case3
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私は幼い頃から体が弱かった。ちょっとした運動にも息を切らし、少しでも外を走ろうとすれば慌てて親が飛んできた。
自分の身体だというのに、自分の思うままに動かした記憶というのがまるでない。
けれど、育ちだけは良かった。
物心付いた頃から、何かに不自由したという記憶は無かった。
家は裕福だったし、望めば大抵の物は手に入った。
年齢を重ねるにつれ、望んでも決して手に入らないものもあることが分かるようになった。
その一つが健全な身体だった。
健康な身体。
普通の人と同じように。
私にはそれが全てだった。
私は病弱だった。
私は自由に走りたかった。
私は自由に踊りたかった。
私は自由に泳ぎたかった。
私は自由に――自由でなくとも、ただ他の人と同じように、動き、飛び、駆けたかった。
いつかはそんな日が来るのだと、幼い頃から何度も自分に言い聞かせた。
そしてそれらは全て望むべくもないものだったと知った時は、私は12歳になっていた。
中学校に上がる頃、私は自分の身体が治らない病に冒されていることを知った。
――父の仕事が誰からも恨まれるような仕事であることを知ったのもこの頃だったように覚えている。
思い出す。
何不自由のない家庭だったけれど、不自由でないことは決して自由を意味しないことや、本来的な幸せを意味しないことが、段々と分かるようになった。
にこにこと微笑んでいた近所の人たちは、穏やかな言葉を囁きながらその実、父の仕事を蔑んでいた。
時にメディアですら、父の仕事をこき下ろした。
12歳の私は、自分の裕福さが、たくさんの人たちの罵詈雑言の上に立脚していることを理解した。
それはあたかも、自分の出生から今この瞬間、そう、たった今秒針が進んでいるこの一点まで余すことなく周囲全ての人間から呪詛を吐かれ続けているように思えた。
負にまみれた身体に、生育に、父に自分に。
意識したことではない。が、家には自然と帰らないようになった。
(治らない病に罹ったこの身体だ、どうせいつかは死ぬ。
それが早いか遅いかなら、好きなように生きてそして死んでいけばいい)
そんなことを思うようになった。
繁華街をぶらぶらと歩いていると、色んな男から声を掛けられた。
特に何も思うこともなく、適当に付いて行くことがしょっちゅうになるまでそう時間は掛からなかったように思う。
―――いつの夜か、破瓜の血を流しながら、腰だけの振動を味わいながら思った。
(私がしたかったのはこんなことだったのだろうか)
けれどもそれは刹那のことで、情緒的な情感はすぐさま消え去った。
そして思い直す。
どちらにしても私がしたいことなど、できることなど初めからどこにもないのだ、と。
痛みも悲しみも感動も、振り返ればおよそ情感の得ることのない初体験だった。
私は自然と男に寄生するようになった。
常時2〜3人の男をローテーションしていたが、メインにしていたのはこの辺りでそれなりに有名な不良の柏田という男だった。
この男に経済力を期待していたわけではない。
それよりも、放っておけば弱い者を殴り散らすその様を見るのがたまらなく好きだった。
おそらくそれは、代償行為なのだろう。
私は誰かと満足に殴り合いをする体力もない。
だからそれをこの男に託す。
そしてこの男はそれを受け、他人を殴りつける。
殴りつけられた奴らは、ほとんど動けない程に痛めつけられた。
私はたぶん、その様を見ながら動けなくなった彼らにようやく優越感を抱いているのだと思う。
合理的な代償行為だと思う。
決して誰も得しないメンタルケア。
柏田は隠しているようだったが、彼が闇金から金を借り入れていることも知っていた。 どうやら毎月、その資金繰りにキリキリ舞いしているらしい。
お金の使途は、私だ。
彼は毎月、私が望むものを一つ買ってくれる。
私は毎月、プラダやグッチ、ヴィトンなど、彼が破綻しない程度のギリギリの額を狙ってプレゼントをねだる。
彼はギリギリのラインで毎月やり繰りし、私に貢いでくれる。
私はそれを嬉しそうに受け取る。
私はそれを嬉しそうに質に入れる。
そうして手にしたお金を、夜、一人になった時に一枚ずつ燃やす。
目の前でめらめらと炎を上げて、お金は燃えていく。
私は、こんなことをすれば、自分を育てた汚い裕福さが消えると思っているのだろうか。
分からない、何も。
ただ、火を見ていると少しだけ落ち着いた。
どんな形にしろ、自分を苛む環境を克服しようとしている自分は偉いのかもしれない、と思う。
こんな形でしか、自分を苛む環境を克服できない自分は、もうどこにも存在できないのかもしれない、とも思う。
私はいつも考える。
そう、考えているのだ。何を考えていたか、それすらも忘れるほどにたくさんのことを。
それでも私は分からない。
何も分からない。
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