どうして会話能力ないしコミニュケーション能力というものが重視されるのかといえば、それは偏に我々が社会に生きる存在だからである。社会というものが有機的にしか成り立たない概念である以上、他者との潤滑油としての会話の成り立ちは、どうしても重要と目されるほかない。論理的ではない言い方をすれば、人にはそれぞれ心があるからだ。
その、心という実態の見えにくい概念を、どうくすぐるか。思うに、コミュ力や会話力と称される全てスキルの根源は、そこに起因する。
よってそこに明確な答はない。目の前の相手がどういう人物なのか?いま、自分がどういう状況に立たされているのか?それら全ての状況を総合勘案した先にしか、最適解のコミュニケーション術は存在しない。『誰にも好かれたい』というのと『特定の誰かに好かれたい』というのは、似ているようで全く異なるからだ。
ただ世間一般で言われるコミュ力の目指す先にあるのは、おそらく前者だろう。
最大公約数的な人間に好ましく思われる会話術、トークスキル。
ほとんど青田買いのような体で人脈を広げ、最終的にはこちらの側で(これから付き合う人間を)取捨選択する、そういうやり方。
在り方の是非はともかく、(前者のやり方は)安いカネを拾ったり、場当たり的な肉体関係を拾うやり方にはなるであろう。それの善悪を問うつもりもない。誰しもが拾いやすいカネが好きだし、場当たり的な肉体関係が好きだからこそ、『コミュ力』 という無形のスキルは、取りざたされるに至った。それだけのことである。
概念定義は終わった。
『では、どうするか。』
肝はそこである。動機の成り立ちを摘示するのは社会学者の分領であるが、僕たちが欲しいのはもっとナマ、ダイレクトな生存戦略だ。知りたいのは、詰まるとこ『そのコミュ力って、どういうものなの?』、この部分でしかあり得ない。
ここからは個人的な意見を記させて頂く。僕も人語を覚えてから永い。その中で様々なコミュニケーションを交わしてきた。そこから導き出される、暫定的な僕的コミュ力論。そいつをここに記していく。
@ 相対化する
会話というものは、往々にして価値観と価値観のぶつかり合いだ。それぞれがそれぞれ、抜き身の刀でぶつかり合うようなやり口。そいつが会話における根源的な姿である(よって、訓示ならびに説教のシーンは別異に扱うべきである)。
その意味からすれば、何も考えずに思うさま己の考えばかりをぶつけるメソッド。それも決して間違っちゃいない。
『お前はこう思った!そして俺はこう思う!そしていま、お前はどう思うのか!?』
ガチで切り結ぶようなシーン。話者双方が心を許す数年来の付き合いであれば、実に心地よい会話となろう。
だが、そうではない場合も沢山ある。今日初めて会ったばかりの方、誰かの紹介の末に会った方、仕事の関係上で会った方。そういう方とも同じ会話手法で良いのか?といえば、それは中々に苦しい。繰り返すがそこは我々が社会に生きる人間だからだ。己の価値観を乱暴にぶつけ合うというのは、分かりやすい反面、話者双方における信頼感が担保されていて初めて成り立つやり方だからである。
A「えー、一杯目から焼酎とかアリなんっすかw」
B「ハ!?テメエこそ最初はビールとか、旧態依然とした事流れ主義の極地じゃねえの?!」
AもBも、その言い分はそれぞれに分かる。だがこれが初対面の際のことであれば、そこに待ち受けるのは乾いた空気感でしかない。双方が双方に『コイツ、頭がおかしいんじゃあねえの……』と思うこと請け合いであり、残される者たちの酒は、一瞬にして砂の味わいとなるだろう。
では一般的な回答としてはどうするべきなのか。
おそらくこんな感じだろう。
A「えー、一杯目から焼酎とかアリなんっすかw」
B「あー、じゃあ最初だけはビールにしとこっかなw」
まあ、箸にも棒にもかからない、毒にも薬にもならない、そんなシーンだ。これはこれでいいのだろう。ビールが苦手だから焼酎にした、でも咎められたからやっぱりビールに変えた。理屈としては明確である。
しかしこれではパンチに弱い。というより、Aの発した『一杯目はビールだろう』という乱暴な意見に、何の考えもなく、容易に与している様子すら醸し出してしまう。
ここなのだ。この辺りの『価値観の不均等』(このケースでいえば、最初の一杯は生ですよね!型の、意味の不明確なゴリ押し)を、相対化させ均一化させる、そこに僕はコミュ力の在り方を見ているのである。
A「一杯目から焼酎っすかww」
俺「まずはライトな味わいの麦焼酎で口を馴らして、お通しに口をつけて。その後にビールを愉しみたいと思いまして」
100%の意味でウソの言動であるし、僕はどんな角度からでも確実に一杯目は生ビールでキメている。だが、大事なのはこういった限界事例においてどういう言動をとるのか?問題はそこだ。普通に、付和雷同的にビールを頼めば良いのでは……それこそがコミュ力なのでは……という言い分は分かるが、そういう思考停止、ファックだね。
A「でもここ、つぼ八だよwww」
俺「ですよねwwwごめ、単純に今日ビールの気分じゃねえんだわwww」
例えば、こうもっていけばいいのだ。『ビールが通例』という価値観を前にして、自分がマイノリティになってしまったと自覚するシーンを前に。敢えて『お前らの方が間違っているんじゃないの?』という言を持ち出しながら、最終的には『でも、やっぱり通例の在り方、わかりますわー』、そういう会話の運び方。コレである。
A「最初からそう言いましょうよww」
俺「すまんすまん!言い出しづらくってなー」
架空の事例である。だが、唯々諾々と『あ、じゃあ最初はビールにしようかな……』と下手な三味線を弾くのと、後者のやり口であるのと。結論からすれば、周りの人間は『さっさと乾杯のドリンクを選んでよ』という感慨しか抱いていない。けれども、後に残る印象は、いずれの立場を取るのかによって、驚くほど異なることだろう。
(前者)
A「次もビールでいい?」
B「あ、はい」
(後者)
A「教えて下さいよwww焼酎博士wwwww」
俺「バカww俺は次はハイボールやwwww」
A「炭酸www最初からビール飲めよwwww」
俺「オウフwwwしまったでござるwwww」
体制に、ノーを!と表現してしまえば、それはアナーキズムの極みである。しかし、価値観を相対化しよう!という思いで発した言葉は、優れたコミュニケーションスキルと化す。
『普通はビールだろ?』
その言を前に、いやいやそれはどうだろう?例えば梅酒でも……あるいはカシスオレンジだって……というシーン。
『むしろ違ってるのはお前たちなんだぜ?』
ここをオブラーティブに、ユーモラスに返すやり口。そういうのはあっても良いのではないだろうか。反論を意とするのではなく、少しだけ『ちょっと俺たち、分かり合う時間が必要ではない?』というサジェスチョンとしての、相対化。
『まあ、人それぞれだから』
同じく相対化のやり方ではあるが、それは今回僕が提示するメソッドとは全くことなる起算点のそれである。いずれが優れている、と言うつもりは毛頭ないけれども。
A マイノリティの側に立つ
多人数の会話の場では、並べてマイノリティが形成されがちだ。甘いものが好きだとか、辛いものが好きだとか、ガラケーでいいだとかスマフォがベストであるとか。ともかくも我々は『二項対立』的な状況での会話を好みがちである。
そこにあって、徹底的にマイノリティを誹り、いじる。それもまたコミュニケーションの在り方の一つだ。いわゆる『誰かひとりを肴にして、喋る』、そういう会話シーンである。これを読んでいる方についても思い当たる節がなくはないだろう。先の話と重複するが、多数派の意見に与し、それをバックボーンに自らの立場表明を行うことは、非常に楽で無難だからである。
もちろん、それが悪いとは言わない。状況はそれぞれだ。場当たり的にくぐり抜けられれば何でもいい、という会合にあって、敢えてまで優れたコミュ力を発揮する必要もないだろう。
だが今回は、さしあたり『そうではない場合』を想定させて頂いた上で、話を進めさせてもらう。
マジョリティに加担するのは、楽である反面、何の印象にも残らない。かつ、マイノリティの方からしてみれば『あいつまで、分かってくれなかった……』、かかる禍根を残す可能性もある。その意味でいえば、別にあなたの主義主張がどうであれ、ここは一旦マイノリティの側にポジショニングしてみて話をする。この方がコミュニケーション的には面白い(もちろん、カニバリズムの話になったとか、そういう場合は論外である)。
A「毎月プラモ買ってんだよねー!」
B「プラモとかねえわー」
C「暗い暗い!そんなの組み立てて何になるの?金もったいねー」
D「外出て色々してこいよw」
A「そうかなあ……」
俺「んー、月にどれくらい使ってんの?」
A「1万円くらいかなあ」
俺「1万円で毎月楽しめるんなら、趣味としてすげーコスパ高くね?」
B「でもプラモだろー」
俺「バッカ、俺らなんて趣味らしい趣味もねーじゃん。漫然と金使ってっだけだろ。そっからすりゃあ後に残る趣味とか、すげー羨ましいわ」
C「あー、まあ、確かになあ」
D「写メとかあんの?」
A「あるある!」
B「ちょい見せてみー」
以上は、実際先日あったやり取りを、一部状況を変えてお伝えした状況である。もちろん僕はプラモになど一毛も興味はない。ただ、件の状況に際して 『僕までもがプラモの話に否定的な言を発して、この場は面白くなるのか』 そう思ったゆえのことである。
その意味からすれば、場が逆の雰囲気を醸していた場合、確実にこうなった。
A「毎月プラモ買ってんだよねー!」
B「プラモええよな!」
C「めっちゃ分かる!いいよなーアレ」
D「休みの日くらい家でチマチマしててえわな」
A「うんうん!」
俺「んー、月にいくら位使ってんの?」
A「1万円くらいかなあ」
俺「いやいやw1万ってこたーねえだろ。他にも交通費とか道具のアレとか、結構いってるでしょうよ」
B「あー。まあそういうのは雑費だし」
A「あんまり計上してないかなー」
俺「そういうのってどっちが金かかんの?むしろド直球でプラモよりも金かかってそうだわ」
C「うわーこいつ面倒くせーwww」
D「そういうのどうでもいいでしょwww銭ゲバかよwwww」
俺「ハァ!?それはお前、資本主義経済としてだな!1!?」
B「写メある?」
A「あるある!」
B「ちょい見せてみー」
俺「お金は大事だろう!?」
C「はいはい、おじいちゃん、寝ましょうね」
字面だけ追うと、俺はまるで糞野郎である。しかしそうではない。あくまでも、場を盛り立てたいがための!糞野郎。そういうポジションを演じているだけなのだ。だから俺は泣いていない。泣いてなどいないのである。頼むからそんな目で見るな。
B 好悪をきっちり表明する
今回の話の中ではコイツが一番キツイ部分となるだろうが、僕としてはこれが最も重要なファクターだと思っている。要するに、最終的には『好き嫌いをハッキリしておく』という部分だ。
「お前のこういうところ、本当に嫌い」
言う方も言われる方も、いずれも胆力の要する場面である。言わないなら言わないで済むなら、聞かないなら聞かないで済むなら、それがベターだ。しかし、もしも今回、『コミュ力』などという曖昧で不定形でよく意味が分からないファックな概念にすがりつき、最終的には誰かに好かれたい!と思う節がある方がいるのだとすれば、どう考えてもそんな上手い話はあり得ない。どこかで誰かが傷つき、傷つかなければ、真の意味の信頼関係など、成り立ち得ないのだ。
俺「あのさあ、お前、あの時ああいうこと抜かしてたけど、アレはマジでどうかと思うぞ?」
真摯に誰かと向き合えばこそ、そんな意見の一つや100ダースは生まれてしかるべきなのである。そんな意見が生まれないのだとすれば、その人は釈迦かアムウェイかのいずれかでしかない。全てを包む全なる存在か、1000%相手を利用したいのか、そのどちらかでしかないはずなのだ。
好かれたい、という動機は、自ずと『その相手から嫌われるリスク』も背負わなくてはならない。自らの全てをつまびらかにした先にしか、純粋な意味での好意は、向けられるべくもないはずだからである。@Aで述べた話がとっかかりの話だとしたら、B、すなわちここで展開している話は、そこで生じたとっかかりをどのくらいの力で掴むのか、その話だ。
俺「おめーマジ駄目なカス野郎だなー。試しに死んでみた方がいいんじゃあねえの?」
身も蓋もねえ言葉である。しかし相手のことが好きだから、好きであるからこそ、そういう言葉を吐くしかない瞬間も、確かにあるのだ。
「あんたもマジでカスなくせに、なんでそんな酷いこと言えるんっすか?」
俺「言わせてる方が問題だと思わねえのかテメエ」
ベアナックルでの殴り合い。最終的にはそこに行き着く。あくまでも俺の場合であるが。
「じゃあ言わせて貰うがなあ!オメエだってあの時ああいうこと言っておきながらよくもそんな○×△♪■■○×♪この桃色ダブスタ野郎!!!!」
俺「俺は世界で一番その言葉を待っていた!よーし俺はこれから俺の全存在をかけてお前を否定してやる!!いいかよく聞け○×△♪■!!!○×■○×♪△○×♪!!!」
「コロス!!!!」
「ショウタイムだ!!!!」
コミュニケーション能力などというものを論ずる悲しさを、少なくとも俺が覚える大半の部分は、ここにある。そんなものに何の意味もないからだ。どこかの、誰かの考える、それぞれに心地良い 『コミュニケーションの在り方』 は、どれだけ時代が死んだとしても、普遍化されるはずもない。誰かと何かと関係を紡げるスキルが、時々に営まれる社会の在り方に応じて、もし定型化される可能性があるのだとしても。それは、俺の考えからすれば「処理能力」という概念としか親和性を持たない。
定型化されるということは、そういう意味である。
言葉遊びをするつもりはないけれども、少なくともコミュニティ、コミュニケーションと称するもの、それはひどく曖昧模糊とした、優れて偶奇性に溢れた概念なのであるが、とにかくそういうものと、無理やり分かりやすいメソッドに落とし込むような定型化と、双方は馴染まないだろう。
目の前の心ある誰かとの意味あるやり取り、それは 『処理』 という概念とはそぐわないのである。糞もミソも盛り込んだ、もっと泥臭い何かの中でしか、紡がれ得ない。
もちろん、そんなものは夢想論だ。過度に複雑化してしまった現在にあっては、好かれたい誰かにだけ好かれれば良い、という価値観は生半には成り立たない。だからこそ『好かれなくてはならない誰か』 『嫌いだけど、好きでいてもらはなくてはならないアイツ』 に好かれるために、『コミュ力』という無形な概念が盛んに論争されるのだろう。それはそれで仕方のないことである。
もし僕に言えることがあるとすれば、適宜自らを振り返りながら、果たして『目の前にいるその人』について、本当に好かれる必要があるのか。その部分をつぶさに考えるべきではないか。そのくらいのことだ。
大抵の場合、そんなもんは、5人もいれば多すぎなくらいだと思うけれども。
そして、最後の一文で気持ちがすっきり。
数年振りに肉欲企画さんへお邪魔しましたが、やっぱり○月さん大好きです。
確かに、盛り上げるわけでもないけど、話を進めるのってだいじですよね
そしてそれは常に自惚れ屋である。