この7年の中で色々なことがあった。今日は少しそれらを振り返ってみようと思う。今回の日記については、個人的感情を大事にし、あまり文章の体裁などは気にせず書くこととする。従って、読みづらい箇所などが散見されたとしても、そこは笑ってお目こぼし頂ければ幸いだ。
■2002年
遡ること9年前、大学へと入学した。この頃のインターネット事情といえば、ようやくADSLが十分に普及し始めた頃だろうか。ノートパソコンは20万円台がザラであり、当時最安値であったソーテックですら、10万円は割らなかった。
よって、パソコン・インターネットを満足に扱える人間は、おそらく総人口の半数にも満たなかった。国をあげ(た体)て 『インパク』 という催しを興したものの、その反応はかんばしくなかったように記憶している。未だPCというものは 『使える、使いたい人が使えばよい』 という認識でしかなかったし、殊にインターネットコンテンツの大半は 『アンダーグラウンド』 と目されて久しい時分だった。
その意味からすれば、僕を取り巻く環境は少しく違っていた。僕には4つ離れた兄がいる。その兄は早くから 『コンプティーク』 を精読し、1995年にはPC98でパソ通に興じ、『痕』 に涙し、自室に鍵を掛けエロゲでシコる、そんな下関のエリートであった。僕はそんな兄の背中を眺めながら 『コイツは終わってやがる』 もとい、 『なんか楽しそうだな』 、そんなことを感じていた。
従って、2002年にあって、僕はPCに対し並ならぬ憧憬を抱いていた。なにせ20万円もする玩具なのである。ちょっとお年玉を貯めれば買える、という代物ではない。触りたいけど、触れない。それが僕とPCとの距離感であった。
父「おう。お前も大学行くんならパソコンくらい持っとかんといけんやろ。これ持っていけえや」
上京に際し、父は僕にSHARPのMebiusを与えて下さった。OSはMeであった。『Meか……』 と言えるほどの知識も素養もなかった僕は、渡されたMebiusを手に狂喜乱舞し、東京は高円寺へと上った。
僕の住んだ部屋は6畳一間、風呂なしの部屋だったが、奇跡的にケーブル回線が引かれていた。今となってはクソ高い割にさして速くもないケーブル回線ではあるが、当時としてはADSLの2倍は速い環境だった (確か下り50MB/sくらいだったと思う) ので、一も二もなく契約を交わした。ただ、月々5500円というのは、当時にすれば中々に家計を逼迫したものだった。
サークルにも入っていなかった僕の大学生活は当然のように鈍色で、流れるようにインターネットへと没入していった。テキストサイト全盛の時代であった。毎夜のごとくウェブ上に溢れる文字の海へと身を投げ、浸り、
『世の中には、こんな面白い文章を書ける人たちがいるんだ……!』
感動を新たにしたものである。当時、特に好きだったのは 『LOGIC&MATRIX』 というサイトだった。
同じように、自分も日記を書きたい。そんなことを思うようになるまでそう日は要しなかった。すぐに大学の友人でHP (ジオシティーズ) を持っている人間に話を聞く。
友人「HTMLって分かる?」
僕「うむ、分からん」
5秒で匙を投げた友人は、迅速に携帯用HPコンテンツ 『魔法のiらんど』 の存在を教えてくれた。日記を書ければ何でも良い、と思っていたので、すぐにソイツに飛びついた。
これが2002年7月の話である。
だから、厳密にいえば、僕がインターネット上で日記を書き始めてから、9年と4ヶ月が経過することとなる。
■2003年
そこから1年ほど、テキストサイトの流行は続いた。『ReadMe! JAPAN』 というサイトの存在も看過できないところであろう。
当時の状況を知る方にあっては、その (テキストサイトの) 趨勢の如何について、一家言あるやもしれない。思うに、あれら一連の流行については 『光と影』 という形容の仕方が、恐ろしく馴染むような印象を受ける。
再三となるが、インターネットが未だ日陰の存在だった頃である。しかしそれは相対的・対外的な話でしかなく、インターネットユーザー自体は既に相当数存在していたのだ。そこにあって、流行的なコンテンツ (当時でいえばテキストサイト) でアクセスを集める人間に対しては、毀誉褒貶の様々があった。
2ちゃんねるでは連日のようにアクセスの多い人間に対する罵詈雑言が寄せられ……と言えば、それは 『別に今だってそうでしょう?』 となるのであるが、その罵詈雑言の寄せられ方が、今よりもチープな角度からであったところが、やはり時代性なのである。
「あいつは、無断でリンクを貼ったから……」
「文中リンクとかして、あいつ、大手に擦り寄ってやがる……」
「オフ会?文章で勝負しろよ……」
一部の例である。が、並べて真実でもある。文中リンクの何が駄目なの?無断でリンク、って、え?そう思う方もいるだろう。僕もくだくだしい説明はしない。ただ、そういう時代だったのである。そうとしか言いようがない。今の価値観で過去の在り方を計ることなど、無意味だ。それはいつだってそうなのである。
だが、そういうギスギスした空気感の中でしか生まれなかった文章、誰かに媚びた瞬間に地に叩き落されそうな雰囲気があったからこそ出来た文章は、僕の目に眩く輝くものばかりだった。いま2ちゃんあたりでスレを立てれば 『ちょwww』 『鬼才すぐるwww』 『ちょっと俺には早すぎたようだ』 といった評価を受けそうな文章がゴロゴロと転がっていたのも、やはりあの頃だったように思う。まあ、思い出補正も多分にあるのだろうけれども。
■2004年
この頃にはテキストサイトブームも終わりを迎えていた。それと同時に、mixiの加入者数増加が始まり、世に 『ブログ』 という言葉が蔓延りだした時期だったように思う。
当時の僕はジオシティーズで開設していたHPの更新もやめ、特に何も書いていなかった。それでもインターネットだけは続けており、まだメディアの俎上に載せられる前の 『電車男』 のまとめなどを読みつつ、胸を熱くさせていた。
大学三年の頃である。単位は大体とっていたので、暇を持て余していた。その流れの中で 『ブログ』 という実態のよく分からないものに飛びついたことは、およそ自然なことだったのかもしれない。
こうして2004年11月、僕は 『msn space』 というニッチ極まりない場所で 『ぬめり』 という名前のブログを開設した。エクスキューズを付させて頂ければ、当時の僕は 『Numeri』 の存在を知らなかった。本当の話である。だからこそ、他に 『Numeri』 というお化けサイトの存在を知った2005年2月に、 『肉欲企画』 とブログ名を変えた次第だ。そうでなければこのブログの名前は依然 『ぬめり』 であった可能性も、なくはない。
■2005年
mixiが隆盛を極めんとしていた頃合いである。翻って、僕のブログは日に20人も来れば良い方であった。従って僕はmixiにばかり没頭するようになった。アクセスのないブログを更新する人間はほとんどいない。それは2005年の過去ログからも証明されていることである。
この時分、インターネット界隈において 『2ちゃんねるまとめサイト』 というものが着目されるようになった。もちろん、2002年頃からそういったものの存在はあった。僕の知っている最古のものは 『スレの杜』 というものであるが、いま、そのアーカイブは存在しないようである。いずれにしてもスレの杜は、現在あるまとめサイトとはその様相を異にしているので、比較対象として意味のないものなのかもしれないが。
相変わらずインターネットに没入していた僕は、当然のように手軽で便利な2ちゃんねるまとめサイトへと足を向けていた。最初は 『痴漢男』 から入ったように記憶しているが、定かではない。とにかくもそこから 『今日のメモ(→その後、『ニャー速』という名前に改名)』 、 『ニュー速VIPのブログ系な何か(→その後、『もみあげチャ〜シュ〜』という名前に改名)』、 『ニュー速VIPブログ(→その後、『【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)』と改名)』 などのブログに足しげく通うようになる。
それまで閲覧するだけの人間であったが、そのようにしてまとめサイトを見るようになるうち、スレを立てたくなった。ほどなくして 「2ちゃんねるにスレを立てるのも面白いかもしれない」 、そう思った。
もっとも、いきなりスレを立てる勇気はなかった。結果、クソスレを乗っ取ることにした。
『ここだけ真夏のスレ』
(まとめ(外部)→●)
(まとめ(当ブログ)→■)
2ちゃん的にはさしてリアクションもなかったが、そのブログのhtmlを、当時最大手であった 『ニャー速』 へと送った。もちろん、第三者を装ってのことである。結果、そのスレはまとめられた。スレでの反応とは違い、80件近くのコメントが寄せられた。そして僕は確信した。 「これはアクセスになる」 と。
■2006年
その後、今度は自分でスレを立てた。『スネ夫の夏』 というスレだった。2日掛けて書いたこのスレは無事に1000レスを迎えた。
これら二つを試金石とし、僕は再びスレを立てた。スレタイは曖昧であるが、確か 『怖い話をしようぜ』 とか、そういうものであったように記憶している。その>>1であった僕は、淡々と 『四月、一日』 の日記内容を貼り付け、そのスレは50くらいで沈んでいった。僕は再びそのhtmlをニャー速へと送り、今度はニャー速管理人に 『これを書いたのは僕です』 と、肉欲企画のURLも一緒に、添えた。
ほどなくしてそのスレはニャー速に掲載され、記事の末尾には肉欲企画のURLも記載された。その日のアクセスはUA(ユニークアクセス)で2万を超えた。
その後、僕はニャー速の管理人とチャットで仲良くなり、ニャー速RSSに更新情報が掲示されるようになった。爾来、更新するたびに1500人ほどのアクセスが飛んでくるようになった。僕は嬉々として更新するようになった。2006年の更新が酷く多く、また、記事の質が酷く粗悪なのも、その故である。
栄枯盛衰、会者定離。様々なことがあり、ニャー速はその後、閉鎖することとなる。その時点である程度のアクセスを手にしていた僕は、既に何も思わなくなっていた。折節、ブログが隆盛を極めていた頃合いである。その心中にあったのは 『つまらない内容なのにブログランキング1位とかに位置してるカスどもを軒並みブチ殺す』 、その一念でしかなかった。振り返って思い出してみても、当時の僕をつき動かしていたのは憎悪と虚栄心しでしかなかったと、しみじみ感じる。ただ、それはそれで良かったのだとも、同時に思う。
■2007年
個人史でいえば、1番アクセスがあった頃である。瞬間最大風速を記録したのは 『ゴルゴ31』 に 『野比家、父の手記』 を紹介された時であり、あの日はUAが3万を超えた。ちなみに個人史心情的ワースト事件でいえば 『ドラえもん のび太と傭兵』 を書いていた頃合いであり、あれは6日で書き上げたのであるが、おかげで大学院の単位を10も落としてしまい、防衛省の屋上で割腹を検討しかける事案となってしまった。真実の話である。
この期、mixi、ブログなどはその絶頂を迎えていた。大学生はこぞってブログをやっていたし、『ブログ本ブーム』 などという、いまでは痰壺の底を攫っても見つからないような単語が、大手を振って歩いていた。オフ会という言葉は完全に市民権を獲得していたし、ボチボチ 『mixi婚』 そんな概念も爆誕し始めていた。
ちなみに2002年、僕が魔法のiらんどで日記を書き始めた頃、ウェブで日記を書いているなど言おうものなら、あたかも邪教の信者ばりに迫害されたものであるし、オフ会をしているなどと表明した瞬間、一族郎党硫化水素で虐殺されていたのはまず間違いない。たかだか5年でこの変貌っぷりである。まこと、人の心というものは勝手なものなのだ。皆さんもその辺りのこと、絶えず覚えておいて欲しい。
閑話休題、2007年の僕はノリにノっており、ほとんど初めてとなるオフ会もこの頃に開催した。結果、延べ20日にも亘って酒を飲み続けた挙句、急性膵炎を患った。淡い思い出である。
その他、2007年は特に動静がなかったように記憶している。ただこの頃から、ブログブームは急速にその収束へと向かい、同時に、インターネットにおける 『テレビ化』 が緩やかに進み始めていったように思い出される。
■2008年
現状に至るまでのインターネット的風潮を決定づけたメルクマールな年である、と僕は感じている。この年を語る上で提示したい概念は二つ、『やる夫』 と 『政治』 だ。
覚えておいでの方がどれほどいるか分からないが、2008年という年は、とにかくも 『やる夫』 というキャラクターが流行った。その内実としては、『やる夫という記号』 を用いて、匿名の種々雑多な方が様々なテーマを語る、というムーブメントだ。エンターテイメントの内容としては優れていたし、その(取りざたされた)いずれもは、等しく伝わりやすいものだった。
だが弊害はあった。表現力のある誰もが、こぞって 『やる夫という記号』 に飛びついてしまったのである。
いや、真正な意味で表現力のある人間なら、そんな記号に飛びつかないだろうーー
自らの言葉で、表現方法で、キッチリ主義主張をするだろうーー
かかる指摘はもちろん理解している。が、当時の僕としてはどうしも上述したような感じに (実力ある人までもがやる夫に飛びついたように) 胸に響いた。
それはかつての僕が 『2ちゃんねるまとめサイト』 という拡声器を用い、自らのブログを喧伝した経緯があったからこそのことなのかもしれない。
いずれにせよ、2008年のインターネットエンターテイメントのほとんどが 『やる夫』 に席巻されてしまったこと。それは、おそらく当時の状況を知る方からすれば、およそ反論のないところだと思われる。
僕についていえば、やる夫は好きだ。AAとして優れて愛らしいキャラだと思うし、今を以てあの独特の容姿には言い様のない訴求力を覚えさせられる。それが証左に、未だやる夫は (短文的な局面において) 存在し続けている。
しかし、現在、コンテンツとしてはほとんど消えてしまった。あれだけ(インターネット的な時代の寵児として)取り沙汰されたにも関わらず、である。
インターネットがいかにもテレビ的になってしまったと、どうしても思わざるを得なかったのである。インターネットも一種のメディアであり、ある部分でテレビと同一性を有さざるを得ない以上、それは必然であるのかもしれない。しかし、コアなインターネットユーザーがテレビなどのマスメディアを蔑視する一方、その娯楽の在り方が過去のテレビのそれと同じような系譜を辿っているように見えたのが (場当たり的にコンテンツを費消していくその在り方が) 、僕にとっては、何だか乾いて見えた。
それはいつかテキストサイトが終わっていくときに見えた感傷にも似ていたのだろう。僕はそれとやる夫とを同期させていたのかもしれない。
違う観点からすれば、やる夫にはエンターテイメントとしての持久力がなかったから、廃れた。そういう指摘も有り得る。
持久力がないコンテンツをただただ奉るのは、無意味な懐古主義でしかない。そういう価値観もあっていい。
結論は見えない。費消し潰し、栄枯と失敗と失敗と没落の先にしか育まれ得ない文化も、きっとあることだろう。過去を記憶することと、過去に拘泥し続けることは、似ているようで全く異なる。認めて、捨てる。そうした方がいい局面は巨万とある。
ただ、そのスパンがあまりにも短くなり過ぎているのではないかと、そんなことを、2008年にやる夫を眺めながら今に至るまで、思い続けている次第だ。
■2009年
『政治』 の部分がいよいよ表立ってきた年である。政治、というより、愛国心、と言うべきか。
まあ、僕としては、相変わらず男女における性の観点の違いについてのことを書き続けていたし、おそらくこれを読んでいるほとんどの方もそういうものを読みに来て下さったに相違ないのだろうけれども、この頃からにわかにインターネット上では 『日本 と それ以外』 といった対立軸の中での記事が目立つようになった。
それはそれとして良いのである。社会情勢を考えることは大切なことだ。チンコだマンコだと書き続ける僕みたいなものがいる反面、歴史だ道徳だと唱える方がいることも、絶対に必要だろう。多様性を提示した上で、最後に必要な何かを、それぞれの内に抱けることができるのならば、それがベストだ。
全てがチンコマンコしかない世界にあって、それ以外の可能性を検討しろなどと、それは暴論である。
けれど、価値観の押し付けは別だ。多様性の排斥など論外である。バカはバカとしてバカの問題性を論ずる意味があるが、バカをいきなりバカだからといってバカを排斥するようなことはマズい。
『これは確実に正しいから正しいのだ!』
それは無意味なトートロジーでしかないし、なんだかほとんど宗教家のような姿勢だ。だが、2009年からこちら、そういう人たちは、インターネット上で増え続けている。現に僕のブログのコメント欄にも登場された。丁度、改正国籍法がもてはやされていた頃合いだった。
『国籍法が変わり、日本に1000万人に移民が押し寄せてくる!』
大意としてはそういった内容だった。よって法改正をしようとしている政治家は非国民である!という内容でもあった。
よしんばそれを声高に主張したいのだとして、どうして僕のブログのコメント欄に書くのだろうか。
きっと、相応のアクセスがあれば、その主張の場はどこでも良いのであろう。愛国者の拡声器として摩耗させられた高岡蒼甫 (という記号) の起算点はこの頃からあった訳である。
確かに当時、国籍法改正については大手まとめブログ並びに大手サイトにて取り沙汰されていた。しかし、経緯を知ればこそ 『国籍法改正→立法府にいる政治家は非国民!』 などという論法にはなりようがない。そもそも最高裁が旧国籍法が違憲である、という判断を下した以上、立法府たる国会は法改正をするほかない。話はそこで終わりだ。そのあり方すらを問題視するのであれば、三権分立という成り立ちの是非から考えなくてはならないこととなる。
いかにもテレビ的だなあ、と思った。声の大きなメディア (アクセスの多いサイト) に扇動され、それを 『正しいから正しいのだ!』 と盲信し、他に押し付ける。一方で 『マスゴミ!』 と口汚い言葉で侮蔑しつつ、自身は同じような行動をする。少しも事実関係を鑑みない。息苦しいやり方だ。
ちなみに改正国籍法の運用状況についてはこちらに詳しい (要するに改正前後で大して変わってない) 。法が変わったとて、施行規則の部分で縛りをかければ実際はそう変わらない。そういった事情に聡い方々が、国籍法改正に対し危惧感を抱いた方に対し 『いや、施行規則できっちり運用するでしょう』 と諭した瞬間、(当時)国籍法改正に熱かった人々は 『法律を学んでいる人って血も涙もない冷徹な人なんですね!!話になりません!!もういいです!!』 と激昂しながら去っていくのを見て、生暖かい気持ちに、なるほかなかった。これは実話である。たぶん当時の2ちゃんのログとか漁ればあるんじゃないだろうか。
重ね重ねになるが、別にそういう話をするな、ということではない。ただ、僕みたいなもんが運営してるブログにまで押しかけ、自らの正当性を訴えかけ (かつ、こちらの政治的主義主張も鑑みず) 、傍から見れば納得も得心もいかない、さして楽しいわけでもない、ひたすらに全体主義的な流れに任せ、壮絶なオナニーをカマす奴らが増えたな。そういう年だった、メルクマールになった2008年〜2009年だったなと、今も強く思う次第だ。
■2010年〜2011年
要するに現在である。勝ち馬に乗るようなネタに追従するムーブメントが極まり、二番煎じ三番煎じばかりが跋扈し、面白い概念は瞬く間に消費され、何がしかのものを 『文化』 として育み愛でる土壌はあまりなく、観客は 『さあ、次は何だ?何がくるのだ?』 と、形而上の利益主義に走り、過度に受動的になった。『総お客様化』 してしまったインターネットにおいては、今や状況はテレビとほとんど同じだし、現に、大手メディア・大手サイトに操られがちになっている。
『流行るから、流行る』
というのと
『流行っているから、流行る』
両者は違うのだけれども、その両者の区分が、実に曖昧になってしまった。能動的な流行がなくなり、受動的な流行ばかりが目立つようになった、そう感じさせられてしまうのだ。いや、いいんだけどさ。でも、そればっかりになると、やっぱり寂しい。
『流行りとかどうでもいい、これしたいから、これする』
そういう人たちに、やっぱり僕は熱いパッションを感じるし、末永く残るのって、きっとそういうコンテンツだと、強く思う。
そういう感じで。
肉欲企画8年目。
まあ、もうあんまりアクセスもないけども、場末の痰壺みたいな位置づけ狙って、頑張ります。お暇なら見てよね。
昔を思い出しました。
肉慾さんのブログですので流行だとか潮流などは置いておいて、自由奔放にやっちゃってください
感慨深いものだなあと思いました。
といつも思います。
これからも読み続けさせていただきます。
いつも更新ありがとうございます。
あれは何年くらい前か。以来肉さんを畏怖してなりません。
これからも気楽にどうぞ。
初めて訪たのは中学生の時ですが、もう立派な成人です。
これからおっさん化しても読み続けますよ。
ただただそれだけです。
今後ともよろしくお願いします。
何はともあれ7周年おめでとうございます。
これからも気の赴くままにやっていってくれるとありがたいです。
これからはサーヴァントの時代がくるはずですよ
言葉では表せないですが、色々と感謝したりしています。
このまままったりと続けてくださいね。
肉タンが更新を続ける限り読み続けます。
これからもストーキングし続けますんでよろしくね
最初に読んだのは「神木キュンとの生活」の最初の方だった気がします。今では神木キュンもすっかり大きくなりましたね。
更新を楽しみにしてる。
よろしくどうぞ。
肉さん大好き!
これからも通いまくります。
更新楽しみにしてます。
歳火とか読んでたの、そんなに前か〜
四月一日。をきっかけに読ませていただいて、腸捻転になるかと思った頃が懐かしい。
まさに『世の中には、こんな面白い文章を書ける人たちがいるんだ……!』でしたよ。
今後も肉さんの文章から学ばせていただきます。
肉欲さんの書く文章が好きなのでこれからも通い続けます。
お体に気をつけて今後も頑張って下さい。楽しみにしています。
変わらない肉欲企画も大好き!
7周年本当におめでとうございます。
これからも毎日来ますよ〜。
肉欲企画。にハマって早数年、いつも正座しながら更新待ってます。
今後も待つ次第ですので、末永く肉欲企画。が続く事を願ってます。
珍しく真面目な記事ですが同意することも多く、また懐かしい気持ちになりました。これからも楽しみに見させていただきます!
いつも肉欲さんのブログ楽しみにしています。
変わらないことと変わっていくことが大事なんだと身に染みました。
今後も楽しみに陰ながら応援しています!
かなり以前から楽しみに読ませて頂いてましたが、コメントは初めてです。
今後もマイペースに楽しませてください。
応援しております。
ねんまにとか生きてんのかなあ…?
未だに断崖更新されてないかチェックしに行ってしまう
そしてこれからもね!
7周年おめでとうございます。
好きです
肉欲企画のせいで男が引くような下ネタをいっぱい覚えてしまい未だお嫁に行けないよ〜...でもこれからも読むよ!!
影のブログキングや!
更新が少なかった時は心配したけど、これからも応援させてください
肉さんの下ネタじゃなきゃ満足できない身体になってしまいました。
これからも応援させて頂きます^^
これからも更新楽しみに待ってます!
いつになってもついていきます