牛肉が苦手、という人を、僕は寡聞にして知らない。
大多数の支持を得る食材、牛肉。
食べる時には煮てよし、焼いてよし、時に生でよし。欠点がない。まさに走攻守揃ったスター選手。『食材界のイチロー』(ちなみに生で食べられない豚肉は『食材界の新庄』、と揶揄されております)。
またその可食部位、すなわち食べられる部分は多岐に渡り、肩や腹はもちろんのこと、心臓やヒレ、更には内蔵、胃、挙句の果てには舌まで食べられるというオールマイティーっぷり。このマルチな活躍ゆえに、牛肉は『食肉界の北野武』と呼ばれております。
え?豚は舌や内蔵どころか耳まで食べられる?骨からスープまで取れる?この説明はどうつけるかって?
とりあえずそういった野暮な疑問に対しては
「生で食べれないでしょっ!」
という一言の回答の下に付して先を急ぎます。
つまり宗教的禁忌を有する方を除いた殆どの方に愛される食材、それが牛肉ということになります。
しかし、皆さんはご存じでしょうか。
こんなにオールマイティーな牛にも、欠点、いや歴史の影に埋もれてしまった忌むべき存在のあることを。
こんなことを言うと
「そんなものあるはずがない。僕は牛肉であればロースからハチノスまでどこでも食べる。生でも食べる。デタラメを言うな!」
と激昂する人がいるかもしれません。しかしそんな方にこそ僕は問いたい。
「牛筋は?」
と。
「………」
ホラ黙った。沈黙は金です。全てを物語ってますよね。
牛筋…それは呪われた部位。見た目に毒々しい赤。牛にしては強い臭いを放つ生肉。包丁をなまなかに通さない教鞭な繊維。その全てが忌まわしい。
「いや、そんなことはない。牛筋だってしっかり時間をかけて調理すれば美味しい肉だ!」
と再び激昂する人がいるかもしれません。そういう人はたいてい熟年の男性です。そんな人に僕は問いたい。
「じゃあその長い時間を掛けて調理するのは誰なんですか?」
と。
「………」
ホラまた黙った。自分じゃできないくせにエラそうなこと言って。これだから熟年はイヤなんですよ。
牛筋というのは普通のスーパーにはあまり置いていません。ちょっと気のきいたスーパー、もしくはれっきとした肉屋くらいでしか見掛けることはないでしょう。
「れっきとしてない肉屋ってのはなんなんだよ」
という意見に対してはこの際目をつぶって先を急ぎます。
つまりそのように希少な存在である牛筋なわけですが、値段は恐ろしく安いです。100g100円は平気で切る。この「牛肉高騰ドンと来い!」な時代に100g100円以下。このあたりからも牛筋の後ろ暗い経歴が感じ取れます。
また通常、牛肉売り場に赴くと、そこには
ロース!
カルビ!
牛タン!
サーロイン!
神戸!
松坂!
といった華々しいスターが揃ってお出迎え、買って買ってとニコニコしながら待つ牛肉たちがいます。まあ大抵の主婦は一度は手に取り、しかしその値段に恐れおののき、パックを戻し、
「アタシはサーロインなんか見なかった。見なかったのよ」
と自己暗示をかけ、その奥にある
「特売!牛コマ切れ肉380円」
を手に取り、
「ま、亭主にゃこれで上等だわね」
などと独り言を言いながら、レジ脇の『タイムサービス!鶏の唐揚げ詰め放題』の人込みに飛び込むのが通常です。
牛筋は、しかし、そんなコマ切れ肉よりも下位の存在なのです。コマ切れ肉も大抵目立たない場所におりますが、牛筋なんてのは奥も奥、場末も場末…そうですね、あの、焼肉ようの脂、つまり『ご自由にお持ち帰り下さい』関係のすぐそばに鎮座してまします。それくらいぞんざいな、悲しい待遇、それが牛筋。
だから「特売380円!」だなんてまだ良い話で、牛筋なんて最初から見切り品扱い。ポテトチップスよりも安い値段で売られていたりするのですね。
このあたりから
「牛筋…なんて可哀相な存在…!そんな事実、知らなければ幸せな毎日を送れたのに!責任とってよ!」
と、僕に対する非難の嵐、罵詈雑言のタイフーンが襲ってきそうですが、安心して下さい。責任は取ります。
牛筋は実際とても美味しいのです。
「そんな…舌の根も乾かぬうちに適当なことを…!」
と怒ろうとしたアナタ、まあ落ち着いて。
つまり、牛筋それ自体はなかなか扱い辛い食材ではありますが、先の熟年諸兄がおおせたとおり時間を掛ければ素晴らしい味を醸すのです、牛筋というものは。
ただ、時間と言ってもなまなかな時間ではいけません。10分、20分ではなく、一時間、二時間という悠久なる時と向き合うことで牛筋はその真価を発揮します。そういう食材なんですね、牛筋は。
例えばおでんとしての牛筋。あれはまさに好例ですね。もしあの串に刺さっているのがサーロインだったらどうなりますか。もともと脂身たっぷり、柔らかさが信条のサーロイン。二時間、三時間と煮込まれてゆくうちにその身はボロボロのグズグズ。注文を受けて引き上げた時には串だけになっている、なんてことになりかねません。
その点牛筋はどうでしょうか。
剛健。
実直。
堅実。
やおら三時間やそこら煮込んだ程度でその身を持ち崩すようなヤワな人間、もとい牛間ではありません。むしろ時間をかけて吸収した旨味、大根エキスとのコラボ、などのステップを踏んで、ある意味でサーロインをしのぐ美味を手に入れるのです。
つまり牛筋というのは、売り場での下積みに耐え、ようやく購入されてからも何時間にも渡る火攻め、ダシ攻めにあい、ようやくとその真価を発揮する我慢の人、もとい肉である、ということになるのです。まさに叩き上げ。牛肉界の鈴木宗男。クセは強いぜ。
そういう訳で今日は牛筋を購入してきて、白味噌、コチュジャン、砂糖を用いてコトコト、コトコトと2時間ほど火攻め、味噌攻めの刑に処したところ、非常に美味なる料理が出来上がりました。
牛筋は素晴らしい。
牛筋に栄光あれ。