名前というものはさ、その人の顔と同じように『人と成り』を表すものじゃん。ある意味で。だから産まれたわが子の名前を考える際に親は皆苦慮するのであるし、姓名判断というものも一つの商売になる。また、ある人を対象に据えたと仮定した時、その人を貶めるようなネーミングを考案することは、それ自体が「いじめ」に発展しかねない。ウジ太郎とかクリトリス由美子とか、そういった風に個々人が元来有するアイデンティティを否定し、侮蔑的な名称を与えること、これはいじめのメソッドとして相当効果のあるものだと言わなければならないだろう。
『初めに言葉があった。 言葉は神と共にあった』
福音書にこんな一節があるくらいだ。それくらい『言葉』(つまり、この文脈でいうと、名前)は重い意味を持つ。
しかし言葉、すなわち名前を恣意的に改変してしまうことは、至極簡単だ。影響力のある人物が、貶めたい人物を指して
「あいつってさー、どことなくトリカブトに似ているよな。おい、トリカブト!」
など呼んでしまうと、彼のアイデンティティはトリカブトに容易に化体する。トリカブト、という地点に簡単に概念定義されてしまう。トリカブトだなんて思いもよらなかった状況(混沌=カオス)が、言語によって区別化されたことで、彼はトリカブトという着地点において定義されてしまう(論理=ロゴス)。
だから、そこにあって、やはり名前というものは大切だ。たかが言葉、されど言葉。言霊、という考え方があるように、言葉には魂が宿っているのであり、軽々に扱うと、思わぬ影響力を及ぼすことがあるのだ。
そこにあってお前ら、俺の名前が『肉欲』ってどういう了見なんだよ。俺が傷つくかもしれない!とか、そういうところには一切思い至らないわけか。臭いものには蓋、とかそういう古きよき精神を汲み取ったわけか。なるほどね。
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posted by 肉欲さん at 23:50
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日記