こういうことを言うと、大抵
「まあ、あの人は思考停止してしまったクソ野郎のミソ野郎なのだわ……」
とか
「そうやって易きに与して安寧を得ようとする場末の痰壷の如き精神、まことに悪辣極まりない……」
などと言った視線、目線、精神波、などを受ける。情報過多の坩堝と化してしまった昨今において、「決まり事」というものは唾棄すべき対象として見られがちだからだ。
気持ちは分かる。価値観が多様化してしまった昨今だ。旧態依然としたやり方に囚われる必要などどこにもない。あらゆることがらが詳らかにされている現在では、己が責任において様々な知識、知恵、あるいは見識などを得て、その上で自らの人生の処し方を考える……それが自然であろう。
そこにあって、ただ『そうあるもの』として在り続ける「決まり事」。概念自らが自らを一顧だにせず未来永劫そこに鎮座ましますように見えてしまう「決まり事」のことを、少なからず好ましく思わない人たちがいたとしても、それは論理必然のことなのかもしれない。
目上の人を敬え、食べ物を残すな、無益な殺生することなかれ……こういうものが決まり事である。なるほど、その一つ一つに対しつぶさに考えてみれば、『なぜそうなのか?』という答えまでもが内包されているわけではない。感覚的に理解できるものはあれど、どうして目上の人を敬わなくてはならないのか?なぜ食べ物を残してはならないのか?いかにして無益な殺生を咎めることができるのか?賢しくなってしまった現代人に対し、かかる問いに対する明確なアンサーを施すことは難しいだろう。
その意味からすれば、決まり事なんていうものは破られて然るべきものなのだ。決まり事は決まり事であるから決まり事なのである……などという説明はトートロジーでしかない。これは大事なのだから守れ!と叫ぶのは簡単だが、それは専横を強いる暴君のやり方に近しい。決まり事なんてファックだ!そう嘆き哀しむ若人を爆誕させるやり方でしかない。
「クンニは、しなければならない」
憂う先達に申し上げたいが、若者というものは例外なくバカだ。彼らは 「何者からも自由になりたい!」 と願いながら、自らを心の牢獄へと身を投げてしまうイキモノである。決まり事なんてクソだ!と叫びつつ、自らを決まり事の煉獄へと堕としてしまうカルマを背負っている。
「ここで、手マンをしなくては……」
そんな法はどこにもない。あってはいけない。それでも彼らは自縄自縛の中でしか自らの価値を見出すことができない。行動様式、こいつがなければ今の若者は一歩だって先に動くことはできないからだ。
「良かっただろ?」
女は思う。あの時点で手マンもクンニもする必要ないくらいに濡れてたんだからさっさとブチ込めよ、と。そんなことを。だが女はそれを言わない。なぜか。女は社会に生きる存在であり、男は関係に生きる存在だからだ。女は関係に生きない。ゆえに義憤が重なろうとも、つまらない男との「関係」それ自体には場当たり的な我慢を施す。男は社会に生きない。場当たり的な「関係」が満たされれば、そこから先に待ち受けるであろう「社会」に対して想いを馳せない。シャセイ・トゥナイト。イビキをかいてグースカ寝ることだろう。
結果として「関係」のみに生きた男は、あの時にはおとなしかったであろうとも、「社会」の義憤に駆られた女から、後に「社会」的に殺されるだろう。大体そういうものである。
決まり事なんてクソだ!そんな若い息を吐いた彼らは、己の中に身勝手に生まれた「決まり事」に沿って無意味な前戯をするだろう。それを、どうしてか?と問うても、彼らの中に答えはない。なぜならそれは「決まり事」なのだから。とても浅く、とても切ない、決まり事。
「そういうことも、あったなあ……」
先人は賢人である。往々にして愚でもあるが、シモの話とあっては、先人は大抵にして賢者だ。あなたが経験し得る失敗、そいつは確実に先人も経験されておられる。
「俺、俺は、力いっぱい、彼女に奉仕したんですよ。なのに、それだっていうのに……」
奉仕をした。何かをして「あげた」。あなたはそう思うかもしれない。だがそれは誰かが望んでいたことなのだろうか。そういうことをしている自分、それに酔っていただけのことではないのだろうか?爛々と花咲くひまわり畑にもう一株のひまわりを埋めるが如き行為は、果たして、本当に必要だったのか。ひまわりを埋めることが尊いと、あなたが勝手にかかる「決まり事」を己に対し妄認させていただけ、それだけのことだったのではないだろうか。
きっとあなたは言われることだろう。クラスで、職場で、コミュニティで。「あいつは既に濡れている大地に対して執拗に湿度を求めるフィヨルド野郎よ」と、そんな無慈悲なことを。だがそれは致し方のないことなのである。先人の意見も鑑みず、自らの浅薄な知見で得た経験則から誰かの人生を支配せんとしようとした……そんな高慢な行動に打って出たのであるから。
「それは、愛ではなかったな」
優しいトーンで。先達は囁く。彼らは誰よりも優しさの意味を知っているからだ。あなたはその時、はじめて、かつて彼らに吐いた辛言を後悔するかもしれない。己が蒙昧であった事実を激しく省みることもあるだろう。
だけど、あるいは、それでいいのである。
「なあ、兄ちゃん。俺も昔はそうだったさ。無知だったからさ、メディアや流言飛語にオイラを忘れちまったこともあった。でも、それでいいんじゃあねえか?いや、確かにお前さんの哀しみはお前さんだけのもんだ。それ以上でもそれ以下でもない。その時のお前さんは全力だった、こいつはもう糊塗しようのねえ事実だ……だけど、人の足は何のためにある?前へ前へと進むためだろう。人の頭は何のためにある?昔を、過去を忘れないためだろう?お前さんが最前まで抱いていた決まりごとは木偶でしかなかった。これが分かっただけで、随分と良かったんじゃあねえのかい?」
人は今しか生きられない。生きることができない。それでも過去は絶対的にある。それは自分のもののみならず、自らを取り巻く、全てをひっくるめた、過去が。
「おやっさん……!」
唾棄すべきもの。一度はそう思った「決まり事」。だけど、本当にそうだったのだろうか?失敗と悔恨と諦念とが詰まった「決まり事」というものは、本当は、目の明るくない僕たち、蒙かった僕たちを啓いてくれる、大事な大事な指標だったのではないだろうか。
「おやっさん!」
今なら分かる。今だから、分かる。見えやすく分かり良い経験則なんて、疑ってしかるべきなんだ。本当に大切なものは最初からあった……何て、まるでよくできた寓話みたいでイヤだけれど。
「おやっさん、俺、どうしたら!」
「そらもう、アナルファックよ」
――こうやって、人はまた新たなる決まりごとに心を託す。
決まり事、それは決して形のないものだ。
けれども、誰しも心にそれがなくては生きてはいけない。
「俺も昔はそんなことがあったなあ……」
押しなべての決まり事は、きっとそうやってできていくし、だからこそ眩いばかりに、尊いのである。
2か月程前に初めて来ましたが、また帰ってこられたようで良かったです。
おやっさんぇ…