ここでちょっと立ち止まって考えてみて欲しいのだけれども、我々人類が他の動物と一線を画している部分、それは 『豊かな想像力を有している』 、この点である。野生のアニマルにも "経験則" はあるだろうが、その経験を踏まえ様々な事態を "想像する力" 、これはどうしても人間だけに顕著な能力なのではないか。
フェラチオをした経験はない僕だが、フェラチオをする想像はできる。だから、今日の話はそういうことだ。決して僕はホモではない。
僕がAVを鑑賞する際、なるべく男優サイドに感情移入をするよう努めている。その方が楽しいからだ。今まさに愛撫を受けている……キッスを交わしている……乳首を啄まれている……視覚から得られた情報はたちどころにニューロンを駆け巡り、あたかも現実の息遣いであるかのように、我が身に擬似的な体温をプレゼントしてくれる。
結果として、その感覚が先鋭化すればするほど、些細なミスも看過できなくなるところだ。
やたらと音だけが大きなフェラチオ。ファックである。いたずらに激しいだけの手コキ。ファックである。無闇にシーハ!スーハ!アーオ!とシャウトするだけの喘ぎ。ファックである。
僕たちは想像と共に生きている。なればこそ、目の前に映るAVにあって
『女優が可愛けりゃそれでいい』
安い満足を覚えることはない。
『俺ならこうして欲しい、いやむしろ、俺ならこうする』
"デキる男" は、いつでも心に名監督を宿しているものだ。性のヒッティングマッスルを肥大化させているのである。
「なんなら舐めたい」
事ここに至っては、混じりっ気なしにホモの話となりそうだ。しかし僕は、断じてノーを唱えたい。別にそれは、いやらしい気持ちで 『舐めたい』 と願っているわけではないからである。
"学術的な意味で"
"知的好奇心の果てに"
舐めたい、なんなら舐めさせてみろ。そんな切ないロンリーハート。頭で理解しようとしても難しいかもしれないが、心で、あるいは魂の部分で!読み解いていただければ。大なり小なりのシンパシーは感じて頂けるのではないだろうか。
「こんな雑な舐められ方をされては、チンコが可哀想では?」
かかる想いが胸に去来する瞬間。心と股間の愁嘆場。それは雑な演出のAVを観ているシーンへと帰納してゆく。
「いっそ、俺が舐めた方が……」
再三になるが、僕はホモではない。ただ、抱える想像力が一般的なそれよりちょっと豊かなだけ。それが故、自他の区分が極めて曖昧になり、自分のことは他人のこと、他人のことは自分のこと、そのように考えてしまう節があるのである。
「ちょっと舐めさせてみろ」
極めてリスキーな字面である。もしかしなくともホモを疑われかねないほどのハード・リリックだ。
話は少し脇に逸れる。
先日、どこだかでこんな意見を目にした。
『女は、自分と誰かとの胸の大きさの違いをそんなに気にしないけど……男の人ってそうでもないんでしょう?要するに男性器の大きさのことなんだけど……そのサイズの違いで、色んな評価とか、自負とか、違ってくるみたいだし』
答はイエスだ。それは年若い時分となれば尚の事である。
人が股間を定義するのではなく、股間が人を定義する、その局面。それは男が銭湯に、あるいは修学旅行に行く際に、壮大なダイナミズムを携え立ち現れる。
「ヤベエ」
大和男子が心からその三文字を発するのを許されるのは、予期せぬ大金を目にしたとき、想像を絶する天変地異に遭遇したとき、そして、センチではなくインチ、寸はなく尺、で測らざるを得ないチンポを目にしたときーーそのように定められている。チンポサイズ、それは世界がどれだけ終わろうとも変わらない、正しい意味で世界共通の肉体言語だからだ。
「あいつのチンポはマジヤベエらしい」
仮にどれだけ仕事のできない人間であったとしても、その事実があるだけで、僕らは彼に一目を置くだろう。彼が作業中の5秒間に100枚の皿を割り、上司である人間がそれを叱っている最中にあっても
「けど、こいつのチンポはマジヤバイらしいんだよな……」
思いがよぎらない訳がないのだ。無言の主張、本能の圧力なのである。
それは幼き日に瞳に写した虹の姿とよく似ている。
追いかけても、追いかけても
どれだけ駆けても、辿りつけない虹の発端
"それ" は確かにあるはずで、確かにこの目に見えてるはずで
だけどそこには、いつまで経っても辿りつけない
それだけに美しく、切なく、どうしようもないくらいに、儚いのだ。
「虹?あれは光の屈折でね……」
現象を分析することはできるだろう。だが、その分析と虹の美しさと。あるいは、幼い頃に覚えたたまらない幻想感と。一体何の関係があるというのだろうか。
「チンポ?あんなの、大きくたって痛いだけだし(笑)大きけりゃいいってもんじゃないんだよ〜」
乾いたご意見なのである。少なくとも僕らからしてみれば、その声はひどく乾いて聞こえてしまうのだ。我々がしたい議論は、するべき討論は、そんなところにはないのだから。
大きくて美しいチンポというものは、空を彩る鮮やかな虹のようなものだ。それが決して手に入れることのできない代物でも、雨上がりが見せた束の間の幻想でも、異性からすればただ痛いだけの物体であっても。
それがそれとしてある、ただそれだけで。
名状しがたい情念を胸に宿してしまう。
チンポというものに対する執着を、否応なく高めさせられてしまう。
ある人は言った。
『冬に思い出す夏が一番いい
なんでも一番遠い時が一番きれいなんだ』
パソコンの画面越しに見える、それは
世界で一番遠い夏で
世界で一番遠いーーチンポの園
だから、世界で一番綺麗で
一番、美しい
あだやおろそかには、扱って欲しくないのである。
「俺なら、こうするのに……」
「そんな雑なカリ首の舐め方ってあるか……?」
「なんなら俺に舐めさせてくれ……」
無修正のブイを前に、僕がそう思ったとしても。
それは無理ならぬことなのだ。
僕たちが、僕が、チンポのことを大切に思えばこそ。
その感情は高まって然るべきなのである。
裏を返せば、そういう感情を一度でも抱いたことがない……という男性は、どこか脆い、煤けているーーと言わなくてはならない。それは想像力、ひいては感受性の問題だからである。
「俺ならこう舐めるよね……」
「むしろ舐めようか……?」
人は虹を掴めない。
そして、僕はチンポを舐めない。
だからといって虹は消えないし、チンポも生える。
「ラピュタはあったんだ!」
かつて少年は叫んだ。
その意味からすれば、虹もチンポも、等しくラピュタだ。
美しく、穢らわしく、無為で、有為で、どこにもない、どこかにある、空想の戯曲。実在の幻想。墓なる玉座の、夢なる滅亡。
土に根をおろし
風と共に生きよう
種と共に冬を越え
鳥と共に春をうたおう
風と共に生きよう
種と共に冬を越え
鳥と共に春をうたおう
いや、聞き流して欲しい。要するに、今回の日記はバルスとペニスを掛けた高度な言葉遊びなのであるが、いくらなんでもこれはなかったと、さすがの僕も猛省を辞さない。
言うまでもなく虹とチンポと何ら相関関係などない。
いわんやラピュタについては、一切の関係などあるはずもない。ジブリサイドには後日侘びを入れるつもりである。
この日記において真実があるとすれば、それは最近の僕がAVを視聴しながら、フェラチオシーンにおいて
「チンポを粗末に扱うな」
「なんなら俺が舐めるのに」
「むしろ舐めるよ」
「ペロペロ」
という思いを強めている、その部分のみである。
でも、これを読んでいる男の子はみんな、きっと同じ気持ちだよ。
きっと同性だからそこらへんの雑な愛撫をする男優よりツボをわきまえてるはず。
そんな話を友達とよくします(笑)
ひでえwwwwwwwwwwww
大沢佑香とか、晶エリーとか…
【肉欲より】
ここ数年で一番恐ろしいコメント、サンキューです。
肉さんもしかしてもこみちの兄貴に恋してるんじゃないの?
カリ首は優しく舐めます(メモメモ
『んな雑な愛撫で感じるか。
神聖な女性の体を何だと思ってんだ
むしろ私にやらせろよ』
と。