
家庭を築いてからの女の生活は、全体的に平板なものだった。亭主を見送り、息子を見送り、三度三度の食事を作り、話し、夜を寝る。朝を起きる。それは凪いだ水面のような生活だった。静謐で穏やかで、安らかだった。女にとってそれは、虚しさの意味を教えてくれるものでしかなかった。
女は勤めに出た。女に凪はいらなかった。変わらないという状態は、自分にとって痛苦でしかない。女はようやくそのことを認めるに至った。胸踊るような何かが、心弾むような出来事が、ここにはないどこかにあるはずだ。女は信じていた。あるいは、願っていた。
待ち受けていたのは水面を変えた凪だった。人と会い、やり取りをし、作業をする。その枠から一歩も出ないルーティンは、水面を広げただけの凪だった。履歴書を書いた、面接を受けた、制服を着た。その全ての瞬間にさざ波のような何かはあった。結局それは、自分が水面で足をばたつかせた挙句に生じた、人工的な波でしかなかった。
女は、思うに、到来する波を待っていたのである。無遠慮に、無思慮に、乱暴に一方的に、自分を呑み込まんとするような、波。切り開くのではなく与えられる、何か。呼び寄せるのではなく降って湧くように訪れる、何か。女はそれが欲しかった。
「あれね、すごく良かったのよ」
同僚の、雨樋を流れる水のようにさりげない声が、どうにもその日、女の興味を強く惹いた。好悪の判断が下せるのは、ひとえに何がしかの変化が生じた結果である。良きにつけ悪しきにつけ、そこには平穏も安寧もあり得ない。凪ではない。想像の中にしか存在しない水面のうねりに想いを馳せ、女はそっと奥歯を噛んだ。
・・・
「おばさんも欲しいの?」
同僚の声を盗んで聞いた情報を頼りに、駅向こうにある街の奥へとやって来た。アンモニア臭ばかりが個性的な路地裏の隅に、その歳若い男はひとりぽつねんと立っていた。
「とにかくその、良かったって聞いたものだから、あの」
思考に言葉が追いつかない。気持ちばかりが逸っていく。目の前の男は自分よりも随分若輩であるが、立場の弱さを知っていた女は、機械のように頭を下げるだけだった。
「こんな、何のいいものでもねえと思うんだけどさ」
侮りのような、哀れみのような色の瞳が、ふたつ。女を射抜いていた。おそらくそれは、未知で奇異なる存在を侮蔑する意味の視線だった。女はにわかに男と自分との差異を認識する。彼にあって私にないもの。私が失して彼が有するもの。女はそれを理解する。
「あなたも欲しがるわ。そのうちに。きっと」
男は、在りし日の女だった。そして女は、男の未来の可能性だった。少なくとも女にはそう感じられた。
「よく分かんないけど。とりあえず、はい」
抑揚のない声と共に差し出されるセロファン袋。女はそれを引っ掴むと、踵を返し路地を戻った。歩きながら背中越しに会釈をするその様子は、まるで機械でできた啄木鳥のような有り様だった。
・・・
意に反し震えてばかりの手がもどかしい。難儀しながらポケットから手を出すと、ようやく古びた鍵と対面できた。それはかつての実家の鍵だった。小刻みに吐き出される息を抑え、どうにか鍵穴へと差し込む。力を込めるまでもなくするりと右に回った。
左手に引き戸を閉める。黴の臭いが充満していた。ここを訪れるのは何年ぶりのことだろうか。急かされるように土間を抜け、靴もそのままに居間へと向かう女の胸中には、しかし、感慨は僅かにも去来しない。
遺されていたソファーに腰を降ろした。同時に、永く堆積した埃が勢い良く周囲に舞い散る。その埃の一つ一つが、大きく設えられた窓より差し込む光を受け、曖昧に輝く。なんていうんだったっけ、これ。不意に女は記憶を探る。汚泥の中に埋没した過去の日々。掻き分けど掻き分けど、女の周囲には泥煙が舞い上がるばかりで、そのうちに考えるのをやめた。
セロファン袋を破る。内包されていた顆粒が惜しげもなく滑らかにガラスの中へ溶け落ちる。人差し指と中指とをぴんと伸ばし、かき混ぜた。液体と顆粒は僅かな抵抗も見せずに一つとなった。追って水面も、凪いだ。指を引きぬく。何の気なしに口腔へ押し込む。
直後、世界は色彩で満たされた。
そう、在ったのだ。それは確かにその身の内に。失くしたのでも喪ったのでもない。ただそれは忘れていただけのことだ。置き去りにし、ひたすら無意味なものだけを手にし、埋没させ、見えなくなった。見えないところへと追いやり、消え、とうとう水面は、凪ぐだけとなった。
ガラスの中身を口に摂る。沸き立つような高揚感が到来し、女はついにその場で跳ねた。ほんの少し尻を上げ、またソファーへと尻を戻す。たったそれだけのことが妙に楽しかった。何度も何度も繰り返した。かつて母親に禁忌とされたその行為を、咎める者はもういない。心の汚泥が舞い上がる。舞い上がり、飛散する。眼前に踊り輝く埃は、西日の中で、それがチンダル現象という名であったことを、女に思い出させる。
ガラスの中身を、また一度口に摂る。激しい高揚感はもう訪れない。代わりに、穏やかな満足が鳩尾の辺りを満たした。柔らかく目を薄め、口角を上げる。障子の紙を両手の指で突き破る。何度も何度も突き破る。突き破った穴から向こうの部屋を覗き見る。そこに仏壇があるのを認め、障子を開く。胡座をかいて仏を前にしてから、延々と木魚を叩き続けた。けらけらと笑いながら。合間に鈴をうち鳴らしながら。
陽が長く感じる。あるいは、短くも感じる。まるで5分が1時間のようで、まるで2時間が30秒のようだった。ガラスの中身が尽き果てる頃には、居間の窓は女の口紅ですっかり彩られていた。
「帰ろう」
後ろ手に扉を閉める。遠くでカラスが鳴いている。心はすっかり凪いでいた。その凪は、どうにも心地の良い凪だった。
・・・
「おかあさん、今日のごはんはなあに?」
玄関を開けるが早いか、息子が飛びついてくる。ともすれば疎ましく思う日もあるが、今日は息子のそんな無邪気さが、嬉しかった。息子が体を預けてきた衝撃のせいであろう、女の腹の虫が盛大に鳴った。
「今日は、レストランに行こう!」
きらきらとした幼き瞳。それを見た女の双眸もまた、輝く。
「ぼく、お子様ランチがいいかな!」
「じゃあ、ママもそうしようかな!」
声を出さないように笑いながらメニュー越しに頷き合った。人のよさそうな店員は、鷹揚に微笑みながら注文を受けてくれた。
「なんだ、随分と子供っぽいもの食べてるなあ」
遅れてきた亭主が苦笑いをしながら席に着く。女と息子とは『ねー』というような顔を示しながら、今度は声を出して、笑った。
だから、満たされたのだ。確かに女は、あの時。
でもそれは束の間のことでもあった。
束の間に心は波立ち、広がり、波紋が生じて。
朝を起き夜を寝て、薄まり、消え。
そして再び、心は凪いだ。
・・・
「お願い、また、くれないかしら……」
驟雨に身を濡らしながら、女は例の路地裏にいた。眼前にはあの日やり取りをした男が立っている。折り畳み傘を右手に携え、浅いため息をひとつついた。
「あげるのはいいんだけどさあ。何かやっぱ、おかしいと思うよ。いみふっつーか」
いみふ。吐き捨てられたその言葉が、女の中で『意味不明』を意味するものだと咀嚼されるまで、少しく時間がかかった。
意味不明。そうなのだろうか。分からない。違う、それでいいのだ。不明であれなんであれ、それは意味不在ということではない。男にとって不明だったとして、それが私にとって不明でなければ、それでいい。それだけでいいのだ。
セロファン袋を受け取りながら、女はそんなことを思った。
・・・
不定愁訴が体を包む。路地裏から実家へと向かう道すがら、鍵は右手に握り込んだままだった。もう一時も待てる気がしない。乱雑な手つきで鍵穴に押し込むと、ねじ切るようにして鍵を開けた。湿気のゆえであろう、かび臭さはその色合いを濃くしていた。
ガラスを手に取る。今度は立ったまま顆粒をそこに溶かし込んだ。持参していた箸で中身をかき混ぜる。すぐに液体は均一となった。そこでようやく、深呼吸をひとつ。女はガラスを大事そうに両手で包み込んでから、天に捧げるようにして口に摂った。
止まったままに、時間が横たわる。
凪いだ水面が静かに女を見つめ返した。
だからもう一口。更に、もう一口。
だけど、摂れども摂れども、女の時間は動かない。
凪いだ水面は揺らがない。
そして、いつの間にかガラスの中身は、空っぽになっていた。
・・・
「こんな時間までどこをほっつき歩いていたんだ!」
怒号が女を出迎える。言葉は確かに耳へと届く。それでも心は凪いだままだった。
夜を耐え、朝を迎え、昼を過ごしてまた、夜になれば。あんな風な亭主の怒りも、子供の怯えも、そんなものは全て丸ごと一切合財予定調和のように、して。
ふらふらと腰を降ろした寝室のベッド、そのスプリングが控え目に腰を押し上げる。僅かに尻を持ち上げ、再び下ろす。スプリングは先ほどより強硬に反発する。今度は立ち上がり、勢い込んで尻をベッドに打ち付ける。反動で女の体が突き飛ばされる。そしてまた、そしてまた。何度も。何度となく。
ベッドに立ち、跳ね、駆けまわる女の心は美しく、穏やかに、凪いでいた。髪を振り乱しながら後ろを振り返る。亭主の片眼が女の姿を捉えたあとに、そっと寝室の扉は閉じられた。それを視認してから、女はぴたりと跳ねるのをやめ、布団の中に埋まる羽毛を掴み、投げた。何度も。何度となく。
「叱ってよ」
マニキュアで壁にお絵かきをした。
「頭ごなしに」
身の丈よりも高いカーテンに包まって、激しく体を上下した。
「理由なんて説明しなくていいから」
マッチを擦って、何本も束ねて擦って、すぐ消した。
「家から追い出されたりなんかしてね」
女はベットに横たわる。
枕に顔を埋め、そっと泣く。
「それでも、明日はちゃんときて。でも迎えた今日は、今まで出会ったどんな今日とも違くって。わくわくして、つまんなくて、かなしくてたのしくて、たのしくって」
女の心は凪いでいる。
泣いて、その涙の来し方、行く末すらも理解して。
心は凪いでいる。
これまでもずっと。
これからも、きっと。
・・・
「おかあさん……」
声に男は振り向いた。見た先には、泣き顔の息子が立っていた。
「大丈夫だよ」
そっとその頭を撫で、目線を息子の高さに合わせる。目を細め力いっぱい髪を掻きむしってやると、ようやくその顔に落ち着きが戻ったようだった。
「おとうさん、これ」
息子の寝室まで連れ添うと、思い出したように何かを手渡された。暗がりの中で手に押し込められたそれは、ちくちくと手の平に痛かった。
「あとで、おかあさんにあげてね。きっとげんきになるから」
「分かったよ。だから早くおやすみ」
音を立てないよう、ノブを下ろしたまま扉を閉める。きっとすぐには寝付けないことだろう。だけど5分もすれば、すぐ朝になっているはずだ。かつての自分がそうだったことを思い出し、男は何となく苦笑いを浮かべる。
「大丈夫だよ」
最前に息子へ告げた言葉を口の中だけで諳んじた。
大丈夫、大丈夫。
何度も何度も諳んじる。
明日になればきっと、元通り。
大丈夫。
諳んじる。
大丈夫。大丈夫。
いままでも、これからも。
・・・
リビングに戻る頃、ようやく強張った身体がほぐれた。そこでやっと息子に何か手渡されたことを思い出し、手の中を見た。
「懐かしいなあ、これ」
目を細めながらセロファン袋を天井の方に捧げる。
ミルメークと記された袋の中、茶褐色の顆粒がさらさらと、さらさらと、踊っていた。
浴槽にタオルを浸けて「くらげ」を作ってトリップするのが好きです。
例えるなら正に、"凪"って感じで
泣かされました。
「女」の気持ちも
「男」の戸惑いも
なんだか深く想像できたし
この世界観に浸れました。
読後感が病みつきになりそう。
またこういう日記
楽しみにしています。
もっと前向けよなんてのは野暮でしかないんでしょうか
肉さんのことだからそこまで考えてないんでしょうけどね。
覚醒剤と思って読んでた自分の心は汚れてしまってるのかな
大人になっただけだよね(´・ω・`)