深酒を繰り返して繰り返したあと、酒を飲まなくなることがある。具合が悪いからだ。体調が優れないからだ。これでもう大丈夫、と思って俺は床につく。ところが、眠れない。眠れないだけならまだいい。眠りに入った、と思った途端、ひどい寝汗をかく。そして起きる。眠気はある。頭は働く。それぞれは両立する。そして寝ようとすると、また寝汗をかく。これを繰り返すこと朝方まで。最近知ったところによると、それは専門的にいえば離脱症状と云うらしい。卑近な呼称であれば、禁断症状というやつだ。結局のところ、俺の身体は既にアル中の手前にまでたどり着いたりしなかったりしている。
人と違いたい、と思いながら生きてきたことは一度としてない。だが結果として違っている現状は、少しばかり、認めなくてはならない。最大公約数というものがどこにあるのかは、果たして俺にも分からない。ただ、ちょっとでも周りを見渡したとき、俺が「離脱症状っていうのがあってな」という話をしたとして、共感を得られたことは一度もない。だから、俺にとってはそれが全てだ。人と同じく生きているつもりを抱くのは容易である。現実がそれに即すとは限らない、というだけの話でしかない。
暇な時間ができると、俺は酒のことを考える。酒を飲むという行為は、もう長いこと俺の中で当たり前になっているからだ。酒を飲むと酔う、という作用機序は明確で、それが明確であればあるほど、そこに嘘はない。とはいえ、俺は嘘が嫌いな訳ではない。世の中には嘘があっていい。嘘がなくては世の中は回らない。単純に、嘘にまみれて生きていくのが嫌なだけだ。俺は自分で吐く嘘だけで十分であるぶん、酒にまみれるように思う。欺瞞は好きだ。人から向けられる欺瞞だけが大嫌いなのだ。
何かが欲しい、と思うこともあまりない。あるとしても、それはすぐに手に入るものばかりだ。大蒜や、清涼飲料水や、保存容器や、ちょっとした書物や、大体そんなもんだ。それらは少しの金があれば直ぐに俺の支配下に置くことができる。欲しいと思って手に入らないものは、要らないものである。いつかは必要なものなのかもしれない。それでも直ぐに手に入らない以上、それは俺にとって分不相応なものなのだ。そこまで考えて、欲求はついえて消え去る。要らないものなのだ、欲してはならないものなのだと、俺の中で位置づけられる。
俺は飲食店で働いている。そこには多くの人が出入りするし、彼らの全てをつまびらかにすれば、それは大層分厚い資料となるだろう。人は尊いのだ。俺はそれを否定しない。むしろ積極的に肯定する。生きる価値のない屑がいることも知っている。だがその来し方行く末は意味がある。ドラマチックですらある。屑が屑になった動機、屑が屑であり続ける必然性、そんなもんを考えるのは何も心理学者や社会学者やあるいは宗教家だけの責務ではなく、どこにでもいる人間だって等しく想いを馳せていい。馳せてしかるべきだ。俺はそんなことを思いながら、時に思わなかったりしながら、何となく働いている。生活するにはお金が必要である故に。
そして俺は文章を書く。思うに、俺は文章を書くことでしか自らを客体化できない。客体化する意味があるのかは分からない。たぶん、俺はそういう風にして自分を知ることが好きなのだろう。結局このブログは、俺の書く文章は、過去も未来もずっと自分にしか向いていない。俺は自分のために文章を書くことしかできない。というか、日記って、そもそもそういうもんだろ?
俺は今日、本当に久しぶりに、もしかしたら初めてと言っていいかもしれない、日記を書いた。これを読んで何を思っても勝手だ。なぜなら俺はこれを公開しているからである。だけどコメントは閉じさせてもらう。人の日記帳に余白はないからだ。もし思うことがあるのなら、矢文でも簡易書留でも、あるいは直接殴りかかるでも、何でもいいから、俺の日記の余白以外のところで表明して欲しい。これで俺の日記は終わる。