請願してくるのである。付き合った女は、非常に高い確率でそういった形式の申し出をしてくるのだ。一般化できる話なのかは分からない。ただ俺の経験則上、こう頼んできた女は9割を下らなかった。
生まれて初めてその言の葉を耳に受け止めたとき、比喩でも何でもなく目の前が真っ白になった。こんな名前を冠したブログを運営していながら言うのも何だが、基本的に俺は物凄くピュアなのである。ウソと思われても仕方がないが、21歳になるまで正常位くらいしかしたことがなかったし、25歳になるまでフェラチオをさせてそのままザー……いや、低劣な表現を避けるために言い換えよう、精液的なものを飲ませることも 『とんでもないことだ!』 と思い、忌避していたくらいである。要するにそのくらいピュアだった、無垢であった……ということを主張したい。アナルファックを初めてしたのだって28歳になってようやくのことであった。掻い摘んで言えばそのくらい純情だった、潔白だったのだ……ということを表明したいのである。
少し俺の話をしよう。いや、いつだって俺の話しかしてないのだが、そこは忘れて頂いたという前提で、俺の話をしよう。
俺は本州の最西端、山口県は下関市、上田中町、白雲台のR10という市営団地、そこの三兄弟の末っ子としてこの世に爆誕した。物心がついた時には5畳の部屋にオスが三匹叩き込まれる、というソドム感満載の部屋ですくすくと成長した。部屋にはいつでも乳酸の臭いばかりが漂っていた。もう何年かすると、ザー……いや、言い換えよう、精液的なスメルも混ざりだしたことは、敢えて言うまでもない。
ソドムの中で育った俺が、無意識的に女性を神聖視するようになったのは不可避な事実だったのかもしれない。若い女のサンプルケースなど身近にはどこにもいなかった。加えて俺は高校を卒業するまでの間、鉄壁の童貞を貫いた。もちろん16歳の頃からおっぱいパブに足繁く通っていた事実も同時に存するが、それは別に
「金銭を介在したおっぱい」
という意味でしか有り得ず、俺の中では
「金=おっぱい」
という方程式が生ずるに留まったし、彼女たちも心の涙を流しながらおっぱいを許しているに過ぎない……と、クレバーに考えることができていた。だから、いかに金でおっぱいを揉もうとも、俺の中で女性という存在は清廉潔白な存在であり続けたのである。
女性に性欲など存在しない。あるのは、ただ愛情の延長線上にある情念だけなのだ。そしてそれが、セックスという行動形式で以て発露するのだ。俺は確実にそう信じていたし、その想いを携えたまま上京、入学、そして彼女を作り、童の貞を散らした。すまぬ…すまぬ……と、心のどこかで想いながら、念じながら、あるいは、祈りながら。
だが、皆様にしてもとっくにご存知であろう。
幼い頃に抱いた憧憬は、並べてが砂上の楼閣に過ぎない。
虹はある、虹をつかむことができる。
そう信じるのは個人の自由だ。
夢や理想、あるいは夢想。並べて存在していい。
それと同じくして、現実は厳然とした様相を保ち、存在し続ける。
「ねえ、舐めてもいい?」
えっ、タダで……?初めて迎えるフェラチオ・シーン。口淫との出会い。ロハでするのか?!無料で!!?俺は本当にそう思ったし、だって、こんな、チンポだぞ?尿を出す部位に対して、ご飯を食べる器官が、そんな、アカン!俺は思わず自分のチンポを二度見した。既にギンギンに屹立しているそのものを見るにつけ、心の中にビリー・ジョエルの 「honesty」(誠実さ) の楽曲が乱れ流れた。
混乱と迷妄とが俺を包み込む。どういうことなんだ?!これは。俺はこれまで街中でチン……言い換えよう、ペニス的なものをねぶる女の姿など見たことがなかった。見たことがない、ということは、存在しない、ということだ。AVでは見たことがあった。だがそれは、要するに、金銭が介在した果ての姿でしかない。タダで!?やはり思考の帰着点はそこにしかあり得なかった。
「じゃ、じゃあ、ひとつその、舐めを……」
何が正解か、それを掴みあぐねた俺は、そう返すのが精々だった。真実の話である。心の中は期待と不安で一杯だった。その反面、俺は童貞を捨てるより遥か昔にお年玉を握り締め場末のピンサロでフェラチオをしてもらった経験は有していた。
それはそれ、これはこれ。
今回の日記はそういう話である。
結末から話せば、その女性から放たれるフェラのチオ部分は、まさに妙技だった。こんな酷薄なエピソードもない。舐められることすら戸惑っていたところ、いざ舐めの現場に臨んでみるや、その仕事たるやプロをも凌駕する匠だったのである。俺は自分がプロとの対戦経験を有していたことを呪った。同時に「タダでこれか……」とも思ったが、これは内緒の告白である。
どんなにタフな環境であれ、時間が経てば人は順応する……という。それが実際のことなのかは分からないが、少なくとも俺はしばらくして、具体的には3日くらいして、フェラチオをされることには慣れた。人という存在は怠惰であり鈍麻である。歳若い頃となれば一層そうなのかもしれない。
「どれ、舐めてくれたまえ」
「はい(チュパチュパ)」
実際にこういったやり取りがあったワケではないが、心の中ではそのくらいの感じだったに相違ない。ホモサピエンスとは順応を長所として生存域を増やしていった種なのである。俺だって例外では、いられなかったよ。
だが、それでも。ここまで読んだ皆さんにおかれましては甚だ薄ら寒く聞こえるであろうことは承知の上、言わせて頂きたい。それでも俺は、あの日、あの夜、あの19歳の刻。
「女はピュアで無垢なんだ」
信じていたのである。あるいは願っていたのだ。
「タダでフェラチオはするけど、それでも女は純潔で真っ白なんだ」
それは、花。
名もなき風に揺れる、名も知らない一輪。
存在するだけで価値がある、儚い一茎。
誰に観測されずとも、そのたたえる美しさは誰にも否定できない。
それは、孤島に咲く、花。
「ねえ、オナニーしてるとこ、見せてくれない?」
金返せテメエ!!?!!??いや、払ってないけど。払ってないけど金返せ!俺は確実にそう思ったし、いまタイムスリップしても同じ想いを抱くだろう。瞬間、俺は脳細胞が10の24乗ほどの個数が破壊される音を聞いた。気がした。
俺は説いた。男のオナニーはそんなに安いものではないと、誠心誠意説いた。世阿弥の言葉すら引用した。秘すれば花、秘せずは花なるべからず……と。
「世阿弥のその言葉はそういう意味とちゃうと思うんやけど」
クソっ!小賢しい。なまじ学歴のある女と付き合うとこういうことになるのか。そういえばこいつ、文学部だったな……どっちにしたって世阿弥だってオナニー姿は見せまいよ。そこまで言わなきゃダメか?世阿ニーしなきゃお前は収まりがつかない、とかそういう話?やめろよ。世阿弥は関係ないだろ。こんな下らない文脈で名前を出してしまった世阿弥、並びに観阿弥サイドには、本当に申し訳の言葉すらない。
最終的に、俺がオナニーをする姿を見せることはなかった。当たり前の話である。何が悲しくてあんな姿を野に放つというのか。世に晒すというのか。自慰、という言葉は正しくそのものであり、他人を慰める時点で自慰ではなくなる。望まれない衆目の中でする自慰は自慰としての価値を保持するだろうが、望む誰かの前でする自慰は、最早自慰ではない。あいにく俺にそういった性的傾向は存しなかったし、これからも具備することはないだろう。
自分を慰める瞬間、その刹那。
悪いがその時は、孤島に咲く花でありたい。
「オナニーをしているところを見せてよ」
それは女から男に対する提案であっても、男から女に対する提案であっても、どちらでも有り得る話だろう。ややもすれば、後者の方が案件として顕在化しやすいかもしれない。それが悪いとは言わない。性的傾向、それはある種の自己表現でしかない。その在り方の善悪を規定することは、誰にもできない。
「オナニーしてるとこ見せてよ、肉さん」
「死ぬか?」
だから、否定することも自由だ。普通はさあ…なんて概念に落とし込むようなことも、絶対にあってはならない。ただ揺蕩う感情の一点として、そういう事象はあっていい。現象は肯定する。俺に向けられたものだけ、全部否定する。
女性は、女は、清く正しく、潔白に。
俺は勝手に、そう想い続けるだけだ。
孤島に咲く花を想うようにして。
この一文が肉さんのピュアさ&ゲスさを端的に表している。