10日ほど前の話だ。
俺は兄貴と一緒に実家に帰った。
兄貴と過ごす実家というのは、実に数年ぶりの話だった。
兄貴はレンタカーを借りてくれた。
俺には普通免許がなかった。
全てを兄貴に任せ、俺は酒を買って、助手席に乗り込んだ。
「すまんね」
「好きなだけ飲め」
下関の空は曇天だった。
行き先はどこにもなかったが、いくべき場所だけは、どういうわけか、二人の中で確かに決まっていた。
兄貴は33歳になり、俺は31歳になる。
兄貴はよく俺に言った。
「下関で過ごした記憶がほとんどない」
それは言葉通りの意味ではない。下関という土地に対しての興味が、幼き頃、一切なかったという意味だ。そしてそれは、兄貴の中で、記憶という果実としてまるで残らなかった、と、そういう話である。
それは確実な意味での欠落である。ひと、として欠損しているということではない。だが、欠落であるのは確かだろう。自らの過ごした時間がまるでなかった、ということを認めるのは、果たして、どういう気持ちなのだろうか。
俺は少しく考えた。だけど俺は兄貴ではないし、兄貴も俺ではない。共感する意味も理由もない。見上げた先、車窓の外。そこにはやはり、下関の曇天が広がるばかりであった。
俺たちが過ごした場所は団地だった。市営住宅、というヤツだ。貧しい家だった、と言うべきなのだろうか。世間並みに見れば、きっとそうだったのだろう。
「懐かしいな」
何年かぶりに生まれて育った団地に、郷愁だけをたよりに赴いた、最早この土地に住んでもいない人間を、誰がどうして歓迎してくれるのだろうか?どうしても俺はそんな下らないことばかりを考えてしまう。
「裏の方から回ろうや」
何となく俺がそう言ってしまったのは、きっと、郷里を捨ててしまった後ろめたさからなのだろう。今なら、そんな自分の心持ちを、よく理解できる。
裏、というのは団地に共有の庭のような場所のことだ。俺の生まれて育った部屋は1階だった。だから、言うところの裏から、俺たちの家、部屋は、つぶさに見ることができた。
「ちっちぇえのう」
「ちっちぇえなあ、マジで」
小さかった。家は、部屋は、本当に小さかった。でもそこは、兄弟の世界の全てだった。大きく、帰る場所で、何もかもの全てであった。
「ああ、これ、俺が植えたビワやんけ」
ビワの樹が青々となっていた。それは俺が植えたビワだ。幼き頃、初めて食べたビワがあまりにも美味しかった。果肉を食べ尽くすと種にいきついた。
『ばあちゃん、これ植えたら、ビワ、食べれるん?』
『そりゃあそうよ』
俺は共用の庭にその種を植えた。俺の唾液にまみれた種を植え、かまぼこ板に「びわ」とマジックで書いて、植えた。毎年毎年その様子を見た。ちっとも生えなかった。俺はそのうちにその存在を忘れた。
「育ったもんやな」
「お前がこれ植えたん?」
「植えたんよ。知らんかったっけ?」
「俺、あんまり外に興味なかったけえなあ……」
その時、視線があった。俺たちは不法侵入をしていることに自覚的だったので、さっさと退散するつもりだった。生まれ育ったところとはいえ、既に部外者だからだ。
「あれ、松永の婆さんじゃね?」
俺が生まれた時には60を越えていた婆さんで、とうにくたばっているものだと思っていた方からの視線だった。その方は隣人でもあった。確実に死んでいるものと思っていたその人は、確実に生きていて、確実に怪訝な目線を、かつての隣人である俺たちに向けていたのであった。
「松永さん、お久しぶりです」
「全然怪しいもんじゃないです、そこの隣に住んでた望月です」
「懐かしくて、裏から入る感じになっちまいました」
来し方、俺は兄貴に対して『松永の婆さんとか、とっくにくたばってるに違いねえよ』と笑いながら話していた。別に恨みがあってのことではない。事実関係としてそういうことは覚悟しておかねばならない、ということを、俺は下賤な口調でしか語ることができなかった。
「まあ、まあ……!あの、望月さんとこのボンかね!まあ……えぇ!何年ぶりかいね!」
くたばってなかったんだな、この婆さん。俺は率直にそう思いながら苦笑した。ほとんどしわくちゃになってしまった松永さんは、それでも、俺たちをかつての頃に戻すには十分なほどに、矍鑠としておられた。
「もう、何て言うたらええんか……コーヒーでも飲んでいき。ああもう、びっくりして、どうしたらええんかね」
「お邪魔してもいいんですか?」
「ええも何もあるかいね。ああもう、本当、ああ、びっくりしたわいね……」
本当にちょっとした差だったのだ。例えば俺たちが裏から回っていなければ、松永の婆さんと会うこともなかっただろう。
「ほんと、ウソみたいやねえ……あんなに小さかったボンがこんな……わたし、足を悪うして、今も病院に行って帰ってきたばっかりやったんよ」
松永の婆さんは、そう言いながら、嬉しそうにインスタントコーヒーを淹れてくれる。ごめんねえ、大したものも出せんでごめんね、と言いながら、これが美味しいんよお、と言いながら、色んなお茶請けを出してくれる。俺も兄貴も鷹揚に笑って返す。心の中では、ほとんど泣きそうだった。
「この市営住宅もね、あんたらがいた頃と違って、ほんとに人がいなくなったんよ。もうお化け屋敷みたいになってしまったわいね」
松永の婆さんは笑いながら話す。笑うしかない、そういう風にしか語れないこともあるのだ。俺も兄貴も、もう、子供ではない。何も言わないし、言えない。追従して、少しだけ、笑う。
「あんたらが来てくれて本当に嬉しいわいね。でもお菓子も何もない…ああ、もっと早く分かっとれば色々してやれたいのにねえ……」
「全然ええですよ。松永さん、今年でいくつになるんですか」
「93になったよ」
「うちのばあちゃんが大正14年だったから、えっと」
「大正11年よ」
笑いそうになった。侮蔑的な笑いではない。何と人の世の浅きことか。分かったようなふりをしてものを書く俺の浅ましいことか。そういうことを感じ、俺は、笑いそうになったのである。
俺たちはその後、しばらくの間、松永の婆さんと話した。いる人、いなくなった人、くたばった人、通り過ぎていった人……それは色々だ。松永の婆さんは何度か同じ話をした。俺たちは何度同じ話を聞いたって、ちっとも退屈はしなかった。松永の婆さんが元気である、その事実だけが、俺たちを温かくしてくれたからだ。
一時間ほど話をした。
「松永さん、そろそろ俺たちも行かにゃならんとこがあるけえ、行くわ。お茶、美味しかったよ」
「ほんとかいね。なんももてなせんと……今度来るときは言ってよお。おいしいもんちゃんと……ねえ」
今度って、いつなのだろう。思う。だけどそれは、誰もが思っても言わないし、言えない。言う意味もない。いま会えた、それが全部なのだ。
「その時はもちろん声かけますけえ」
それは不誠実な言葉なのだろうか。履行できない約束をすることだって、たまにはあっても、いいのではないだろうか。俺は、今のところ、そういう結論にしか行き着けない。
「そうそう、裏にビワがなっとるんよ。知っとる?」
お茶を飲んでいる最中、松永の婆さんがそう言った。
「知っとるもなにも、あれを植えたんは僕ですよ」
「そうなんかいね!アレね、毎年実がなってねえ……近所の子らが取りに来るんよ。そうかいね、あんたが植えたんかいね……ビワがようなってね……」
俺はもうこの団地にはいない。何のよすがもこの団地にはない。だけど、俺が戯れに植えたビワは育ち、松永の婆さんは、その話をしてくれた。
「ビワがなるのはいつくらいかねえ」
婆さんは言った。
「たぶん、2月くらいですよ」
兄が言った。
「じゃあ、そのくらいに来れたら、ビワを一緒に食べようや」
婆さんは言う。
「もちろんですよ」
全く不誠実な言葉だった。俺は即答した。それ以外に言える言葉を、俺は、何も知らなかった。
「松永の婆さん、くたばってなかったな」
玄関のドアを閉めながら俺は言う。
「お前はくたばってるとか言い過ぎなんだよ」
兄が言う。
「しょうがねえじゃん。俺は兄貴と違って下関のことをよく知ってんだかんよ」
俺が言う。
「例えば?」
兄が言う。
「こういうのとか。絶対知らないだろ」
俺はそうして、松永の婆さんが住んでいる部屋の隣の家、要するに今はもう、何年も空家となってしまった、かつての生家の窓に手をかける。
「開くんだよねー」
からから、と音を立てて窓が開く。覗き込む。がらんどうとなった部屋が俺たちを覗き返す。それは確かに俺たちが生まれ住み、育った、五畳半の『子供部屋』そのものであり。
「なんで鍵かかってないの……」
「思うわな。俺も思うわ」
俺たちはその後、祖父母の墓参りに行った。
酒をしたたかに飲んだあと、兄に訊いた。
「俺は何度かさ……あそこの窓が開いたりして、それで部屋を眺めてたんだけど、兄貴はあれだろ、本当は入りたかったんじゃないの?」
兄は即答した。
「お前がいなかったら即座に入ってたよ」
それは社会規範に触れる行為だからよろしくねーよ、と俺は笑いながら答えた。だけどいつか兄貴はそれをするだろう。そしてそうする兄貴の姿を想像するだけで、俺はいつでも愉快な気持ちになれるだろう。
ショートトリップ。
俺たちは想い出迷子になったのさ。
読む人によって、その響きは違うけれど