中学の頃、僕はソフトテニス部に所属していた。
一応申し上げておくと、僕は運動が毛の先ほども好きじゃないというか、どちらかと言えば積極的に嫌いな方だ。正直に言う。大嫌いだ。それはおそらく運動神経がないからだと分析している。
けれど悲劇というものはどこにでもある話で、なぜか外面的に見れば僕という人間は極めて運動神経が良さそうに見えるらしい。これは本当に甚だ迷惑な話でしかなく、なぜならば体育の時間でサッカーなんていう生産性0の球技を課された時などに、外面と実態とが著しい相違を見せるから。
僕はもちろんサッカーも嫌いなんですが、だからと言っていくら体育教師に「そんな競技、不毛だと思わんかね!」と声高に主張してもそれは喧騒の中に消えていくだけであり、いつの間にか僕にもポジションが割り振られる。こういう時に俄然張り切るのは、無論サッカー部の憎い奴らだ。
「3組には樋口がいる。あいつの中央突破には気をつけろ!」
日本語で喋ってくれ、とも言うわけにもいかないので、ふんふんと一応頷くフリはするのだけれど、この時点で僕の動悸・息切れはかなり激しいものとなっており、更に薬物中毒者のように目は虚ろで、口からはハアハアと荒い息が漏れだす。僕はなるべく競技の当事者とならぬように、努めて第三者的な振る舞いをするのだけれど、諍いというのは往々に無関係な人間を巻き込むことがほとんど。いつの間にか僕のところに禍々しい物体(ボール)が転がってくることもしばしばだった。
「今だ肉欲!シュートしろ!」
脇からそんな声が飛ぶ。まさかこの状況でボールをスルーするわけにもいかないので全身に散った集中力をかき集めるのだけれど、何せ僕はトゥーキックしかできない。狙った方向にボールが飛んだ試しがない。ええい、ままよ!僕はボールを蹴った。
いや、蹴れればまだ良かった。まがりなりにボールが飛べば少しは体裁も保てる。しかしそんな内なる希望とは裏腹に、ボールは岩のように動いていない。フランクな言い方をすれば、蹴り損ねたとかそんな感じ。そうこうしていると相手のディフェンダーが鷹のような動きで僕の前からボールを奪っていく。
「……」
突き刺さる仲間の視線。肉欲、運動できるんじゃないか?おそらく内心にそんな期待があったからこそ、その落胆は大きいのだと思う。どこからともなく大きな溜め息が聞こえる。いや、それは幻聴か?どちらにせよ失望を買ったことだけは確からしい。中学、高校時代において10回中8回はこんな体たらくだった(それはバスケであっても、バレーであっても)。よくまあイジメられなかったもんだと思う。
そんな僕がどうしてソフトテニス部だなんて運動系の部活を選んだのか。もちろん僕の通っていた中学には文化系の部活もそれなりにあった。けれどその教育の現場には
『文化系の部活=女々しい』
という米軍ネイビーのような不条理な不文律が当たり前のように存在しており、僕もチンポが生えてる以上文化系の部活を選択したくはなかった、いや選択することが許されなかった。間違って吹奏楽部などに入った希少な男子などは、僕を始めとする精神的体育会系男子たちから
「なんやあいつら。女々しいのう」
「チンポ生えとるんか!おう?!」
と口汚く罵られることになる。ただ、今振り返ってみると、当時の吹奏楽部の構成員がその9割以上において女子だったという事実から逆算すれば、それはただの嫉妬の言葉だったに相違ない。中学生は何かとシャイなのだ。
それはさて置き、じゃあ帰宅部を選べば良かったじゃん!というご意見もありそうだけれど、その点も我が中学の教育現場は旧日本軍陸軍のマインドを踏襲しているのか、「生徒は須らく部活動を行うべし」というスクールウォーズ(山下慎二)なノリだったので、まず帰宅部が存在してなかった。
文化系もダメ、帰宅部もダメ、となると必然的に運動部を選ばなければならない。けれど先述した通り、僕は絶望的に運動ができない。部活動のリストに目を落とす僕。野球部、陸上部、バスケ部、etc...
「谷亮子か、浜口京子か、どっちにするんだ!お前は!」
「そ、そんなこと言われても!」
僕の脳内で、鬼刑事が選択を迫った。人権、それはいたいけな中学生の前にはあまりにも無力な言葉(リリック)。
「そ、ソフトテニス部にします!」
かくして選択を迫られた僕は、小学生の頃に少しだけスポーツ少年団で齧った経験のあるソフトテニスをバトルフィールドに選んだ。
もちろんご他聞に漏れず、僕はプレイヤーとして絶望的にド下手糞だったわけなのだけど、どういう訳かこのソフトテニス部には中々の武闘派顧問が鎮座ましましており、毎日陸上部よりも多く走らされるのは当たり前。夏休みは9時〜17時の間みっちりと練習、しかも休みは3日程度。口答えしようものならラケットで太ももを弾かれる、などなど、各種心温まる光景が展開されていた。人権、それはいたいけな中学生の前ではあまりにも儚い言葉(リリック)。
「でも、あの時先生から厳しく接されたおかげで、大事なものを教わりました!」
断っておくけど、そんな綺麗な言葉は絶対に僕は語らない。もしあの練習を経てそんなことを言う部員がいたとすれば、それはあの顧問に何か弱みを握られている、いくらか金を掴まされた、あるいは壮絶なMのどれかでしかない。なぜならば、それだけ過酷な練習を施されてもなお――我がソフトテニス部は、市内最弱の称号を轟かせていたからだ。何か意味あったのか?あの練習。いや、確かに陸上部よりも足は速くなったけどさあ。校内のマラソン大会で10位以内には入れたのは衝撃的だった。
一つ言えるとすれば、集団行動のイロハとか、目上の人間の立て方とか、精神的なタフさとか、そういう社会的な処世術はそこで育まれたと思う。もちろんテニスのルールやバックハンドの打ち方などといったテクニカルな知識は微塵も覚えていないけれど。しかしあの時の部活動経験は、決して無駄にはなっていない。
だからと言って、いつか万が一僕に息子ができたとしても
「よーしお前、今日からソフトテニス部に入れ!」
なんて言う気は毛頭ない。だって今僕が言ったメリット(というか、僕が得たもの)はあくまで結果論でしかないし、万が一あの中学時代に帰宅部だったらもっと別なイイコトだってあったかもしれない。青少年という多感な時期において『かくあるべき』なんてのは一律には断じがたいし、何かにつけても選択の自由は多くあった方がいい。
肝心なのは、本人が『あること』を望んだ時に大人ないし周囲が『それを与えられる環境を有しているか』どうかだと思う。ソフトテニスに拘泥することはないと思うけれど、広い意味で部活はやっていてよかったと思う。なので、中学時代に部活のできる環境があった、というのは(後付けになるけど)ありがたいことだったと思う。過疎の学校とかだと、そうもいかない現実もあるだろうし。
長い枕になりましたが、これを受けて今日はmixiで一週間前に書いた日記を転載します。結構色んなブログで取沙汰されていたので記憶に新しい方も多いかと推察しますが、『どうして勉強しなくちゃいけないの?』の議論。
以下転載。
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分裂勘違い君劇場
『子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明』
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343
・・・
『どうして勉強しなくちゃいけないの?』――この問いにどう答えるべきか云々かんぬん。
「別にしなくていいんじゃないの?」
個人的には、これが至言だと思う。
だって現実には勉強をしなくても生きていける人はゴマンといるわけでしょう。 この問題・疑問に応えようとしてあれこれと躓く根本は結局
「そういう質問をした子供に対して、いかにして『勉強をさせるか』」
という思いを抱くからに他ならんと思うんですけど、どうでしょうか。だって『しなくていいよ』っていう意見が圧倒的にマジョリティーならそもそもこんな問題・疑問が顕在化しないと思います。
「もっと勉強したいんだけど、どうして小学校の課程はこんなにもつまらないの?」
同時にこういう質問も想定して議論するのならアレだけど、勉強しない(したくない)子供だけを一方的に想像してあれこれと考えるのは少しだけ違和感を覚えたり覚えなかったり。とりあえずそれは置いておいて先を急ぎます。
あらかじめ述べておきますが、僕個人は勉強はした方がいいと思ってます。もし(万が一何かのはずみで)僕に子供ができたとして、その子から
「おとんさあ、どうして勉強しなきゃいけないの?」
とか聞かれたら、まず真っ先に
「やかましあ!つべこべ言わずにやれ!」
そんな思いを直感的に抱くと思う(直感的なので、もちろん口に出すかどうかは別問題ですが)。
ただ、そういう風に思う自分もいるし、勉強はするべきだ、とも思う反面、その「勉強するべきだ」という思いはあくまでも『better』な話だとも感じる。多少極端な例になりますが、仮に100mを9秒で走れる能力がある人がいたとして、その人に「己の身体を磨き上げる時間を犠牲にしてまで勉強しろよ」とはやはり言い難い。
つまるところ『好きでもないことをどうしてしなきゃなんないの?』っていう質問を前にして僕たちが語るべき言葉はあまりにも少ない。なぜなら、それに関しては経験則に依ってでしか答えようがないから。
「自分的にはこうこうこういう利点があると思うし、かつ実際に利点があったし、かつ平均的にみても勉強した方が〜云々」
統計学的な答は、子供にとっては不要だと思うし、何より響かない。刹那的な快楽を享受したがる『子供』だからこそ、そこにあって理屈や理論は弱いですよね。いや、あんたはソフトテニス部で色々学んだかもしれないけど、それが僕に当てはまる確証あんの?と言われたら、やっぱりそこは「そりゃ分からんけどさー」としか答えられない気がする。
もちろん、社会に出てから総合的な判断能力を養ったり、答えのない場面での思考能力を培うためにも勉強は必要だ。やはりこの辺りが『勉強はするべきだろう』と思う所以だと思う。いや、それを抜きにしても、そもそも勉強は楽しいことだし、何より人として生まれた以上発展的な好奇心を抱くのは普通のことだと思う。
「なぜ?なんで?どうしてこれはこうなるの?」
知的好奇心は誰にでもあるものだろう(どの分野に向くか、は置いておいて)。なので個人的には学校の勉強はそれなりに楽しかったし、漠然と「これは何となく将来に役立つもんなんだろ」と感じてた。
「それは単に洗脳されてたんじゃねーの?」
まあまあ、そう仰らずに。もちろん辛い科目とかもありましたしね。でも勉強したくないなー、とかは思わなかった。というかジョークのレベルで「因数分解とか役に立つの?」とか言ってる友達もいたけれど、それを本気で叫んでる奴なんてどこにもいなかったです。そんな訳で僕としては「なんで勉強しなきゃいけないの?」なんて言う子供の姿自体が想像しにくい。
そこにおいて目の前の子供から
『どうして勉強しなきゃいけないの?』
って聞かれた時に、勉強を強いる選択肢しか持てないのはあまりにも悲しい気がする。
『するべきだから、した方がいいよ』
そんなトートロジーは、傲慢でしょ。
『オレはこうだったし、実際まわりも……』
そんなパーソナルな説教に耳を傾けるのだろうか。おそらく目の前にいる子供が欲しがるのはもっと明確な『勉強をするべき』理由だろうし、ヒリつくような『現在』を生きている子供だからこそ「周りも」「世間も」なんてよく分からない概念を持ち出されても納得いかないんじゃないかと思う。
結局この場合、一番可哀相なのは目の前の子供その人ではないでしょうか。だって「どうして勉強しなきゃいけないの?」ってところまで自分を突き詰めてしまっている、あるいはあまりにも勉強に対して価値を見出せなくなっているわけなんだから。そこにおいて大切なのは「どうやってこの子に勉強させるか」ではなくて「どうしてこの子はそんな質問をするに至ったんだろう」と考えるその行為ではないかと思うんです。突き詰めたらそこから出てくる答は同じなのかもしれませんが、後者の方が真にその子のことを考えられるのではないかと思います。
で、僕はこういう議論を目の当たりにする時にいつも思うんですが……誰かが実際にそんな質問を投げかけられたのでしょうか?元々のソースを辿ると学習塾の助手さんの質問が端を発しているみたいですが、結局答える側も「相談者の目の前の子供」ではなくて「子供」そのものを抽象化して議論してますよね。確かにそれは有意義なことなんですが、その時用意できる答と、実際に
「うちの子が勉強する意味に悩んじゃって」
という状況になった時に出てくる答は全く違うことになると思います。ものすごくざっくり言うと、実際にそんな状況が発生していないにも関わらず先回りして喧々諤々の議論をしても、逆に着地点が曖昧になってしまうんじゃないかなあ、なんて。
これは『どうして人を殺しちゃいけないの?と子供に聞かれたらどうするか議論』と同じかもしれない、と個人的には思います。確かに世知辛い世の中ですので、そんな疑問を投げかけられることもありそうな話です。けど、身近な人にそういうこと言われることが本当にあるのかな。
「いやー肉欲のお兄ちゃんさあ、僕最近ちょっと人を殺したくてねー云々。どうして殺しちゃいけないのかなあ?かんぬん」
いるか?そんなガキ。いや、いるのかもしれない。何が起きたって変じゃないこの平成よ。ただまあ、今のところ聞かれてはないです。願わくば生涯あって欲しくない。
考えることは無為ではありません。が、そうやって過度に問題提起することが却って『現代の子供像』を歪にさせてしまう側面も、これは否定できないんじゃないかと。手前味噌ですが、僕自身最初にこの質問を見た時は
「ったく、最近のガキはよー」
と思ってしまいましたし。人殺し〜の議論を目にした時も
「最近のガキはとんでもねーな!」
と恥ずかしくも憤ってしまった。いや、もちろん僕のそんな個人的感情を一般化するつもりはないんですが……。
それでも誤解を恐れずに言うと、こういう議論って若い人を説教したい気持ちが先走って、無理やり事例を作出しちゃってんじゃないの?そんな風に邪推してしまいます。だって若い人(自分も十全若いけど)ってそこまでアホと違うと思うんですが……。もちろん「勉強めんどくせ」「人殺して何が悪い?」という人もいるんでしょうが、一部を全体化する、それを華々しく議論する、それはちょっと危険じゃない?とか思ったり。もちろん一部だからと言って看過してよいとは思ってないですが。常に真剣に考えることそれ自体は尊い行為です。
ただまあ、『子供が〜』とかって抽象的に論ずる前に、そんな風になった環境とか風土とか、そっちを考える方を先に持ってきてもいいかもしれないです。結局子供そのものが生物学的に劇的に変化しているわけがない以上、社会の何らかの因子がかつてと変化した、と考えるのが論理的ではないでしょうか。そして社会を組成しているのは、いわゆる大人です。その大人が営む社会に属する子供が、もし今勉強の意味を見失っているのだとすれば――はてさて、まず何から議論するべきなのやら。
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
「しなくてもいーよ。釣りでも行くか!」
どんな言葉が適切なのかは、対象を捨象したままでは絶対に見つからないと思う次第です。
長文スマソ。日曜なんで。
それでは、ハバナイスマンデー!
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ハバナイスマンデーはないだろ日曜的に考えて
と考える僕はどうなんでしょう。
つられて私の意見も書いてみたぃと思います(*´∀`*)
勉強って、していくうちに身についていくものだと思うんですょね。
例えば肉欲さんの部活も、結果的には足が速くなったりしたわけだけど、それはあくまで結果論。最中はまったく走る意味が分からなかったと思うんです。
つまり、「勉強する意味が知りたいなら、勉強するしかないんだよ」ってことだと考えます。分からないことを知るために学ぶんですものね。他に下手な理由付けをすると「自分はそれに意味を成さないから勉強しない」という道を残してしまいますから。
結局は世の中が『メリットがあるか否か』を考える時代だからこんな質問が産まれてくるんでしょうね。「この問題テストに出ますか?出ないなら勉強しません」的な。
将来は何をしたいか?どんな職に就きたいか?そんな根底的な部分からマターリと会話していく中で解決できそな悪寒。
実際お勉強を続けていくと楽しい部分が多いんすけどねw
正直に話すと僕は実際に
『なぜ人を殺してはいけないのか?』
『なぜ勉強しなければならないのか?』
という旨のことを本気で考えたことがあります。
もちろん僕の事例を、肉さんの言を借りれば、一般化するつもりはありませんがそれでもあえて言えばこれは肉さんの主張に対する反証たりえるんじゃないでしょうか?
僕の知人友人にも『殺し云々』はいなくとも『勉強云々』をまじめに考え否定した人も多数いますし。
現代の子供は本当に病んでるのかもしれません
長文駄文すいません
要は子供の頃って自分の将来の選択肢を狭めないために幅広く勉強するんですよね。
例えば自分がとび職になりたいなら勉強するより筋トレしてたほうがよっぽどいいと思います。
とかいう教師達のありがちな言葉を思い出した。
なんの保証もないセリフだけど、でも勉強をしなければ自らの将来の可能性を狭めることになるのは間違いないだろうなぁ。
「良い大学に入って良い会社に就職するためよ」
いまとなっては何故もっと勉強しなかったのかと悔やむ次第です
子供たちよ、勉強しろ。勉強。
大体は勉強がわからない子がそういう質問するのかな?
なかなか答えづらい質問ですね〜。
もし自分が親になったらやっぱり子供には勉学してほしい。
勉強してマイナスになること無いし。
「何で勉強しなきゃいけないの?」←リアルに身近にいるから答えに悩みます。
いやほんとなんで必死なのアタイ
常識人ですよねー
常識を知り尽くしてるからこそ
普段の過度なまでの非常識な表現が
あるんですね。
まぁ僕はニートなんだけどね
確かにその疑問は自分にとっても外来でした。もやもやした気持をうまく自分の言葉に出来んときに、代替品にして逃げ道をつくる便利な言葉ですた。
発路になってなげかけられた言葉と、本当の問題点は必ずしも一致しないんだなあと再認識できました。ありやとうございますた(・∀・)
ほうりつでそうきまってるからだろ?
語っているのに失礼ですが
すかとろサン。卓球だって運転神経いいヤツがそれなりに上手いんです。卓球ブは運転神経のないヤツが入るブじゃないんス。
それを履き違えるから変な疑問が生まれるんだ
「肉好き男って野球って言うよりサッカーて感じだよね〜」
「・・・」
知るかよ、どっちでもねぇよ、なんだよサッカーて感じて・・・
学校の勉強は、本当に勉強が必要な時のための訓練やと思います。
間違った訓練した奴は、どんな大学出ても途中で落ちてくし、
学び方を知ってる奴は、環境を与えられなくても自分で成長できる。
社会でも、下しか見れん奴に上向かせるのは大変です。
理由は何でもいいから勉強はしとけ。ってのが社会人からのアドバイス。社会に出てからの勉強や試験の方が生活っちゅーか、人生かかるからシビアだし、学生の時に効率的な勉強方法や勉強の仕方を覚えてないと、かなり苦労する事の方が多いから。と。
うちの父親もこれと似たようなこと言ってたけど、勉強が楽しかったことなんて一度もないや(´・ω・`)
楽しく色々おぼえられるのは趣味、いやいやおぼえるのは勉強と割り切ってます。
ちょっとこのネタおもしろいんでパクらせてもいますね
うちの部は運動部以上に体育会系で、ものすごくキツかったです、はい。
後半はmixiでも拝見したんですが考えさせられる問題ですね。
勉強をしろと子供に言う大人には
自分が勉強してきてここまで来たと勉強した自分に自信を持っている人と
自分が勉強してこなくて困ったからと子供に対して勉強を強いる人と言う
2パターンが大きく占めているのではないかと個人的に思っています。
どちらも間違ってはいないけど正解でもないんでしょうね。
勉強をして得る達成感も、勉強をしなくてする後悔も
結局は生きて行く上での人生勉強である気がしています。
1つの答えなんて人生には存在しないから不毛な考えですが。
長文で米欄汚しすいません。
ようは逃げたいだけです楽な方に
めんどくせえから放り投げて理由こじつけるために大人を使ってるんですよ
答えられないんでしょ?みたいな
もうその問いに答えようとする事が違うんじゃないかと最近は諦めてますけど´`;
好きです。
「勉強することで、わりと楽しく生きられるよ。」ってことで良いんじゃないすかねぇ?
まぁ、勉強量に比例するわけじゃないですけども・・・ハハハハッ
きっと持久力が培われたんだね。
さて、事前にお兄さんに他部活の評判とかリサーチすれば、ちょっとは楽が出来たんじゃないかな。
ま、お兄さんの知り合いと先輩後輩になりたくなかったのかも知れないけどね。
難しいね。
俺は「大人」は抽象的に見てて、「子供」に対しては、子供を抽象的に見てる大人にイラついてた!NEWSのコメンテーターとかさ。
腐ってるよ政治家は。
税金無駄遣いとゆうNEWS見る度にがっかりするよ。大人に。汚と名に
子供って何?
大人ってなに?
大人は勉強しなくていい?
今からでも遅くない?
35歳で医者はどう?
お金があれば幸せ?
幸せって何?
既に亡くなっていますがうちの祖父が言っていた言葉です。
勉強は必ずしもやらなきゃなら無いものではないが、やはり日本と言う国の人間に生まれた以上、必要な事だ。
と言うことを一言で表しているいい言葉だと思います。
・・・・しかし、今現在学校をサボっている自分には伝わっていなかったみたいですよ、おじいちゃん。
僕は、勉強して損はしないだろーて感じでしたけどね。あと、いい人生を送るための有効な手段として必要な気がしました。他に大した才能なかったですしね。
理科と古典のやった意味はまだ見い出せないけど英語とか数学とか公民とか現代文はやってよかったかなって感じますしねー。
あっちなみに僕も中学時代は祖父とテニスです。
長文スイマセソ。
私は勉強割と好きです。試験も自分がどれだけ点とるのか楽しみ。受験は嫌だけど。
うちの母は常に、勉強なんて平均とれればいいよ、子どもは遊んどけ!な精神だったので、勉強することを強制されなかったせいかなーとも思ってます。父は将来の可能性を狭めないためにも勉強は大事だって言ってたけど。私の周りの強制されてた子は勉強嫌いな子が多い気もする。
勉強していい学校に入り、いい会社に就職する、もしくは起業して成功する。
あえて思いっきり飛躍して言えば、
要は大半の大人たちに「金持ってたら」もっと楽で大らかに生きて行けただろうな・・・という気持ちから、「勉強しなさい」となるんじゃないでしょうか?
医者、弁護士、学者、著名な文化人、一部の体を使ってする仕事で成功している人を除いて、勉強できた人たちは高収入です。高収入だから幸せなのか?と言われればそれは、自分が高収入になってみなければわからないし、また金持ってたって・・という意見は、高収入になってそいういう考えに至った人でなければ、説得力ありません。例えば世の中が、早く走れる人が高収入を得れるとか、絵を上手にかける人がとか、今の勉強に変わるものになれば、学校などは一日中運動をさせることになるでしょう。
うまく言えませんがそんな気がします。
それで県の上位に食い込んでいたのは二十世紀最大の疑問です。
アイデンティティーを保つためというか…日本人は日本人であるということが個々人のアイデンティティーになってると思うんです。そうして日本で生きていくためには勉強は強制的でもしょうがない、又は然るべきじゃないかと思います。
子供が陸上をやっていて陸上選手になりたい!と言ったからといって、その子が100mを10秒前半で走れる選手になれる可能性は低い(サッカー選手とか野球選手とか才能が問われるものなら何でも構いませんが)。第一志望が陸上選手なのは構わない。でも、なれる可能性は一万分の1以下だろうし、全く勉強しなかったら他になれるものが少なくなる。勉強しておけば医者になれる可能性も弁護士、建築士になれる可能性も残せる。第一志望を追求し過ぎるとなれなかった場合いきなり第十志望以下とかになる可能性が高い。僕はそれがわかっていて勉強しないならもう仕方ないと思います。陸上選手になれる可能性は低いしいい大学も入れなくなるし肉体労働者になる可能性が高くなるだとかすべてわかった上なら仕方ないと。個人的には選択肢を残しておくって大事だと思いますが
勉強の価値観云々ありますが、結局の所本当の意味で学ばせたいのは目標に向かっての努力と効率
俺は「努力」つーのが出来れば勉強は強制しないな
あまりにも俺と考えが似ていたため、コメントさせて貰いました。 基本的には同意見です。
子供なんて親と環境だけで将来の殆どが決まると言って過言じゃないしな
何でお金や地位にビクビクしながら生きなきゃいけないんだお!そんな物のために筆を握らせるんだったらちんぽ握らせたほうがマシだお!好きなようにさせればいいんだお!納得するまで一緒に考えればいいんだお!
…何でマークシート塗らなきゃいけないん!こんなの、勉強じゃないお
わりと失礼な間違いだと思われます><><
なんでもいいが こんな大人にならない為にするんだなと思わせれば 勝手にやるのではないか。
しかし子どもから難しい問題が解けないと相談されて 自分が解ける(説ける)問題だった場合にはよく注意しておくべきやも
などと
美大いくやつが何を言ってんだ><
因数分解は本気でわかってない(18さい)
世の中親達よ。あなた方の人生は盲目の中で過ごされていたのではないか?もしそれを少しでも後悔するのであれば是非、自己を省みて分析して欲しい。
しからばその子供たちからの質問は己に対しての質問にほぼ等しいと感じるのではないか。
偏屈でも頑固でも、自己を持ってそれを堂々と子供たちに話せる大人こそが、大人なのではないか、と思います。(35歳・男)