肉欲企画。

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2011年06月09日

かつて「ケツは所詮メンマ、顔こそがチャーシューよ」と豪語した男がいる。俺である。

しかし、人は変わるものなのです……それは止めようのない現象なのです……木が芽吹き花が咲き雪が解け雨が止み日は沈み太陽が砕け散るように、人もまた、いつまでも同じ状態ではいられなくって……。

「ケツぅ!?それも確かにいいがよォ―、結局あんなもんはメンマ、支那竹に過ぎんのよ!やはり女体がラーメンだとすれば、顔、それこそがチャーシューなんよ!お前らも好きだろ?チャーシューはよォー!」

夢を、見ていたのだ。
甘くて覚めない、軽佻浮薄な夢を。
あの時、僕は確かに――

 
女性におけるメインディッシュは顔である、という言説を曲げたいのではない。異論反論多々あろうが、それでも我々のイメージの大半はその容姿、ルックスによって左右される運命にあるからだ。『話してみるといい人だった』『話しているうちに好きになってしまった』というのは、取りも直さず

『話さなければその人のパーソナリティを知ることはなかった、好きになることはなかった』

この意味となる。ある種当たり前のようにも聞こえるが、この事実が示唆する部分は大きい。

要するに、誰かに対する情報が極端に少なくしか手に入らない場合、人はその誰かの容姿、とりわけ顔面によって一定の価値判断を下すほかなくなってしまうのである。もちろん全ての人がそうではないだろうし、ある程度の人生経験を積まれた方なら『容姿 "のみ" で人を判断することの危険性』というものを十全に認識されていることだろう。だが、こと若い時分にあっては、何となくそのようなことを理解していても、本能からの叫びには抗いがたいものだ。

あの人ってマジイケメン!きっと性格もイケメンであるに相違ないわ!

その判断を下す精神性、それを悪いとも愚かだとも言うつもりはない。ただ、人はいつも哀しい。それだけの話なのである。

僕自身も精神的に未熟さが残るため、やはりそういった価値判断の枠組みから脱却しきれていない。愚かだな、とは認めつつ、どうしても初対面の誰かに対する好悪の判断をそのルックスに依拠させてしまう。具体的には、先日練馬の駅にて宮崎あおいさんによく似たJKに遭遇したのであるが、僕などはその刹那 『さて、彼女に対しつきまとい、ストーキング等の行為に打って出るか』 と図らずも思ってしまったのだ。これなど他者の評価の大半を顔面に置いている証左であろう。実に情けない話である。笑っておくれよ。

おもむろに本筋へと足を踏み入れたい。そのようにして、僕はこれまで他者に対する(とりわけ女性に対する)価値基準、そのほとんどを顔面というポケットにベットしてきた。それは単純にして明確、そしてブレの少ない基準であった。だが、我々は顔のみを晒して生きているわけではない。頭髪もあれば首もあるし、人差し指もあればくるぶしだってある。それら一つ一つ全てのパーツが有機的に成り立ち、『あの人』『この人』という人物を組成している。

二次性徴を経るにつれ、胸、即ちバストというパーツにも着目するようになった。それまで顔面という牌で単騎待ち一辺倒だった僕は、10代を半ばに迎えるにあたり、はじめて『顔とパイオツ』というシャボ待ちを覚えるに至ったのである(※いま用いられた用語がよく分からない……という純な読者諸兄におかれましては、取り急ぎこのペーシでも参考にされたい)。

とはいえパイオツはやはり "低め" の待ちでしかあり得なかったし、今を以てパイオツに関してはさほどのグルメではない。AからZ、そのどれもを等しく愛する自信がある。僕にとってパイオツは、ただそこにあるだけで愛でるべき存在だからだ。

もちろん、限局的に見ればやはり(パイオツに対し)多少の好みの差異はある。が、大局的に見ればその好みに意味などない。そしてその真実こそが、パイオツのみならず、全ての事象に敷衍していく。これが本稿のテーマであり、だからこそ僕は、ここでこの名言を引用しておきたい。


万物は流転する
そこに多少の善悪があろうとも、今日も太陽は東から昇ってくる

それはまるで、車輪のように――


(『車輪の国、向日葵の少女』より抜粋)



栄枯盛衰、会者定離。驕る平家は久しからず。永遠はどこにもない、そう歌った彫りの深い歌手もいた。その意味からすれば、今この時点で僕、あるいはあなたでもいい、その誰かが『やはりDカップがいいよね』と吐き捨てたとしても、それは束の間に見えた一瞬の光でしかあり得ない。並べて言葉に意味など存在しないからである。

「あの時、アタシのDカップがいいって、そう言ったじゃない!」

「確かにそうだったよ、だけど今は違うんだ」

実に不毛な、後にぺんぺん草も生えないような、悲しく暗いやり取りだ。いかに『Dカップが好きだ』と叫んだ彼の言葉をボイスレコーダーに録取していようとも、その記録は、彼による恒常的な愛を担保してくれるはずもない。仮にこの紛争が裁判の俎上に載せられれば、裁判官は『かつて、そういう事実は確かにあった』との認定を下すことだろう。しかしその判決が、債務名義が、あなたの辛さや寂しさを救済するのだろうか。僕にはそうは思えない。蓋し言葉に意味などないのだから。

故に、パイオツは総じて愛らしい。そこに多少の異動はあろうとも、現象が現象として在り続ける限り、『パイオツが在る』という事実それ自体が目映い光を放つからである。女性の方からすれば分かりづらいテーマかもしれない。しかしこういったケースについて、賢人はかかる金言を遺しておられる。曰く

隣の芝生は青い

男性と女性、両者に横たわる絶望的な高さの垣根にあって、隣家に住まわれるあなた達の家屋、そこに広がる青い、青すぎるまでの芝生。それがパイオツなのだ。あなたたちのパイオツは、だから、ただそこにあるだけで、どうしても目に青すぎるのである。

砂漠の地に棲む人間が、どうして遥か100光年先にある芝生の在り方の仔細に気を留めようか。草が生えるということ、そしてそれと触れ合えるということ。砂漠の民にあっては、それこそが丸ごと "奇跡" という概念の体現と言わなくてはならない。

もちろん、皆さんに植わる乳はやはり芝生などではない。また、我々メンズを取り囲む状況、それだって砂漠であると断ずる根拠はどこにもない。だから上述した論理は全て詭弁である。僕はいつだって詐術と欺罔行為しか行わない。過去ログ見ろよ、昔からそうだっただろ?このようにして、唐突に『もっともらしいたとえ話』をして相手を丸め込もうとする人間は、その99%が詐欺師であり、残りの1%は政治家であると相場が決まっている。お前らも気をつけろよな。

だが、僕の "ソウル" みたいなものは伝わったのではあるまいか。便宜上詭弁を用いてはしまったが、お乳はただそこにあるだけで眩い、神々しい存在である、その想いにウソはない。でもそのシャウトを上手く伝えられる言葉を僕は持たなかったから、皆様に対し素直に打ち明ける勇気がなかったから、あのようなペテンを働いてしまった――ただそれだけのことなのだ。今日を最後にでもいい、一度くらい、俺のことを信じてくれたって、バチは当たらんと思うぜ。 (ニク、信じるよ!) 知ってた。ありがとう。お前らはいつだって優しかったさ。

そんなクソどうでもいい三味線はそろそろ爆砕して、つまりケツである。僕はケツの話がしたいんだ!余計な話題で会話の腰を折らんでくれんか。お前らはいつだって自分勝手だったさ。 (ニク、それはあまりにも身勝手!) うるせえな……一度ブログランキングをクリックしたくらいでもう女房気取りかよ?!そういうのってちょっと重いんだけど!?!

ノンノン、ケツのお話です。先程のdisはseesaaブログが強制的に表示するアドセンスです。誤解なきよう。

ケツはメンマ。過日の僕は女性のヒップに対してそのような評価を下した。それは確かだし、揺るぎのない事実だ。女性がラーメンであるならば、顔はチャーシュー胸味玉、だけどもケツはメンマだね。あってもいいけど、なくてもいい。そういうようなことを、かつての僕は、確実に言った。

すまぬ、と言わせて欲しい。どんな罵詈雑言も真摯に受け止めたい。もちろん、それによって古くからのケツァー(ケツを愛でる人、その総称)の憤怒が収まるとも思ってはいない。だからこそ、このようにして今更僕が謝罪するなど、それはただのおためごかしでしかないのだろう。パフォーマンスに過ぎない、という誹りも甘んじて受けよう。その上で、やはり言いたい。すまぬ、その3文字を。

ひたすらに青かった、青すぎたのである。あの頃の僕は。目に見えるもの、目につきやすいもの、理解の早いものでしか人を、世界を、宇宙の真理を――判断することが、できなかったのだ。目に見えるもの、見えたもの。それは女性の顔であり、胸だった。それが全てだったし、それ以外はいらないと確信していた、あの頃。

「ケツ?ハハッ、酔狂なものだね」

そう感じる人の心は自由だ。そういう価値観もあって然るべきである。しかし、そう感じた自らの心までが自由であるとは言い難い。誰かの発した言葉が無意味であるとしても、自らの発した言葉は、自らとの関係性のみにおいていえば、決して自由ではあり得ない。

忘れたふりは出来よう。いくらでも誤魔化すことも可能だろう。「そんなこと、言ったこともあったかな……(笑)」 悟った体を装いながら冷静さを保つ、それもいい。そうやって全てをないまぜにして、なかったことにして僕の、あなたの心が、少しでも軽くなるのであれば。

けれども。


忘れるということは表層的なことで、
それは忘れているだけで消滅しているわけではないんだ。
とりあえず必要がなくなって心の湖みたいな場所に
どんどん放りこまれているだけで、
だけど何かの拍子にそれは浮かび上がってくる。


大崎善生『パイロットフィッシュ』より抜粋



誰かとの関係において、変わりやすいあなたの言葉が、根源において意味を持たないものだとしても。
あなたとの関係において、かつて発したあなたの言葉は、永劫に亘り意味を持ち続けることだろう。
どれだけ忘れたふりをしようとも、どれだけなかったことにしようとしても。

『そういう自分が、かつていた』

それは自らというごく限定的な空間に、しかし無限に巨きい世界にあって、死ぬ間際まであなたを苛み続けることだろう。誰かに言葉を投げかけるという行為は、感情ある他者との中で生活を営むという事実は、思うに、そういう側面を持たざるを得ない。

「ケツ?メンマだよ(爆笑)」

許して欲しいのである!こと此処に至っては、かつてのそんな発言を、平身低頭許しを乞うほか僕にできることはない。そしてこの行為が、結局僕を癒すための作業でしかないことも、やはり認める。なぜとなれば、もしも言葉に意味がないのであるとすれば、この謝罪それ自体発せられた瞬間その意味性を喪うからだ。担保されるのは辞書的な意味のみであり、いまこの瞬間(2011年6月9日午前2時42分)に罪悪感の存したことは事実だとしても、明日にはそれが変節し、twitterなどで「謝罪?ウフフ、そうでしたっけ(笑)」とならない道理など、どこにもない。


だが、だが。
この謝罪は、言葉は、少なくとも僕を、僕だけを規定する。
ふとした瞬間に表層的な意味を喪っても、死ぬまで僕を束縛する。
だから言わせて欲しい。
許してつかあさい。その言の葉を。


そんな感じで『過去の贖罪は全て済んだ!完全に俺は許された!』という体で話を進めさせて頂きたいのであるが、僕とケツとの邂逅、それはおそらく遡れば母親のコミヤ(子宮)からスポムの抜け落ちた際、そいつが初めての出会いとなるのであろうが、そういうのはただの事象、現象でしかあり得ないため割愛、大事なのはいつ魂の意味でその対象と出会ったか、向き合ったか、その点であることに異論はないだろうし、例えばあなたが誰かと話していたとしても、それが極めて表面的なやり取りに尽きるのであれば、そんなのって真実真正な意味で『誰かと心通わせた』ということにはならないワケでしょう?なので僕が初めてケツと出会ったのが母親のコミヤ(子宮)から出てきたときのそれであることは確かであるとしても、そんなものには何らの意味も見出すべきではなく、肝心なのはいつ、いかなる段階でソウルな気持ちと共に異性のケツ、いや敬愛と尊敬と畏怖の念と共に言葉を言い換えたい、おケツ、と出会ったのか、そこであることに異論はないであろう。その意味でいえば僕がおケツと衝撃的な出会いを果たした忘れえぬその時というのは、何かもうよく覚えてないけど2年、いや、3年くらい前になるのかなあ、あんまハッキリしないのですけれども、なにせ昔の話ですけん、まあとにかく間をとって2年半くらい前から「ケツって、いいよね」みたいなことを思い始めた、ような……それはとっても嬉しいなって……。

なんでしょうね、ケツの放つあの一種独特な訴求力というものは。何かもう、プリプリと歩くケツがあればそれは見ますし、というか語ってしまいますものね。ケツと。ケツ「カモナップ!」僕「シャルウィッ!」みたいな、プリプリとしたケツというのは存在それ自体がひとつの言語であり、その言語は過去現在未来に亘って喪われない意味があるに相違ない。いやマジで。タイトなホットパンツに包まれたケツとであれば、そんなケツと対面できるのであれば!だ。延べ3時間にわたって討論を繰り広げられる自信がある。ケツと。それは顔面の美醜がどうであろうと。

「ドクター、クランケです」

断じて病気などでは、ない!じゃあ分かりやすい話をしてやろう。顔は人の人生を語る、という。それは一重にその人がどのような表情を紡ぎながら人生を歩んできたのか、それが表情筋や皮膚などに端的に現れるからだ。100%の説得性があるとは言い難いが、ある程度理屈が立つとは感じられる。しかしそれは上半身サイドの話、要するに人体の1/2の話でしかない。下半身はどうか?そう、皆様もお察しの通り、下半身における『顔』にあたる部分、それは確実にケツだ。理由はない。理由などいらない。俺がそう思えば、思うことができれば、それが充分理由だからだ。だからケツは下半身の顔であり続けるし、その有り様は、丸ごとその人の(下半身)人生を指し示す指標となる。

そいつと対話したい――思わない方が異端なのである。アナタノコトガ、シュキ、ダカラ――ケツと、対話したい。まあ厳密に言い換えればあなたのケツが、というか、ケツだけが好きだから、だからちょっとケツ見せてよ。とこういう話である。ああ、顔は見せなくてもええんよ。レジ袋でも被ってモンハンやっといてくれんか。好きやろ?モンスターハンター。なんかモンスターハンターっぽい顔してますしね。ご兄弟がジンオウガか何か?

そんな僕は、かつてはAVにおいてのホット・シーンは騎乗位一択でありましたが、現在ではバックそれのみです。後背位の存在しないAVを見た瞬間「キエエエエエエエエ!」などの奇声を発して庄屋の米倉などに竹槍で討ち入りたくなるほどの激情に駆られてしまいます。それくらいケツが好きになりました。もちろん顔も好きです。胸も好きです。性格?ちゃんちゃらおかしい。性格?あなたはスピリチュアルカウンセラーか何かですか?

僕は眼に見えないものは信じない、信じたくなどないのである。


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posted by 肉欲さん at 03:23 | Comment(20) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
脚派ですん。まー好みは人それぞれですからなー´´
Posted by 男性は肉体的繋がりを大事にして女性は精神的繋がりを重視する、と言いますね。 at 2011年06月09日 05:07
ケツはいまだにわからん

だかしかし一種のエロ四季ではないの・・・w
Posted by   at 2011年06月09日 08:03
私もAVはもっぱらバック…!それのみです。それ以外、何もいりません。
Posted by at 2011年06月09日 10:29
括れたウェストから腰、ケツに至るまでの曲線美。
それだけで僕の子種は増産体制です。
Posted by at 2011年06月09日 10:54
ケツの良いところは常に無限大の可能性を秘めている点だと考えております。
私が目覚めたのは18でありました。

ケツでかいんだけど顔どうかな??とか
小ぶりなケツだな、バックでしたら痛そうだけど、そのぶん乳までの距離が近いな。とか
エロいケツしてんな、誘ってんだろ?とか
ケツ少し垂れてきてるから30代だな。とか
イボ痔は第二の肉の芽だ!など、
全ては可能性なのではないでしょうか。
Posted by 神父 at 2011年06月09日 11:02
背面騎乗位のよさが分からない男の人って・・・
Posted by at 2011年06月09日 13:04
パイロットフィッシュは名作ですよね!
Posted by at 2011年06月09日 17:06
そのうち肉さんも脚派になるって信じてる!
Posted by at 2011年06月09日 23:43
大人になるとケツの魅力を再確認するって言う自論が確立された瞬間です。
Posted by at 2011年06月10日 00:41
逆にメンマが好きになった可能性
Posted by at 2011年06月10日 07:41
同じくバック好き。
ニク、大人になったな。
Posted by at 2011年06月10日 09:36
ニクニクニクニク!ニクのケツ!
Posted by at 2011年06月10日 16:29
ニクニクニクニク!ニクのケツ!
Posted by at 2011年06月10日 16:41
まだ青い僕にはまず外からケツを見極める力が足りないです、梅雨。
Posted by open at 2011年06月13日 01:32
大人になると好みの部位が段々と下方にいくらしいですよね。例)10代/顔→20代/乳→30代/ケツ→40代/脚…みたいな?
Posted by ヒロミ at 2011年06月13日 11:57
ジンオウガのケツもいいっすよね!
Posted by at 2011年06月14日 09:48
以前の日記ではマ○コがチャーシューって言ってませんでしたか?

まあ内容的に考えるとメンマみたいな部分ではありますが。
Posted by at 2011年06月15日 23:11
肉欲さんの存在は結構好きです(^o^)/もっと人生がハッピーになるべき人だと思います(イメージで勝手に書いてます)。思い付いたネタを全部詰め込むとクドクなるので余計な所は思い切ってカットしたほうが読んでもだれなくて良いと思いますと上から目線で書いてみました。ごめんねm(_ _)m
Posted by ウンコ at 2011年06月18日 19:53
メンマ好きだけどな
Posted by ラー"メンマ"ン at 2011年06月25日 01:56
僕はコスプレフェチですわ。
Posted by コスプレ at 2011年09月09日 17:10
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