き直りながら口を開いた。
「ちょっとこちらに住んでいる方とお話がしたくて…どうもご不在のようですけどね」
そう言って僕はバツが悪そうに笑った。従業員は相変わらず訝しげな表情を崩さない。
「あ、いえ。ほら、僕は角部屋に住んでる者ですよ。覚えておいででないですか?」
「ああいえ、あなたのことは覚えてるんですが」
僕は取り成すように言葉を繋いだが、どうやら彼は僕を不審に思っているというわけではないらしい。
「あ、そうですね。あんまりどんどん叩いてたら近所に迷惑ですもんね…アハハ、すいません」
「いえ、そうではなくてですね」
彼は首をかしげながら、あのう、と呟いた。
「お隣の部屋、あなたが入居したときから、誰も住んでいないのですけれども」
(END NO.2)
1983年10月13日
歳火 ver.4
しかし、僕にはなぜだか右に進むことがひどく躊躇われた。
霊感が云々が、という話ではない。
動物としての、本能のレベルで右に進むことを嫌悪したのである。
それに―――
(なぜ千星さんは、右が安全だと分かっていたのだろう)
そう、まさにそこなのである。あまりにも異常な状況で冷静な判断能力を失いそうではあったが、よく考えるとなぜ千星さんは右が正しいと、いや…どうしてここに祠があると知っているのだろう。
「おい、ずっとここにいる気かよ!!」
仲間の言葉に、はたと我に返った。
そうだ、このままここにいても、何らの解決にはならない。
進むにせよ、退くにせよ、どちらかは選ばなければならないのだ。
右か、左か、来た道を帰るか。
いや、来た道を引き返すといっても、来た通りに戻れるかどうかは保障できない。それどころか更に迷い込む可能性もある。
大体が、ここには祠を祭ってあるくらいだ、それでなお道が二股に分かれているということは、その先が出口である公算は非常に高いのではないだろうか?
僕は、決心した。
「左に、行こう」
その言葉を受けて、体育座りで放心していたツレの一人が顔を上げた。
「戻んねーの?」
不満たっぷり、といった口調で僕に食いかかってくる。
ムリもない、さらに知らない道を進めというのである。そこに確かな保証があるわけではない。だけど――
「お前、この道来た通りに戻れる自信あんの?」
「……」
反論はそこで立ち消え、彼らはぞろぞろと僕の進む方向に向かう。誰も、責任を背負いたくはないのだ。その点、僕の言に従っておけば、いざという時に僕だけを攻めれば済む。それに、もはや僕らには口論をする体力も尽きかけていた。
ざっざっざっ…僕らの足音だけが木霊する。誰も喋ろうとはしない。ただ、ただ無言で足を運んで行く。この道を、この道さえ抜ければ僕らは国道に出られる。何ら確信のないその思いだけをよすがに、僕らは懸命に歩き続けた。
しかし、おかしい。これまでの道には少しもなかった勾配が、徐々に生じ始めているのである。いや、それは決しておかしなことではない。というのも、元々ここの名称はN『山』林であって、N林ではない。山のような形状をしていても不思議はないだろう。
それに、山を登るということはこの先には湖はないということだ。逆に山のふもとであればこそ、湖が存在する可能性が高くなる。ということは、やはりあの時右を行っていれば…
「おい、やべえんじゃねえの、この道」
ぜえぜえと息とつきながら、誰かが口を開いた。
「いや、これでいいはずだ、山を登ってさえいれば、湖は見えな」
「だから、それがやべえっての」
「…どういうこと?」
「いいか、俺らは今、よく分かんねえけど山を頂上に登ってるらしい。それは確かだよな?」
仲間たちはその言葉に声もなく頷く。
「…ということはだな、もし上りきった時に、頂上で視界が開けた時に、眼下に湖を眺めてしまう可能性が高いんじゃねえか、ってことだよ」
僕は、あっと声を上げた。そうして千星さんの言葉を思い出す。
『歳火を見たら、発狂する』
そうなのだ。千星さんは何も湖に近づくな、と言っているわけではなかったのだ。あくまで『歳火を見るな』。そのために湖に近づくな、というだけのことであったのだ。僕はそのことを完全に失念していた。
「ヤバい…のか?」
誰かが不安気な声を上げる。ヤバいのか、ヤバくないのか。それは分からない。誰にも。
「クソッ…もう歩きたくねえよ…いい加減疲れた」
そう言って次々と腰を下ろし始める。正直言って、僕自身ももう限界だった。僕は腰をへなへなと地面につき、懐中電灯を乱雑に投げ出した。光がデタラメな方向に乱舞する。刹那に光は木を照らし葉を照らし地面を照らし、建物を照らす。
(建物…?)
そう、それは一瞬のことではあったが、確かに僕の網膜に建物のイメージが焼きついた瞬間があった。僕は慌てて懐中電灯を拾い上げると、建物を見たと思しき方向に向かって懐中電灯を照らし出す。
それは、あの祠をそのまま大きくしたような建物だった。どっしりとした石造りで、まるで……そう、あれはアンコールワットの遺跡によく似ている。
(それにしても、こんなところにどうして)
気付けば、仲間も僕のところに寄ってしげしげとその建物を眺めていた。不気味なのだけれど、不思議と嫌な感じはしない。僕らは示し合わすともなしにその建物の方に歩いて行った。
もしや、とも考えたが建物には祠と違い呪符が貼っていなかった。つるり、とした不思議な材質の石で、コケの一つもむしていない。それにしてもどうしてこんなところにこのような建物があるのだろうか。
「おい、こっちに入り口みたいなのがあるぞ」
そんな声が聞こえたので、僕はそちらに向かって歩みを進める。見ると、確かにそこだけ木枠で出来た扉が存在していた。
「入れる…のか?」
ツレの一人がコンコンとドアを叩いて、扉の感じを調べているようだ。もしこれが神社などであれば、中に祭られているのは神、ということになろうが、見たところ司祭的な様相はどこにも見当たらなかった。
「引き戸か…」
そう言って扉に手をかけると、するりと扉は開いた。さすがにカビくさい臭いが鼻につく。もう何年も開けられていないのだろう。当然の如く電気は通っていないのだけれど、どうしたことだろう、壁全体がぼんやりと光っているようにも見える。夜目に馴れてきただけなのだろうか。
開けてはみたものの、さすがに中に踏み入ることは躊躇われた。大体が、どうしてこんな建物がここにあるのかも分かっていないのである。これだって、言ってみれば歳火に関係した何かなのかもしれない。というか、その可能性の方がずっと高いのだ。とは言えこれ以上進んでも逆に湖を見てしまうかもしれないこと、既に疲労がピークであることを考えると、ここでしばらく休んでいくことが望ましいのも明らかだった。
「……もーいいよ、発狂してもなんでも。俺はここで休むぞ…」
と言って建物の中にバッタリと倒れこむツレ。火照った体には石畳がひんやりと気持ちいいらしく、倒れこんだ彼は、ああー、と気持ち良さそうな声を上げた。
それを受けて残った僕らも続々と建物に足を踏み入れていく。窓の一つもない建物だった。僕は一番最後に建物に入ると、扉を元の通り閉めた。
「おーい、ちょっと懐中電灯貸してくれよ」
奥から声が聞こえた。意外とこの建物は広いらしい。
「どうした?」
僕は懐中電灯を手渡しながらツレに声を掛けた。するとツレは懐中電灯を受け取ると、黙って壁の一部を光で照らす。そこには、石で出来た壁の中、1m四方くらいの大きさで木の板が嵌めこまれていたのである。
「なんか、手触りがおかしくてな。それで照らしてみたら、これだよ」
「なんだろうね、これ」
僕は不思議な既視感に囚われた。これは、そう、どこかで見たことがある。
この木の感じといい、色といい、これはどこかで…。
「あ…」
そうだった。あの祠で見た木と、大きさこそ違えどよく似ているのだ。気付くと、呼ぶともなしに他のメンバーも木の周りに集まっている。僕らは更に注意深く木を見つめた。
「…おい、ここ……」
「ん……?」
「なんか、書いてあるぞ?」
それは、書いてあるというよりも、何かが『掘り込まれている』状態だった。多少読み取りづらいが、どうやら日本語のようだった。
「ホントだな。小さい字だけど…読みづれえな、これ」
「ちょっと懐中電灯貸せよ、俺が読む」
『幽界ノ 幽ハ 腹スカス
幽界ニ 贄ハ 見当タラズ
ケレドモ 現世ハ 耐エ難ク
存在 デキヌト 幽嘆ク
其レデモ 幽ハ 腹スカス
死人ヲ 遣イテ 人ヲヨブ
呼バレタ 人ハ 魂抜カレ
憐レ 現世ニ 暇告グ』
僕は声に出して読み上げた。
「かくりょのゆうは はらすかす」
「かくりょに にえは みあたらず」
「けれども うつよは たえがたく」
「そんざいできぬと ゆうなげう」
「それでも ゆうは はらすかす」
「しにんをつかいて ひとをよぶ」
「よばれたひとは こんぬかれ」
「あわれうつつに いとまつぐ」
「なんだこれ?」
一同はこの奇妙な記述を読んで一様に首をかしげた。
「そういえばさあ、あんまり考えなかったけどさ、さっきの祠がもし歳火と関係あるんなら、むしろ俺たちを湖の方に呼んだんじゃねえの?なんかそういうのと関係ありそうだな、これ」
それはもっともな意見だった。もし、歳火が僕らをまどわせようとするのであり、あの祠が歳火と関係した何かであるのなら、あそこで『去れ』とは言わないだろう。ということは、やはりあれは僕らを助けようとする存在だったのだろうか。それにしても…
「かくりょの…うつよ…」
ツレの一人が何やらブツブツと呟いている。
「にしてもさあ、これが歳火に関係あるんだとしても、一つも歳火の字が出てこないのっておかしくねえ?ちょっとくらい触れるだろ、普通」
それもそうだった。確かにここには『幽界』や『現世』という言葉は出ているものの、歳火に関する記述は一切ない。やはりこれが歳火と関係しているというのは、想像力を働かせすぎというものだろうか。
「確かに、どこにもないよなあ」
「……いや、書いてるよ」
そう言い切ったのは、先ほどからブツブツと何事か呟いていたツレだった。
「どういうこと?どこにも書いてないじゃん」
「いや、書いてるんだ…違うな、そうじゃない。元々最初から歳火なんてものは存在しないんじゃないか、と言った方が正しいのかもしれない」
僕らは彼の言葉に首をかしげた。歳火が元々存在しない?一体それはどういう意味なんだろうか。
「何度もね、この詞を読んでいたら気付いたんだ。どうも、引っ掛かる部分があるって…それは、ここ」
そう言って彼は『死人』の部分に指を指した。
「しにん?死人がどうかしたってのか」
「いや、そうじゃないんだ、死人じゃなくて、いや、ああ、死人なんだけど…これ、別の読み方もできるよね?例えば、そう、【しびと】ってね」
確かにその通りだった。当たり前のように僕は死人を「しにん」と読んでいたけれど、確かに「しびと」とも読めるものである。
「ああ、確かにな。けど、それがどうしたんだ」
「でね、僕は【しびと】って読んだ時に、何か違和感というか…まあ、そこまでハッキリとしたもんじゃないけど、どうにも喉に小骨が引っ掛かるような何かを感じたんだよ。しびと、どうもこの文字を既に何度も聞いているような、そんな違和感を」
彼が何を言いたいのか、僕は話の先が少しも見えなかったが、彼は構わず続けた。
「それで、ずっと考えたてたんだ。君が話してくれた元々のN山林にまつわる話があったよね。その時のキーワード…幽界と現世、それがハッキリとここに書かれているのに、それに対応する【歳火】がどこにも書かれていない。これはどう考えてもおかしい。偶然、と片付けるのも不自然すぎる」
なるほど、むべなるかな、である。それにしても普段は無口な彼がここまで雄弁に語るとは、人は見かけによらないというものだろう。
「するとここで浮くのはね、【しびと】だけなんだよ。それで考えたら、すぐに分かった。まあ、【しにん】だと考えてる時は気付きもしなかったんだけど…」
「なんだよ、何が分かったってんだよ」
僕は持って回ったような言い方をする彼の言葉に苛立ちながら、話の続きを求めた。
彼は、こほん、と一つ咳払いをすると、重々しく口を開いた。
「【しびと】、この言葉を入れ替えてみたら、【としび】になるんじゃないの?「しびと」と、「としび」…「死人」と「歳火」…」
僕らは思わず息を飲んだ。
「…おそらく、なんだけど、キミにその話をした人は何らかの意図を持って【しびと】の存在を隠したかったんじゃないかな。大体が「死人」だなんて、噂レベルの話にしてもあんまりにも生々しいからね。それよりも、あまり聞きなれない言葉の方が都市伝説的で、僕らも興味を惹かれる。そういう狙いがあったのかもしれない」
そう言われてみると、そうであるような気もする。
それにしても、どうして…。
「そして問題は、どうしてその話をした人が」
ピリリリリ
突然、空間にけたたましい携帯の着信音が鳴り響いた。
おかしい、先ほど僕はマナーモードに切り替えたはずである。
いつの間にか解除されたのだろうか?
僕はポケットから携帯を取り出そうとした。
「……ちょっと待てよ。どうしてお前の携帯が鳴ってんだよ!」
ツレの一人が叫ぶように大声を上げた。どうして?なぜこいつは「どうして」などと言っているのだろう。携帯は鳴るもんじゃないか、と思った瞬間、僕は血の気が引いた。
この山林に入ってから、僕以外の誰も、携帯が鳴っていない。僕は、偶然の出来事かと持ていたけれど、それは偶然なんかではなく、いや、鳴っていなかったのではなく、鳴ることが有り得なかったのではないか?
「もしかして……」
「最初っから、ここの山林に入ってから、ずっと圏外だったじゃねえかよ!!!」
もう一度叫ぶような声を上げたと同時に、携帯は留守番電話に切り替わった。
しん、と静まり返る室内。機械の音声が、主の留守を告げている
『…ニナッタ電話ハ、電話ニデラレマセン。ピーットイウ発信音ノ後ニ、メッセージヲ入レテ下サイ』
「……千星やけど。帰りがおそいから、電話しました。もしかして、道に迷うたん?もしかして、左の方に進んだ?それやったら非常にまずいわ。すぐに引き返した方がええよ。そっちに行ってしもうたら、とんでもないことになるから。引き返して、右の方に進まんといけんよ」
ねっとりと絡みつくような声が、スピーカーから漏れ出している。さっきまでは頼りにしていたはずの声なのに、どうしてだろう、今は遠く、もはやこの世のものではないようにも感じられる。どうしてだろう、それは彼の言葉に従わなかった罪悪感からなのだろうか。
「……おい、この人の名前、何ていうんだ……?」
「え……千星だよ。千の星って書いて、【ちぼし】」
「ちぼし……」
「なあ、それが何か関係あんの」
「チボシ…チシボ…いや、違う……」
彼は再び何かをブツブツと呟き始めた。何か思いついたのだろうか。
すると今度はメールが届いた。案の定千星さんからであった。
差出人 千星さん
本文 ええか、右やで、右に行くんやで。間違っても変な建物に入ったらいけんよ。
「……どうしたの?」
「いや、千星さんからメールが」
「ちょっと見せて!」
というと、彼はひったくるように僕の携帯を取り上げた。
「これ……」
彼は画面を見たままワナワナと震えているようだった。時折、そうか、そうだったのか、と呟いている。どうしたのだろうか、あの文章に殊更不思議な点はなかったようにも思えるのだけれど。
「どうした?なんか気になる文章だったの?それとも圏外だからって驚いてんの?もうそれは今更驚かなくても」
「違う!文章じゃない。アドレスが…」
アドレス…?そう言って僕は差出人のアドレスに目を落とした。
From:tiboshi@xxx.ne.jp
「…これが、どうにかしたの?」
「……アナグラムだよ。いいか、お前はおかしいと思わないのかそのアドレス?」
「え?どういうことだよ」
「お前、小学校でローマ字習っただろう」
急に何の話をし始めるのだろう、と僕が不思議な顔をしていると、彼は構わず話を続けた。
「いいか、お前、ローマ字の「ち」は何て習った?chiだろうが。それなのに、この人は何でtiboshiにしている?普通ならchiboshiのはずだ」
「いや、まあそうかもしんないけどさ、でも単純に登録が重複してただけかもしれないじゃん」
「確かにそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ハッキリ言って僕だって普段ならそんなこと気にしないよ。けどね、彼はtiboshiじゃないとダメだったんだ。Tiboshiじゃないといけない理由があったんだよ。いや、というより千星という人は、どこにも存在しない。そして存在しないからこそ、その名前を名乗る必要があったんだ。彼の本当の姿を隠すために、だ」
僕は彼が何を言っているのかサッパリ理解できなかった。けれども、彼が何か確信を得ていることは、僕にも伝わってきた。
「だから、どういうことなんだよ。分かりやすく説明してくれよ!」
「だから、アナグラムなんだよ!いいか、tiboshi、これを並び替えるんだ。したらどうなる?さっきの死人と歳火と同じ話だよ。今回はアルファベットだけどね。ここから、出て来るんだよ、死人も、歳火も!」
「どういうことだよ?」
「死人は、いいかい、shibitoだ。そして歳火はtoshibi。分かるだろ?ここで使われてるアルファベットは全部同じなんだよ!」
「あ・・あ・・・・」
「死人も、歳火も、そして、千星も……全部、全部同じ、一つのものだったんだよ!そう考えれば、君にN山林の話をしたのも合点が行く。大体が最初からおかしいといえばおかしかった。この人が『湖が危ない』だなんていわなければ僕らは湖に向かわなかったわけだし。注意を促すなら、むしろ具体的な情報は与えないはずだろう?それなのに、この人は僕らを意図的に湖にリードするような発言をした。なぜか?それはこの人が」
「千星さんが、歳火で、死人だから、なのか…」
僕は彼の言葉を遮って、言葉を繋いだ。
『其レデモ 幽ハ 腹スカス
死人ヲ 遣イテ 人ヲヨブ
呼バレタ 人ハ 魂抜カレ
憐レ 現世ニ 暇告グ』
「だから、俺らを…」
「おい、あっちの方、何か光ってんぞ!」
言葉に、僕らは窓に駆け寄る。
林の奥、遥か彼方の方角…確かに、その一部が薄ぼんやりと光っている。
ピリリリリリ
三度、携帯がけたたましく鳴り響いた。
僕は画面を開く。
着信:千星さん
僕は、そっと通話ボタンを押した。
「なあ、何しとるん?自分、どこおるん?なして右行かんかったん?俺、怒られるやん。幽さんに怒られるやん。あの人ら、腹減ってんねんで?どうして、言う通りにしテお前らはこなかったんだって聞いてるんだよおおおおおおオオオおおおおおオォォォォォぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1111111111!!!!!!!!!!!!」
その叫び声はスピーカー越しでありながらすぐ傍にいるかの如き絶叫であった。ビリビリと入り口の窓が揺れる。窓の外を見ると、光はひときわ大きくなり、まるで洪水のように林からあふれ出そうとしていた。
その瞬間のことであった。天井から、その入り口をすっぽりと覆い隠すような木の板が落ちてきたのである。
どすん、と音を立てて入り口を塞ぐ。僕らは寸でのところでそれをよけた。
「危ねえ…大丈夫か?!みんな」
僕はきょろきょろと見渡したが、怪我をしている者はいなかった。僕はやれやれ、といった感じで息をつくと、一体何が落ちてきたのか、と入り口の方を電灯で照らした。
『決シテ 幽光 見ルベカラズ』
そこには、やはり小さい文字でそう書かれているのだった。
そして朝を迎えた僕らは、そっと板に手をかけると板はすんなりと外れ、入り口はまた元のように姿を現した。僕らはがらりと扉を開ける。鮮烈な空気が肺を満たす。朝日があんまり眩しくて、僕は思わず目を瞑った。
「さて、と。こんだけ明るけりゃ、もう大丈夫だろ」
「そうだな、早く家に帰りたいわ……」
僕らは思い思いのことを口にしながら、建物を後にした。
「まあ何にせよ、こいつに助けられたのかな…」
「かもな…」
結局、この建物は何だったのだろう?幽界と仇をなす存在だったのだろうか?だからこそこうして迷い込んだ人間を助けて…。
ダメだ。寝不足の頭では何も考えられそうにない。考えるのはあとにしよう。今はゆっくり休んで…
「おい!こっちに国道があるぞ!」
「マジか?!」
「つーか、すぐ裏手じゃん…」
「全く気付かなかったよな」
そう、僕らが夜を共にした建物のすぐ裏手、そこが国道だったのである。
それにしてもいくら疲れていたからといってこんな近くにある道を見逃すだなんて…まあいい、ともかくも今は無事に帰れる喜びを味わおう。
「にしても、車はどこにあんのかな…」
「しゃーねーだろ、とりあえずは街に戻るしか…ん?」
「どうした?」
「あれ、人じゃねえか?」
そう言って指差した方向には、確かに人らしき影があった。
ふらふらと、こちらに向かって歩いて来ているようだ。
「そうだよ、人だよ!助かったな、どっか道教えてもらうべ!」
そう言って僕らはおーいおーいとその人に向かって叫んだ。
その人はふらふらと、ふらふらと僕らの方に向かってくる。
ふらり、ふらり。
一歩一歩、踏みしめるように。
そしてついに近くに来たとき、その人に話しかけようとした。
「あの、すいませ……」
その人の目には、既に尋常な人間の持つ光は失われていた。フヒ、フヒヒヒヒと小さな笑い声を上げ、だらりと涎をたらしながら僕らのことなどまるで認識していない様子で、そのままふらり、ふらりと歩いていった。
「…なんだ、あれ」
「まあ、季節の変わり目だからな」
「そういうもんか…でも道分かんねーよ、これじゃあ」
「あれ、また人来たんじゃね?」
「うっそ、どこ?」
「あれ。…あれ?なんか一人じゃないかも」
「うん?」
そうして見上げた視線の先、坂の上からは……一人、二人、三人四人…道に一杯の人影があらわれ、ふらり、ふらりとゆっくりとした足取りで、こちらに、ふらり、と向かってきているのであった。
(END NO.3)
1983年10月12日
歳火 ver.pink
祠を目の前にして、僕は考えた。
右か、左か、それとも戻るか。
(そんな既成概念に囚われて、その先にあるものって一体なんなんだろう)
確かに箸を持つ手は右手だ。だけど、それを「右」であると観念したのは所詮先人である。
右は、別に「右」でなくてもよかったはずだ。
だからこそ、右は「ミギ」と決定された時から「右」でしかなくなってしまったのである。
これを悲劇と言わずして、何と言うだろうか。
「…おい、懐中電灯持ってんのお前なんだからさ、いい加減どうするか決めてくれよ」
「分かったようなこと言わないでよ!!」
パシーン。乾いた音が静寂を切り裂く。
僕が平手を打った音だった。
「ちょ・・てめえ!何すんだよコラ!」
激昂している。彼の頬が赤く染まっていくのが分かる。
男として産まれたからには、確かにいきなり平手を張られては苛立たしいというものだろう。
しかし、僕は…そんな彼を見てこう思ったんだ――。
「ちょ…何よアナタ!
『ナニすんだよ』ですって?!イヤッ…ケダモノ……!!!
恥を知りなさいっ…!!!」
ひゅるり、ひゅるりララ。
聞き分けのない、ゴンタです。
乾いた風が僕らの間を吹き抜ける。
「ア・・?テメエ何わけのわかんねえこと言ってんだコラ・・・?」
その時、僕の視界に呪符に包まれた祠が目に入った。
祠、ほこら、ホコラ、コラ、コーラック、便秘、スカトロ。
「アンタ…アンタの性欲は・・・まさに天井知らずね!!!」
バチコーン。乾いた音が林に響き渡る。
僕の崩拳が華麗に彼に決まった瞬間でもあった。
「キャオラ!」
『BAKI』チックな悲鳴を上げて、彼は10里の彼方へ飛び去った。
無事だといいのであるが・・・。
いや、この際彼の安否は二の次だろう。
今は…今はそう、この危難を何とか潜り抜けることが先決なのだから。
僕は丙虎の方向に向かい手を合わせると、ゆらり、というオノマトペがふさわしいくらいのゆったりとした所作で
一同に向き合った。
1、2、3、4、ポルナレフ。
そう、人数に矛盾はない。
僕は少しだけ安堵の溜息をつきながら話を続けた。
「つまり、だ。まずは事実をまとめよう」
そう言った僕は、懐からおもむろにザウルスを取り出すとタッチパネルに図を描き始めた。
「まず、柳沢がこの位置にいた、それは間違いないな?」
「ええ、でもそれがどうしたって…」
「ノストラダムスだよ!!」
「ちょ、ちょっと待て!!お前ら落ち着いて今貼り付けた上の画像を見るんだ!!」
そう叫んだのは頭脳は子供、体は大人、江戸川マイラールだった。
「おかしいじゃないか。さっき崩拳でぶっ飛ばされた奴は確かにいた。
有体にいうなら
『俺、発売前にPS3ゲットしたぜ!』
とかってフカシこく、そう、3組のタカシみたいな奴がふっ飛ばされたのは確かだ」
そう、マイラールの言葉に偽りはなかった。
確かに、超スピードみたいな勢いでふっ飛ばされたのはこの目で僕も確認した。
というか、僕が吹っ飛ばしたのであるが、それはハッキリ言って言わぬが花、というものであろう。
僕は世阿弥が大好きなのだ。
秘すれば花、秘すれば花なるべからざる。
その詩を思い出しながら、僕の心は遠く、そう、スペインの赤い空へと馳せながら・・・。
「それなのに、さっきの上のAAだと更に一人減ってるじゃないか!」
コギト・エルゴ・スム。
そんな高尚な言葉遊びをしていた僕の頭脳プレイを邪魔したのは、そんなマイラールの下らない言葉だった。
「それがどうしたっていうんだよ!」
僕は大きくかぶりを振りながら、手に持っていた『加藤鷹自伝〜僕、どちらかと言えばショタです〜』をかなぐり捨てて叫んだ。
『5人が4人になった…この異常な状況の中で、それにどんな意味があるって言うんだよ…」
ピリリリリ
静寂を切り裂くようなデジタルの叫び。
僕の携帯電話が、臀部で強烈にバイブしていた。
僕は嫌な予感がしつつ、ポッケから携帯を取り出す。
そうだ、ここは圏外のはずだ。
それなのに、なぜ携帯電話が鳴るのだろう?
僕は期待と不安で胸を躍らせながら通話のボタンに指を当てた。
その通話口に向こうにいたのは…
チボシ「あ…、もっ、もっと右よおぉぉぉ」
声の主は千星さんだった。
右、この人は相変わらず右にこだわる。
右、そう、右である。
僕の脳裏に遠い日の追憶が蘇る。
1915年、呉服屋の父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。その後は女手一つで育てられた。1926年につるが再婚し、横井姓となる。学卒後は約5年間愛知県豊橋市の洋品店に勤務する。そして1935年に第一補充兵役に編入、日本軍入り。4年間の兵役の後、洋服の仕立て屋を立ち上げる。1941年には大東亜戦争のため再召集され、満州を経て1944年からはグァム島に配属。歩兵第38部隊伍長として兵役する。戦争が激化し、同年8月にグァム玉砕、戦死広報が届けられた。
「横井庄一、恥ずかしながら右ながらえて帰ってきましたぁぁ!!」
そんな声が、僕の頭にこだました。
しかしながら僕のPHSは月に1000円まで!とお母さんと硬く約束を交わしていたため、
何やら千星さんが「幽光が…」とかなんとか言ってたけど貨幣経済の前には勝てない。僕は
「あ、ゴメス。ちょっと電波が悪いみたい」
という一言の下、冷静に通話を遮断した。
おあつらえ向きに携帯は圏外になった。天が運を味方しているようだ。
さて、僕は居住まいを正して三人の方に向き直った。
「それにしても、これからどうしたらいいんだろう…」
重い表情でツレの一人が呟いた。
ジュルリ。僕の股間のデラウェア火山は、ハッキリ言ってもうボルケーノ寸前であったことは論を待たない。
「俺はさ、一つだけ思うことがあるんだよ」
僕はそう言って、おもむろに懐に手を入れた。
「そう、あれは何の本だったかな…僕は、いつか何かの本でこんな台詞を目にしたんだ」
ざざ、と木々が声を上げる。どうやら、また風が吹き始めたようだ。
風の音は、好きじゃない。何か泣き声にも似たようなそんな音がするから。
「明日って、今さ」
僕は風の音に少なからず動揺しながらも、言葉を継いだ。
「いい言葉だと思わないか?」
その言葉を受けた彼は、それでも僕の言葉が分からない、といった雰囲気で首をかしげている。
「分からないかい?アナグラムだよ・・・」
僕はそういいながら、懐からバイブヌンチャクを取り出した。
「明日・・・あした・・・アシタ・・・ashita・・・」
これは特注のヴィトンのバイブである。
「ashita・・・anal・・・アナルファック」
全ては、だから、そういうことだった。
「そうか・・・だから祠は・・hokoraで・・・」
彼は僕の言葉を聞くとブツブツと何やら呟いている。
しかし、今では全てが遠くに響くばかりだ。
「かゆ うま」
右を見ると、友人が…いや、友人「だった」ものが、何やらのたうちまわりながら地面を這っていた。
もうダメかも知れない…そう思った僕は後ろを振り返った。
友は、最後まで見捨てない、それが俺のジャスティス。
一人でも、無事な奴がいるのなら・・・僕はそいつと添い遂げる!!
「ギギギギギ」
僕は暁に向かって一目散に駆け出した。
はあ、はあ、はあ。
野良犬のような吐息が僕の鼓膜にまとわりつく。
はあ、はあ、はあ。
うるさいな、誰の息だよ。
はあ、はあ、はあ。
いや、そうだ、これは。
はあ、はあ、はあ。
僕の吐息だ。
僕は、もつれる足をそのままにしてずっ、と地面にひれ伏した。
「大丈夫かい?」
そんな地を這うミミズのような僕に声を掛けてくれたのは――
「コロッケ、食べるナリか?」
コロ助だった。
「コロ…助…」
そう、そこにいたのはかつてブラウン管の向こうで熱い声援を送ったコロ助その人だった。
「どうして…こんな…」
僕は半ば絶句しながら、しかしコロッケから滴る熱い肉汁に心奪われたのだろう。
次の瞬間には理性も失い、差し伸べられたコロッケを頬張っていた。
「ふふ・・・まるで乳飲み子ナリね…」
僕は思うさまにコロッケを食べつくすと、ようやくと人心地付いた。
コロ助は僕がコロッケを食べるまで、聖母のような微笑をたたえながら見守ってくれた。
僕は乾いた喉を尿、いわゆる聖水で潤しながら、やっと言葉を継げるようになっていた。
「すいません、コロ助さん。僕みたいなもんに、こんな…」
「いいナリよ。困った人を助けるのが、英国紳士の務めなり」
英国――イギリス。
不意に耳をくすぐったその単語が、僕の暗い過去を蘇らせた。
僕はあの日、本場の紅茶を学ぶために単身、渡英した。
しかしそこで待っていたのは、凄惨なる修行の日々だった。
朝は8時に起きなければならない。
インターネットは日に4時間まで。
ネオニートだった僕には、決して耐えられるプログラムではなかった。
結果、僕は発狂した。
紅茶なんて…紅茶なんてものがこの世にあるから…僕はこんな…!!
「ウウウ…オアアアアア!!!」
チュン・・チュンチュン・・・。
小鳥が囀る爽やかな目覚め。
僕の隣には、サッチャー首相(当時)がカワイイ寝息を立てていた。
「それで・・・こんな・・・」
語り終わった僕のペニスに、コロ助は国連軍のお株を奪うようなすさまじいバキュームフェラを行っていた。
チュパチュパ。チュパカブラ。
僕のスペニは、あの日英国に置いてきた蛮勇を取り戻し、まさにB29のような勇ましさを誇っていた。
「お前、相当のスベタだな…」
「いやっ・・・言わないで・・・!!」
そう言ってコロ助は頬をあからめる。
(愛おしい・・・)
これが、僕が始めて抱いた愛、だったのである。
「コロちゃん・・・」
「誰だぁ!!」
ビシッ!唸りをあげる戦いのDNA。僕は声の方向に手裏剣【税込み198円】を投げつけた。
「ふふ、やるダスな」
不敵な笑みを浮かべながら、茂みから一人の冴えない男が現れた。
「コロちゃん、浮気はいけないダスよ」
田中ベンゾウ。
「ベンゾウさん・・・」
後の三都主である。
「それにつけても…」
また、新しい登場人物の声だ。
「これはなかなか複雑なことになったでゴザルなあ」
服部肝臓。通称ハットリ君。
僕のアヌスから勢いよく這い出してきた。
「よっと、いやいや、争いはいかんでゴザルよ」
そういいながら服部はやおら日本刀『越乃影虎』をぬらりと引き出した。
「これも運命…」
ズバ、刹那に閃光が走る。
「ああああああ!!」
そこには、変わり果てた千星の姿があった。
「千星!くそ、一体誰がこんなことを!」
「…グホッ!ガハガハ…うう、仙崎大輔……」
「喋るな!今ハイパーレスキューがここに来る!」
「フフ、もう、いいんだよ。俺は、もう、いい」
ゴポッ、ゴポッ。千星の口から鮮血が溢れ出る。
「バカ言ってんじゃねえよ…お前は助かるんだよ!助からなきゃダメなんだよ!!!」
そう言って僕は懸命にマウストゥマウスを繰り返した。
必死で蘇生を試みる。
3分経って…。
「…ざき……んさき……」
千星が、息も絶え絶えになりながら、何やら喋りかけてくる!
「喋るなよ!喋るなって・・・頼むから・・・」
僕は、泣きながら人工呼吸を繰り返していた。
「・・・お前との初キス、悪いもんじゃなかったぜ・・・?」
そう呟いて、千星は絶命した。
「ちぼしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!」
「ヤツは、死んだ。そう、勇敢に死んだんだ・・・」
「・・・ハットリ・・・」
「いいインディアンは、死んだインディアンだけナリよ・・・」
「・・・コロ助・・・」
「突然ボールが来たからビックリしたんだよ・・・」
「柳沢・・・そうだよな・・・」
「そうでゴザルよ!」
「そうナリ!」
「そうなんだよ!」
「「「「俺たちのW杯はこれからだ!!」」」」
(END NO.∞)
1969年08月31日
もう帰ろうぜ
「もう、帰ろうぜ。それにほら、雲行きだって怪しいし」
俺はそう言って、空を指差した。
嘘じゃなかった。さっきまで雲の後ろを出たり入ったり……出たり入ったり……
「ウッ……なんてフトマラ……!」
「どうしました阿部さん?」
「な、なんでもない」
危ない。どうも妄想が過ぎたようだ。
とにかく、さっきまで雲の隙間から出たり入ったりしていた太陽は、すっかりどこかに姿を隠していた。空はもう真っ暗だ。
「すごい雲ですね……今夜は吹雪くかもしれないですね」
正樹は眉をひそめた。うほっ。
「じゃあ、今日はもう戻りましょうか」
俺たちは、正樹のアニキのボブさんに借りた4WDに乗り込んだ。
正樹とは、今年の四月に公園で知り合った。
俺がベンチに座って休んでいる時に前を通りかかった正樹に声を掛けたのだ。果敢かつ執拗なアタックで、何度かデートをする関係にまでこぎつけることができたのは、この秋のこと。
しかし、押しても押しても手応えがなく、いい加減俺の一人相撲のような感じさえしていた。だから、一緒にスキーに行かないかと彼の方から誘われたときには、正直言って「OKサインなのか?」と戸惑った。
彼のアニキのボブ権田という人が、信州でペンションを経営しているのだという。しかし、少しゲレンデから離れていて不便なこともあり、シーズン中もあまり客がないらしい。それで格安の値段で泊めてもらえる、ということで、正樹に誘われたのだ。俺はもちろん喜んでOKし、昨日、つまり12月21日、ここ信州へとほいほい付いて来ちゃったのだ。
ボブ夫妻の経営する「シュプッール」は、外観はハッテン場風で、内装は菊色を基調にしたイカス感じのペンションだった。料理のメニューもカツ丼、うなぎ丼、親子丼と多彩で、その上味も満足のいくものばかり。かなり人気のペンションらしい。暇だから格安で……というのはボブさんが俺たちに気を遣わせまいとして言ったのだと、昨日到着してから気付いた。
俺と正樹の部屋は残念なことに、というか当然、というべきか、別々に取ってある。全く男同士なのだから何も考えず裸でぶつかり合えばいいというものなのに……この辺り、ボブさんは野暮だ。
俺たちは……
A一旦部屋に戻って着替えると、玄関脇の談話室で落ち合った。
B一旦部屋に戻って着替えてから、夕食までどちらかの部屋で話でもしようということになった。
Cボブさんとくそみそ。
D意味はないけれど自殺。
俺はそう言って、空を指差した。
嘘じゃなかった。さっきまで雲の後ろを出たり入ったり……出たり入ったり……
「ウッ……なんてフトマラ……!」
「どうしました阿部さん?」
「な、なんでもない」
危ない。どうも妄想が過ぎたようだ。
とにかく、さっきまで雲の隙間から出たり入ったりしていた太陽は、すっかりどこかに姿を隠していた。空はもう真っ暗だ。
「すごい雲ですね……今夜は吹雪くかもしれないですね」
正樹は眉をひそめた。うほっ。
「じゃあ、今日はもう戻りましょうか」
俺たちは、正樹のアニキのボブさんに借りた4WDに乗り込んだ。
正樹とは、今年の四月に公園で知り合った。
俺がベンチに座って休んでいる時に前を通りかかった正樹に声を掛けたのだ。果敢かつ執拗なアタックで、何度かデートをする関係にまでこぎつけることができたのは、この秋のこと。
しかし、押しても押しても手応えがなく、いい加減俺の一人相撲のような感じさえしていた。だから、一緒にスキーに行かないかと彼の方から誘われたときには、正直言って「OKサインなのか?」と戸惑った。
彼のアニキのボブ権田という人が、信州でペンションを経営しているのだという。しかし、少しゲレンデから離れていて不便なこともあり、シーズン中もあまり客がないらしい。それで格安の値段で泊めてもらえる、ということで、正樹に誘われたのだ。俺はもちろん喜んでOKし、昨日、つまり12月21日、ここ信州へとほいほい付いて来ちゃったのだ。
ボブ夫妻の経営する「シュプッール」は、外観はハッテン場風で、内装は菊色を基調にしたイカス感じのペンションだった。料理のメニューもカツ丼、うなぎ丼、親子丼と多彩で、その上味も満足のいくものばかり。かなり人気のペンションらしい。暇だから格安で……というのはボブさんが俺たちに気を遣わせまいとして言ったのだと、昨日到着してから気付いた。
俺と正樹の部屋は残念なことに、というか当然、というべきか、別々に取ってある。全く男同士なのだから何も考えず裸でぶつかり合えばいいというものなのに……この辺り、ボブさんは野暮だ。
俺たちは……
A一旦部屋に戻って着替えると、玄関脇の談話室で落ち合った。
B一旦部屋に戻って着替えてから、夕食までどちらかの部屋で話でもしようということになった。
Cボブさんとくそみそ。
D意味はないけれど自殺。
おもむろにオナニー
「こんな時はまずオナニーだよな」
シュ、シュ、シュ。狭い廊下に響き渡る静かなオナニーのサウンド。
シュ、シュ、シュ。座禅にも似たブッダな時間。
シュ、シュ、シュ。平井堅、平井堅。
ああ、最高だ……!
「……でさー」
「やだー、啓子ったらー」
!まずい、女たちが帰って来たようだ。こんな姿を見られたらいい逃れができない!一体どうすれば……。
A続行!皮が擦り切れるまでオナニー
B逃げる
シュ、シュ、シュ。狭い廊下に響き渡る静かなオナニーのサウンド。
シュ、シュ、シュ。座禅にも似たブッダな時間。
シュ、シュ、シュ。平井堅、平井堅。
ああ、最高だ……!
「……でさー」
「やだー、啓子ったらー」
!まずい、女たちが帰って来たようだ。こんな姿を見られたらいい逃れができない!一体どうすれば……。
A続行!皮が擦り切れるまでオナニー
B逃げる
正樹の部屋だ
正樹の部屋だ
音は、確かに正樹の部屋から聞こえてきた。おかしい、時系列から考えて正樹が俺より先に部屋に戻ることは不可能のはずだ。と、すれば……?
(物盗りでも侵入しているのかもしれないな)
俺は思わず息を呑んだ。こんなのどかなペンションに盗人がいるなんて……そんな風に見える奴はいなかったのに。さてどうしようか……。
A正樹に知らせる
Bおもむろにオナニー
音は、確かに正樹の部屋から聞こえてきた。おかしい、時系列から考えて正樹が俺より先に部屋に戻ることは不可能のはずだ。と、すれば……?
(物盗りでも侵入しているのかもしれないな)
俺は思わず息を呑んだ。こんなのどかなペンションに盗人がいるなんて……そんな風に見える奴はいなかったのに。さてどうしようか……。
A正樹に知らせる
Bおもむろにオナニー
フトマラで和牛のように
「俊夫くん、キミのフトマラで僕を和牛のように犯してくれないか」
僕の目は彼の胸板に吸い寄せられたまま、上気した頬を隠そうともせず俊夫くんに懇願した。非常識だと思われるかもしれないが、そんな破廉恥な服装をしている方が悪いんだ。俺は俊夫くんの目をじっと見つめた。俊夫くんは腕組みをしてしばらく黙っていたが、すぐに口を開いた。
「いいですけど、ちょっと猫探しを手伝ってくれませんか?」
え、いいの?!と思わず飛び上がりかけたが、それにしても猫探しとは?
「ああ、実はこのペンションで飼っている猫のクンニーの姿がずっと見えないんですよ。餌もやらないといけないから、早く探さないと」
「そういうことだったのか。じゃあ早速手伝おうじゃないか」
「ちょ……あ、安部さ……」
「ん?ああ、正樹か。キミ、まだいたの?さっさとオナニーして寝ろよ」
道は常に前にしかない。俺は後ろは振り返らない主義だ。正樹に別れの言葉を投げかけると、俺は俊夫くんと共に食堂を出た。
「じゃあ俺は一階を探すんで、阿部さんは二階をお願いします」
「任せろい」
俺は力強くケツを叩くと、足早に二階に向かう。サクッと猫を見つけて一刻も早くアニマルファックに取り組まないとな。俺は二階の廊下をザッと見渡した。
ガリガリ ガリガリ
「ん?何か音がするな」
不審な音に、俺は耳をそばだてる。確かに猫が爪を引っかくような音が聞こえた。音のする方向を慎重に探る。その方向は……
A俺の部屋だ
B正樹の部屋だ
C物置だ
僕の目は彼の胸板に吸い寄せられたまま、上気した頬を隠そうともせず俊夫くんに懇願した。非常識だと思われるかもしれないが、そんな破廉恥な服装をしている方が悪いんだ。俺は俊夫くんの目をじっと見つめた。俊夫くんは腕組みをしてしばらく黙っていたが、すぐに口を開いた。
「いいですけど、ちょっと猫探しを手伝ってくれませんか?」
え、いいの?!と思わず飛び上がりかけたが、それにしても猫探しとは?
「ああ、実はこのペンションで飼っている猫のクンニーの姿がずっと見えないんですよ。餌もやらないといけないから、早く探さないと」
「そういうことだったのか。じゃあ早速手伝おうじゃないか」
「ちょ……あ、安部さ……」
「ん?ああ、正樹か。キミ、まだいたの?さっさとオナニーして寝ろよ」
道は常に前にしかない。俺は後ろは振り返らない主義だ。正樹に別れの言葉を投げかけると、俺は俊夫くんと共に食堂を出た。
「じゃあ俺は一階を探すんで、阿部さんは二階をお願いします」
「任せろい」
俺は力強くケツを叩くと、足早に二階に向かう。サクッと猫を見つけて一刻も早くアニマルファックに取り組まないとな。俺は二階の廊下をザッと見渡した。
ガリガリ ガリガリ
「ん?何か音がするな」
不審な音に、俺は耳をそばだてる。確かに猫が爪を引っかくような音が聞こえた。音のする方向を慎重に探る。その方向は……
A俺の部屋だ
B正樹の部屋だ
C物置だ
NEXT
「すいません、シャッター押してもらえますか?」
三人組の一人、生理の時は絶対にタンポン、と決めているような容姿の女が俺にカメラを差し出してきた。挨拶もなしにあつかましい奴だ。俺は懐に忍ばせたサブマシンガンを乱射して惨殺してやりたい衝動に駆られたが、正樹の前でそんな凶悪な一面を見せるわけにはいかない。
「ああ。構わないよ」
冷静を装ってカメラを受け取った。カメラはオートフォーカスで、フラッシュも自動的に判断するタイプだ。しかし、引き受けたはいいものの、俺はあの「はい、チーズ」というやつが苦手だった。あんな馬鹿げたセリフをよく口にできるものだ。一体誰が考え出したのか、その精神構造が理解できない。俺は神に誓ってあんなセリフを言うことはない。だから俺は言ってやった。
「はい、並んでねー。よし、撮るぞ。はい、ペニス!」
バシャ!
女たちは一瞬、何が起こったか分からない、という顔をしたがすぐに俺の言葉に気付いて顔面を青くさせた。
「ど、どうも!」
女の一人が慌てて俺の手からカメラをひったくる。失礼な奴だ。最高の掛け声だっていうのに。なあ、正樹?そう思いながら俺は正樹の方を振り向いた。
「……」
正樹はひくついた笑顔を浮かべていた。おや、意外とウブなのねえ……。
その時、エンジン音が近づいて来て、ペンションの表で止まった。どうやら誰か新しい客が到着したようだ。しばらくすると、玄関ドアに取り付けられたベルの音とともに大きな声の大阪弁が聞こえてきた。
「いやあ助かった。死ぬかと思たわ」
コートの肩や頭の上に白い雪を積もらせて、男女の二人連れが入って来た。俺はすかさず男の方をみる。ハゲた頭に、でっぷりと肥えた腹。典型的なオヤジルックだが、精力は強そうだ。サウナなどでは、意外とあの手のタイプがモテたりする。
「アリだな……」
「え?なんですか?」
「い、いやなんでもない」
まただ。また思ったことが声に出た。どうも今日はいけない。旅先の開放的な空気のせいで、理性のタガが外れ始めているのかもしれないな……俺は心の中で兜の緒をギュッと締めなおした。
「ああ、マラ山さんいらっしゃい。遅かったですね。心配しましたよ」
ボブさんが奥から出て来て、二人を迎える。
「えらい吹雪き始めてな、迷うか思うたわ」
窓の外を見ると、さきほどとは比べるべくもないくらい吹雪き始めていた。本来ならばこれは帰路の心配をするところなのだろうが、俺は逆に喜ばしい気分だった。これなら、多少手荒な真似をしてもどこにも逃げ場はないな……そんな風に思った阿部さんは、思わずペロリと舌なめずり。
「食事の用意ができましたので食堂へどうぞ」
食堂からアルバイトのオマ谷みどりさんが出てきた。こいつもどうせ淫売だ。アバズレだ。俺はカッと目を見開いて睨みつけてやった。みどりはそそくさと奥に引っ込んだ。
「マラ山さん達もどうぞ食堂へ。荷物は上に運んでおきますよ」
フロントではボブさんが記帳を済ませた夫婦に食事をすすめている。
何となくそれを見ていた俺は、妻の方と視線が合ってしまった。男好きそうな顔をしている。魔性、思わず俺の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。正樹くん、キミは俺が守るからな。どうか、女に狂いたもうことなかれ。
そんなことを思っていると、中古女はにこりと微笑み軽く頭を下げた。
「( ゚ 3゚)∵ ペッ!」
俺は迷わずツバを吐きかけた。女は「信じられない」といった顔で俺のことを睨み付けた。
「あ、阿部さん、一体何を」
「ん?まじないだよ、まじない。信州の方だとな、相手にツバを吐きかけると魔除けになるんだよ」
「へえ、そうなんですか!知りませんでした」
「そうそう、それで男同士の場合だと顔にザーメ……」
い、いかん!まただ。また暴走しようとしている。ちらりと正樹の方を見る。突然区切られた言葉の続きを待つようにキョトンとした顔をしていた。まずいぞ、もう誤魔化しきれない。俺は慌ててソファーから腰を上げた。
「さ、正樹くん!食事の準備もできたそうだし、俺たちも食堂に行こうか!な!」
「え、ええ」
そう言って強引に会話を終わらせると、俺はスタスタと食堂に歩いていった。正樹は釈然としないまま、後ろからちょこちょこと付いてきていた。全く、危ないところだったぜ……。
食堂のテーブルにはすでに、ナイフやフォークがセットされていた。先ほどのアバズレ三人組やマラ山夫婦も、先に椅子に座っていた。俺たちもそれに倣って適当なテーブルに腰をすべり込ませる。
「旨いな!」
「美味しいですね!」
俺たちは運ばれてきた和牛スッポン丼を口にし、その味に思わず感嘆の声を漏らした。ギトギトと脂っぽい舌触りはとてもサッパリとしており、口の中で踊るように弾けるスッポンの白身はまさに国産牛のそれだった。使っている米もいい。今年収穫されたばかりだというあきたこまちはタイ産だと言う。シェフの腕前に俺はおもわずううむ、と唸った。
「これは誰が作ってるんだろうね」
「多分、アニキですよ。あの人料理が好きだから」
「ほう……ガチムチ板前系か……」
「え?なんです?」
「いやー旨いなー!」
もう誤魔化すことにも慣れた。
「味はどうでした?」
そこにやって来たのはもう一人のアルバイト、ジョン=ムルアカ=俊夫くん。日本体育大学に8浪している剛の者だ。何でもスキー好きが高じてこのペンションで住み込みで働いているらしい。勉強は?おにいちゃん勉強は?という疑問が首をもたげないでもなかったが、そこは聞かぬが花、というものだろう。
「いや、とっても美味しかったよ。これは繁盛するわけだ」
「そうでしょう。何せ素材がいいですからね。ミャンマーで取れた国産和牛ですから」
そういうと俊夫くんは胸を張った。プルン、と豊満な胸板が誇張される。このマッシブに組み敷かれたらさぞヘヴンだろうな……思わず俺はそんなことを考え、慌てて涎を拭った。すると正樹がおもむろに口を開く。
「さて、阿部さん、ひとつナイターにでも洒落込みましょうか!」
A「いいね!行こうか!」
B「この吹雪の中で?無理に決まってる!」
C「俊夫くん、キミのフトマラで僕を和牛のように犯してくれないか」
三人組の一人、生理の時は絶対にタンポン、と決めているような容姿の女が俺にカメラを差し出してきた。挨拶もなしにあつかましい奴だ。俺は懐に忍ばせたサブマシンガンを乱射して惨殺してやりたい衝動に駆られたが、正樹の前でそんな凶悪な一面を見せるわけにはいかない。
「ああ。構わないよ」
冷静を装ってカメラを受け取った。カメラはオートフォーカスで、フラッシュも自動的に判断するタイプだ。しかし、引き受けたはいいものの、俺はあの「はい、チーズ」というやつが苦手だった。あんな馬鹿げたセリフをよく口にできるものだ。一体誰が考え出したのか、その精神構造が理解できない。俺は神に誓ってあんなセリフを言うことはない。だから俺は言ってやった。
「はい、並んでねー。よし、撮るぞ。はい、ペニス!」
バシャ!
女たちは一瞬、何が起こったか分からない、という顔をしたがすぐに俺の言葉に気付いて顔面を青くさせた。
「ど、どうも!」
女の一人が慌てて俺の手からカメラをひったくる。失礼な奴だ。最高の掛け声だっていうのに。なあ、正樹?そう思いながら俺は正樹の方を振り向いた。
「……」
正樹はひくついた笑顔を浮かべていた。おや、意外とウブなのねえ……。
その時、エンジン音が近づいて来て、ペンションの表で止まった。どうやら誰か新しい客が到着したようだ。しばらくすると、玄関ドアに取り付けられたベルの音とともに大きな声の大阪弁が聞こえてきた。
「いやあ助かった。死ぬかと思たわ」
コートの肩や頭の上に白い雪を積もらせて、男女の二人連れが入って来た。俺はすかさず男の方をみる。ハゲた頭に、でっぷりと肥えた腹。典型的なオヤジルックだが、精力は強そうだ。サウナなどでは、意外とあの手のタイプがモテたりする。
「アリだな……」
「え?なんですか?」
「い、いやなんでもない」
まただ。また思ったことが声に出た。どうも今日はいけない。旅先の開放的な空気のせいで、理性のタガが外れ始めているのかもしれないな……俺は心の中で兜の緒をギュッと締めなおした。
「ああ、マラ山さんいらっしゃい。遅かったですね。心配しましたよ」
ボブさんが奥から出て来て、二人を迎える。
「えらい吹雪き始めてな、迷うか思うたわ」
窓の外を見ると、さきほどとは比べるべくもないくらい吹雪き始めていた。本来ならばこれは帰路の心配をするところなのだろうが、俺は逆に喜ばしい気分だった。これなら、多少手荒な真似をしてもどこにも逃げ場はないな……そんな風に思った阿部さんは、思わずペロリと舌なめずり。
「食事の用意ができましたので食堂へどうぞ」
食堂からアルバイトのオマ谷みどりさんが出てきた。こいつもどうせ淫売だ。アバズレだ。俺はカッと目を見開いて睨みつけてやった。みどりはそそくさと奥に引っ込んだ。
「マラ山さん達もどうぞ食堂へ。荷物は上に運んでおきますよ」
フロントではボブさんが記帳を済ませた夫婦に食事をすすめている。
何となくそれを見ていた俺は、妻の方と視線が合ってしまった。男好きそうな顔をしている。魔性、思わず俺の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。正樹くん、キミは俺が守るからな。どうか、女に狂いたもうことなかれ。
そんなことを思っていると、中古女はにこりと微笑み軽く頭を下げた。
「( ゚ 3゚)∵ ペッ!」
俺は迷わずツバを吐きかけた。女は「信じられない」といった顔で俺のことを睨み付けた。
「あ、阿部さん、一体何を」
「ん?まじないだよ、まじない。信州の方だとな、相手にツバを吐きかけると魔除けになるんだよ」
「へえ、そうなんですか!知りませんでした」
「そうそう、それで男同士の場合だと顔にザーメ……」
い、いかん!まただ。また暴走しようとしている。ちらりと正樹の方を見る。突然区切られた言葉の続きを待つようにキョトンとした顔をしていた。まずいぞ、もう誤魔化しきれない。俺は慌ててソファーから腰を上げた。
「さ、正樹くん!食事の準備もできたそうだし、俺たちも食堂に行こうか!な!」
「え、ええ」
そう言って強引に会話を終わらせると、俺はスタスタと食堂に歩いていった。正樹は釈然としないまま、後ろからちょこちょこと付いてきていた。全く、危ないところだったぜ……。
食堂のテーブルにはすでに、ナイフやフォークがセットされていた。先ほどのアバズレ三人組やマラ山夫婦も、先に椅子に座っていた。俺たちもそれに倣って適当なテーブルに腰をすべり込ませる。
「旨いな!」
「美味しいですね!」
俺たちは運ばれてきた和牛スッポン丼を口にし、その味に思わず感嘆の声を漏らした。ギトギトと脂っぽい舌触りはとてもサッパリとしており、口の中で踊るように弾けるスッポンの白身はまさに国産牛のそれだった。使っている米もいい。今年収穫されたばかりだというあきたこまちはタイ産だと言う。シェフの腕前に俺はおもわずううむ、と唸った。
「これは誰が作ってるんだろうね」
「多分、アニキですよ。あの人料理が好きだから」
「ほう……ガチムチ板前系か……」
「え?なんです?」
「いやー旨いなー!」
もう誤魔化すことにも慣れた。
「味はどうでした?」
そこにやって来たのはもう一人のアルバイト、ジョン=ムルアカ=俊夫くん。日本体育大学に8浪している剛の者だ。何でもスキー好きが高じてこのペンションで住み込みで働いているらしい。勉強は?おにいちゃん勉強は?という疑問が首をもたげないでもなかったが、そこは聞かぬが花、というものだろう。
「いや、とっても美味しかったよ。これは繁盛するわけだ」
「そうでしょう。何せ素材がいいですからね。ミャンマーで取れた国産和牛ですから」
そういうと俊夫くんは胸を張った。プルン、と豊満な胸板が誇張される。このマッシブに組み敷かれたらさぞヘヴンだろうな……思わず俺はそんなことを考え、慌てて涎を拭った。すると正樹がおもむろに口を開く。
「さて、阿部さん、ひとつナイターにでも洒落込みましょうか!」
A「いいね!行こうか!」
B「この吹雪の中で?無理に決まってる!」
C「俊夫くん、キミのフトマラで僕を和牛のように犯してくれないか」
正樹くんのことが
「正樹くん、実は俺はキミのことが……」
途中まで言いかけて、慌てて口を閉じた。いかんいかん、俺は何を口走ろうとしていたのだ。こんな談話室、思いを告げるのに相応しいはずがない。急にゲホゲホと咳き込むと、バツが悪そうに顔を伏せた。
「だ、大丈夫ですか阿部さん?」
「ああ、うん、うん。もう大丈夫、平気だよ」
「それでさっきの話なんですけど……聞き違いじゃなければ阿部さん、キミがどうのとか……」
げえっ、こいつしっかりと聞いてやがった。俺の隠蔽工作は失敗に終わったのか。まずい、このままではここで全てが露見してしまう。何とかしなければ。俺は脳内のCPUをフル回転させた。
「き、きみ、キミコ、貴美子。そうそう、俺ってさ、余貴美子みたいな女がタイプでさ、うん、そう、あの中に余貴美子みたいな女がいないかなーって言おうとしたんだよ。あははは」
「へえ、阿部さんの趣味、渋いですね。でもあの子たち若いから、さすがに余貴美子に似た人はいないと思いますよ」
「そうだよな、はは、そりゃそうだ。あはははは」
ふう、なんとか誤魔化せたようだ。俺はドッと冷や汗をかいた。
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途中まで言いかけて、慌てて口を閉じた。いかんいかん、俺は何を口走ろうとしていたのだ。こんな談話室、思いを告げるのに相応しいはずがない。急にゲホゲホと咳き込むと、バツが悪そうに顔を伏せた。
「だ、大丈夫ですか阿部さん?」
「ああ、うん、うん。もう大丈夫、平気だよ」
「それでさっきの話なんですけど……聞き違いじゃなければ阿部さん、キミがどうのとか……」
げえっ、こいつしっかりと聞いてやがった。俺の隠蔽工作は失敗に終わったのか。まずい、このままではここで全てが露見してしまう。何とかしなければ。俺は脳内のCPUをフル回転させた。
「き、きみ、キミコ、貴美子。そうそう、俺ってさ、余貴美子みたいな女がタイプでさ、うん、そう、あの中に余貴美子みたいな女がいないかなーって言おうとしたんだよ。あははは」
「へえ、阿部さんの趣味、渋いですね。でもあの子たち若いから、さすがに余貴美子に似た人はいないと思いますよ」
「そうだよな、はは、そりゃそうだ。あはははは」
ふう、なんとか誤魔化せたようだ。俺はドッと冷や汗をかいた。
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阿部寛
「阿部寛だろう、やはり」
ゲイ界をリードできるのは、やはり阿部さんを置いて他はない。名前も俺と一致しているのがまた、いい。俺は阿部さんの熱狂的なファンだった。阿部さんの写真集だって持っている。写真集、全1ページ。俺の精液で全部のページがくっついたからだ。ああ、阿部さん……またも脳内で陶酔していると、正樹が不思議そうな顔で俺を見つめていた。い、いかん。
「えーと、女の子の……」
「あ、ああ、そうだったな。悪い悪い、好きな俳優は誰ですかって聞こえたもんでね。どうも最近耳が遠いもんで。でもな正樹くん、女性のことを容姿だけであれこれ判断するのはいただけないぞ」
「あ、はい。そうですね、すみません……」
いけない、トーンがきつくなったか。正樹は急にシュンとしてしまった。その落ち込んだ顔が、またそそる。本当にゲイ泣かせのやつだぜ。
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ゲイ界をリードできるのは、やはり阿部さんを置いて他はない。名前も俺と一致しているのがまた、いい。俺は阿部さんの熱狂的なファンだった。阿部さんの写真集だって持っている。写真集、全1ページ。俺の精液で全部のページがくっついたからだ。ああ、阿部さん……またも脳内で陶酔していると、正樹が不思議そうな顔で俺を見つめていた。い、いかん。
「えーと、女の子の……」
「あ、ああ、そうだったな。悪い悪い、好きな俳優は誰ですかって聞こえたもんでね。どうも最近耳が遠いもんで。でもな正樹くん、女性のことを容姿だけであれこれ判断するのはいただけないぞ」
「あ、はい。そうですね、すみません……」
いけない、トーンがきつくなったか。正樹は急にシュンとしてしまった。その落ち込んだ顔が、またそそる。本当にゲイ泣かせのやつだぜ。
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着替えて談話室へ
一旦部屋に戻って着替えると、玄関脇の談話室で落ち合った。
大きな茶色のテーブルを囲んでソファが置かれている。
俺たちは夕食が始まるまでの間そこに座って待つことにした。
丁度俺たちが腰をかけた時、二階からキャピキャピとした女の声がした。OL風の三人組みだ。
「ふん……」
俺は女たちに侮蔑的な視線を与えると、軽蔑するように鼻で笑った。どうせ腰を振ることくらいしか能のない淫売たちだろう。吐き気がする。世の中からマンコなんてなくなればいいんだ。そうすれば俺たちのパラダイスが出来上がるのに。聖書の登場人物もアダムとアダムで十分だ。そして俺は禁断の果実をタイトなジーンズに捻じ込んで……。
「阿部さん、どの子が好みなんですか?」
正樹がねっとりとした声でとんでもないことを囁いてきた。こいつ、俺の気持ちが分かって言ってるのか?それでも無視するのも気まずいので俺は
A「何言ってんだい、そんなつもりで見てたわけじゃないさ」
B「正樹くん、実は俺はキミのことが……」
C「阿部寛だろう、やはり」
大きな茶色のテーブルを囲んでソファが置かれている。
俺たちは夕食が始まるまでの間そこに座って待つことにした。
丁度俺たちが腰をかけた時、二階からキャピキャピとした女の声がした。OL風の三人組みだ。
「ふん……」
俺は女たちに侮蔑的な視線を与えると、軽蔑するように鼻で笑った。どうせ腰を振ることくらいしか能のない淫売たちだろう。吐き気がする。世の中からマンコなんてなくなればいいんだ。そうすれば俺たちのパラダイスが出来上がるのに。聖書の登場人物もアダムとアダムで十分だ。そして俺は禁断の果実をタイトなジーンズに捻じ込んで……。
「阿部さん、どの子が好みなんですか?」
正樹がねっとりとした声でとんでもないことを囁いてきた。こいつ、俺の気持ちが分かって言ってるのか?それでも無視するのも気まずいので俺は
A「何言ってんだい、そんなつもりで見てたわけじゃないさ」
B「正樹くん、実は俺はキミのことが……」
C「阿部寛だろう、やはり」
そんなところでいい
「あ、ああ!もうそんなところでいいぜ!」
俺は慌てて飛び起きた。
「もういいんですか?遠慮しなくてもいいのに」
「いや、本当にもういいんだ。ありがとう。楽になったよ」
これ以上揉まれると理性が限界破裂してしまう。まだまだ夜は長いんだ、じっくり楽しまないとな。
「さ、そろそろ下に降りようか」
「そうですね」
心なしか正樹の目が潤んでいるような……。まあいい、後でじっくりと確かめてやろう。俺は少しだけ高揚した気分で談話室へと降りた。
談話室には大きな茶色のテーブルを囲んでソファが置かれている。
俺たちは夕食が始まるまでの間そこに座って待つことにした。
丁度俺たちが腰をかけた時、二階からキャピキャピとした女の声がした。OL風の三人組みだ。
「ふん……」
俺は女たちに侮蔑的な視線を与えると、軽蔑するように鼻で笑った。どうせ腰を振ることくらいしか能のない淫売たちだろう。吐き気がする。世の中からマンコなんてなくなればいいんだ。そうすれば俺たちのパラダイスが出来上がるのに。聖書の登場人物もアダムとアダムで十分だ。そして俺は禁断の果実をタイトなジーンズに捻じ込んで……。
「阿部さん、どの子が好みなんですか?」
正樹がねっとりとした声でとんでもないことを囁いてきた。こいつ、俺の気持ちが分かって言ってるのか?それでも無視するのも気まずいので俺は
A「何言ってんだい、そんなつもりで見てたわけじゃないさ」
B「正樹くん、実は俺はキミのことが……」
C「阿部寛だろう、やはり」
俺は慌てて飛び起きた。
「もういいんですか?遠慮しなくてもいいのに」
「いや、本当にもういいんだ。ありがとう。楽になったよ」
これ以上揉まれると理性が限界破裂してしまう。まだまだ夜は長いんだ、じっくり楽しまないとな。
「さ、そろそろ下に降りようか」
「そうですね」
心なしか正樹の目が潤んでいるような……。まあいい、後でじっくりと確かめてやろう。俺は少しだけ高揚した気分で談話室へと降りた。
談話室には大きな茶色のテーブルを囲んでソファが置かれている。
俺たちは夕食が始まるまでの間そこに座って待つことにした。
丁度俺たちが腰をかけた時、二階からキャピキャピとした女の声がした。OL風の三人組みだ。
「ふん……」
俺は女たちに侮蔑的な視線を与えると、軽蔑するように鼻で笑った。どうせ腰を振ることくらいしか能のない淫売たちだろう。吐き気がする。世の中からマンコなんてなくなればいいんだ。そうすれば俺たちのパラダイスが出来上がるのに。聖書の登場人物もアダムとアダムで十分だ。そして俺は禁断の果実をタイトなジーンズに捻じ込んで……。
「阿部さん、どの子が好みなんですか?」
正樹がねっとりとした声でとんでもないことを囁いてきた。こいつ、俺の気持ちが分かって言ってるのか?それでも無視するのも気まずいので俺は
A「何言ってんだい、そんなつもりで見てたわけじゃないさ」
B「正樹くん、実は俺はキミのことが……」
C「阿部寛だろう、やはり」
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