その引越しを、本年4月、僕は経験するに至った。18歳の頃に上京したときから数え、実に8度目となる引越しである。今年で28歳になることを考えれば、およそ1年強に一度は引越しをしている計算だ。一体どうしてこうなったのか、それについては本筋とは関係のないため言及を避ける。いずれ語る日も訪れよう。
とにかくも引越しである。18歳のあの頃、経験値がゼロであった若い自分はもう存在しない。百戦錬磨の老練したテクニックを携え、決然たる想いを胸に秘めつつ、江古田のとある不動産屋の門扉を叩いた。今回の打ち立てた指針は大体以下の通り。
『1円でも安く』
銭ゲバ、銭欲との謗りもあろうが、それでもマネーは何よりもインポータント。僅かばかりの交渉を怠ったがために払わなくても良い家賃を払う羽目になってしまった――そんな哀しき案件を既に数十件は目の当たりにしてきた。もう搾取されるだけの人生は御免被りたい。今こそが好機、僕は奪う側へと回るのだ!
「いらっしゃいませ。今回はどのような条件で物件をお探しですか?」
担当は吉村と名乗る若い男性だった。伊藤淳史を3回濾過して2週間ほど光合成させたようなルックスである彼は、どことなく純朴そうで、荒んだ僕の心を生暖かく癒してくれる。だからといって僕が激安物件追求の手を緩めることはないのであるが。
「23区内で4万円程度の物件を探しています」
「よ、よん……!?」
どれだけ無茶と嘆かれようとも、下限をしっかり定めて交渉に臨むこと。これは基本であろう。5年前、バンコクの市場で叩き込まれた教えはまだ胸の内に生き残っている。ナウ僕がニードしているのは区内で4万円前後の物件それのみであり、5万円以上の物件は全アウツ……これが提示した最低限、そして唯一の条件であった。物語が、始まる。
「ちょ、ちょっと、探してきますね……」
弱り顔で資料を漁り始める吉村。心の弱い人ならここで「あ、いえ全然5万円以上でも……」などという三味線を弾きそうなところであるが、それは唾棄すべき悪手である。彼らだって慈善事業を為しているわけではなく、あくまで仕事として、生業として不動産を仲介しているのだ。こちらが甘い顔を見せれば
すぐにつけあがり、気付けば築30年6畳一間駅徒歩20分木造モルタル家賃18万円クラス(敷・礼 3・3)の物件を押し付けてくるに相違ない。いわばこれは戦争であり、金玉と金玉の握り合いと言うべきシチュエーションなのだ。
「え、と…もう少しお値段を出して頂ければ、相応の条件の物件もご提示できるのですが……例えば5万円台でありましたら」
「いえ、結構です。5万円以上の物件には住まないので資料も必要ありません」
「ソッスカ……」
8度の引越し経験が完全に活かされた格好だ。このあたりの掛け合いは実に複雑かつ巧妙、そして恐ろしいものである。
『あとプラス5000円で!』
この惹句に騙されたことのある読者諸兄もいらっしゃることだろう。
『月々ほんの5000円をプラスするだけで、よりよい住居環境を選択できるというのか――』
それはあまりにも眩く美しい、目の前のニンジン。
価値観はそれぞれだ。その5000円で後々の精神的充足感を得られるのであれば、そちらの方がモアベターという方もいるだろう。その判断に否定も肯定も存在しない。だが、たかが5000円といえど、通年で考えれば6万円もの額になる。当たり前の話であるが、その『プラス5000円!』は、そこに住む限り永続する5000円なのである。2年住めば12万の差額が、3年住めば18万円の差額が……聞けば単純な計算なのだが、仲介業者というプロを前に、あるいは引越しという一大事業に直面している我々は、一種の興奮状態の中、そういった単純計算すらままならなくなってしまうのだ。
『その5000円は本当に必要な5000円ですか?』
絶えず覚えておきたいマインドである。引越しのみならず、あらゆるものの購買シーンにおいて。もっとも、安物買いの銭失いという言葉もある。無闇矢鱈とケチりなさい、という話ではない。大事なのは自らの価値観を客観的に判断し、それが本当に必要な出費であるかどうか、つぶさに判断することのみだろう。
「とりあえずこの辺りの物件はいかがでしょうか……」
おずおずと差し出される幾通かの資料。踊り狂う4万円台の家賃。これまで培った様々な知識をフル動員し記載された情報を精査していく。
「こちらの物件は中々お勧めですよ!駅からも近くて42000円ですし」
「なるほど……でもこれ、プロパンですよね?ここ、書いてますが」
「ええ、そうみたいですね」
「プロパンは絶対にイヤなのでここは結構です」
「ソッスカ……」
友人がプロパンガスの物件に住んでいるのであるが、彼の場合ごくごく人並みの生活を送っているにも関わらず、月々のガス代のアベレージが7000円である(おそらく通常の一人暮らしであればせいぜい3000円程度)。とにかくプロパンはやたらと高いという話しか耳にしない。いくら家賃が安かろうとそれでは元の木阿弥だ。狙うは都市ガス一択である。
「おっ、これなんか良さそうですね。風呂トイレ別、1K(6畳+6畳)、水道代込み4万円、駅徒歩10分。いいじゃないですか吉村さん。築40年という部分には目を瞑りますよ」
所詮男の一人暮らしである。多少あばら屋であろうと、そんなものは気にしない。何せ区内で4万円の物件なのだ。多少のリスクは覚悟して然るべきである。しかし、そう申し向けた吉村の返答は実に歯切れの悪いものだった。
「いや……ここは……どうなんですかねぇ〜」
『この物件は見せたくない』オーラをビンビンに漂わせる吉村。対面してまだ1時間も経っていないが、どうやら吉村は、感情の機微がダイレクトに表面へと現れるタイプらしい。さすが伊藤淳史を3度濾過して4週間遠心分離機にかけ続けたような男なだけはある。
「ここが見たいです。どうあってもここは確認しておきたい」
渋る吉村を強引に説得し、何とかして社用車に乗り込んだ。察するにこの物件は想像を絶するほどのあばら屋なのであろう。おそらく、並の精神力では居住に耐えない程度には。
「僕もこの物件は初めて行くんスよねぇ〜……」
「なるほど」
「たぶんですね、とても住めたようなモンじゃないスよこれは……」
吉村君……?仲介業者の立場で言っていいのか、それは。しかしこの発言により、吉村はより強い信頼を勝ち取ることとなる。彼とならきっと上手くやれるであろう。
たどり着いた先にあったのは一軒家で、一階が廃業した美容院、二階が居住区分となっていた。建物全体から溢れ出る瘴気はまさに垂涎モノであり、耐震性についていえば『何それ美味しいの』のレベルである。
玄関を開けるとそこは共同玄関となっており、急勾配の階段が続く。上った先には引き戸が左右に二つ、一方が空室でもう一方には住人がいた。そう、要するにこの物件は『一軒家の二階部分をざっくり区切って二人で住んで下さいね』型物件だったのである。納得の安さと言わなくてはならない。
「これ、人住むレベルじゃないでしょ……」
アッパーな発言をカマし続ける吉村氏。好感の持てる姿勢ではあるが、アンタは少し職務意識というものについて考えを深める必要があるだろう。苦笑いを浮かべながら空室の引き戸に手をかけた、その時。
「……鍵かかってますけど」
「アラ?(ガチャガチャ)いやー、参りましたねー」
吉村ァァァーーー!!参りましたね、じゃねーよ。『外観だけ眺めて帰る物件内覧』って、随分斬新なイリュージョンじゃねえか。というか吉村、お前は『内覧』という言葉について本気出して考えてこい。
「まあ、いずれにしてもここに住むことはなさそうですし、もうええですばい」
「そうですね、次にいきましょう次に」
切り変えの早さに定評のある吉村と僕は、全てを見なかったことにして社用車へ舞い戻った。グッドバイ、アバラヤ、フォーエバー。
この後に東長崎(豊島区)の物件を見にいった。駅徒歩5分、池袋まで自転車10分、光回線導入済み、1K45000円、という中々の好条件ではあった。しかし、これまた安さ故にであろう、中々にエキセントリックな造りで、具体的に説明すれば『キッチンが狭すぎてガスコンロの前にしか冷蔵庫を置くことができない』という夢仕様だったのである。
「吉村さん、これ、ガス台使えないですよね。使うにしても、ガス台の前に立つことは絶対に不可能ですよね」
「はい、そうですね!」
「料理とか、どうするんでしょう」
「んー!んー!まあこれ、どちらかと言えば、無理ですね!ハハッ!!」
誇張ない真実の会話である。僕は段々と吉村のことが好きに、否、愛情すら抱くようになり始めていた。
「どうでした、今日の物件は」
「悪くはないんですが、うーん、どうかな……」
冷蔵庫の件はさておき、諸条件はかなり良好であった。しかしどうにも決め手に欠ける。どうするべきか。しばし悩んだ後、やはりここは見(ケン)に徹し、まだまだ他の物件を漁るに如くはない。そう結論づけた。
そして二日後。再び営業所にてああでもないこうでもないと検討を重ねる我々。
「これなんてどうでしょう。収納はないですが、練馬区で築20年、家賃4万円、1R7・5畳、敷・礼・管理費全て無料ですよ」
悪くない、率直にそう思った。引越しにおいて最も重大な懸案事項となるのが、その要する『初期費用』だ。判例の動向の影響もあり、近年では随分敷金礼金も下がってきたが、僕が18歳の頃などは敷礼各2ヶ月分、などという物件はザラだったものである。そうなると、結局、引越しにおける初期費用はほとんどの場合以下の通りとなる。
敷金=(家賃の)2ヶ月分
礼金=2ヶ月分
前家賃=1ヶ月分
仲介手数料=1ヶ月分
※合計=家賃6ヶ月分
礼金=2ヶ月分
前家賃=1ヶ月分
仲介手数料=1ヶ月分
※合計=家賃6ヶ月分
これが引越す『だけ』のために要する費用だ。月5万円の物件なら30万円、8万円の物件なら48万円もの額を用意せねばならない。更に、ここに火災保険や鍵の交換費用、その他もろもろの経費が加算されることもある。かくして引越しの初期費用というものは雪だるま式に膨れ上がっていく。
その点、敷礼がゼロというのは大層魅力的だ。いわゆるゼロゼロ物件というヤツである。もちろんそういった物件については悪評も多くある。が、記載された大家の個人情報、ないし吉村の性格からすれば、これは純然たる好意に基づくゼロゼロ物件であろう、と判断した。
「収納がないのはアレですが、もともと持ち物少ないし、ここにしよかな」
「そうですか!では早速連絡しますね!」
〜5分後〜
「ダメでした!」
「え」
「タッチの差で決まってましたね!」
「え」
これが物件探しに潜む魔である。良い物件がいつまでも残っているとは限らない、というか、良い物件であればあるほど悩んでいる間にかっ攫われる、それが世の理なのだ。決断は慎重に、しかし迅速に。皮肉な二律背反の海に揉まれながら、我々は物件探しという荒行に挑まなくてはならないのだ。
「でもなぁ……この物件、二階なら空いてるんだけどなぁ……(チラッチラッ」
「へー、そうなんですか」
「そうなんですよねぇ……ロフトがつくぶん家賃は5万円にはなるんですが……中々悪くないとは思うんですよぉ……(チラッチラッ」
吉村ァ……!
侮どりがあった、と言わなくてはならない。どれだけ道化師(ピエロ)を演じていたとしても、やはり彼は ”プロ” の ”不動産仲介業者” (コーディネーターオブマンアンドハウス)だったのだ。1階の物件はいわゆる『見せ』物件……!敵(ヨシムラ)の商機(チャンス)はむしろ二階のそれ……!俺は4万円のゼロゼロ物件という条件に目が眩み……危機感を……緊張感を、紐解いてしまっていたのだ……!
吉村『欲望が飽和点に達したとき……人の注意力は脆くも飛散する……!』
吉村『そこを撃つ……!』
実際僕はあのとき、「プラス1万円くらいなら、ええやん」みたいな欲望の奔流にほとんど身を任せかけていた。しかしそれでも押し留まったのは、当初の決意が固かったこと、並びに心のなかでエンドレスに「1年間で差額12万円……1年間で差額12万円……!」と唱え続けたおかげである。8年前の僕であれば即尺即ハメを決めていたに相違ない。
「どうですかねェ〜……(チラッチラッ」
「……いや、やはり5万円は!5万円は予算オーバー……!譲れないっ……その線だけはっ……!」
再度強弁した。そう、これは負けられない戦い、いわば聖戦(ジハード)なのである。軽々に妥協するべきではないし、妥協してしまった瞬間、僕の精神は未来に向かって緩やかに死んでいってしまうのである。『そう言い切る根拠は?』もちろん絶無だ。僕の言説に根拠を求める方がどうかしているぜ。
「45000円、これがマックス。それ以上はどうあっても払いまへんえ」
その数字に確たる理由があったわけではない。だが23区内、7・5畳+ロフト3畳、という物件状態、それを僕の価値観に照らした精神的充足度とで比較するに、45000円というラインが阻止限界点であると考えたのだ。
そして、激闘に審判下る。
「……大家に電話したところ、45000円でOKとのことでした」
勝った――大家と吉村がゆっくりとリングに倒れ込む音が聞こえる。響き渡るエアゴングの音、鳴り止まない万雷のエア拍手、そしてとめどのないエア落涙。苦節3日、僕はようやく納得のいく物件を発見するに至った。
こうして決まった物件の諸条件は以下の通りである。
池袋駅から最寄りの駅まで約15分
駅から家まで徒歩12分、自転車で5分
閑静な住宅街、図書館まで徒歩5分
近所にダイソー、コンビニ、ホームセンター
2つ口ガスコンロ設置済み、雨戸あり、ベランダあり
駐輪無料(バイク含む)
駅から家まで徒歩12分、自転車で5分
閑静な住宅街、図書館まで徒歩5分
近所にダイソー、コンビニ、ホームセンター
2つ口ガスコンロ設置済み、雨戸あり、ベランダあり
駐輪無料(バイク含む)
大勝利である。しっかり敷金1ヶ月だけ取られたのは残念であったが、事ここに至ってはそれも致し方あるまい。それでも他に比べれば随分と安い方なのだ。
……などと三味線を弾きながら引き下がっていた、それが4年前までの僕だ。だが、既にそんな甘く幼い精神は捨て去っている。ブランニュー俺 (Brand new Ore)、 ”ケチ欲” の名を欲しいままにしている僕にとって、勝負はまだまだ、終わっちゃないぜ。
話は物件の内覧中に遡る。
「いやー、中々いい部屋ですね」
「ええ、この広さでこの値段なら充分ペイできるのではないかと」
「確かに。しかしこの壁の汚れは気になりますなぁ」
「うーん、まだクリーニングが入ってないのかな……ちょっと確認してみます」
(3分後)
「大家に確認したところ、一応清掃は済んでいるみたいなので、現状での引渡しになりますね」
「なるほど、まあ汚れはそんなに気にしないので、別にいいですよ」
ここまでが前提。
そして時間軸は契約締結中へと進む。
「吉村さん、初期費用についてなんですが、僕がなるべく安く済ませようとしているのはとっくにご存知ですよね」
「ええ、それはもう」
「それを踏まえてダメ元でお願いしたいのですが、契約書のこの部分、要約すれば『敷金は退去時にクリーニング代として相殺します』ということですよね」
「ええ、そうなります」
「しかしながら、吉村さんも確認された通り、あの物件にはどう見てもクリーニングが施された形跡がなかった。そうですよね?」
「ああー……」
「だから、ダメ元で大家に『何かもっと安くしてよ』と伝えておいてくれませんかねェー……」
「(なんて面倒くさく、かつしょっぱい野郎なんだ……死ねばいいのに……)わ、分かりました。一応聞いておきます……」
その結果、初期費用は見事15000円減額された。何でも言ってみるものである。もちろん、大家からの心象が悪くならない範囲において、であるが。僕の言動がその範囲内に治まったか否か、それは誰にも保障できないけれども。
以下、今回要した初期費用を記載する。
敷金=45000円
前家賃=39000円(26日分)
手数料=45000円
火災保険=21000円
鍵交換=10500円
減額分=−15000円
※合計145500円
前家賃=39000円(26日分)
手数料=45000円
火災保険=21000円
鍵交換=10500円
減額分=−15000円
※合計145500円
大勝利である。
こうして、僕の引越し戦争第1幕は静かに幕を閉じた。
【次回予告】
無事に物件を決めた肉欲であったが、次に待ち構えていたのは『家財探し』『リサイクルショップ』『ダイソー』『ヤフオク』という無限ラビリンスに潜んだ闇の深淵であった!
「同じ商品が100均にある、だと?」
「自動入札!阻止できません!」
「即決価格は全力で回避しろ!面舵一杯!ニトリへ向かえ!」
「IKEA、応答なし!」
「HARD OFFで自転車が5000円……!?バカな……!」
お父さんはね――
ホームセンターでレンガを買いすぎて――
お星様になっちゃったのよ――
次回引っ越し大戦争第2話
『電力開始に立ち会った東電の職員はとても腰が低かったよ』
レンガの傷で敷引き、そんな先のことは分からない。
でも好き
ただし、お風呂なし・トイレ共同ですが
次回があるのかどうかが気になる。
次回編はあるんですかね
次回作たのしみにしています!
引越しの際のバイブルにします。
でも好きだ!
あと僕の誕生日に久々の更新なんて、最高のプレゼント本当にありがとう!!
しかも近くに越して来やがった!
超ふぁんです☆
ちなみに、昔からの地元住人が大家をしてるとこは他でもやってらっしゃるようでした。
日々のちょっとした事で、そんな節約も出来るかと。
梅雨が始まる前に片付けが終わると良いですね!