「ゲンさんはさぁー、すげぇモテるんだよ!」
工場から出た後、ゲンさんの同僚と駅前のスナックへと飲みに行った。入ってから既に数時間は経過し、ゲンさんは僕の脇で舟をこぎ始め、同僚の彼はもう何度目になるか分からない同じ話を繰り返す。
「なんつーかさあ、ゲンさんはバカなんだよな。もちろん、いいバカだぞ!この人は一種の、グリーンピースバカだね。もうホント……年がら年中グリーンピースのことしか考えてなくって。飲み屋に行ってお姉ちゃんと話してても、シューマイとグリーンピースの話しかしねーのな!」
ゲンさんらしいな、と僕は思った。朴訥で、マイペースで、正直で、優しい。そんなゲンさんは、きっと総理大臣の前でもグリーンピースの話をしているように思えた。
「でもなぁ……深けーんだよな。ゲンさんの話っつーのは。最初はさ、やっぱりこっちもバカにして聞いてるワケ。だってグリーンピースだぜ?そんなもん、興味を持つ時がないだろ。それでも……いつの間にか聞き入っちまうんだよな、ゲンさんの話は。なんかこう、グリーンピースの話を聞いているようで、本当は俺のことを見透かされているような気がしてくるっつーかな」
「ああ、それ、何となく分かります」
「分かるか!若いの!んだから、飲み屋の姉ちゃんにしても、そんなオヤジっつーのは珍しいらしくてさ。こう、心にジワッ……とくるものがあるらしいのよ。そりゃ女だけじゃない、男からも子供からも、ゲンさんはいつもモテモテさね」
きっと、ゲンさんの人徳なのだろう。ゲンさんは決して薀蓄をひけらかすわけじゃない。ただ、自分がどれだけグリーンピースのことを愛でているのか、自分の仕事に誇りを持っているのか……そのことだけを淡々と、実直に話すだけだ。平たく言えば、打算がない。だからこそ周りの人間も、ゲンさんに強く惹かれるのだろう。そして僕も、同じように。
「でもゲンさんも、あと何年今の仕事を続けられるか……」
「どういうことですか?」
ゲンさん同僚の口から何気なく発せられたその言葉に、僕の心は小さく動揺した。
「聞いてないのかい?まあゲンさんが敢えてまで言う必要もないわな……いやね、こりゃ別にゲンさんが寝てるから話すってわけじゃないんだけど、ゲンさんなあ。ヒジに爆弾抱えてるのよ」
「爆弾?」
「医者の話ではGPE、グリーンピースエルボーってな名前の症状らしい。うちらの仕事も繊細さを要求されるからさ、どうしても負担がかかっちまうわけよ。ココに」
そう言ってゲンさんの同僚はポンポンと自分のヒジを叩いた。グリーンピースエルボー……そういえば何年か前、テレビ番組でそんな症状に対する特集を組んでいたように思い出す。あの時は自分には関係のないことだと思い聞き流していたけれど、まさか他ならぬゲンさんが。
「治らないんですか?」
「治らないな。まあ今は仕事に支障があるわけじゃない。けど、いつ爆弾が爆発するとは限らない。そしてゲンさんの爆弾が爆発したその時には――」
「その時には……?」
「一生、右腕が使い物にならなくなる」
そこまで喋ると、ゲンさんの同僚は手に持っていたグラスの中身を一息に飲み干した。すると急に酔いが回ったのだろうか、そのまま崩れ落ちるようにカウンターの上に突っ伏してしまった。
『一生、右腕が使い物にならなくなる』
頭の中で直前の言葉が何度もリフレインする。
酔いはすっかり覚めていた。
・・・
「じゃあケイくん。君も元気に頑張ってね」
スナックが閉店時間を迎え、僕らは店を後にした。ゲンさんはさほど酔った様子ではなかったが、同僚の方は未だに酔いが覚めていなかったらしく、フラフラの足取りでタクシーに乗り込んだ。
「それと、もし良かったらこれ。ご家族と一緒に食べてよ」
飾り気のない紙袋の中には、ゲンさんの所で作られたシューマイが詰められていた。相変わらず複雑な気持ちを持て余していた僕は、黙ってゲンさんから紙袋を受け取る。
「それじゃ、いつかまた――」
「ゲンさん!」
踵を返しかけていたゲンさんが、僕の言葉に立ち止まった。僕が少しく大きい声を発してしまったからだろう、ゲンさんは驚いたような表情を浮かべて僕の方を振り返った。
「あ、あの、その、今日はその……」
けれど、何を言っていいか分からない。語るべき言葉が、見つからない。僕はゲンさんを引きとめたまま、はっきりとしない様子でじっと俯くことしかできなかった。
「ケイくん」
ゲンさんのごつごつとした掌が僕の肩の上に置かれる。僕はハッとして俯いていた顔を上げた。ゲンさんの柔和な顔が、そこにはある。
「シューマイを食べる時、俺はカラシをたっぷりと付けるのが好きなんだ」
「え?何ですか突然?」
「でも俺の弟はカラシを付けずに食べるのが好きだと言う。俺の母親は、ショウガで食べるのが好きだと言う。死んだ親父なんかは、塩でしかシューマイを食べたがらなかった」
寝静まった暗い街の中。ポツリ、ポツリとそんなことを語るゲンさんの声と、僕の息遣いだけが世界に浸透していった。
「色んな食べ方がある。正しい食べ方なんて、ひとつもない。大事なのは、自分の好きな食べ方を見つけるということだ。それが、シューマイを美味しく食べるコツなのさ」
ゲンさんはそれだけ言うと、今度は本当に踵を返して夜の街から離れて行った。僕はその後姿を漠然と見送りながら、紙袋から伝わるズッシリとしたシューマイの重さだけをこの手に感じていた。
・・・
「あらぁ!これ、来来堂のシューマイじゃない!最近、中々手に入らないのよねぇ」
朝目覚めてから母にシューマイを渡すと、嬉しそうな声が返ってきた。どうやらゲンさんのところのシューマイは巷で評判が良いらしい。
「それにしても珍しいじゃない。あなたがお土産買ってきてくれるだなんて」
「いや、それはね……」
ゲンさんから貰って、と言いかけて口をつぐんだ。昔からゲンさんに対して良いイメージを持っていない母だ。僕がゲンさんのことを正直に伝えることで、母の機嫌を損ねるかもしれない――そんなことを思った僕は「たまにはね」と曖昧に言葉を濁した。
「美味しいものを食べると、幸せになるわね」
レンジで暖めたシューマイを、母は美味しそうに頬張る。僕も箸を伸ばしてその中の一つを口に放り込んだ。じんわりとした肉汁が口の中に広がり、その後にグリーンピースの微細な食感。評判通りの美味しいシューマイだった。
「こうしていると、あなたが小学生の頃を思い出すわ」
「小学生?どうして」
「だってあなたが中学に上がる頃には、学校が忙しくなってあんまり一緒にご飯を食べる機会がなかったじゃないの。私もお父さんも仕事に一番打ち込んでいた時期だったし」
仲の悪い家庭ではなかった。ただ、各々がそれぞれのやるべきことに必死だっただけのことだ。そしてその結果として、我が家の食卓が閑散としていったのである。そのことを恨めしく思う気持ちは毛の先ほどもない。
それでも、母の言葉は僕の心をばかに波立たせた。
「いいものね。大切な家族と、こうやってゆっくりと美味しいものを食べる時間って」
母は新たに一つシューマイを摘み上げると、やはり美味しそうに頬張った。ひどく幸せそうなその表情に、僕はこれまでかろうじて繋ぎとめていた何かを諦め、そして新たに何かを決意する。
『誰も金のために生きてはいないだろう?』
ゲンさんの言葉が耳朶に蘇った。
穏やかな時間があって、充実した人間関係があって、最後にそこに、美味しいシューマイがあれば。それだけで、それだけで僕たちは、もしかすると。
「母さん、俺」
箸を置き、居住まいを正して、口を開いた。
「仕事を辞めようと思うんだ」
僕の言葉に、母は「そう」とだけ呟くと、シューマイをまた一つ口に放り込んだ。
・・・
あれから8年の月日が経った。あの夏、東京に戻った僕は直属の上司のところに赴いて辞意を伝えた。表向き慰留もされたが、それも僅かなことで、僕の希望はすんなりと通った。
一年の猛勉強を経て、僕は大学に入り直した。受験に際し、証券会社時代に住んでいたアパートは引き払い、フロ・トイレ共同の安アパートへと引っ越した。僅かばかりの貯蓄を切り崩すだけでは生活費を賄えず、父親に土下座するようにして金を工面してもらった。交渉は熾烈を極めたが、最後は父親が僕に折れる格好となった。
再入学した大学では、機械工学を徹底して学んだ。始めて足を踏み入れるその分野に当初は随分面食らった。10代の頃と比べて、物覚えも確実に悪くなっていることを実感する。だが、僕は歯を食いしばって必死に喰らい付いていった。分からないことは頭を下げて質問して回り、それでも分からない時は何時まででも図書館に居座った。
辛くはなかった。充実していた。大学に入るのは二回目だったけれど、僕はこの時初めて『大学生』でいるような実感を抱いた。
大学での4年間は音よりも速く過ぎ去り、気付けば卒業を迎える年になっていた。僕は大学院へと進学し、3年次からお世話になっていた教授の研究室に篭りきりになった。
「相沢くんは、どうしてこの分野の研究を続けるのかい?」
徹夜明けの研究室、出し抜けに教授からそんなことを問われた。僕はすっかり油の切れてしまった機械のような頭の中で、それでも明瞭に答えを紡ぐ。
「シューマイがね、美味しいシューマイが……もっとたくさんの人のところに届くのならば、それで誰かが幸せになるのならば、それはとても素敵なことだと思いませんか?」
押し寄せる睡魔の中で、ようやくそれだけのことを言うと、僕は倒れるようにして研究室の古びたソファーの上で眠りこけた。
・・・
「ケイくんも、随分おっさん臭くなっちまったなあ」
ゲンさんはそう言って楽しそうに笑う。6年ぶりの再会だった。
「それで?今はどうしてるんだっけ」
2Kのアパートに住むゲンさんの住まいは、ひどく小ざっぱりしていた。男のヤモメ暮らしだから……と最初のうちは自宅に僕を上げることを拒否していたけれど、『いい地酒があるんで、せっかくだし』と、僕は半ば強引にゲンさんの家に押し入った。
「大学で、工学の研究をしているんです」
「工学?へえ、なんだかすごいね。俺にはそういうの、全然分からないけど」
軽い調子で喋りながら卓上のスルメに手を伸ばすゲンさん。その挙動が、どうしても右手をかばいながらのものに見えてしまうのは、僕だけの杞憂なのだろうか?そんな答えのない逡巡を抱えながら、僕は鞄の中にあるもう一つの『土産』の所在を確かめた。
「実は今日、ゲンさんに見てもらいたいものがありまして」
「俺に?」
僕は鞄の中に手を入れると、中から一本のビデオテープを取り出す。背中のラベルには『GP01』とだけ素っ気なく記されていた。
「ビデオデッキ、お借りしますね」
「ああ、いいよ。何のビデオ?もしかしてAVとか?」
見れば分かりますよ、と僕は苦笑しながら電源を入れる。鈍い電子音を立てて起動したビデオデッキは、緩慢な動作で僕の持ってきたビデオテープを吸い込んでいった。
テレビ画面の上に現れたのは、白衣に身を包んだ僕の姿。後ろには研究室の実験機材があった。それは、僕が研究室に通い詰めて作り上げたもの、その集大成である。
『これからGP01の稼動実験を行います』
ゲンさんはじっと押し黙って画面の向こうを見つめている。僕自身も既に何度となく見返したテープであったけれど、神妙な様子で動画の行方を見守った。
『従来、技術的に不可能とされていた【機械によるグリーンピースをシューマイの上に置く作業】、それがこのGP01により可能となりました』
瞬間、部屋の中の空気が明らかに硬くなった。画面の向こうでこれから繰り広げられる光景は分かりすぎるほど分かっている。しかし僕の喉は緊張ですっかり渇いていた。
『GP01は、グリーンピースを摘む微妙な力加減はもちろんのこと、どのグリーンピースをどのシューマイに乗せればいいかまで瞬時に判断、それぞれの個性に応じたベストな組み合わせを導きだすことができるのです。実際にご覧下さい』
画面がGP01に向かってゆっくりとズームインしていく。それと同時に、夥しい数のグリーンピースの中からGP01が正確に一粒のグリーンピースを拾い上げ、かつ、膨大な量のシューマイの中から一つを選び出し、その上に据え置いた。そしてカメラは、完成したシューマイの方へとズームしていく。
白い花の上に咲いた、緑の芽。
美しいシューマイの姿が、そこにはあった。
『これが、この度完成したGP01です。10数年前からのブームにより供給不足に苛まれていたシューマイ業界に、新たな光を差し込む技術であると確信して――』
僕はそこでビデオを止めた。僕がゲンさんに見せたかったもの、ゲンさんに確認してもらいたかったものは全部見せ終えたからだ。
「……どうでしょうか?」
相変わらず重苦しい空気が部屋の中に沈殿している。僕もゲンさんも、酒には一口も付けづに押し黙っていた。壁掛け時計の機械的な音だけが、時間の動いていることを教えてくれる。
「すごいな、ケイくん。ありゃあ、完璧だ」
ゲンさんの落ち着いた声が静寂を破った。
「本当ですか?!シューマイの、グリーンピースの個性は、しっかりと生かされていましたか!?」
「ああ。俺が100回やったとして、100回ともあの組み合わせにする。それくらい、ベストな組み合わせだったよ。ケイくん、あの機械は大したもんだ」
ずっと、ゲンさんからのその言葉を貰うためだけに頑張ってきた8年間だった。死んでいるみたいに生きていた2年を経て、偶然再会したゲンさん。きっと僕はあの日に号砲を聞いたのだろう。そうして走り続けた8年間、その努力がようやく今、結実したように感じる。
「ゲンさん、ありがとうございます。これを見せたくて、ゲンさんのお墨付きをもらいたくて、今回ゲンさんの所を訪れたんです。これで、機械的じゃない機械のシューマイが作られるようになるでしょう。それもこれも、ゲンさんのおかげで」
「実物を、見せてもらってもいいかな?」
僕の言葉を最後まで聞くことなく、あっけらかんとした調子でゲンさんは言った。ゲンさんは相変わらず穏やかな様子で、思い出したように酒を口に運んでいる。
「ええ、もちろんそれは構いませんが――いや、是非お願いします」
ビデオでは、細かい部分までは伝えきれない。ゲンさんは完璧だ、と太鼓判を押してくれたものの、それでもどこかに不備があるかもしれない。そう考えれば、ゲンさんが直々にGP01の稼動チェックを行ってくれるというのは、またとない機会であるように思われた。
「旅費は大学から出させますよ!」
何だか舞い上がった気持ちになった僕はその夜、自ら持ってきた地酒に加えゲンさんの家にあった焼酎を大いに飲んだ。おつまみにはゲンさんの作ったシューマイ。僕たちはその夜、大いに語り、かつ飲み、そしてどっぷりと眠った。
(続)
電車の中でしばらく顔あげられなかった