【15歳〜18歳】
初めて腰を据えて酒を飲んだのは15歳、中学3年生の冬の頃である。
悪友であるケンジ君が、ある日、ブランデーを片手に我が家に来た。
「今日、家に誰もおらんのやろ?」
僕が女であれば、その言葉に下半身をグッショリと濡らしたことであろう。だが僕はヘテロセクシャルであり、ケンジ君にしてもそれは同じだ。
とりあえず流れるようにして酒盛りが始まった。
誰にでも『はじめて』の瞬間は等しく訪れる。
それ自体は仕方のないことだ。
だが古人は言った。
『少しのことにも先達はあらまほしきことなり』
やはり歴史に名を残す人たちは賢い。
"はじめて" は恥ずかしいことではないが、だからこそ素直に頭を垂れ、経験者の指示を仰ぐべきなのだ。
「ウマいなー!これウマいなー!」
悲しいことに、僕らの目の前に経験者はいなかった。
ブランデー:コーラ=1:1 という、頭のおかしい配合のカクテル。そいつをフルスロットルで飲み続けた。つまみは柿ピーのみで決め打ち。
脳味噌は即座にアッパーを突破、テンションは瞬く間に6速へと達し、ものの2時間ほどでブランデーは空っぽになった、らしい。
らしい、というのは、僕が1時間ほどで記憶を爆散させたからである。
起きた時には朝だった。
ゲロまみれの布団が傍らで微笑んでいた。
初めての飲酒
初めての寝ゲロ
初めての二日酔い
高校受験を間近に控えた少年は、奇しくも3つのはじめてを経験し、世俗を呪った。
当たり前の話であるが、この頃に酒の美味さなど分かろうはずもない。
酩酊感だけを追い求めて酒を飲んでいた。
要するにドラッグとしての酒の効用を求めていたのである。
とはいえ、中学高校時分から酒の味を熟知している方が遥かに問題である気もするため、それはそれで良かった気もするが。
メモリアルだったのは、高校1年時の体育祭打ち上げの時のことである。
高校生のガキどもに酒を出してくれるような店はない。結果、港近くの空き地で延べ30人あまりの高校生が、車座になっての酒盛りをカマした。いなせな話である。
酩酊状態に達した僕は、同級生の西郷さんの乳を揉んだ。
厳密に言えば、揉みしだいた。
その噂は音の速さで学年中に駆け巡り、数日後から一部の女子よりカマドウマを見るような視線を賜るようになった。青くて苦い、青春の思い出である。余談となるが西郷さんの乳はめちゃくちゃ小さかった。小さいからいいだろう、こんなに小さいんだからちょっとばかり許されるだろう、小さいなあ、ノーカンだろこんなもん。と思っていた節は、少しばかり、いや大いに!あったかもしれない。
朝目覚めたとき、僕が見たものは 『延べ30人の高校生が酔いつぶれてバタバタ倒れている状況の中、飼い犬の朝の散歩にきたおっさんが、倒れ伏した高校生の合間を縫ってそそくさと歩く』 という、かなりアバンギャルドな光景であった。停学の憂き目になど遭いたくなかったので、僕はひとりで光よりも速くその場を後にした。誰だって自分が一番可愛いものである。
その後も 『走るタクシーの車窓からゲロを吐いたよ事件』 『おっぱいパブでおっぱい揉もうとしたらはす向かいで酔っ払ってたヤンキーに制限時間ギリギリまで恫喝されたよ事件』 『翌年の体育祭の打ち上げで同級生である蔵中さんの乳を揉もうとしたら割と普通にキレられたよ事件』 『酔っ払った帰りにAV借りてチャリで裏道爆走してたら地面の隆起に乗りあげて3メートルくらい吹っ飛んだよ、弾みでAV失くしたよ、ゲオから6000円請求されたよ事件』 などの出来事に遭遇したが、紙面の都合上、詳細は割愛させて頂く。いずれ語ることもあるかもしれない。
並べて高校時代の話だ。俺が親なら製造責任者としてこんなバカのことを5回は殺しているだろう。父親の懐の深さに感謝は尽きない。
【18歳〜20歳】
大学入学後のことである。当時は焼酎ブームが隆盛を極めており、だから至極自然に、僕の興味も焼酎へと向いていった。
酒を嗜むようになったガキの患う病気として 『コレクション癖』 というものがある。一種の麻疹のようなもので、味よりも何よりも
"沢山の酒瓶をコレクトしている俺"
この虚像に酔う精神状態のことだ。
僕はアルバイトで稼いだ金を全力で焼酎へとベット、6畳1間のあばら屋にこれでもかと酒瓶を並べ、ひとり悦に入っていた。
うーむ、渋いぜ……
呟きながら麦焼酎『那由多の刻』をストレートで飲む。もちろん、味など、よく分からなかった。むしろ、率直に不味かった。そういうものである。
19歳の頃になると、深夜、家の近所にある無国籍料理屋に通うようになった。
サークルにも所属していなかった僕について友人は絶無であり、高円寺の夜の下、しみじみと孤独の時間を舐める日々。
「ダイキリ、飲んでみる?」
その店には『ゴルゴさん』とアダ名される店長がいた。徳を積んだ修行僧のようなお髭を蓄えた、落ち着きのある店長だった。彼はひとり寂しく酒を飲む僕のことを気にかけ、しばしば色んな話をしてくれた。
「ビールだと、エールビールがいいよ」
エールビール……
いいじゃない。エール、ね。僕はその言葉の響きに酔った。すかさずエールビールの一種である『バスペールエール』を頼む。そして飲む。
うーむ、渋いぜ
渋いぜ、俺
もちろん味など分からない。
何か苦いな。感慨としてはそのくらいのものだ。
「ゴルゴさん、これ、こう、キリリと……フフ」
分かったフリだけは、プロ級だった。
昔も、そして今も。
無国籍料理屋との出会いを境に、興味は洋酒にシフトした。行動力だけは無駄にある僕は、すぐさまジン・ラム・テキーラ・ウォッカの全てを揃えた。ジンはボンベイ、ラムはレモンハート、テキーラはオルメカ、ウォッカはスミノフ、であった気がする。
僕はそれらを一杯ずつ試し飲む。
うーむ、やはり渋い
渋いぜ、俺
もちろん、酒の味は、やはりよく分からなかった。
まあ、そういうもんである。
なお、翌日の大学の講義は全て自主休講とすることで、ことなきを得た。
それもやはり、そういうもんなのである。
【20歳〜22歳】
ひょんなことからサークルに入ることとなった。
この頃、僕と最も懇意にしていたのは『鏡月グリーン』、ならびに大庄グループの誇る最終兵器焼酎『喜んで』、この二大巨塔だ。
『喜んで』については、割とマジで誰も喜ばねえという皮肉に満ち満ちた焼酎であり、今をもって
「アレ飲むくれえならエチル飲んでた方がまだマシなんじゃねえの……」
そう信じて疑っていない。もちろん『喜んで』に罪はないのであるが……。

(僕たちが裏で『悲しんで』と呼んでいた焼酎の御姿)
あの頃。鏡月グリーン、並びに喜んでがテーブルに到達した瞬間、無言で瓶ごと手渡されていた。それはつまり "焼酎をストレートで瓶ごとやれ" という、声なき号令だ。
拒否権などない。
アルコール度数25%の焼酎を700ml前後、一気に飲まされる絶望感。
「なーんでもってんのwwwwなーんでもってんのwwww」
痴呆症かテメエは……テメエが持たせたんだろうが……とは言わないし、言えない。
「喜んで!!」
俺は叫んだし、皆は笑った。
そして俺は『喜んで』を喜びながら飲み干した。俺は思った。
「俺は、いつか死ぬ」
と。
目覚めた時、荻窪の駅でゲロまみれになっていた。
四谷で飲んでいたはずが、気付いた時には荻窪駅のホーム。
亜空間航法のやり方を知りたい奴がいたら、いつでも俺に訊いて欲しい。
とにかく無茶な飲み方ばかりをしていたように思い出す。ただ、奇跡的にも救急車が発動することは一度もなかった。もしかすると、最後の一線は誰かがキッチリ引いていてくれたのかもしれない。
もちろんそれは結果論でしかない。
だから、こんなものは旧世代の悪習だ。
すぐにでも根絶されるべき風潮である。
そこは断言する。
この頃、ようやく「酒はドラッグなのだ……」と認めるに至った。
一体どれほど酒を飲んだのか、どこで誰と酒を飲んだのか。
現在となっては少しも思い出せないし、思い出す意味もない。
それもやはり、そういうものなのである。
(つづく)
ドンキでやたら安かった記憶があります