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2007年02月05日

体位を厳密に考察する

抜き所、というのを一つ考えてみた。

ここでの『抜く』という動詞(verb)は別段「肩の力を抜く」とか「息を抜く」だなんて広辞苑的な意味を醸しているのではなく、もっとスラング、いわゆる『ヌく』方の抜くであることはご留意いただきたい。

 
その意味に限ると、僕が世間並みな言い方での『抜き所』に据えているのは圧倒的に騎乗位になる。今はテスト期間中なので普段の頻度よりも8掛けで自慰行為を行なっている、一般的に言えばSSS(シコシコシンドローム)の状態にあるわけなのだけれど、やはり統計を取ってみても8回のプレイの中で少なくとも2ダース回ほどは騎乗位のアングルに抜き所を据えているような印象を今、率直に抱いてるところです。

あらゆる結果には原因が存在するわけだけれど、その流れで言えばどうして僕は騎乗位に拘泥しているのだろう?と、このように哲学的思弁に陥ってしまうのもテスト期間中にありがちな罠なわけで、本当に大切なことはもっと他にあるはずなのに、いかんせん瑣末なことにも気を奪われてしまう。騎乗位。この分野が今、僕の魂を激しくシェイクしているんだ。思考を止めるわけにはいかない!

学説の一部には「騎乗位は非常に怠惰な体位だ」という批判的な意見も存在する。その説が論拠としているのは、男は寝転がっているだけで射精を迎えることができる、という極めてプリミティブな視点を重視する部分だろう。確かにそういう側面もあるかもしれない。労働力という概念をセックスに持ち込んだ場合、騎乗位は確かに女性から労働力を搾取している部分は否定できないところだ。騎乗位が『セックス界のプランテーション』と呼ばれる所以である。

しかしながら、僕はこれを強く否!と言いたい。たしかに『騎乗位は男の怠惰な精神が生み出した産物だ!』と結論付けるのは簡単だ。事実、そのようなマインドの下に安易な快楽を享受している男根の世代がいることも僕は否定しない。

けれどその評価はあくまでも物事の側面であって全体ではない。ダイスの1の裏に6が存在するように、極めて多面的な視点を導入すれば『騎乗位』という体位の裏側にはもっと深い愛(アモーレ)が隠されているのではないでしょうか。

率直に言って、僕はあらゆる挿入行為が嫌いである。そこにあっては射精までのプロセスが極めて簡略化されている気がしてならないからだ。挿入、という行為は即ち「終わりの始まり」である。セックスという行為を前戯から射精までの一連行為として捉えた場合、挿入の開始は源氏物語で言うと『浮舟』のあたりに相当することになる。

【注:浮舟=源氏物語全54帖の中の第51帖、ドラゴンボール的に言うと39巻、ジョジョで言うと第3部の25巻、ハチクロの8巻】

そこまで考えればお分かりの通り、つまりセックスの滋味(=物事に感じられる深い味わい:三省堂国語辞典より)というのは基本的に挿入以前に収斂されている、というのが僕の解釈だ。

もちろんそれらの行為は挿入と不可分にして一体となっているわけで、挿入までの行為を熱心に行なうからこそ挿入(=chipo dive to manko:翻訳戸田奈津子)が光り輝くのだろうし、かつ射精が光り輝くほどに気持ち良いのはそれまでの過程が綿密に積み重ねられたから、ともいえる。これは捉え方の問題であり、どちらが正しいとかそういう話ではない(スラムダンクで言えば、山王戦は確かに素晴らしいけれど、それまでの積み重ねがあってこそあの最終戦が眩く見えるのだ、との例が卑近だろうか)。

だけれども、挿入してから射精するまでの経緯はあまりにも変化に乏しい。そこにあっては、ひたすら射精を目指し、己が快楽を得んとする男のエゴが極めて顕在的な形で発露するからだ。

考えてみれば、そこに行き着くまでのプロセスは中々に健気だと思う。手をつなぎ、肩に手を回し、ハグし、キスし……と、行為態様に差はあろうけれど、率直に言ってパンツを脱がせる行為よりももっと前段階、つまりデートの約束を取り付ける段階の方が余ほど高度な政治的戦略を要する。そして、こういう段階が往々にして最も楽しい瞬間なのだ。

そうであればこそ、その最終ステージたる挿入行為というのはある種の諦念すら孕まれる。なぜならば、これが終わってしまえば全ての胸躍る躍動感は一定の終結を迎えるのだから。実際、これから挿入するぞ、という際の内心的心理状態よりも、これから初めてのデートだぞ、という時の心理状態の方が遥かに心が躍るもんである。デートはこれから先に待ち受ける不確定要素が予想できない分不安も大きく、だからこそ楽しいのだけれど、チンコのさきっちょがマンコにはあちゅうしちゃってる段階においては、そこから先がある程度予見できてしまうという事実は否めない。おそらくこのあたりが僕をして挿入行為を嫌わせてしまう所以なのだろう。

そこにあって、さあ長くなりましたが、騎乗位でござるよ。ここからは多少乱暴な意見になりますがご容赦下さい。ハッキリ言って騎乗位なんていうのはあんまり気持ちよくない。女性の方にしても

「騎乗位ってあんまり気持ちよくないんだよねー」

という意見の多いことは知っている。しかしながら!気持ちよくないからこそ辿り着ける境地というのもこれ、あるんじゃないんでしょうか?気持ちよくない、だからこそそこで「どうにかして気持ちよくなろう」という思いを抱く、それこそが人類が進歩してきた理由(発明、進化、創造)を紐解く端緒になるだろうと、僕は思うぜ。

先述した意見、すなわち

「騎乗位って男が寝転んでるだけだから楽そうだよね。こっちが動くだけだし」

この意見も分かる。だけど本当にそうなんだろうか?本当に男は楽をしているんだろうか?もしかしてあなたは、男に『動かされて』いるんではないですか?

「そ、そんなこと……!」

ホントに否定できるのかよ!えぇ?!じゃあこのクイクイ動いてる腰は一体なんだってんだよ!アァ?!1!(パシーン)(唸る張り手)

……というように。
騎乗位というのは、実際男の自由度が存外に高い体位である。動かなくていいからこそ見える見地、というのも確かにあるのだ。そう、そこにあって男のイマジネーションをジリジリと刺激するのは、女性を『動かしている』という倒錯的な感覚なのではないだろうか?いつも正上位でクイクイと動いている俺が――今日は動かしている――!おそらく、そんなような感慨。魂の到達点。

視覚的な問題もあろう。一般的に言えば男は女性よりも視点が高い。セックスに際しても、正上位や後背位などの違いこそあれ、基本的には女性を見下ろす格好になるのがほとんどだ。それが騎乗位はどうだろう?!女性に見下ろされるのだ。まともに生きてたら絶対に拝むことの出来ない視界との対面である。まさに騎乗位が『神の一瞬』(god spectacl)と言われる所以である。しかも、見下ろされているのにも関わらず、支配している俺――。ここにおいてセックスは、射精を超えた概念へと昇華する。おそらく、きっと。いや、たぶん。そんな気がする。

というような辺りが、僕が抜き所を騎乗位に据えている論拠なのだと思料しているのですが、では実際に僕がセックスをする時に騎乗位をメインに据えているのかといえば人生は不思議だね。

寿司を食する時にはまず白身から始めるのが作法であるように、いかなセックスといえども基本的には正上位から始めるのがある種のマナーであるところは異論はありません。もちろん僕としてもそのような常識(common sence)は理解しておりますので、当然正上位からスタートを切るのが専らなんですが、往々にしてスタートとゴールが同位置に存在する、もっとフランクに言えば挿入した瞬間にゴールテープを切ってしまう、だとかそんなファニーな状況がむしろ通常になっているため騎乗位に辿り着くことすら能わないというのが客観的な事実です。挿れたと思ったらワオ、もうイっちゃってた、みたいな。なんちて。ギャハー。

長々と述べて参りましたが、つまるところ色んな体位を楽しんでセックスを行なっている輩は軒並み死ね、まとめて早漏になれ、という言葉を以て結びの言葉と代えさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

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posted by 肉欲さん at 23:18 | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク

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