
少し長めのSSです。長いのはイヤン、という方はスルーして下さいな。
■追記
今回の日記は昔なんたらかんたらさんの方で紹介してもらったものなのですが、こちらのブログの方にログを残していなかったので加筆・修正を加えて再掲載するものです。悪しからずご了承下さい。
僕の唯一の友達が突然家にやって来た。
「よう」
口の端をピクピクと痙攣させるように持ち上げながら、彼は軽く手を上げる。彼はこのようにしてしばしば笑っているような表情になるのだが、それは別段意識してのことではないそうだ。
「相変わらず不健康そうだな」
「お互い様だろ」
軽口を叩き合いながら部屋に向かった。こいつと僕とは、境遇が良く似ている。 僕らは根本的に社会生活を営めない、典型的な引きこもりだ。 今はもう親のスネを齧れる歳でもないから、非合法な方法を駆使して生活保護を受けて暮らしている。日がな家でゴロゴロして暮らすだけの、ぬるい生活。何も生み出さず、何も考えず、ただ生きている人生。
「お前さあ、先月の振込みあった?」
「いや、ない」
友人が丁度同じ悩みを抱えていたことに驚いた。先月から生活保護の給付が途絶えてしまったのである。それも一切の通知もなく、突然に。とは言え、もともと不正な方法で生活保護を受けていたのであるから、もしかするとそれが露見してのことかもしれない。
「どうするよ」
「どうしようか」
僕がこのようして会話をするのは、いや、およそ人と接する機会があるとすれば、全てにおいて彼のみだ。そして彼もまた同じようなものらしい。
僕らは26歳にもなって、満足に人間関係を築けずにいるのである。
「まあ、別にこのまま死んじゃってもいいしな」
「そんなに楽しいことがあるわけでもないしな」
乾いた言葉が部屋の中をゆるゆると駆ける。部屋の窓は小さくしか設えられておらず、だから僕の部屋は昼間だというのにばかに薄暗い。
「あの、さあ」
「なんだよ」
畳の井草をぶちぶちと摘んでいると、友人がぽつりと喋り始めた。この草をまとめて紙にくるんだら、タバコの代わりくらいにはなるかな、そんな愚にもつかない思考を巡らせながら漠然と友人の言葉に耳を傾ける。
「お前、最後に家出たのって、いつ?」
「最後に家を……ああ、半年前くらいかな。それが?」
「いや、俺も今日お前の家に来たのを除いたらそんなもんなんだけどさ。それで、半年前から今まで、誰かと会った?」
「いや、ないな。そう言えば、ない」
「うん、俺もお前と会っただけなんだよな」
僕らが半年もの間誰とも会っていない、と言えばそれは不思議に思われるかもしれないが、僕らが今住んでいる土地は生活保護の受給の関係でひどく辺鄙な場所にある。その故に近隣には人通り自体少なく、だから人と会うまいと思えば本当に会わずに済んでしまうのだ。
年に数度ほど食料品を買いに街まで下りることもあるが、その時は友人の車に夥しい数の缶詰や乾麺を詰め込むようにしている。そういう風にしていれば頻繁に買物をする必要はなくなるし、だから人に会うこともなくなるのだ。
「それがどうしたの?別に大したことじゃないじゃん」
「いや、ま、そうなんだけどさ」
そこで友人は口をつぐんだ。何かを言いたそうな感じではあるのだが、喉の奥の最後のところで言葉を出しあぐねている、そんなような印象を受けた。僕は相変わらず畳の草をぶちぶちと摘む。
「あのさ、ウチ、電気止まっちまって」
「あ、ウチも」
正直に言えば、現状電気のみではなく、ガス、水道などおよそ公共サービスと呼べるものは全て供給が停止されていた。もちろんそれは先月から生活保護金の給付が断たれたことに故を発するのであろうが、それでも一ヶ月の滞納でいきなりあらゆる資源が断たれるものなのだろうか、とひどく驚いたのを覚えている。
幸い家からは川も近くにあり、必要とあればそこから水を汲んできていたので水に関しては大して問題はなかった。人間、水さえあれば案外なんとかなるものである。
電気がないのは不便であるようにも思ったけれど、ないならないで朝起きて夜寝る習慣が体に根付き、また人に会わない以上風呂に入らずとも大した不便はなかった。唯一、インスタント麺を作れなくなったというのが不便らしい不便であるが、そのくらいのものである。
それにしても、友人と僕がここまで酷似した状況に置かれていたとは、と半ば唖然とした気持ちを抱く。やはり社会性のない人間に、極端な形とはいえ社会生活を営ませるのは無理なのかもしれないな、そんなことを漠然と考えた。
「どうした?それで様子が変なの?」
「いや、ま、それもあるんだけどさ……その、なんというか」
そこまで言って彼は口をもごもごとし、言葉を濁す。寸前までと全く同じパターンだ。どうしたのだろう、と思ったが、別段彼の話すことにそこまで興味はなかったので、再び畳の草をぶちぶちと摘み、戯れにそれを口に入れてみた。すえた臭いが鼻腔を貫き、僕は慌てて草を吐き出す。思わず外の方に目を遣ると、そこには青空が広がっていた。久しぶりに見る空を眺めながら、長いあくびを一つした。
三十分ほど経ったころだろうか、僕は少しだけうとうとしながら縁側に座っていると、彼はようやくと口を開いた。
「なあ、俺って、俺らって、生きてるのかな」
「え?」
それはこの日一番突拍子のない言葉だった。僕は彼の意図することが何も分からず、口をぽかんと開けて彼を見つめた。彼は相変わらず口をもごもごさせながら、たどたどしく言葉を継ぐ。
「いや、俺、思うんだけど、確かに俺ら、今こうして喋ったり、呼吸したり、水飲んだり、してるよ。けどさ、だからってさ、生きてるって、言えるの?ていうかさ、もしかしたら、俺らって、俺らが気付いてないだけで、もしかしたらもうずっと前に死んでるんじゃないの?だから、誰にも会わないし、誰とも関わらないでもやっていけてるんじゃないの?そういう風に思ったこと、お前、ないわけ?」
「何言ってんだよ、お前」
そう言って僕は笑い飛ばそうとしたが、その声を笑いで消すには友人の顔はあまりにも真剣に過ぎた。ひとつ息を吸い込んで口角を上げてみるのだけれど、結局口からは少しの笑いも漏れなかった。
「俺、電気が止まった時に思ったんだ。これは、金を払ってないからとかいうよりも、もう俺が死んでるから止まったんじゃないのか、って。死んだ人間に電気を送っても、意味がないからじゃないか、って。それ以来、俺、怖いんだ。自分が、もう死んじゃってるんじゃないのか、って。だから誰とも会わないし、会えないし、話もできないし」
「待てよ!待てって」
先ほどまでの寡黙さが嘘のように友人は流麗に言葉を紡ぐ。思わず圧倒されかける自分自身を感じながら、僕は胸の中にどうしようもない不安が広がっていくのが分かった。
「落ち着けよ。いいか、お前は、今俺と話してる。そうだろ?だからそんな風に思いつめても」
「だから、お前も死んでるんだよ、きっと。だったら、辻褄が合うもの」
彼はそう言うと自分の言葉に対してうん、そうだよな、と首を縦に振った。正直、どこがどう辻褄が合っているのか分からなかったが、しかし僕はそれ以上何も言えなかった。
僕もずっと以前から、彼と同じように考えていたのだから。
人間は社会に生きる動物である、と誰かが言っていた。では、社会と隔絶した僕らは、もはや人間ではないのだろうか。いや、もはや生きてすらいないのだろうか。
手を握って、開いてみる。手は拳になり、そして掌を露わにする。世界は何も動かない。
仰向けになったまま、ごろりと体を反転させてみる。視線はカビた天井からぼろぼろになった木枠の窓に向けられる。世界に動静はない。
あああ、と何もない空間に向かって声を出してみる。世界は何も答えない。
僕は世界に何も及ぼさない。
世界は僕に何も及ぼさない。
では、僕はいま、生きているのだろうか。
彼はしばらく考えたが、どうにも答が出なかったので力なく瞼を閉じた。
遠い景色が蘇る。
夕景、僕はあぜ道を通って家路を急ぐ。
じっとりと汗で滲む額をランニングシャツでぐいと拭い、虫かごを片手に砂利道を駆けている。
背後には大きな山々が聳え立っていた。
夕焼けを背に、山は緑をその身に隠し、ただひたすら黒く、そこにあった。大きく、暗く、どこまでいっても相変わらず「そこ」に存在する名も知らぬ山。
僕は夕刻の山が嫌いだった。
畏怖していた。
ばあちゃん、僕、あのお山が怖い
戦利品であるオニヤンマの入った虫かごを祖母に見せながら、僕は祖母の膝にすとんと腰を預けた。
祖母は虫かごの中のトンボに向かい人差し指をくるくると回す。そのまましばしトンボと戯れたあと、思い出したように口を開いた。
お山さんにはなあ、ヤマビコさんがおるけえねえ
「ヤマビコ」が「山彦」となって僕の頭で結びつくのは、それから何年かしてからのことだった。
おばあちゃん、ヤマビコさんってなに?お化けなん?
僕は、見たこともない「ヤマビコ」を、何か鬼や化け物のようなものとして想像し、祖母の膝の上でぶるっと震えた。そんな僕の様子を見て、祖母は僕の頭を優しく撫でながら言葉を継いだ。
ヤマビコさんは、ヤマビコさんよ。
怖あないよ。
私も死んだらヤマビコさんになるんやけえ。
祖母はそう語りかけてはころころと笑った。僕は結局祖母の言葉の意味を掴みかねたが、祖母がおかしそうに笑うのを見て少しだけ安堵を覚えたのだった。
「……あ、なあおい」
「……ん」
友の声に目が覚めた。すっかりすぼまってしまった瞳孔に、太陽光が眩しく響く。どうやら少し眠っていたようだ。心配そうに僕を覗き込む友人。その怯えを讃えた瞳の色がなぜか、追憶のあの日山を怖がった自分の姿と重なった。
「俺らは、ヤマビコさんになってしまったのかもな」
「え?何?ヤマビコさん?」
「うん。あのさあ、俺、大学にいるときに民俗学を専攻してたんだけど――」
そう前置きして、僕は彼に祖母から聞いた話、【山彦伝説】を説明した。
死んだ人間の魂は、山彦となって山に住む
山に登り、そこから大声で叫べば、その声は木霊して辺りに響き渡る。概してこの現象を山彦と呼ぶのだが、僕の故郷の人々はその現象を指して
「他界した者たちの魂が自分たちの声を投げ返しているのだ」
と考えた。だから、死んだ人は「山彦さんになる」のである。祖母のあの時の言葉がこのような意味を持つことを、僕は中学校に上がる頃にようやく知った。とは言えその当時はそんな迷信めいたことを信じるべくもなかったのであるが。
山彦伝説が伝わっているのは、Y県A村。そのA村にはかつて彦という男が住んでいた。
彦は農村の生まれだったが、生まれつき頭が切れ弁の立つ男であり、彼が大人になり農作業に参画するようになると、それまで村の人間が踏襲していた慣習や農作業のやり方を次々と合理的なものへと変えていった。そのように辣腕的だった彦は土地の大地主にも気に入られ、次第に財を蓄えていった。
彦は同時に、周りの村民から妬みつらみを買わぬよう巧みな弁舌で自分以外の村民の自尊心をくすぐったり、時には脅しすかしたりしながら確実に自分の地位を固めていった。正直・愚直を第一としたA村において、彦だけはそしらぬ顔で嘘を吐き接待じみたことをしつつ身を立てていった。
彦はつまり、いわゆる現代的な処世術を当時にして先天的に身に付けていたのである。
そんな彦は、ある日隣村の山に登る。そこでは良質の木材が取れる、と聞きつけてのことだった。農民が木を切る、とは随分な話であるが、彦は既成概念に囚われるということがなく、どんなことであれ幾許でも金になる可能性があれば何にでも首を突っ込んだ。
その隣村の山の中で、彦は美しい女性に出会う。山も中腹に差し掛かった頃であった。
畑仕事で体力には幾分の自信があるとは言え、慣れない山道は容易に彦の体力を奪う。目ぼしい木々もなかったことであるし、そろそろ引き返すかな、と彦が思った時、ふと川のせせらぎが鼓膜をくすぐった。丁度喉も渇いていたこともあり、彦は音のする方に歩みを進める。
そこにはなだらかな清流があった。ごつごつとした岩肌の中、その周りだけは緑に囲まれ一種幻想的とも言える風景を作り上げていた。彦は、ほう、こんなところが、と驚いた気持ちを抱きつつ足早に川のほとりへ向かった。さらさらと流れる川。彦は両手を柄杓にしてその中に差し入れた。ひんやりとした感覚が掌を包む。彦はそのままぐびぐびと喉を鳴らして水を飲み、ふう、と息を付くと同時に川上に目を遣った。
彦の視線の先では、一人の女が水浴みをしていた。彦は思わず目をこする。その女の周りだけ一層光が強く差し込んでいるようであり、何より遠目に見てもその女の美しさはただならぬものであったからだ。腰まで伸びた黒く長い髪。すらりと伸びた四肢。控えめでありながら、しかし凛とした存在感を誇る乳房。およそ異性への興味のなかった彦であるが、その女から視線を外すことは遂に適わず、彦は一瞬で恋に落ちた。
いや、厳密に言えばどうあっても女を我が手にしたい、とその心に願ったのである。
彦は物音を立てないように、そっとその女のもとへ近づいた。ここには余ほど人が来ないのであろう、女は何ら警戒することなく穏やかな表情で水浴みを続けている。彦は背後からそっと近づくと、よお、と声を掛けた。女は、はっとした表情で彦の方を振り向くと恥ずかしそうに両腕で体を押さえ、その場にうずくまった。驚くほど長い睫が雫に濡れている。やはり美しいな、と彦は思った。
しばらく待ったが、女は立ち上がろうともせずじっとその場にうずくまったままだった。突然声を掛けられたのだものな、仕方あるまい、彦はそう思いながら
名前は?
とだけ問うた。女は顔を上げ、ひどく不思議そうな目で彦を見上げる。白目の部分の少ない、栗色の瞳。彦のことを見ているようで、その実何も写っていないような、不思議な眼をしていた。彦はもう一度先ほどと同じように女に尋ねた。
名前は?
今度はその言葉がはっきりと届いたようである。女は口をぱくぱくと開き、何事かを言おうとしている。彦は近寄って、女の声を聞こうと耳をそば立てた。すると女の口からは、ううう、ああ、と声にはならない呟きだけが漏れるばかり。
知恵遅れか
彦はそう考えた。おそらくこの女は自分の声には反応しているのだが、その意味を掴むことはできていない。いや、それどころか言葉すらも持っていない。そのことに恥じた女の両親は娘と共に山に篭って生活している、おおよそそんなところだろう。であるならば俺が無理やり手篭めにしても、こいつは何も喋ることはない。
そして彦はその女の手を引き無理やり茂みに引きずり込むと、乱暴に「こと」を行った。獣のように荒々しく、ただ己が性欲を満たすためだけの行為。ひととおりのことをし終えた彦は、懐に入れてあった幾らかの銭を女に無理やり握らせると、満足そうな顔で来た道を引き返したのであった。
彦には知る由もなかったことであるが、女は山の神の娘であった。山の神は娘の口から彦にされた行為を伝え聞き、激昂した。それ以前よりふもとに住む人間たちが徐々に文明のようなものを持ち始め、山に踏み入り木を切り倒したりするのを好ましく思ってはいなかったが、目に余るほどのこともなかったので寛容に受け入れていた。
しかしながら、その結果がこれである。山の神は己の浅はかさを悔やみ、人間の傲慢さを呪った。山の神の怒りは朽ちることなく燃え盛った。人間というものは、一人一人は矮小で脆弱な存在であるのに、集団となり卑しく肥えた脳を使って文明を持ちて力を付け、我らに仇をなす。憎い。彦が憎い。文明を持った人間が憎い。集団で己が身を守る全ての人間が憎い。
憎いのだ
これより山の神は、死んだ人間の魂を天国に向かわせるとも地獄に向かわせるともなく、未来永劫山の中に留めることと決める。人間界ではこの時より輪廻の輪が絶たれ、山の神の強い怒りと悲しみを受けながら山の中で数々の贖罪と悔恨とを味わいつつ常世を生きる。
言葉を持たぬ魂は、辛酸も絶望すらも口に出すことは許されない。ただ一つ、山の神が許したのは未だ形ある人間の言葉を反唱することのみ。それは、彼らがかつて人間であったことを忘れさせないためであり、なぜ己がここで苦しんでいるかを永遠に刻みこませるためである。
これが、彼が研究を通して知った山彦伝説の全てである。そういえばこんなことも調べたな、と彼はひどく懐かしい気持ちを覚えながら、故郷で一人の老人から聞かされた言葉を思い出した。長らく忘れていた言葉だった。
しかし、なぜかその言葉だけが頭の奥に引っ掛かり、結局研究レポートの末尾もその言葉で締めくくったのだった。思い出す。心の澱、胸の底のそのまた底の方にある部分から当時もっとも引っ掛かった言葉を掬い上げた。
「山彦は、死んだ人間には響かんよ」
当たり前の話だ。死んだ人間は物理的に喋ることはない。だとすると、当然山で叫ぶこともできないし、だから山彦が響くこともあり得ない。何を改めて、と老人の話を聞いた当時は鼻で笑ったように思う。
山彦は死んだ人間には響かない
しかし彼はその言葉を忘れることはできなかった。死んだ人間は喋ることができないから山彦は響かない、かつては単純にそう思った。
今、彼は思う。本当にそうなのだろうか、と。あの老人の言葉はそれだけの意味だったのだろうか。生きるか、死ぬか。その尺度は絶対的なものであり、生きてない人間は死んでいる。死んだ人間は生きていない。我々はそう考えている。
けれども、生きるの死ぬのというのはもしかしたら本来的にもっと曖昧なもので、実際は我々が考えている「生」の中にも気付いていなだけで実質的な「死」を孕んでいる可能性があるのではないか。それは認識していないだけで、当人は生きていると信じ込みながらも実は既に死んでいる人間が存在し、そしてその人間は、喋り、歩き、呼吸もできるのだけれど、山に登って声を叫んでみると――
山彦が響かない
そこで初めて、自分の死に気付く
老人の言いたかったことは、こういうことだったのかもしれない。そして僕は考える。
僕に山彦は響くのだろうか
色々と思い出しながら友人に説明を為すうちに、そんなような思いが胸に沸いて、根付いた。馬鹿らしい、と瞬間的には思うのだけれど、根付いた思いはどこにも消えず、あまつさえどんどんと大きくなり、だから、僕は――
「俺たちはもうヤマビコになってんのかもな」
僕の話を聞き終えた友人はさらりとした口調でそんなことを言うと、しきりに、そうか、そうだよ、と頷いた。
「おい、他愛もない民話だぞ、本気にするなよ」
「いや、でもさ、天国でも地獄でもない場所ってどこ?それって今俺たちが生きてる世界ってことだろ?だったらさ、俺らが死んだまま今こうしてやり取りしてても、全然おかしくないってことじゃない」
「作り話だよ」
「そうかな。でも、お前はじゃあどうしてそんな話を俺にしたの?お前だって本当は、生きてるか、死んでるか、不安に思ってるんだろ?」
言い当てられて、僕は狼狽した。この世界で生きているのは自分だけなのではないだろうか、そんな命題は思春期の内に誰しも一度は抱くことだ。何も特別な考えではないし、だからこそコギトエルゴスムという言葉だって生まれている。馬鹿らしい、哲学者にでもなったつもりかよ――友人を非難する言葉はしかし、喉から出てこなかった。
「行こうよ」
僕の返事を待つことなく友人はすっくと立ち上がる。僕は慌てて腰を浮かせてしまったので微妙な体勢になってしまった。
「行くって、お前、どこに行くんだよ」
「山だよ。山に登ろうよ」
「山って、どうしてそんな……」
「もし、俺らがヤマビコになってるんだったら、俺らにはもうヤマビコは響かないはずだろ?『ヤマビコは人間の言葉を木霊させるだけのために存在する』、だったら人間以外の言葉は木霊しない、そして俺らがもうもう死んでたら、山でいくら叫んでも、ヤマビコは答えない」
それだけ言って彼はすたすたと歩き始めた。
「おい、おいちょっと待てよ!」
僕は大きな声を友人の背中にぶつけながら、靴を突っかけてその後に続いた。靴の履き方が悪かったのか、あるいは狼狽からだったのか、途中で何度もつまづいてこけそうになった。友人はほとんど競歩のような速度で山に向かっている。通りに人は相変わらず存在しなかった。
「山なんて登るの、いつぶりかな……」
家を出て1時間ほど歩いてようやく山に到着した。別段登山者のことを考えた山ではなく、だから道は舗装されていなかった。簡素なスニーカーだったので、足の裏のあたりにゴツゴツとした石の感触があった。ぜえぜえと肩で息をしながら友人は山を登っていく。
「知らないよ……10年は登ってないけど……」
僕もはあはあと口で息をつきながら、懸命に足を上げる。
正直、かなり辛かった。おそらくこの山は私有のものなのだろう、その山道は素人が楽に歩けるようなものではなかった。
「こんな風にキツイのも、錯覚なのかな」
「だったら、さっさと覚めて欲しいよ俺は」
元々少ない二人の口数は、疲れも手伝って更に少なくなっていく。砂利で足をとられながら、急な勾配を呪う。どうして俺はあんな話をしてしまったのだろうか。あんな話をしなければ、今頃――
(今頃?)
反射的に沸いた自分の気持ちに対して、深い疑問の念が生じた。今頃、山を登ってなければ今頃俺は、どうしていたというのだろう。電気も、水道も、ガスも通じていない家で、食料も尽きかけていたような我が家で、一体何をしたというのだろう。話す相手もおらず、語る言葉も持たず、寝て、起きて、また寝て。
(生きてない、のかな、やっぱり)
そう思って彼の背中を見上げた。彼は随分辛そうだったが、一歩一歩ゆっくりと、懸命に、着実に山を登って行った。
「なあ、何で俺らはさ……」
「え、なんだって?」
「何で俺らはさ、死んでないか確かめようとしてるんだろうな。別に、生きてても死んでても、どっちでもいいって思ってるし」
友人はそこまで言うと、ぷつりとこと切れた糸人形のように地べたに腰を下ろした。僕もそれに倣う。少々、無理をし過ぎたようだ。 Tシャツで額の汗をぐいと拭うと、僕らはどちらともなしに語り始めた。
「最初に社会が嫌になったのはいつだったかな……うん、まあいつかはよく分からない。いつかは分からないけど、いつの間にか誰に対しても、何に対しても興味が持てなくなってた。小さいことが色々積み重なったのかもな。努力しても認められなかったり、平気で人から裏切られたりして。最初はさ。やっぱりこんなんじゃダメだな、って思ってた。頑張らなきゃいけない、って。
でも、何に対して頑張ればいいのか分からなかった。
でも、それでも、頑張ろうって思ってた。
朝起きて、頑張ろうって思う。
昼から、頑張ろうって思って、昼になったら、ご飯食べてから頑張ろうって思って、
ご飯食べたら、ちょっと昼寝してから頑張ろうって思って、目が覚めたらもう夜で、それだったら、明日から頑張ろうって思って
でも、その『頑張ろうとした明日』は、いつまで経っても来ないんだ。
頑張ろうとしても、頑張れないんだ。
その内、なんで頑張らなきゃいけないんだろう、って思った。
誰のために、何のために頑張らなきゃいけないんだろう、って。
生きることって、どうしてこんなに複雑なんだろう、って。
昔の人は自分の、自分のためだけに生きてたはずだな、って考えたんだ。
そう思ったら、もう、社会には居れなくなった」
そこまで言うと友人はふーう、と深いため息を付いた。ただひたすら自分と向き合う思考を紡ぐ辛さは、誰よりもよく理解しているつもりだ。僕は「分かるよ」と呟きながら手元にあった木切れを拾うと、誰もいない空間に向かってひゅっと投げつけた。
「でもさ、俺は今こうして山を登って、ちょっと分かったんだ。 山は、たぶん100年も、1000年も前から山なんだよな。変わることなく、ずーっと山。でも、人間は100年経てば結構変わるし、1000年経てばすごく変わる。だって、人間は頑張ってるんだから。頑張らなくても生きていけるのに、頑張って進んでるんだから。それって、もしかしたらすごいことなんじゃないの?
だからさ、俺、頑張らなくても生きていけるって、そんな風に嘯いて、今の暮らししてたけどさ、本当の最初の部分は、やっぱり頑張りたいって、そう思ってたはずなんだよね。だけど、それは思うだけで、すぐに行動には移さなくて、ただ頑張ろう、明日から頑張ろう、ってそんな風に、うん、逃げてたんだよ。自分の心が弱かったから、頑張りたいのに頑張りたくなくて、頑張れなくて、その責任を社会に押し付けて……」
彼は、静かに泣いているような気がした。山は驚くほどの静けさを保っており、注意して聞けば僕の鼓動の音すら響いてきそうなほどだった。
「僕は、逃げてたんだよ」
「何言ってんのか、よく分かんねえよ」
僕はぶっきらぼうに言い放つと、苛立ったような調子で足元に植わっていた雑草を引き抜いた。先ほどまで弁舌に語っていた彼は急に言葉を留め、ひとつ鼻を啜った。目を赤くしてちらちらと僕の方を見ているのが分かる。僕はそれに気付かないふりをしながら、相変わらず雑草を引き抜いた。
「ごめん」
「いいよ、別に」
いいよ、別に。分かんないけど、ほんとは僕にも、よく分かるから。
「ダメだったんだな、俺たち」
「うん」
「生きたい、よな……生きてたいよ、俺は」
「うん、うん」
「生きてたらさ、もう一回、戻ろうな」
ガササッ、と音を立てて木が揺れた。僕らは音のした方向に揃って目を向けた。青い空には、トキのような鳥が大きく舞っていた。
僕らはぜえぜえ言いながらゆっくりゆっくり山を登っていた。お互いもう喋ることはない。あとは山頂に辿り着くのを目指すだけだ。そこに何があるのか、そこで何が待っているのか。それは分からない。ただ、今は山を頂上に目指して登るだけである。
「ようやく着いたな」
名も知らぬその山の山頂に辿り着いた時には、少し日も傾きかけていた。眼下に広がる青々とした森。木。土。僕らは確かにこの足で、自らの足でこの山を登りきったのである。
「ヤマビコ、試してみろよ」
「え、いや、それは」
僕がそう水を向けると、友人は途端におどおどとした様子になった。やれやれ、自分から誘っておいてこの体たらくか、と僕は苦笑しながらかぶりを振る。
「ん?おい、ちょっとあれ」
「え?」
「あれ、人じゃない?」
そう言って僕は遠くを指差す。視線の先、向かいの山には人らしい影があった。
「おい、あれ、結構人いるな」
「もしかしたらあの山は登山の名所なのかな」
向かいにそびえる山には、確かに普通では考えられないくらいの数の人間がいるように見える。とは言え登山なんてとんと縁のない生活を送っていたため、登山というものに関してどれくらいが適正な数なのかは分からないのだから、案外あのくらいは普通の数なのかもしれない。
「あ、そう言えば」
彼は言いながら何やらポケットをゴソゴソし始めると、少しして「あったあった」と呟きながら何やら取り出した。
「これ。オペラグラス持ってた」
「どうしたの?それ」
山に登ったのは全くの偶然の運びであったはずなのに、どうして友人はオペラグラスなんて持っているのだろうか。あまりに出来すぎているその状況に、僕は若干の身震いを感じた。
「いや、俺さあ、たまにこれで空眺めるのが好きだったんだ。星見たりとか」
ああ、そうなのか、と返しながら、そう言えばいつかコイツが星の話をしていたような記憶が蘇る。彼が高校の時の部活はなんだったか、そんなことも思い出そうとするのだけれど、記憶は霞がかって一向に明瞭としない。
「あ、見える見える。人だね、確かに人。やっぱり結構いるよ」
「どれどれ、俺にも見せろよ」
そう言ってオペラグラスを覗くと、視界の先には確かにたくさんの人間がいた。千人?一万人?いや、もしかするともっと?意外なことにそこには外人と思しき人たちも混ざっていた。少しではなく、沢山。だからあの山は本当に観光の名所なのかもしれない。
「ん?」
「どうしたの」
「いや、あの山の人たち、皆揃って何か口をパクパクさせてるんだよね」
「ヤマビコ試してるんじゃない?」
そう言って彼はクスクスと可笑しそうに笑った。
「そうか。にしても、案外声って届かないもんなんだな」
「そうなのかなあ」
「うん、これ見てる限りだと。だからどっちにしてもヤマビコは響かないんじゃ」
すると彼は、急に大きな声を出して、やっほーーー、と叫んだ。僕は少し驚いて、持っていたオペラグラスを地面に落としてしまった。一瞬の静寂があたりを包む。友人は口を固く真一文字に結んでいる。
『やっほーーー』
少しの間を置いて、山彦は僕らの下に帰ってきた。途端に二人の間の空気が弛緩するのが分かった。そうか、僕らはやはり――
「返ってきたね」
友人は心から喜んでいるような表情で、僕の方を見た。僕らは顔を見合わせると、照れくさそうに笑い合った。さて、と僕は息だけの声で呟くと、改めて彼の方に向き直る。
「じゃあ、明日からああ、いや」
「今日から、ね」
「うん、頑張ろう。山を降りたら、すぐにでも」
「だね」
僕らは何か吹っ切れたように弾む足取りで山を降り、その足で街に向かった。
・・・
街は、静かだった。
「静かだな」
「うん」
街には、誰もいなかった。
「誰もいないな」
「そうだね」
街は、とても静かだった。
「おーーーい!!!!」
『おーーーーい!!!!』
ただ、ヤマビコだけが木霊していた。
(終)
【ネタバレ、というか蛇足的な解説。反転したら出てきます】
どうして彼らの向かいの山には大量の人間がいたのか?どうして街には人がいなかったのか?
⇒『人間=社会で生きる動物』と定義すると、『社会と隔絶した彼ら(主人公二人)≠人間』となっていた。そこが前提となります。彼らは人間ではない。
破滅的な勢いで進んでいく森林伐採、環境汚染。そしてある日、山の神が人間以外の動物を残して全て地上から抹殺しました。けれども上述した通り彼らは(概念上)人間ではなくなっていたため、山の神の手から逃れ命を救われました。
そして亡くなった人たちは『ヤマビコ』となって山に存在するようになりました。彼らが見たのは、彼ら以外の全世界の人たちの姿です。
この話は、社会性を失ったことで自然に生かされたのだけれど、社会性の大切さを思い出した時には社会が消滅していた、という何とも救いないお話だったりします。蛇足でした。
人気ブログランキング←
色んな方向を一気に刺激された感じです。
ありがとうございました!
抱いて!
楽しかったです…!
思わず、何度も読んでしまいました
前にどっかで見たような気がするんですけど
肉さん。さすがです。
http://youtubeyourtube.blog95.fc2.com/
面白かったです
また友人が千星さん的な役割してるかと・・
このお話、夜中に読んでしまったら、物凄く怖くなってしまいました。
思わずテレビをつけました。
世にも奇妙な物語でありそうですね。
そして、原作が星新一っぽいです。
読んでいて、とりあえず自然は大切にしようと思いました。
まとめておすすめのサブカル作品を紹介する回があっても良いかと思います
村上春樹とか好きなのかな?でもそれ以上だお。
何がすごいってラジオの時とのギャップが一番すごいや。
コスメティックラブを読んだ後、これを読むとギャップの激しさに目が点(・_・)どれも好きな文章で、一生懸命読みました。(´∀`)
ギャップの激しさ=人間性の深さ?カナ?
なんて、心を奪われます。(^_-)☆
楽しく読ませてもらいました★恐くてビクビクしてたけど。。。ただひとつ、補足がなければ分からないのが。。。。おしいなっ!て思っちゃいましたが
やあー、
ネタ系や普通の日記も好きですが、肉欲さんが書くこの手の話が大好きです。
ゾクゾクしました。これからも、楽しみにしています。
脱帽です。
いつか読む側から創る側になりたい。
オチがなんともいえなくて好きです。
すごく面白かったです!
感動しました。
グレードアップイイ d(゜∀゜)b!
これからも肉さんに期待します。
なんという山彦クオリティ…本当の肉欲さんはどっちなんですか?!
向いの山の人たちが山彦で、町単位で人間全滅かなと思いながら読んでましたが、一つ上をいかれました。その理由も想像が及びませんでしたし
深いわ〜すげえわ〜