(長いので変則的に先に)

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case1
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顔を上げると、霞の向こうに新宿が見えた。僕はそれには背を向けJRへと向かう。背後の青梅街道からけたたましいクラクションが聞こえた。
歩いていると空腹を覚えふと立ち止まる。僕はジーンズの後ポケットから財布を取り出すと、両手に開いて所持金を確かめた。合皮の財布の中にはsuicaが一枚と小銭が数百円程度あるばかりで、その他にはいつのものだか分からないレシートや、とうに利用期限の過ぎたクーポンがあるばかり。suicaのチャージ額は幾らだったか考えたあと、思わず舌打ちをして財布を閉じた。
ここで金を使うと電車に乗れなくなってしまう。腹の虫こそ鳴ってはいるが、空腹は幸い耐え難いほどではない。suicaをデポジットするという手も無いではなかったが、後々のことを考えるとそれは懸命な選択ではないように思えた。結局、何メートルか先にある吉野家を見ないようにしながら僕は溜め息交じりに歩く。
駅に着くと三鷹方面の中央線に乗り込む。平日の昼下がりということもあってか、車内は比較的空いていた。僕は7人掛けのシートの一番隅に腰を滑らせ、ぽつねんと向かいの窓の外を眺めた。
今日は月に1度開かれるの売血の日だった。
近年の不況の煽りか、ここしばらくは売血の競争率がやたらと激しい。
先月の売血の日など、僕がセンターに到着した時は既にその日の予定数に達した後で、結局血を売ることができなかった。おかげでグループの人間には散々にボコられた。今でも小指のあたりはうまく動かない。
だから今回こそは確実に、という意味もあって今日は少し遠くに足を運ぶことにした。もちろん新宿にも売血センターはあったのだけれど何分あそこは激戦区である。先月のように締め出しを食らったらたまったもんじゃない。多少億劫ではあったけれど安全策を採って新宿で売血をすることを避けたのだ。
ふと、シャツの左腕を捲くって自分の腕を見詰めた。
何度も注射針を刺されてのことだろう、腕の一部の皮膚は痣のように黒ずんでおり、さすってみると心持ち硬くもなっていた。元来色白の自分の皮膚の中で、その一部だけが明らかに異様だった。もっとも、最近では僕のような腕をした奴など少しも珍しいことではない。
じんわりと汗をかいた。僕は夏だというのに長袖のシャツを着ている。全てはこの黒ずんだ肌を隠すためだ。いくら法制化されたとは言え、常習的に血を売ることを喜ぶ親はいない。おかげで僕は季節を問わず常に袖のある服を着るハメになった。
ぼうっとしたまま何度か黒ずんだ腕をさすると、シャツを戻して背もたれに体を預けた。
ここ最近は全国的に血液の買取額が上昇している。先月までが1ccあたり15円だったのに、今月では一気に20円にまで引き上げられた。値上がりの理由に関して政府が公的に見解を発表することはなかったけれど、そんなのはどうでもいいことだ。買取額が高くなったことは嬉しいことだし、僕の血がどのような使われ方をされていようと別に興味は無い。
それに、結局手にした金が僕のものになることはないのだから。
「……荻窪です。東京メトロ丸の内線をご利用の方はお乗換え下さい……」
僕は電車を降りると改札を抜け、駅前の案内図を眺めた。
知り合いの話によると、荻窪の売血センターは丁度新宿、中野、吉祥寺のセンターに挟まれエアポケットのような形になっているためか、存外に利用者が少ないのだという。荻窪に来たのは初めてだったけれど、予想よりも活気のある街で驚いた。
案内図によると荻窪の売血センターは北口から300mほど先にあるようだった。大体の方角にあたりをつけると、点滅する信号が目に入ったので急いで白黒の道を駆け抜ける。
大急ぎで横断歩道を渡りきったところで再び盛大に腹の虫が鳴り始める。思わずそこらに点在する飲食店の暖簾をくぐりたくなる衝動に駆られるが、中央線の長い道のりを歩いて帰ることを考えると我慢せざるを得なかった。何度か生唾を飲み、深い深呼吸をして気持ちを落ち着ける。霞を食うようにして人心地つくと、道路を睨み付けるようにして歩き始めた。
売血センターの前に着くと、まだ受付も開いていないというのに既に何十人かが列をなしているのが目に入る。荻窪で既にこれなのだから、他の場所に行ってたらと考えると、少しだけ得した気分になった。ただ、この手の情報はすぐに広まるのも事実だ。来月あたりにはここも激戦区になっている可能性だってある。何にしても人口が多すぎるのだ、東京という場所は。僕は結局暗い気持ちになって、列の最後尾に連なった。
受付の始まる時間を待ちながら、それにしても、と思う。どうして政府はこのような制度を取り入れたのだろうか。今更とは言わないが、調べてみるとかつての日本でも売血の制度は存在したらしい。けれどそれに対しては倫理的な問題、また血液の質的な問題から批判が相次ぎ、最終的には『献血』という制度に取って代わられたはずだ。どうして今になって売血制度を復活させたのだろうか。
確かに献血時代は輸血用の血液が不足することも多々あったと聞く。その意味ではこの売血制度は十分な量的貢献を果たしていると言えるだろう。
けれど、その裏側で僕のような人間が増えていることも事実だ。つまり、恐喝されて血を売ったり、あるいは借金の返済のために売血をしたり、という風に。もちろん政府もそのような状況を黙認しているわけではなく、売血手帳の履歴欄を厳格に管理することで対応しているようであるが、結局は最低でも月に1度は売血ができるわけだし、いかに優秀な国家といえども個人の金銭の使途までを把握するなんていうのは無理な話だ。どのみち制度が存在し続ける限り、僕のような人種が途絶えることもない。
「はい、それでは売血を開始します。順番に氏名を記入して待合室でお待ち下さい……」
係員の声に列がもぞもぞと動き始め、慌てて僕もその列に続く。ふと振り返ると、僕の後ろにはいつの間にか50人ほどの列ができていた。この分だと来月はもっと増えるのだろう。そろそろ都外にも足を運ぶことを考えなければいけないのかもしれない。
ロビーで手渡された用紙に、所定の事項を記入していく。
何度も手にした紙だ。握ったボールペンは淀みなく用紙の上を滑った。
【記入事項】
氏名
年齢
身長
体重
血液型
住所
直近の売血履歴
昨晩の睡眠時間 (ここは2時間ほど水増しして書いた)
ここ1ヶ月の海外渡航の有無
通院の有無
本日希望する売血量
(今日の量は……)
そこで手が止まった。
今月彼らに要求された額は丁度1万円。だとすれば500ccほど売血すればいいことになる。しかし律儀に500ccだけの売血では、僕の手元に残る金は一円もなくなってしまう。どうするべきか、としばらく頭を悩ませた。
ぎゅるるるる。
決断をせっつくように腹の虫が鳴く。
その声に思わず「600cc」と書き込んでしまった。
漏れなく記入した用紙を窓口に持って行くと、すぐに抜血室に通された。通常だと抜血までは1時間程度待たされる。だから、今日は運がいい。僕は表示板に従い通路を歩くと、奥まった場所にある一室のドアを開けた。
ドアの向こうのその部屋では、50脚はあろうかというパイプ椅子にずらりと売血希望者が座らされていた。僕はきょろきょろと辺りを見回し空いた椅子を見つけ、そこに腰を下ろす。右隣には40がらみの痩せ面をした男が神妙な顔をして血を抜かれていた。針の刺さった箇所を見ると、まだ肌が綺麗だった。おそらく、初めての売血なのだろう。無意識的にどうして彼がここに来たのか考えてみたが、そんなものは分かるはずもなかった。
左隣にはMP3ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んだ頭の悪そうな女がだるそうなリズムで貧乏ゆすりを繰り返している。ざっくりとした作りのカットソーの胸元からは豊満な谷間が覗いており、その片乳にはサソリの刺青が入っていた。確か刺青が入っていると売血に何らかの制限があったような……などと考えながらマジマジと谷間を見ていると、その視線に気付いたのか、女がこちらに顔を向けジロリと睨んだ。僕は慌てて顔を伏せ、考えるのを止めた。
「えーと、じゃ、あなた。抜血はじめるわよ。用紙見せて頂戴」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこには売血センターの職員が立っていた。僕が黙って差し出した用紙を受け取り、職員はおざなりな様子で用紙に目を通す。
「ふん。前回は二ヶ月前か。じゃあ薬は必要ないわね」
薬。これは毎月連続して売血をしている人が抜血前に与えられる錠剤のことだ。詳しいことはよく知らないけれど、あまり抜血をしすぎると血液の質が著しく低下するらしく、それを薬の力によって改善させるのだ、と何かの本で読んだ。そんなものを抜血の直前に投与して効果があるのか?と思わないでもないが、抜血後に改めて特殊な処理をすることで血液の質的改善が図られる……と、これも本で読んだ。あれこれと思うことはあるが、どちらにせよ僕としては金さえ貰えればそれでいい。薬を飲まされようが検尿を命じられようが構わないのだ。
「じゃ、腕捲くって。あ、もっと上までしっかり。へえ、あんた血管太いね。こりゃ刺しやすくて楽だわ。あはは」
軽口を叩きながら、女職員は手馴れた様子で僕の腕に抜血針をあてがう。針が皮膚が貫くその瞬間だけは、いつまで経っても正視することができない。僕は天井を見上げ、深く呼吸をついた。ズキリ、と鋭い痛みが刺したかと思うと、次の瞬間にはもう女職員はいなくなっていた。
この状態のまま、待つこと数十分。部屋には一台だけテレビが備え付けられてあり、皆が一様にその方向へ顔を向けていた。画面からはつまらないニュース番組が流れているだけだったが、僕も周り同様見るともなしに画面を見詰め、時間が過ぎるのをじっと待った。横の女のイヤホンからはBON JOVIの「YOU GIVE LOVE A BAD NAME」が微かに流れていた。
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「はい、お疲れ様でした。では、こちらが本日の売血金12000円ですね。ご確認下さい」
窓口で安っぽい茶封筒が手渡される。その場で中身を確認すると、確かに12000円きっちり入っていた。金を受け取るこの瞬間は、何度経験してもやはり嬉しい。ちっとも働いてはいないのになぜだか達成感すらある。僕は封筒をジーンズの前ポケットに突っ込むと、センターの玄関を抜けて通りへ出た。
しばらく歩いていると、今度こそ耐え切れないほどの空腹感に襲われた。時計を見ると既に正午過ぎ。幸い100ccほど余分に売血したお陰で、手元には外食できるだけのお金がある。駅前にはいくつか飲食店もあったし、ここらで遅めの昼食でもとろうかな――そんなことを考えていた時だった。
「よぉー!ケンスケじゃん!久しぶり!何やってんだよこんなところで!ま、立ち話もなんだからちょっとこっち来いよ!」
気付いた時には大声と共に肩を掴まれ、強烈な力でグイグイとどこかに引っ張られていく自分がいた。一瞬、何が起きたのか判断ができなくなる。僕は軽いパニックに陥りながら顔を上げて声の主を確認した。視線の先では全く見も知らない男が二人、僕の左右からガッチリと体を支えている。僕はそのまま為す術もなく路地裏へと引きずられてしまった。
「あっ、よく見たらケンスケじゃないじゃん。ごめんねー、人違いだったわ」
ニヤニヤと笑いながら男が喋る。これから僕の身に何が起こるのか、そんなのは混乱した頭でもハッキリと理解できた。
恐喝。
一刻も早く逃げなければならない。
けれど、極度の空腹と、また直前に600ccもの血を抜かれた体では満足に声を上げることすらままならなかった。そうこうしているうちに二人組みの片割れ、鼻にピアスをした男が不意に足払いを掛けてきた。僕は平衡を失い、その場にどさりと尻餅をついて倒れこむ。
「ねえ、お前さ、血売ってきたんだよね?偉いなあ」
「な、その献身的な精神でさ、俺らにも金を貢献してよ。困ってんだよね、俺ら」
二人組みは僕の方に顔を近づけ軽い調子で言葉を吐く。予想はしていたことだけれど、最悪だった。どうにかしてこの場から逃げなければ、頭ではそう考えるのだけれどもそんな術はどこにもない。血と体力の抜けた頭では、何かを考えるのすら億劫だった。僕は何も喋らずにぼうっと男たちの顔を見上げる。
「……黙ってないでさっさと金出せってんだよ!」
次の瞬間、右のわき腹に電気のような鈍痛が走った。突然の痛苦に思わず身体を丸める。どうやら男のつま先でアバラを蹴り上げられたようだ。悪いことに、男はウェスタンブーツを履いていたらしく、僕はあまりの痛みに地面に顔をつけ砂を噛んだ。呼吸が途切れる。ひどく、苦しい。ガツン。後頭部に重圧を感じた。今度は男に頭を踏みつけられた。奥歯の隙間から、砂がガリリと鳴る音が聞こえた。
「あ、茶封筒発見」
「おお、あれだあれだ」
痛みに霞む意識の遠くから、男たちの喋る声が鼓膜を揺らす。何とか抵抗しようと思うのだけれど、恐怖と疲労、絶望や痛みなどあらゆる要素が相俟って指の一つも動こうとしない。僕はズボンから封筒がただ抜かれるのを感じながら、ただただ痛みに喘ぐばかりだった。
「じゃあな、ありがと!お前も健康には気をつけろよっ、と!」
最後にもう一度、今度は横っ面にトゥーキックをお見舞いされた。横からの打撃を受け僕は体を反転させる。そのまま大の字になって路地裏に倒れこんだ。口には鉄のような味が広がる。去り行く男たちのバカ笑いだけが、耳に残った。
次へ
今日はマジメ系ですね
面白かったです
こんなに多くの人物の心理描写を書けるなんて。設定も面白いし。久々に感動した。これがもっと続いていけば売れるって。
読んでる時の感覚が暗い映画見てる時と似てたし。
今度一緒にアッ――!!しましょう(*^^*)
やっぱり最高ですv
今度一緒に俺とお酒でも飲んでください
肉欲さんのブログのいつものノリも好きなんですけど
こういう話も好きです*
とても面白かったです。
これからも応援してます(^ω^)