case4
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【吸血大臣ご乱心?! 売血額引き上げへ】
新聞には世俗の歓心を煽るような惹句で見出しが踊っていた。
私はふん、と鼻を鳴らして新聞を屑籠に放り込むと、重厚なソファーから腰を上げて背後の窓の前に立った。
眼下に広がる霞ヶ関の風景を眺めながら、初めてこの部屋に来た時は一体どういう気持ちだったか思い返す。記憶はしかし、思い返そうとするほど遠く朧げになり、あたかも蛇のようにするするとこの手から逃げていく。
初当選してから十数年。
衆議院議員会館のこの一室で、国政を担い懸命に働くほどに自分は磨り減っていったように思う。
「大臣、失礼します」
ノックと共に公設第一秘書の山辺が部屋に入って来た。私は振り返ることもせず彼の言葉を待つ。
秘書室と議員室は扉を隔てて別々に設けられている。広さは両方でおよそ15畳ほどだろうか。雑事は隣の部屋で秘書たちが捌き、私はこの部屋でそれ以外の重要な仕事を処理する。大抵の事項は山辺のところでストップし、煩雑な事案の8割はそこで淘汰される。だから、山辺がこの部屋に来たということは残りの2割を持ち込んできたことに他ならない。
「先日施行した改正売血法ですが、やはり内外からの批判が相当に強いです。首相も各方面からの影響を懸念しております。ここは大臣自ら法改正に対する適切な説明を」
「それに関してはもう終わった話だろう。法案は通った。そして無事に施行された。我が国は民主国家であり法治国家だ。施行された法律に文句があるのならば、選挙によってのみ是正されるべきだ。あの法案が本来的に悪法であるならば、それは自然に淘汰されるのだ。以上、私が述べることはそれ以上にはない。山辺君、つまらない事案は君のところで処理するよう言っていたはずだが?」
「……申し訳ありませんでした」
山辺は目礼をすると、そのまま秘書事務室の方に踵を返した。
売血法が施行されたのは、私が大臣になって間もなくのことだった。
法案を提出した当時は、議員の誰もが「何を馬鹿なことを」と一笑に付した。
けれど、私は本気だった。
議員生命を、いや、己の人生の全てを掛けてでもこの法案を通す気概だった。
連日、接待に奔走した。あらゆるところでカネをばら撒いた。時に宥め、時に脅しすかし、ゆっくりとじっくりと種を散らしていった。
そして2年前、ついに法案を決議に通したのだった。
国内からの反発は想定内のことだった。けれどそれは所詮烏合の声であり、恐れるに足るものではない。問題は諸外国からの圧力だった。人倫的に考え、血を売るなどという時代に逆行した政策が好意的に評価されるはずもなかった。
けれど、否めない事実として先進各国、いや全世界で血は慢性的に不足していた。私はそこに目をつけた。売血法が通れば、必然的に国内の血は余り始める。それを先進各国に秘密裏に輸出することを確約したのだ。それも破格の値段で。
もちろん、構図としてはそれほど単純なものとはならなかったが、この妥協案を提示することによって何とか諸外国からの批判は回避することができた。結局私が欲しかったのは大量の血ではない。どれだけ海外に我が国民の血をばら撒こうが、そんなことは私の預かり知るところではなかった。
(晴美……)
タバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。
私の娘は、生まれつき難病を患っていた。
「持って、20歳まででしょう」
保育器を前にして、担当医が無表情にその事実を告げた時は思わずその若い医師の襟首を掴み上げた。
ようやくできた一人娘だった。
幾度も不妊治療に失敗し、それでも諦めず、ようやく授かったのが晴海だった。 妊娠の一報を聞いた時、それは天にも昇る気持ちになった。
それなのに、この仕打ちはなんだ。
どうして私の娘がこんな目に遭わなければならないのだ。
他にも子供は、腐るほどいるというのに――。
私は方々手を尽くし、どうにか娘の病気を治すことのできる医師がいないか懸命になって探した。腕のいい医者がいる、と聞けばそれが世界の果てであろうとすぐに飛んで行った。
その間、すくすくと成長していく娘を見るにつけ、その成長を喜ぶ気持ちとそれを手放す絶望とを同時に感じた。一国の国政を担う身分にありながら、自分はあまりにも無力であるように思った。娘の笑顔を見ながら、何度も泣いた。
そうして私は5年待った。
「先生!ついに娘さんの治療法が見つかったそうです!」
初めは私も耳を疑った。
この頃になると、半ば「娘をどう生かすか」よりも「どれだけ充実した死を迎えさせることができるか」という考えに至っていたからだ。この思わぬ吉報に、私は溜まった仕事も投げ捨てて医師の元へ向かった。これで娘が助かる――そのような大きすぎる期待を抱きながら。
娘が幼い頃から担当していた医師はしかし、そのように喜ぶ私とは対照的にひどく浮かない顔をしていた。その表情を見るにつけ、次第に私の中の期待もするするとしぼんでいくようだったが、それでも私は5年越しの希望にすがりついた。
「先生、どうなんですか?娘は治るんでしょう?」
「……確かに、娘さんを治す方法は見つかりました。しかし……」
「しかし?」
「これは、非常に困難を極める……と申しますか、ほとんど無理と言っても差し支えない方法でして……」
医師の言うことをまとめると、こういうことだった。
娘の治療のための手術は非常に困難を極めるが、成功率自体はそれほど低いものではない。むしろ高いといってもいい。
ただ、大量の血液が必要になるのだ、と。
「それが一体……どうして無理になるんですか?」
「ええとですね、これは娘さんの病気とは直接関係あることではないので申し上げていなかったのですが、実は娘さんの血液というのが非常に特殊な性質のものでして……その、世界を見ても類を見ないほど稀有な血液なのです。正直なところ、まず手に入らない、と言っても過言ではありません。そして手術に必要な血液量は、およそ10L。つまり現状では物理的に……娘さんの手術を行うことは不可能なんです」
私は、最後の最後の希望まで粉々に打ち砕かれた気持ちだった。
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「あんな法案は……やっぱりおかしいわよ……」
家に帰ると、妻は憔悴した様子で私を出迎えた。
ここのところ、いや厳密に言えばここ数年ずっと、妻の笑顔を見ていない。
原因は、分かっている。
一つには、娘が家に寄り付かなくなったこと。
もう一つは、私が通した「法案」のことだった。
「ねえあなた、もう止めましょう。私たちの私事のために、一国の法律を創設するなんて、どう考えてもおかしいに決まってるわ」
「私事などではない」
妻の言葉に、私は厳として声を上げた。
「いいか、私はあの法案を通すことによってこの国の医療現場に多大な貢献をした。いや、この国ばかりではない。世界各国の医療現場に、だ。それを証拠に見ろ、血液不足などどこでも生じなくなったではないか。それに、だ。まともに金銭を稼ぐこともできなかった者たちに対しても所得を得られる途を開くこともできた。少しずつだが、血を売った金のお陰で経済も循環し始めている。何らのデメリットも存在しないんだよ」
「それによって生じる犯罪に目を伏せれば、ですか?」
私の言葉に、妻は強い口調で反論をしてきた。
その勢いに気おされて、思わず私は口をつぐむ。
「あなただってご存知でしょう?売血法の影響でどれだけの脱法行為が生まれているかは。立場の弱い人たちをけしかけて血を売らせて金を得ている人がどれだけ増えているかを。売血金融、なんて言葉も出始めたそうですよ。それでもあなたは、国に貢献していると言えるの?」
「黙れ。だったらお前は、娘を、晴美を助ける途がなくなってもいいと言うのか」
「だったらあなたは、たくさんの人を不幸にさせてまであの子を生かせて、幸せにできると思ってるんですか?その先に何が残されてるの?今でさえ、あなたの仕事を憎んで家に寄り付かない有り様だって言うのに!」
「黙れ!」
衝動的に妻の頬に手を張った。
腰が砕けるように床に突っ伏した妻は、一瞬だけ私の方を睨み付けたがすぐに顔を伏せ、情けない、情けないと呟きながら涙を流し始めた。
「道は前にしかないんだ。
法案は通った。
結果は自ずと出る」
私は妻を残して書斎に戻った。
当選以来愛用している鞄の中から、幾つかの書類を取り出す。
私はその中の一つを手に取ると、引き出しから万年筆を取り出し、インクを満たして一字一字丁寧に書きつけ始める。
【改正売血法草案 30円/1cc】
法案をねじ込むことには成功したが、娘に必要な血液は未だ見つかっていない。
ならば、見つかるまで足掻くまでだ。
残された時間は絶望的に少ない。
金だ。
金をして、より多くの血を集めなければならない。
娘に適合する、その血を見つけなければ――たとえそれが、人倫に反する行為であったとしても――。
「適合者が見つかりさえすれば……こんな法案……」
呟きと共に、手に力がこもる。
万年筆の先が、ぶちりと音を立てて潰れた。
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