時間は不可逆だ。前へ前へと流れていく時間の中で、僕たちは常に変化し続けていく。変化――それは決して目覚しいものではないかもしれない。とてもちっぽけで、自分の中ではその訪れに中々気付くことができないものかもしれない。
それでも僕たちは、確実に変わり続ける。
1年前の、1ヶ月前の、1週間前の、1日前の、1時間前の、1分前の、そして1秒前のあなたは、もうどこにもいない。確かに存在するものがあるとすれば、それは『今、そこに在るあなた』だけだ。この日記を読んでいる最中も、あなたは刻々と変わりつつある。
いつまでも変わらないで。
誰しも、そんなことを思ったことが一度はあるのではないだろうか。在りし日の姿、それはいつでもこの目に美しく見える。その状態をまるごと切り取って、御伽噺に出てくるような不思議な道具の中にしまい込んで、永遠にその姿を守り続ける。言葉にすれば馬鹿げた夢想ではあるが、そんなことを願ってしまう気持ちそれ自体は決して馬鹿げてなんていない。楽しかった思い出、美しい風景、それらを永続的に保ちたい――と考えてしまったとしても、それはある意味で自然なことだろう。
それでも。どれだけ僕たちが"変わらないで"と願っても、街も人も空も大地も、必ずいつかは変わってしまう。唯一変わらないことがあるとすれば、それは『全てのものは変わり続ける』という点だけだ。変わらないのは、変わることだけ。きっとそれが世の中の真実なのだ。
ただ、いつかこのブログにも書いたが、僕はやはりこう思う。『本当に悲しいのは変わってしまうことなのか、それとも何も変わらないことなのか』と、そんなことを。
たとえば今、目の前に親しい人がいて。その人が10年も20年も30年も、ずっと変わらないのだとすれば。果たしてそれは幸せなことなのだろうか?分からない。だけど何だかそれはとても残酷で、また悲しいことであるように思われてしまう。
変わっていく中で見えてくることもあるだろう。変わることによって失うこともあるだろうし、またその逆も有り得よう。間断なく時を過ごしていく僕たちにあって、何かを得ることばかり求め続けることは不可能だ。時に何かを背負い、その代わりに何かを手放したりして、僕たちは少しずつ前に進んでいく。
男は、いつ男をやめるのだろうか?
生物学的な意味で男をやめるのは、基本的には不可能だ。それでも僕は漠然と思う。人が変わり続けるしかないのであれば、僕もいつかは男たることをやめる時期がきてしまうのではないか、と。それはある意味で、子供が大人になるようなシーンとよく似た形で。あるいは、素行の悪かった少年が真っ当な社会人となる状況と類似する形で。
「今日は3回・・いや、4回はイケるかな!?」
青春の時期。一度たりともこんなことを心に抱かない男がいたとすれば、それは少々問題のあるケースだろう。省略してしまったが、これはオナニーに関する話だ。ついて来ていただけているだろうか。
"3回・・いや4回!"の決意。若い頃であれば、男の誰しもが通る道だ。一般的にはあまり知られていないことだが、年若い時分にあってはオナニースペースを確保することが中々に難しい。
あなたがひとりっ子で一人部屋、しかも鍵付き――という状況であれば話は少し異なるだろうが、世に生きる全ての少年がそんなにセレブな訳ではない。兄弟三人、一部屋でルームシェア。そんな煉獄のような状況も、この狭い日本においては何ら不思議な状況ではないのである。
その場合、オナニーを敢行することは決して容易ではない。親の目をかいくぐり、兄弟の目をかいくぐり、またオカズも十分に確保し、その上で望むオナニー・タイム。"荊の道"、そう形容しても、それは全く大げさなことではない。
あらゆる条件をクリアして迎えたるは、オナニーへと繋がる静謐なる刻(とき)。この時、心に燃え上がるものを抱かないのだとすれば、その人はきっとオナニーに向いていない。あらゆる快楽は、制約を課せられればこそその振れ幅が増大する。親を騙し祖父母を騙し、実兄あるいは実弟を謀略に嵌め、ただひたすらオナニーのためだけに手に入れた、静厳たる一瞬。だからこの時、少年はこう思わなければならない。
「4回・・いや、5回はイケる!」
"4回・・いや、5回!"の決意。お分かりいただけるだろうか。もちろん、実際に我々が"5回・・いや、6回!"に着手するかといえば、それはまた別の問題だ。ただ、大事なのは『そんな厚くて熱い決意を抱く、その心』が少年の胸に芽生えるというその事実である。
人は変わる。時は流れる。あれほど滾っていたオナニーへの情熱、それすらも絶え間なく過ぎ行く日々の中で移ろってしまう。
僕たちは歳を追うごとに社会的な自由 ―例えば、未成年でなくなることにより得られる様々な自由など― を手にすることだろう。兄弟は家を去り、また自分自身も郷里を離れる。一人暮らしを始めるならば、そこにあるのは自分だけの城・自分だけの空間。オナニーをしても誰も咎めない、制約なき聖域。
それを手にした時、僕らの胸に去来するものは一体何であろうか。喜び?希望?安堵?あるいは未知への興奮?それもあるかもしれない。けれど、僕はあえてこう言いたい。
『虚無』
"いつでもできる"という考え方に潜む、意外な落とし穴。いつでもできるからこそ、僕たちのオナニーに対するパッションは、相対的に薄くなる。リスクとスリルの間をギリギリの速度でひた走っていた昨日はもうどこにもなくて、そこにあるのは茫漠と広がる孤独のフリーウェイ。競争者はいない。監視人もいない。お気に召すまま、好きなだけ……確かに欲しがっていたその空間、時間。だのに僕らは、それを手に入れた時にきっとこう思う。
「なんか、明日でいいや……」
心に一陣。
乾いた風が吹いた。
どうしてなのだろうか?あれほど欲しがっていた"それ"、今はこんなにもくすんで見える。僕は確かに自由なオナニーがしたかったはずなのに、どうして?
"3回・・いや、4回!もしかしたら、5回だって!"
あの時抱いたあの思い、あれは絶対にウソじゃない。それなのに、嗚呼、僕はどうして――
(今はこんなにも乾いているのだろうか)
全ての男がこうある訳じゃない。でも少なくとも僕の周りにはもう、"3回・・いや、4回!"の決意を胸に秘めている者はいない。それはダイレクトにオナニーをやめた、ということを意味するのではない。
ただ、僕が友人たちに
「オナニーはしてるの?」
と聞くと、ほとんどの人たちは少し考え、苦笑いを浮かべた後に
「たまに、な」
と寂しそうに口にするばかりなのである。その様子を見て、彼らの中に"3回・・いや、4回!"の決意が残存していないことを察することができないのであれば、それは想像力の欠如と言わざるを得ない。
僕らが変わってしまった原因は何だろうか。一つには体力の問題もあるだろう。しかし、その一因のみで全ての説明がつくわけではない。ざっくばらんに言ってしまえば、やはり僕らが変わってしまったからだと思う。いつまでも若いつもりでいたものの、心も体も確実に変化している。特に心、その変化が僕らのオナニーに対するモチベーションを大きく低減させているように感じられる。
性欲の減退。
それは確実に僕らのもとに忍び寄りつつある。
「最近はもう女にモテるとか、どうでもよくなった」
先日、知人が乾いた声で言い放った。まだ30歳にも至っていない方であるが、その憂いを帯びた瞳から、その言葉が決して嘘ではないことが窺い知れた。
「そうは言っても例えば、宮崎あおいが挑戦的な目つきで股間をまさぐりながら『尊皇攘夷したいの?』って聞いてきたら、蛤御門が変しちゃうんでしょ?」
僕は聞いた。認めたくなかった。その若さで、まだ三十路も手前で、女性に対する興味がなくなってしまうだなんて。そんなこと認められない、認めたくない。しかし知人は、僕の言葉を聞いた後に口を開いて曰く――。
「お前が何を言っているのか、さっぱり分からない」
その時確かに。
桜の花が、静かに散った。
女性に興味が持てなくなったことを指して『男をやめてしまった』なんて言ってしまえば、いくらなんでも乱暴だろう。それは僕にも分かる。けれど、オナニーに対する興味を喪い、女性に対する興味も喪い。次は一体何を喪ってしまうのだろうか――と、僕は得も言われぬ恐怖を抱いてしまった。
それによって得られる何かもあることと思う。女性にうつつを抜かすことがなくなる代わりに、広い視野や冷静な精神を手にすることもあるだろう。一人の女性を慈しみ、家庭を大事にし、それによって仕事への活力を得ることもあるかもしれない。男性的であることを手放すことで、より深い何かを手に入れる。それはそれとして実に素晴らしいことだ。
だが、そんなのはもっと後でもいい。もちろん価値観は様々である。10代であれ20代であれ、早くに落ち着きたいと心に願ってしまったのであれば、その気持ちは止め処がない。ただ、僕の中ではそんな気持ちの訪れはまだ不要だ。世の中にはもっと知りたい、知るべきことが沢山ある!それを理解しながら、いたずらに歩みを止めることなんてしたくはない。あってはいけないのである。
タヒチの海で泳いだあと、現地の民とサンセットビーチで睦言を囁き合う!官能的だ。
エッフェル塔を眺めながら、フランス人と燃え盛るようなファックを嗜む!素敵じゃないか。
同僚の法要に参加した後、未亡人を相手にけしからんプレイに勤しむ!仏罰が下ってもいい。
科学技術の進歩の果て、ついに誕生したルナリアン(月面人)と重力1/6スペース・ドッキング!興味がないとは言わせない。
まだ見ぬ地平がたくさんある。
まだ知らぬ境地が茫漠と広がっている。
可能性は無限大、でも時間は有限、だとしても諦めたら全てのことはそこで終わってしまう。ギリギリまで、命尽き果てるその最後の瞬間まで!挑戦を続けるべきではないだろうか。それが男と生まれた意味であり、また男として負うべき責務であるように思われる。
そこにあって、早々に男をやめてしまうなんて。
それはあまりにも、あまりにも勿体ないことで――。
それでも僕たちは変化の渦から逃れられない。いくらここで威勢のいいことを書いていても、いつかは必然的に男であることをやめる時分が訪れ得る。それは切なくて悲しいことかもしれないが、結局のところ今の僕が既に"3回・・いや、4回!"の決意を取り戻せない現実がある以上、いつまでも変わらぬ自分を望むことは身勝手で傲慢なことだ。変異、流転は粛々と受け止めるほかない。
その先に何があるのか?それは今のところ僕にも分からないし、また分かるべくもない。ただ、今の気持ちが変容し、あるいは完全になくなった時。その時、きっと僕は肉欲の名前を捨てることができるだろう。俗やボンノウに心悩まされなくなった時点を以て、僕は仏欲とでも名乗ろうと思います。ということで、早目に仏の道に入るため、この中にタヒチの現地民、フランス人、未亡人あるいはルナリアンがおりましたら、迅速に連絡を下さい。同時にウズベキスタン人、カザフスタン人、ロシア人、スペイン人、ブラジル人、オランダ人、堀北真希さん、石田ゆり子さん、キーラ・ナイトレイさんなどもおりましたら、さっさと連絡下さい。その場合は僕も潔く仏の道を歩みます。むしろ歩ませて下さい。
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重松清の本はおもしろいですか?今読むかどうか迷ってるんです。
【肉欲より】
僕は好きですよ。
流星ワゴンあたりから読まれるといいのではないかと。
リクエストなんですが、
では気持ちの変化とか移り変わりという観点から、「結婚」というテーマについて考えていただけないでしょうか?
懐かしい
嫁さんがいない休日は「5回だな、確実に」と意気込み、ただ結果1回。
オナニーする前の気合い、意気込みは何よりも大切なものだと思います。
肉欲さんらしい気がします!!!!
固定ファンもたくさんいるみたいですし
どんどんイって欲しいっす!
友情は変わらない。なんて、人が変わるのに気持ちは変わらないなんて幻想でしたかね…
俺の気持ちが余りにも変わってしまいました。
すみません。この記事読んで感傷的になりました。
友人は変わったというか、少し疲れてしまっただけなのでは。
むしろ宮崎あおいの蛤御門で変態したいくぱぁって
ありがとう。
何事にも強いですよ、本当に。
本質を見いだせる人になりたいですね。
今でも5、6回くらいならイケるけど昔みたいに14回とかはさすがにキツい。
望みが全部叶ったら仏道に入れるって考え方は正直甘い気が。
ほら、人間の欲って底なしだから。
欲をなくす方法は願いを叶えるんじゃなくて願いが叶わないと悟ることだと個人的に考えております。
こんなの僕じゃない!ボスケテ
当方、関西在住 18歳男子です。
受け攻めどちらでもOKです。
良い返事をお待ちしてます。