
薄暗い部屋の中、肌を打ち付ける乱雑な刺激が臀部の辺りを包んだ。
「ああ、気持ちいい……」
私は後ろから男に犯されていた。ここのところ、男は頻繁に私の体を求めてくる。はあはあと荒い息をつきながら、男は硬くなったペニスを私の中に突き立てた。
男との行為に快楽を感じたことは一度たりともない。私は目を閉じようともせず、ただ男が射精するのを待った。
・・・
あれはどのくらい昔のことだったろうか?今では思い出すことも能わない。気付いた時には、既に私はこの男のところにいた。
光もまばらにしか入ってこないような薄暗い部屋に押し込められ、ご丁寧にも首には縄をくくられた。部屋の入り口には檻のようなものが設えられており、だから私がどれだけ望んでも、決して男の下から逃げ出すことはできなかった。
食事は規則正しく提供された。必要とあれば外の空気を吸うこともできた。けれども自由は一切与えられず、私の全ては男の恣意によって翻弄された。
思い出す。突然無遠慮に体中の毛を剃られたあの日のことを。にやにやと締まりのない笑みを浮かべながら、男は丁寧に私の毛を剃った。耐え難い恥辱を感じ、私は声を上げて体をよじった。しかしその声が男の耳に届くことはなかった。
それでも、ここに来たばかりの頃は未だ私の体を求めてこなかった。時折、ひどく乱雑に乳房などを揉まれることはあったが、結局それ以上の行為に及ぶことはなく、その限りにおいて私は平穏な暮らしを送ることができた。
――もちろんそれは、ある時期までのことであったが。
月のない晩のことだった。食事を摂り終えた私は、部屋の隅で丸くなるように眠りに就いた。何らの自由も与えられていなかった私だったが、せめて夢の中だけは自由に、闊達に過ごすことを願っていた。その意味で、毎夜訪れる睡眠の時間だけが、私に許された唯一の幸福であった。
おやすみなさい。そっと呟き、瞳を閉じて眠りの海へと飛び込もうとする。その時。
ばたん、という強い音が部屋の扉の方から響いた。突然のことに、ゆるゆると訪れ掛けていた眠気が駆け足で逃げていく。少しだけまどろんだ目で音のした方に目を遣ると、そこには男のシルエットがあった。
そこから先のことはあまり思い出したくない。男は酒臭い息を漂わせながら私の方まで歩いてくると、ベルトを下ろして怒張したペニスを誇示した。これから起きるであろうことを私が理解できないままでいると、男は無造作に私の尻を掴み、そのペニスを一息に膣内へと押し入れた。私は堪りかねて悲鳴を上げたが、男の腰は止まることなく動き続けた。
男が頻繁に私の体を求めるようになったのはそれからのことだ。家人の目を気にしているのだろうか、男が私との行為に及んだのは大抵夜更けのことだった。その頃から私の眠りは極端に浅くなり、夜が訪れる度に部屋の入り口に向かって「来るな、来ないで」と悲痛な祈りを捧げるようになる。神よ、どうか――。
しかしながら祈りはどこにも、誰にも届くことなく、部屋の天井のあたりでくるくると空転するばかりだった。唯一許されていたはずの幸福は、男の手によって悪夢に彩られた。そして私の脳はいつしか、夢を見ることすら忘れるようになった。
この悪夢は、いつ終わるのだろうか――
不意に、男の腰が動きを止めるのを感じる。次いで、じんわりと暖かいものが私の膣に吐き出されるのが分かった。私はそれをほぼ無感動に察知すると、再びあらゆる感覚を遮断するための作業に没頭した。考えるな、感じるな、何も、何も、何もかも。
「あなた、何をしているの!?」
突然扉の方からヒステリックな嬌声が轟いた。私と男が驚いて顔を上げると、視線の先にはランタンを掲げた男の細君が立っていた。わなわなと震える女の手に合わせて、ランタンの炎が曖昧にゆらめく。女は鬼のような形相を浮かべて立ち尽くしていた。
「いや、これは、その」
男はしどろもどろになって何か言い訳をしようとするのだけれど、醜い下半身を露わにしたままとあってはいかなる言辞も意味を成すものではない。男もそれに気付いたのか、慌ててズボンをずり上げた。
「違うんだ、これは。その、とにかく、違う」
「何が違うってのよ!あなたがセックスしてたことくらい、私にも分かるわ!」
どすどすと荒い音を立てながら女が私たちの方に近寄ってくる。嗚呼、どうしてこんなことに……どうして私が厄介ごとに巻き込まれなければならないの……と思わないでもなかったが、同時に私は胸の中で淡い期待が湧き出すのを感じた。
この一件によって男の行為がなくなってしまえば……。
再び、安穏で平和な夜が、夢が、私の下に戻ってくるのではないか……。
男に対して何やら大声で怒鳴りつけている女の脇で、ひとりそのようなことを思った。暖かな気持ちが少しずつ、ゆっくりと胸を覆う。
「殺すわ」
私が最後に聞き取ったのは、女の吐き捨てたその一言だった。私は、え、という感じで女の方を見遣る。視界の先には、のっぺりと平板な表情を浮かべながら猟銃を構える女の姿。何故、どうして私に向けて、銃が……。
重々しく激しい銃声が部屋に轟く。銃口から吐き出された鉛弾が正確に私の眉間を貫くのを感じながら、全てがそこで事切れる。墨をぶちまけたように視界が黒く染まっていった。私はただ、真夜中の世界に逃げ出したくて、それを祈り願っただけなのに――。
何もかもはそこまでだった。
・・・
「何も、殺すことはないだろう!」
硝煙の臭いが男の鼻腔を貫く。妻の抱えた猟銃を乱暴に奪い取りながら、男は叫んだ。
「あなたが悪いんじゃない!こんな……許せるわけないでしょう!」
「一体、どうやって始末をつけるつもりなんだ」
今はもうぴくりとも動かなくなった骸を見下ろしながら、放心したように男が呟く。
「バラして胃の中に収めでもすりゃ、何も分かりはしないわよ」
男の妻はこともなげに言い放った。あまりにもあっけらかんとした妻の口調に、男は僅かに気色ばんだような表情を浮かべる。しかしそれも刹那のことで、男は一瞬の逡巡の後、そうだな、そうするしかないか、と静かに呟いた。
・・・
「へえ、噂通り素敵なペンションじゃない」
「本当だな、予約が取れてラッキーだったよ」
若いカップルがわあわあと嬌声を上げながらペンションのエントランスに入ってきた。男は鷹揚な笑顔でそれを受け入れると、簡単な自己紹介と宿泊に際する注意事項の説明をカップルに行なった。
「では、よい一日を」
最後にそう締めくくると、男はうやうやしく頭を下げ、それに同調するように男の妻も頭を下げた。カップルもつられて頭を下げたが、思い出したように「そういえば」と口を開いた。
「夕食は何時からです?」
「ああ、食事の説明を失念しておりました。夕食は六時に食堂にて提供いたします。なお……」
男はそこで一息付くと、軽い咳払いを挟んだ後に再び食事の説明を続けた。
「……本日のディナーは新鮮な羊肉を使った料理でございます」
喋り終えた男の顔には、相変わらず張り付いたような笑顔が浮かんでいる。ペンションにはどこか遠くから、メエメエと羊の鳴く声が届いていた。
(終)
■オマケ (YouTube)
"the world of midnight"
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