先日、いつもの通り人生の深淵を知るべく場末の酒場で酒を飲んでいた。安い酒の向かう終着点はいつだってシモの話でしかあり得ない。僕は真横に座る知人女性にこう訊いた。
「近頃はセックスをしているの?」
滋味に溢れた問いかけだ。また、そこには愛もある。愛がなくてはそんな言葉は投げかけないし、どうでもいい人間の性生活など知りたくもないからだ。セクハラだなんて薄っぺらい色眼鏡を通して僕の人となりを判断しようとするのは金輪際やめて頂きたい。
「何度か言い寄られていた男がいるんですけども、つい最近、土下座と共に『お願いだからヤラせて欲しい……!』なんて言葉を添えられまして」
「ほうほう、それでそれで?」
「ヤラせました。あまりに不憫で」
下半期で最も悲しい話がそこにあった。人間って哀しいね、と歌ったのはさだまさしであるが、眼鏡をかけた人の放つ詞はいつでも真実を摘示するものである。
土下座してでもセックスができるのなら、それでもいいのでは?そう考える向きもあろう。そこに明確な答えは存在しないし、善悪の観点から是非を論ずるのも、どこかうそ臭い。もし注目すべき部分があるとすれば
『土下座したらセックスができた』
その事実ばかりでしかない。そしてそのことについて様々な視点から思考を耕すこと、これが肝要なのだ。感情的に無秩序に現象を糾弾するのはアホの行いだが、客観的に冷静に現象を分析するのは意味の深い行為だからである。
土下座までしてオッケーを貰ったとして、そのまま一体どんな顔で前戯に及べばいいのか。知人女性の話を聞いてのち、僕はひとり思考の迷路を彷徨った。議論の成熟を待つまでもなく、土下座の末にセックスに至るというのは、相当に胆力の要する話だ。どれだけ格好をつけても、いや格好をつけようとすればするほど、空間には名状しがたい『情けなさ』みたいな空気が立ち込めるだろう。そこにあって
「お願い、させて下さい……!この通り、この通りですけん……!(ゲザァ)」
「ハァー……しょうがない、いいですよ」
「おう、先にシャワー浴びてこいよ」
完全にキチガイの言動である。行動について、論理的一貫性という観点がおよそ欠落している。さりとて
「へへっ、えらいすんまへん……!あっしのことはさしづめ犬とでも呼んで下されば幸甚です。あ、まずはクンニでもいたしましょうでゲスか?」
最適解からは程遠いだろう。その態度からは『下手に出とけばいいのだろう?』という、一周した傲慢さが見え隠れするようだからだ。だからといって
「ふふ、やっと一つになれるんだね……月が綺麗ですね……」
マンコも乾くひとときだ。別にお前からそんなポエミーな台詞、欲しくねえよ……女性サイドの静かな怒りが聞こえてくるようである。
夜を徹して考え抜いたが、結局のところ『土下座からのセックス』における最適な振る舞い、それに対する明解な回答は導き出せなかった。いや、一つだけあるにはあった。それは以下のような場合である。
「お願い!後生だからさせてつかあさい!(ゲザァ)」
「しょうがないなあ……ええよ」
「ウッ……!(ピュルピュル ティラピス)」
「え!?な、なに?!」
「ふー……(´^ω^`)イナフだったよ」
土下座した瞬間、股間から一方的に放出される欲望のリキッド。その姿はまさに鮭である。鮭の交尾の在り方については各々ググッて欲しい。個人的な尺度となるが、もしも件の彼が土下座した瞬間に全てを完結させたのだとすれば、それはとても美しい生き様だ。その行為に対して、敬愛と尊敬の念を込め『ドゲニー』の名を贈りたい。
『土下座からのセックス』という可能性があるのだとしても、僕からすればドゲニー以外の妥協点は見出し難い。土下座の果てに生まれるパワーバランス、それはあまりにも歪だ。ちょっとフェラチオなどをして欲しいかもしれない……そう思った瞬間、図らずも『オプション料金』という切ない単語が脳裏に過ることだろう。アナルの園などガンダーラよりも遠い地点だ。
起算点をどこに置くのか。我々は絶えずそのことを意識すべきなのだ。それは別に土下座の話に限ったことではなく、あるいは男女関係のみに限定される話でもない。総じて重要な人間関係というものには重要な起算点、そいつが存在する。
「おい肉欲、何か一発芸しろよ」
「ようがす!おや、こんなところに野生のナマコが」
大学の飲み会においてしばしば散見される光景である。その起算点から生み出されるのは 『アイツは安易にチンポを出すカス野郎』 という哀しき結末でしかない。後になってどれほど良い言葉を吐こうとも、評定平均4.0を弾き出そうとも、外部的な評価は 『でも、チンポを出す人』 そこに向かって帰納してゆく。これは現実のお話である。
「おい肉欲、またアレやれよ」
「ナマコの旬は外れましてね。奥さん、おや、秋ナスです」
終生を縛られることだろう。そこから逃れるには引越しか輪廻転生に賭けるかしかあり得ない。起算点の重要とされる所以である。
こういう風に議論を矮小化すれば、皆さんとしても 「はは、そんな間抜けなことはしませんよ……」 そうやって笑うほかないのかもしれない。しかし起算点の問題はどこにでも潜んでいる。
安易な親切。
それは非常に危険で見落としがちな起算点だ。
(付き合って1日目)
女「ご飯できたよ〜」
男「えっ、マジで作ってくれたの?!すげえ嬉しいんだけど」
女「へへ、そんなに喜んでくれたら作り甲斐があったかな(///)」
男「やべー超美味いよ!ありがとう、本当に嬉しい!」
女「えへへへへ(///)」
(一ヶ月後)
女「はい、食べよー」
男「魚かー。俺、肉食いたかったわ」
女「あ、ごめん……」
男「まあええわ。食べようぜ」
女「うん」
(半年後)
女「できたよ」
男「ういー……(カタタタタ」
女「食べないの?」
男「いまスカイプチャットしてっから……先食べてて……(カタタタタ」
女「うん……」
ウィンドウ越しに深く頷く女性の影を見た気がする。おそらくそれは幻影ではないだろう。こんなのは一山いくらで投げ売りされているようなエピソードだ。もちろん、単純に男がカスという説もあるし、それはそれで正しい。だが、それと同時に押さえておきたいのは
『大抵の場合、最初の行動が基準ラインとしてインプットされる』
この点である。
上述した寓話でいえば 『彼女は当たり前にご飯を作ってくれる人』、そいつが彼の中でのスタンダードとなってしまった。ここを看過してはならないのだ。
出来上がった料理に対し、最初は感謝するだろう。
涙と共に感激すらするかもしれない。
しかし永く続く営みの中、そんな鮮烈な感情を保たせることは生半ではない。彼の中に 『当たり前のように、最初から』 ご飯を作ってくれた、そんな記憶があり続ければこそ
女「いい加減にしてよ!家政婦じゃないのよ!」
男「なに急に切れてんだよ?最初から作るの好きだったじゃん、お前」
間違いなく彼の視点はズレている。けれども彼の咀嚼してしまった彼女像が、本日記のテーマでいえば『起算点』が、そこで確定されている以上、議論はそこで終わりなのである。
『だって、最初からそうだったでしょう』
言葉の、行為の裏の意味を模索できない人は愚かだ。反面言葉の、行為の真意を相手に無理やり理解させようとするのも、同様に愚かな話なのである。伝わっていなかった時点でそれは終わった話なのだ。後々から言葉を尽くすことも可能だろう。それでもその先に残るのは
(なんでこんな簡単なことも分からないの)
(そんなの言わなきゃ分からないだろ)
無限のすれ違いでしかない。始まりが終わり、終わりが始まる瞬間だ。
故に。僕達が何かに向かって行動を起こすに際しては、その先に何を得たいのかを熟慮しなくてはならない。土下座により得られるセックス、料理により得られる感謝、愛情。図式そのものはシンプルだ。だがもう一歩踏み込んで考えてみれば、それら全てのリターンには、頭に
【場当たり的な】
この文言が付く可能性を斟酌すべきだろう。土下座のシーンについては言うまでもないが、安直な親切心から発せられた行いに対しても、雑で場当たり的な謝礼しか望むべきではないし、望んではならない。何かの行動に対してリターンを求めるというのはそれだけ難しいことなのだから。
「じゃあ彼氏には料理をするな、ってこと?」
それもちょっと違う。少し視点を変えてみよう。もしもあなたが彼のことを好きなあまり、恋愛当初から相応に気合を入れて料理をカマしてみた。結果として上述したようなシーンに遭遇することとなった。その場合は
『彼氏が糞野郎と判明して、良かった』
話はそこで終わりである。速やかに別れれば済む案件だ。出来立ての料理に箸をつけないなどというのはアホの極み、後々になってクソ具合が判明するより、早めに分かって助かった!ひとまず神に感謝しておこう。かしこみかしこみアーメン。
その上で起算点には慎重になろう、というのが今回のテーマだ。別に料理に限定して話を進める必要もないが、便宜上このまま続けさせていただければ、仮にあなたが恋愛の当初から異性のために料理をするのだとして。そこに『愛玩具的な観点』で臨むのか『教育的な姿勢』で臨むのかは、非常に大切な問題だ。
前者であれば思う様メシを作れば良い。作って作って作りあげて、ウマいウマいと笑う姿に満足を覚え、キャッキャウフフし、時の経過とともに相手が望むリアクションをとらなくなったら、次の愛玩具を見つければ良い。迅速に連絡先を叩き消し、新しいディックあるいはプッシーのもとへとダッシュすればイナフだ。僕は別にそういう関係の在り方を否定しない。強要もしないが。
翻って後者の場合。きちんと両者の関係性を前置きしたうえで、料理を作るというのが自分にとってどういうことなのかを説明する、また、ご飯は作るけど皿は洗って欲しい、などのことも明言する。そういう前提のもと料理を続ける。約束を反故にした場合は厳たる姿勢で臨む。都度都度に話し合いの機会を設ける。そういう起算点の在り方、それもまたあっていい。そしてそれはドゲニーについても同じことである。
「また……って、この前一回ヤッたじゃん!次はないって!!」
「この通りだから!この通りだから!!」(ガンガン
「ちょ……額から血が……」
「するから!何なら二階から土下座するから!!」
「いやそこまでは!別にそこまでしなくとも!ヤラせてあげるから!!」
起算点にブレのない、ある面からすれば非常に美しい御姿だ。はじまりを生きる、はじまりを見据え、受け止め、はじまりと共にあるーーそれはこういう姿勢である。まあ、やはり、着地点は見えないが。そこにあって
「また、って、この前したでしょ?もう駄目だよ」
「いいじゃん、一回も二回も同じだろう?」(ドヤァ
フォースのチンコク面に堕ちてしまった、腐った野郎の言辞である。実にふざけた話だ。この場合、鮭と侮蔑されようが何だろうが、あなたはあなたとして、陸に爆誕した鮭として、生きていかねばならないのだ。知ったような顔をして、場末のつぼ八で 『まあ、ヤッたもん勝ちですし?!』 勝利宣言したところで、我々におけるあなたへの評価は確実に鮭だ。あなたのチンポは鮭トバなのである。

(無論鮭トバに罪はない。罪を犯すのはいつも人だ)
起算点、それは終生あなたを縛りかねない。もちろん、過去にこだわり続けるのは無為だ。だが、頭でそのことは分かっていても、その考えを実直に履行することは困難である。だからこそ、我々は他者の判断という俎上に載せられるとき、極めてクレバーに動くべきだろう。
「あいつ、普段はとんでもないワルなのに、ちょっといいところあるじゃん……」
いわゆる『DQN効果』(*)である。これは一種の錯覚に過ぎないが、最初の印象が悪いほど、後になって『よい振れ幅』を見せた時、その絶対値は限りなく増大する。その意味でいえば、大切な誰かに対し常に全力投球することが、最善とはいえないシーンもあるだろう。肩の力を抜いて接するくらいが丁度いい按配な可能性は十分にある。
(*)ヤンキーや粗暴な人がふとした時に見せた優しさに思わず心動かされる、という現象
理屈や打算で好意を得ることを是としたいわけではない。けれども我々の心の動きがそういう傾向(最初の印象に強く囚われる、という側面)にある、ということを、ある程度認識しておいても損はない。
【想う人には想われず、思わぬ人に想われる】
古より伝わる名言である。解釈はそれぞれであるが、恋愛の初期段階において全力投球する自分の姿を見せつけた結果、あえなく撃沈した。そういう哀しき戦士たちを数多く見てきた僕としては、やはり 『想う』 ことの難しさを何度も何度も確認したい気持ちだ。確認した結果打算的になるのであれば、それは尊いことだと思う。全力投球する姿も、身の丈を知ったうえで懸命に生きる姿も、等しく美しいからだ。
だから飲み会では決してチンコを出してはいけない。いくら下関が海産物で有名だからといって『ほら、ワカメに揺蕩うオコゼだよ』などという言葉も添えてはいけない。その起算点はあまりに乱雑で無意味で哀しいからだ。
成人式以来同窓会に呼ばれなくなった僕の言に、間違いなどあろうはずもないのである。
妙に納得させられる記事でした!
土下座の練習だけしておきます
これマメな
探せ!この世の全てをそこに置いてきた!
【肉欲より】
や゛り゛た゛い゛!!!