例えば僕が宮崎あおいさんの旦那であった、という立場で論じましょう。
自らのちょっとした発言が切っ掛けで各方面に様々な波紋を呼び、その結果として奥さんとの別居を余儀なくされてしまった。
この行動、並びに生じてしまった結果の是非はともかくとして、その発言が(その時点における)真実真正な気持ちの表明であるとすれば、僕の考えからすると
「迷惑をかけてしまった人には申し訳ない気持ちだ。しかし、俺の本質は何も変わってはいない。昔も今も、そしてこれからも、俺はそういう人間である……そしてあおいも、そんな俺を好きであるはずなんや……」
十中八九、こう思うに違いない。
再三になるが、思考的結論としての在り方の是非は、ひとまず脇に置いておいて頂きたい。
そうなると、旦那としては 「従って、ほとぼりが冷めればあおいも俺のところに戻ってくるはずに違いなかろうもん!」 と確信するはずであり、まあどうして旦那が博多弁なのかはこの際無視して欲しいのですが、とにかくも旦那からしてみれば
『自分が正しいと思ってやった行動は、当然妻も理解してくれている筈!』
この因果経路それ自体は、主観的な意味で、さほど不自然なものではない……と言える。
けれども、じゃあ実際どうだったのか?といえば、それは歴史が証明している通り、妻であるあおいさんは 「ドwドwwドリランドwww」 と叫びつつ某岡田サイドとファック・ミー・ハードに勤しんでおられたわけで、要するにこの話は
『主観的な正しさなんて、何の意味も説得力もない』
ここに行き着くわけであり、故に我々としても、自らの行動について適宜客観視しないといけない、正しいから正しいんだ!と叫び散らして好き勝手やってると、いつの間にか間男にドリランドされてしまうよ……という、価値ある教訓となる。
ただ、この話については、もっと問題の根が深い。どう深いのかといえば、仮に、仮にだ。アンタ方みたいな者が、まあ場末のツイッターで、やれ「ウンコ漏らした」だ、それ「チン毛が燃えた」だのと書き散らしているアンタらみたいな下賤の民が、仮に、本当に仮にね、結婚できたとした、挙句に某岡田氏のような、類稀なる眉目秀麗なディック野郎に、奥さんを寝取られた場合に……ドリランドされてしまった場合にね……果たして、何を思うのか?そして、何を思わないべきなのか?
見落とされがちな論点、だがこれは非常に微妙で繊細な問題である。そして、僕は思うのであるが、ややもすればこれは 『ちょっとマシな話』 にカテゴライズされるべきテーマではないのだろうか。もっとも、最悪の中での最善、という意味においてであるが。
「これが、私の浮気相手です……」
そこで登場したのが、もし自分の住むマンションの管理人(62)であったらば。それはそれで、燃える!これは僕の心の声であるが、論点はそこではない。
「安いシャブでも食わされたのか……?」
刑事事件を懸念すべき案件である。「混ぜモンの覚せい剤でもキメなきゃ、さすがにマン管(62)と浮気はしないのでは?」、そう考えて然るべきだ。
恋愛の形は人それぞれである。が、そんな雑な三味線を弾けるのは 『どうでもいい他人』 に対してのみであるし、いかな博愛主義者でも自分の息子が 「父さん、この人が婚約相手だよ!」 とドヤ顔で野生のヒポポタマスを連れてきた場合、息子を殺すか自分が死ぬか、その二択しかないだろう。人は、無関心な人間に対してはいくらでも寛容になれるものだが、大事な人に対しては中々そうはいかないからだ。
注:ヒポポタマス=カバ
その意味からすれば、自分の細君が 「これが浮気相手です」 とマン管(62)を連れてきた場合、もはや怒りや悲しみなどというチープな段階はすっ飛ばし、たとえその方がイエス・キリストであっても、2秒で邪教へと宗旨変えすることまず間違いない。それを許す寛容さは、寛容さではなく無関心である。それはそれとして燃えるのは俺であるが、その話題と今日のテキストとは、さほど関係がないため割愛する。
「これが、私の浮気相手です……」
そこにいたのが、現役の屈強なムエタイ・ファイターであったらば。あまつさえ、ドギツイ笑顔で 「アパチャイです。コープ・クン・クラップ」 と握手を求められたとしたら。怒り、悲しみなどといったチープな感情は光よりも速く消え去り、聞こえるのはひたすらに絶望の産声。恐怖の夜明け。なぜタイ人と?!そんな、ある種当たり前の疑問すらもかき消される、煉獄のアポカリプス。
(俺との共通項、どこにもねえじゃん!?人類、つーカテゴリだけじゃねえ?!)
マン管(62)とのことにしてもそうなのだが、論点はそこなのである。
『せめて、自分と近しいジャンルの人であれば……』
"最悪の中での最善" という名の花は、その土壌においてのみ花開く。
確かに、近視眼的な視点でみれば、"自分と似たような人間" とされる浮気の方が、直情的な怒りを覚えやすいだろう。だが、思うに、その方が後に残るダメージは少ない。なぜとなれば、少なくともそちらの方が
「かつて自分が愛した女は、浅はかではあったものの、価値観的なブレはなかった」
こう思えるか、どうか。その違いだ。
「ハイ!モハメド、イイマス。チュウトウデ、セキユ、ウッテルヨ。ワオ!」
その光景。ザーメンも枯れ果てそうなタッチだ。一度は生涯を誓った女がどこの馬の骨ともしらない石油王とイン・ザ・ベッド
「おやおや?モハメド。このコンビナートの油は、白ね」
と、テンダーな調子で囁く、その光景。
「アオイ、アッラーフ・アクバル!」
「あ、あ、アーフラァァッークィィィァァァッッソゥ!!!」
とシャウトする、人外魔境のアラビアン・ナイト。『来世などいらない』、僕レベルのカスですらそう確信するほどノスフェラトゥなシーン。
「某岡田です。イケメンやってます。このたびは本当に、ご愁傷様でした……」
引き換え、この光景。あまりにも心優しいタッチだ。
もちろん、某岡田氏に対する怒りはあるだろう。
だが、それを超えていっそ絶望、専ら自らに対しての絶望……なんで俺はこんな女と付き合ってたんや……俺の人生、なんだったんや……的なデスピアを覚える可能性は、マン管(62)、アパチャイ、モハメドのケースより、余程低いに違いない。再三になるが、ことの是非はさて置き、の話としてであるが。
一口に浮気、といっても、その実態は様々だ。『しないに越したことはない』、それが道理であるにせよ、起きた事象を覆す手段はどこにもない。
それでも。
「あいつ、許せねえ!」
こう思えるのであれば。
感情の閾値がここで留まるようなケースであるのなら。
それは、まだマシな方なのかもしれない。
もちろん、こんな相対化には何の意味もない。浮気をされた人からしてみれば、その浮気は 『絶対』 である。ifの観点から "違う浮気" を妄想して、それで心が休まる人など、この世にいようはずもない。当然の話だ。よって、この日記はただの戯言でしかない。
僕の好きな言葉に、以下のようなものがある。
『自分が本気で惚れた女を、安く見るもんじゃないよ』
かつて放送されていた "深夜食堂" というドラマの、第7話で流れた台詞だ。
浮気という事象をどう取るかは、各々の価値観に応じて変わることだろう。それでもその行為が "最低" というカテゴリに属することには、まず間違いがない。また、作中で用いられた台詞は、こんなチープなテキストを糊塗するために発せられたものではない、ということにも注釈を付する。
どれだけ罵詈雑言を吐いてもいい。そういうやり方でしか癒せない心の痛みというものは、絶対にある。
「怒りのあまり、相手と同じ地点にまで自分を貶めてどうするんだ!」
というのは、よく聞く諌め文句であり、御説ごもっともでもある。
が、そんな言葉には何の意味もない。投げかけられた言葉が意味を持つのは、受け手が適式に受け取め、咀嚼し、飲み下してからのことだ。それ以外の言葉は、耳に心地よい音楽、やかましい騒音、それらとさほど変わりはない。聞こえるが、届かない。
それは現象、ただそれだけだ。
それでも、いつか忘れることができれば。
第三者として言えるのは、願うべきは、それのみである。
そして、その時にそっと
「まあ、確かに、マン管(62)ではなくて良かったよな」
言葉に意味などない。
だけど、言葉に込めた想いは。
いつか、どこかで意味を生むかもしれない。
PS 宮崎あおいさんはビッチだと思います
PS2 でもそれもまた燃えるっつーか
PS3 「おらwwwあおいwwwwバックで突かれながら旦那にメール打てよwwwオウwwwSPwww」「ヒマラヤほどのwwwwデカマラひとつwwwwwウェイウェイwwwww送信wwwww」
蛇足がちょいと・・・・
「俺くらいの人間になるとあおいさんが処女って分かる」
って言ってた肉さんが……
でも、それもまた燃えるんだと知って愛!って思った。
きがくるうとる
浮気相手が女の子だったときは、女性同士の行為の一部始終を根掘り葉掘った挙げ句我慢出来ずにオカズにしてしまった僕ですよ。