僕は何の文脈もなく子猫を拾った。
茶色の毛をなびかせていたその猫は、僕によくなついた。僕が頭をなでると、小さく「にい」と鳴いた。
雨の中でバスを待っている時は、僕の肩に乗ってじゃれついた。僕はくすぐったがるのだけれど、別に悪い気はしないのでそのままじゃれさせた。放っておくと猫は僕の頬をペロペロと舐め始めたので、だめだろ、と小声で諌めることにした。猫は相変わらず「にい」と鳴いている。
家に帰ると突然猫が人間の姿に化体した。猫は若い女性だった。僕はさして驚くこともなく、先刻までと同じ調子で事もなげに家を歩いた。猫は裸だった。
僕は不意に罪悪感のようなものを感じる。そして直ぐに、罪悪感を感じている自分に対して違和感を感じる。猫は、猫だ。だから裸であっていい。僕は複雑に絵の具が混ざり合ったパレットのような気持ちを持て余したまま、台所へと向かった。
すると猫が僕に抱きついてきた。猫は相変わらずぺろぺろと悪戯っぽく僕の頬を舐めてくる。どこにもいないはずの猫の顔を見詰めながら、その表情がどこかにあるはずの僕の記憶に手を触れようとする。だけどその手はどこにも交わらず、曖昧にその掌をひらつかせながら、薄ぼんやりとした様でそのまま、どこかに消えてしまった。
-----
目覚めると、空はとうに明るくなっていた。枕もとの携帯電話を手に取ると、丁度10時を過ぎた頃だと分かった。頭の芯の方が鈍く痛む。ごそごそと音を立てて体を起こすと、消し忘れたパソコンのwmaから山崎まさよしの歌が聞こえた。
昨日あったあれこれが終わったのが丁度正午。
そのまま友人のYOU君と昼から酒を飲みに行った。延々12時間ほどしこたまに飲んだ僕が家の門扉をくぐったのが、丁度日付の変わった頃だったように記憶している。そこから先の記憶は、少しだけ曖昧だった。僕はふらふらと歩くと、冷蔵庫の中にあった水をどうしようもなく乾いた喉に流した。
心持ちひとつでこうも目に写る色が違うものなのだろうか?なんて思わされるくらいに空は晴れ渡っていた。週末でようやくと雑事が一息つき、だから今日は久しぶりの休日だった。本当はもう少し眠っていたかったのだけれど、燦燦と眩い窓の外を見るにつけ、このまま再びベッドに潜り込むというアイデアに少なからず後ろめたい気分になった。
ぞんざいに寝癖を直して何となく家を出た。そういえば、とドアに鍵を掛けながら思う。金タワシとティッシュペーパーがもうない。金タワシに至っては、年末の大掃除の時に捨てて以来のことだ。それに、チャンダンのお香もなくなってたな……というようなことを考えながら、僕はつま先で地面を蹴った。
この土地には、都会にあるべきコンビニATMがほとんどない。一体どうやって火急の金を工面するのだろう?と越したばかりの頃は思ったものだったが、慣れれば別段大したこともなかった。
とは言うものの、金が必要でなくなることは有り得ない。僕は薄っぺらい財布を片手すると、ATMが据え置かれている貴重なコンビニに足を運んで幾許か金を下ろした。数枚の紙幣を手にした時に、画面に映った【手数料】の表示が目に入り、少しだけ気分の悪くなるのを感じる。一体これまで幾らくらいの手数料を取られたのだろうか?僕は薄く溜め息をついて、緑色の看板を後にした。
ここらは路面電車の盛んな土地である。大人は160円、子供は半額、それだけ払えば大抵の場所には行くことができる。車どころか運転免許も持たない僕にはひどくありがたい。○×学園前、と名づけられたその電停の前には、まるでその通りに学び舎が設えられていた。
やって来た電車は閑散としていた。車の波をかいくぐり、当たり前のような顔をして道路の中を走る路面電車の姿に最初は驚きもしたけれど、今さら何を思うこともない。僕は無感動にシートに腰をすべらせると、電車の出発するのを心に待った。
と、乗車口の前に鈍い影が姿を現わすのが見える。そこには一人のご老体がいた。杖を付き、右手には何やらメーターと思しき器具を握っていた。僕は相変わらず無感動にその老人の挙動を眺めていたのだけれど、市電のステップを前に老人ははたと動きを止めた。
電車の中は静寂そのものだったが、中にいた誰もが見るともなしにステップの方に意識を傾けているのが分かる。そして僕もその中の一人。手を貸すべきだろうか?と、一瞬の逡巡が頭に過ぎったその時、脇に座っていた女性がさっと立ち上がって老人に手を貸す姿が視界に入った。僕は僅かに浮いた腰を所在なげにシートに下ろすと、内心忸怩たる思いを抱いた。ああいう無価値なためらいは、果たしていつになったらなくなるのだろう?そんなことを考えながら。
ちょっとするとその女性がひどく難儀しているのが分かった。老人は女性の手を借りてもなおステップに足を上げることができない様子で、だから女性の背中はその事実に困惑を訴えかけていた。僕は今度こそさっ、と立ち上がる。同時に左に座っていた男性が腰を浮かせたけれど、僕の方が少しばかり早かったらしく、その男性はそそとした様子で再びシートに落ち着いた。
老人を右脇から支える。フリースのジャケットは、背中に陽光を浴びていたからだろうか、はんなりと暖かかった。お爺さんはそれでもしばらく決心が付かなかったのか、僕と見知らぬ女性に両脇を支えられながらも、じんわりとステップを見詰めたままだった。車内は相変わらずしん、と静かなままである。誰もがのんびりと僕らの挙動を見守っているようだった。すると爺さんは、ゆるゆると足を上げてまず一歩。それから僕が背中を支えなおすと、もう一度ゆっくりとした所作で左の足を車内へ運んだ。
「ありがとうね」
ほとんど聞き取れないくらいのトーンで爺さんは呟く。僕はちょこんと目礼だけ返すと、もと座っていた席に浅く腰を下ろした。ぷしゅう、とありふれた音を立て、電車はこともなげに走り始める。僕は相変わらず無感動に窓の外を見ると、小さい商店が軒先で大根を売っているのが目に入った。ブリの季節はいつまでだろうか、というようなことを考えながら夕餉に思いを巡らせる。そんなうちにいつの間にか駅に着いた。
エレベーターに乱雑に並び立つ人たちを眺めながら、その姿が気ぜわしい東京や大阪の雑踏に重なった。大都会と違い、ここらのエレベーターだと段差の右も左もスペースが空くことはなく、そんなもんだから僕は赤い手すりに掴まってぼうっと体が上に運ばれるのを待つ。老若男女種々様々な人が行き交うのを見ながら、ああ今日は土曜日なんだ、ということをまた思い出した。
母への誕生日プレゼントを買った。実に一ヶ月も遅れたけれど、とにかく遅すぎることなんてないだろう、と無理やり思いながらジッポが梱包されるのを待つ。もちろん50を過ぎた母親にジッポが似合うとは思わなかったけれど、本人が所望しているのだから仕方がない。
僕は仰々しいラッピングを受け取ると、書店に向かった。目ぼしい本はなかったが、適当にあたりをつけて文庫を2冊購入した。
次に白樺の香を買いに行くと、最後の一箱だった。
無印良品ではアンチョビ入りのトマトソースが安かったので、何となく買ってみた。
生鮮食品売り場は色んな人が入り乱れてそれはそれは賑やかしかった。世はバレンタインに向けて何かと忙しいらしく、カカオやココアパウダーが所狭しと並べられているのが目に付く。僕はその脇をするすると通り抜けると、蓄肉の並べられているフリーザーの前で深く悩んだ。豚か、牛か。果たしてそれが問題だった。
シチューを作ろうと決めていた。しかしながら牛肉はいかんせん、高いのである。けれども、牛と豚、両者の違いは中々に顕著だ。見た目の色は赤くて同じにも関わらず、出来上がった時に見せる味わいは驚くほど異なる。もちろん僕は牛肉の方が好きだ。けれど、繰り返し述べるが、牛肉は高いのだ。
いつまでも懊悩していた僕は、意味もなく鶏肉の方もちらちらと見ながら結局諦めた様子で豚肉を手にした。いつでもシチューには牛肉を入れていた母親は、存外に子供思いだったのかもしれない。そんなことを考えながら。
特に何事も起こることなく家路に着いた。土産物コーナーで試食品などを冷やかしていると、いつの間にか空は赤く色づいていた。コンビニでクレジットカード特典のビールを無料で貰い、帰宅後の台所でプルタブを開ける。
『HAPPY!』という漫画によれば、限りなく美味しいカレーを作るコツは「タマネギをとことん炒める」ことだそうだ。なので僕はその言葉を勝手に解釈して、シチューにも同じ概念を持ち込んだ。火をかけた鍋にオリーブオイルをたらした後、僕はいつまでもタマネギに火を通した。少しずつじんわりとタマネギが飴色になっていく。ふと、夢に見た猫のことを思い出し、胸の底の方がちりちりと焦れた。猫なんて飼ったこともないのに。
その後、炒めた豚肉とジャガイモとニンジンを鍋に混ぜ、水を張って沸騰するのを待った。ぐつぐつと音を立てる頃になったので、ワインとコンソメ、それにブーケガルニの素を落とし込んだ。ふわりと鍋の中身が色づく。僕はそれを眺めながら綴じ蓋を落とすと、コンロのつまみをぎりぎりに絞った。
雑巾を絞って床を磨く。先週まで僕を煩わせていた用事のおかげで、部屋はすっかり汚れていた。僕はフローリングの上をそれなりに拭いながら、その他に溜まった家事はあっただろうかと考えた。
ようやく部屋が片付くと、今度はコンロにかけた鍋をチェックする。ちょっとばかし浮かんでいたアクを掬い取り、もう一度蓋を閉じた。僅かばかりに鼻をくすぐらせたタマネギとジャガイモの香りが、僕の心を明るくさせる。もう少し時間が掛かりそうだったので、洗濯機のスイッチを入れる。浴槽に残っていた水を洗面器で洗濯機の中に掬い入れた後で、シャワーを浴びた。そういえば水道料金は4ヶ月ほど滞納していたな、というようなことを考えながら。
髪をタオルで拭くと、綺麗になった部屋を眺めた。別段綺麗好きというわけではないけれど、普段はあまり綺麗でない僕の部屋、だからこそ目の前にある整然とした部屋を眺めるうちに明るい気持ちになってくる。
そのうちに後ろの方から「家庭そのもの」といったシチューの匂いが漂ってくるのが分かった。蓋を開けるとそこには、ぽこぽこと気泡を浮かべるシチューがあった。僕はコンロのツマミを閉じる。
丁度よく、洗濯機が音を立てながら仕事を終わりを告げる。いそいそと大量の洗濯物を抱え込むと、両手に衣服を抱えてベランダに向かった。折節夕景、窓の外には桜島が、夕日を背にしてうすぼんやりと姿を浮かべていた。
ぽつりと足を止めて、桜島のその様と、そして眼下に広がる鹿児島の街の様子を僕は眺める。
両手には洗濯物。脇からは夕餉の匂い。さらに先には、ちょこん、と片付けられた僕の部屋。
全て世はこともなし。大したことは何もなく、凡庸で平凡であまりに退屈な土曜の夕べ。
けれど、それらの全部が相俟って「ああ、僕は今日、いい休日を過ごしたな」なんて、そんなことを思う瞬間は、やはりこういう時なのだった。そしてもしかこの光景に猫がいれば、そんなことをなぜだか思う。猫が好きなのだ。あいにく、一度も飼ったことはないけれど。
ベランダの手前で振り返ると、夕空。きれぎれになって腐敗していて……はいなかった。ただ少しだけ
「いつか猫を飼いたい」
そんなことを祈りながら、願いながら僕は。
-----
みなさまにとってもこの連休が善い休日でありますように。
人気ブログランキング