「いつまで赤なんだよ!もう!」
のび太は苛立った様子で横断歩道の信号を睨んだ。学校までの道のりの丁度中ほどにあるこの信号はいつだって中々青に変わらない。右手には陸橋があるのだけれど、今から陸橋に向かっても結局時間を食うだけだったので大人しく信号が変わるのを待った。
「ドラえもんが起こしてくれないから、また遅刻しちゃうじゃないか!」
のび太はそうやって毒づくが、実際は少し違う。ドラえもんは何度も布団をはがして彼を起こそうとしたのだけれど、のび太が頑として起きようとしなかったのだ。あと5分、もう5分……というのび太の頼みに負けた格好である。近頃ではのび太の親もドラえもんも、彼の悪癖に半ば呆れ気味だった。
「あの子の寝坊にも困ったものだけど……遅刻して、先生に怒られて。そういう風に身をもって知れば、少しは経験になるでしょう」
「そ、そうですよね」
のび太が出て行った後の野比家の食卓で、のび太の母とドラえもんとの間にそんな会話が交わされていることをのび太は知らない。
「おはようございます!」
「野比!今何時だと思ってるんだ!」
教室のドアを開けた瞬間、先生の雷が落ちた。のび太は慌てて教室の壁に設えられた時計に目をやる。
「え?く、9時10分ですか?」
馬鹿正直に答えるのび太の声に、教室のところどころから押し殺したような笑い声が漏れた。え、どうして?と首をかしげながら教室を見渡したしたのび太の目に、スネオが口の形だけで「バーカ」と言っているのが映った。
「……もういい、お前は廊下に立っとれ!」
戸惑うのび太の鼓膜を、先生の怒号が激しく揺らす。あまりの大声にのび太がビクッとして振り返ると、真っ赤になってプルプルと震えている先生の顔があった。どうやら何か間違ったことを言ったらしいと悟ったのび太は「は、はい!」と甲高い声で返事をすると、ランドセルもそのままに廊下へ駆ける。後ろ手にドアを閉めた瞬間、教室から大きな笑い声が起きた。
「ただいま……」
のび太が学校を終えて帰宅する頃には、もうとっぷりと日が暮れていた。結局この日は遅刻をした罰として放課後に裏庭の掃除をさせられ、それが終わると先生からの長い長い説教が待っていた。
「おかえり。今日は随分と遅かったじゃない。空き地で皆と遊んでいたの?」
机の上に力なくランドセルを置くのび太に声を掛けるドラえもん。片手にドラ焼きをパクつきながらだらしなく寝そべって呑気な声を上げているその姿を見ると、不意にのび太は怒りを覚えた。
「遊んでたんじゃないよ!この時間まで学校の掃除させられて、その上先生に説教までされたんだから!もう、こっちの身にもなって欲しいよ!」
のび太は大振りなジェスチャーで自分の感情を伝えようとするのだけれど、ドラえもんは相変わらず口をもぐもぐさせながらゲラゲラコミックをめくっている。あまりのび太の話には興味がないといった素振りだった。その姿を見て、のび太の内により大きな苛立ちが募る。
「大体ね!ドラえもんが朝、ちゃんと起こしてくれないからこんなことになったんじゃないか!全く、何のために僕の家にいるんだよ!」
のび太は唾を飛ばしながら大声を上げた。それでもドラえもんは漫画雑誌から目を上げようとしない。ドラ焼きの最後の一口を洗面器ほどもある大きな口に放り込むと、欠伸を堪えたような声でのび太の方に視線を投げた。
「起こしたじゃないの。でも、君が布団の中で『あと5分、あと5分』って言うから、それで遅刻したんじゃないか。僕のせいにしないでおくれよ」
鋭いところを突かれてのび太は一瞬口ごもる。けれども、この時間まで学校に居残りを命じられた怒りの根は深い。たじろぐ頭で、それでもどこか文句をつけられる理屈を探してのび太は再び口を開いた。
「だ、だからってそんなの素直に聞かなくっていいんだよ!君は僕を幸せにするために来たんだろう!?学校に遅刻ばかりするようじゃ、立派な大人になんてなれっこないじゃないか!」
「だから僕は起こしてるじゃないの」
ドラえもんは面倒くさそうに呟くと、手に持っていた雑誌を本棚に押し込んだ。
「いいかい、のび太くん。確かに僕は君を幸せにするために未来からやって来たよ。でもね、それはあくまで手助けをするためだけなんだ。極端な話、僕が君の代わりにテストを受けて100点取っても意味がないんだよ。僕ができるのは道案内まで!その後に君がどうするかは、もう君次第なんだよ」
ようやくのび太を見据えて喋るドラえもんの声は、少し困ったような、それでいて真剣なような……様々な感情の混じる複雑な色のそれだった。もう同じような説教を何度繰り返したのだろうか?――そんな、疲れにも似た気持ちが根底にはあるらしい。
「そ、そんなこと言ったって、実際に僕は起きられないわけだし」
「じゃあ僕がビシバシお尻を叩いて、布団をひっぺがして、無理やり頭にタケコプター付けて学校まで突き飛ばせばいいの?そんな風に学校に行って楽しいの?」
今度は、少し悲しげな色の声。今朝はのび太の母にああいう風に言われたけれど、ドラえもんにしても色々思うところがあるのだろう。あくまで対等な、友達のような関係でいたいからこそ厳しくしない接し方もあるのかもしれない。
「……でも!僕だってもう遅刻はしたくないんだよ」
「だったらもっと早く起きればいいじゃない」
「それができたらとっくにそうしてるよ!ねえ、ドラえも〜ん……」
急にのび太が猫なで声を出した。幾度となく繰り返したこのパターン。ドラえもんは心の底で溜め息をついた。
「道具は、出さないからね」
「ま、まだ何も言ってないじゃないか!」
「分かるよ、そのくらい!『朝寝坊しないような道具出してよ〜』って言おうとしたんでしょ!」
ピシャリと言い捨ててドラえもんは腕を組んだ。のび太は一瞬たじろぐような様子を見せたが、すぐに相好を崩すとニヤニヤと笑いながらドラえもんに歩み寄る。
「分かってるんだったら出してよ〜、ど・う・ぐ!」
「ダメー!さっきも言ったでしょ!僕ができるのは道案内まで!起きるのはのび太くんの仕事なの!」
「なんだよ、ケチ!」
「ケチじゃない!あのねえ、のび太くん。朝自分で起きることくらい、今時の幼稚園生だってやってるよ?それくらいのこと、自分ひとりでやれなくて恥ずかしくないと思わないの?」
心底哀れむような調子でドラえもんはのび太に語りかけた。小学五年生にもなる目の前の少年が「朝起きれないから便利な道具を出してくれ」と懇願するのだから彼が苦慮するのも無理はない。しかしのび太はそんな慮りを察する様子もなく平然と言葉を続ける。
「起きられないものはしょうがないじゃん。だいたい、学校が始まるのが早すぎるんだよ!そうだ、じゃあ朝起きる道具はいらないからさ、代わりに学校が遅く始まるようになる道具出してよ!これならいいでしょ、ねえドラえも〜ん」
「あきれた……」
ドラえもんは自分の肩にしがみつく少年の手をうっとうしそうに払うと、ふすまを開けてスタスタと階下に向かった。台所の方から暖かなカレーの匂いがする。先ほどドラ焼きを食べたばかりだというのに、ふと、腹の虫が鳴るのを感じた。
「ケチー!!」
その背中にのび太の未練がましい叫び声を受け止めながら。
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「でもさあ、確かにのび太の言うことにも、一理あるよな」
翌日、裏山にはジャイアンとスネオ、それにのび太といういつもの見慣れた顔が揃っていた。
「この前パパから聞いたんだけど、人間の頭ってさ、起きて何時間かしないときちんと働かないらしいんだ」
雲ひとつない快晴だった。この日の授業は午前で終わったので、昼食をとり終えた3人は誰ともなしにこの場所に集まった。最初は千年杉に登ったりスネオのラジコンで遊んだりしていたのだけれど、この日珍しく学校に遅刻したジャイアンが「今日先生からこっぴどく叱られてさあ……」などと愚痴り始めたので、のび太が昨夜の考えを二人に披露したのである。
「学校って勉強するところなんでしょ?だったら、頭が働かないうちに学校に来る必要もないはずじゃない」
「そ、そうだよね!」
ペラペラと自分と同じような考えを喋るスネオの存在を心強く思ったのか、のび太も大きな声で賛意を示す。ジャイアンもその脇でうんうん、と目を閉じて頷いていた。
「学校がいらないわけじゃないんだよなあ」
スネオは腰を下ろしながら呟いた。それに併せてのび太、ジャイアンと続いて円を描くような格好で地べたに座る。
「セイドが僕たちに合ってないんだよ、結局」
のび太の頭の中でスネオの発したセイド、という言葉が「制度」という漢字に繋がるまで少し時間が掛かった。何となくその言葉の持つ意味を想像で補いながら、スネオの言葉に耳を傾けた。
「だって、今の学校の登校時間とか、勉強することなんて、全部大人が決めたことでしょ?もちろん、勉強する内容は僕たちは決められないけど、せめて登校する時間くらいは僕たちに決めさせて欲しいよ」
「そうだ!その通りだ!」
不意にジャイアンが強い調子で喋った。少しだけ怒ったような目をしている。今日先生から怒られたことが相当腹に据えかねているのかもしれない。
「そうだよ!大人は、仕事するだけだから朝から会社に行っても問題ないけど、僕らは勉強するんだよ?たくさん頭を使うんじゃないか!それだったら、やっぱり朝はゆっくり寝なきゃ!」
やはり自分は間違ってなかったのだな、とのび太は思った。学校は子供のためにあるのに、大人の都合で今の学校の仕組みがあるんだったら、そんなのやっぱり間違ってるんだ――そんなことを考える。
「やっぱ、登校時間を変えさせよう!」
ジャイアンが拳を振り上げてシュプレヒコールを上げる。つられてのび太とスネオも「オー!」と声を上げた。
高く振り上げた拳はしかし、行き場なく元の位置に戻される。一瞬の沈黙が3人を包んだあとに、のび太がぽつりと呟いた。
「どうやって?」
「それは、お前……」
そこまで言ってジャイアンはもごもごと口をつぐんだ。気持ちだけではどうにもならないこともある。小学生3人にできること、考えられることは、あまりにも少ない。
「ねえ、大昔の日本に行った時も皆で話したけどさ……」
それまで黙って聞いていたスネオが再び喋り始めた。この中で一番頭のいいスネオなので、皆で何かを考えたり話し合ったりする時は自然と会話のイニシアチブを取るようになるのだ。
「日本の土地とか、社会の仕組みとかさ。そういうのって、元から何もなかったわけじゃん。なのに、大昔の祖先が生きていく中で勝手に決めたこととかが、今も僕たちの常識になってるわけだよね。そんなのって、やっぱりおかしいよ。だって今の僕たちには何の関係もないわけじゃん!」
「おお、そうだ!その通りだ!」
ジャイアンはまたもや腕組みをすると、感心した素振りを見せながらスネオに賛同した。このコンビがいつも一緒にいるのは、やはり相性がいいからなのだろう。
「で、でもスネオ!」
「なんだよのび太」
「確かにそれはそうなんだけどさ、前も同じようなこと言って大昔の日本に行った時に、大変なことになったじゃないか!」
3人の脳裏にかつてのことが蘇る。白亜紀の日本にドラえもん、しずかちゃんを加えた5人で行ったあの時のことを。
「もう、雪山で遭難するのはこりごりだよ……」
「未来から来た、変なヤツと戦うのも嫌だぜ……」
ジャイアンとのび太の顔がみるみる曇っていく。先ほどまで興奮しながら大きな声を出していたのに次の瞬間には落ち込んでいる。感情の起伏が激しいのも、小学生ならではのことなのかもしれない。
「いや、何も大昔の日本に行くことはないさ。ドラえもんの道具があれば色々できるんじゃないの?」
「おお、そうだ!ドラえもんの力さえ借りればなんだってできるぞ!おいのび太、すぐにドラえもんを呼べ!」
「いや、でも、それは……」
スネオとジャイアンの言葉に、のび太は昨夜のやり取りを思い出す。
『僕は、道案内しかしないよ』
あいつ、変なところで融通が利かないからなあ……口の中でそう呟くと、のび太は目を伏せて地面を見つめた。
「なんだよのび太、乗り気じゃないっての!?」
「テメエ、俺たちに期待させといて、今更やめようったって……!」
「ち、違うよ!そうじゃなくって……」
二人の剣幕に負けたのび太は、しぶしぶと昨日ドラえもんが言ったことを喋り始めた。
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「――と、いうことなんだよ」
「なんだか面倒くせえな、いいよ!俺がドラえもんぶっ飛ばして話つけてやるからさあ!」
のび太の話を聞き終えると、ジャイアンは腕を捲くって大股に裏山を下り始めた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよジャイアン!」
「なんだよスネオ!お前も反対すんのか!?」
「違うよそうじゃなくて……ヘタにドラえもんの機嫌を損ねたらマズいってことだよ」
スネオはジャイアンの腕を掴んで必死に説得した。確かにのび太にしても、力ずくでドラえもんを説き伏せることができるとは思えなかった。彼の頑固さを考えれば――それは過去の経験からも確からしい。
「じゃあ、どうするっつーんだよ」
ジャイアンが憮然とした様子でスネオに向き直る。その言葉を聞いたスネオは、ニヤリと笑うと二人を近くに寄せてヒソヒソと喋り始めた。
「こういうのはどうだろう」
【続く】
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これは期待
すげぇwktk
情景が頭の中に浮かんできたし…すごいよ肉棒さん!
自然に大長編ドラえもんのふいんき(ryをイメージしつつ読んでしまった
このまま正統派でいくのかな?肉さん節が出てくるのかな?
どっちにしろ楽しみです^^
何故お姉言葉wwwww
スネオはよくこんなセリフ回しすんだよ。
これは期待www
センター終わってからの楽しみとして読まないでとっておきますね!ワクワク
近現代文学を専門に研究している私から見ても、人物設定(この場合、パロディだから人物理解)も表現技法も充分、通用すると思うんですが。