肉欲企画。

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1999年12月31日

日記8/9

人と酒を飲んでいると、非常に高い確率で "哲学的な命題" じみた分野にトークが及ぶ。理由は明確で、飲み始めの頃はお互いの近況であったり、過去の思い出話などに花が咲くのであるが、哀しいかなそこには自ずと限界がある。近況も思い出も、その性質上無限ではあり得ない。

結果として、少なくない数の人たちが "優しさとは?" "愛とは?" みたいな、極めて抽象的なテーゼに対する自論を語り始める。ドヤ顔で、あるいは恍惚とした表情で。

「優しさに賞味期限なんてねぇーんだよ」

すわ、ポエムか?いや、違う。先日、居酒屋で隣の席に座っていた男性がキリリとした顔で言い放っていた至言だ。その言葉が僕の鼓膜を揺らした瞬間、手の中にあったビールの温度が急速にぬるくなっていくのを感じた。

なぜ人は哲学を語りたがるのであろうか?おそらくそれは、我々が心ある人間だからに相違ない。人生を歩む中で様々な艱難辛苦を舐めた結果、僕たちは自らの内に様々な主義主張を爆誕させる。それは宗教でいうところの教義みたいなものであり、どれだけ歪な教義であっても、そこに正解・不正解は存在しない。

「優しさに賞味期限なんてねぇーんだよ」

この台詞、三親等以内の人間が発言していた場合、即座に殴り飛ばしていた可能性は否めない。なぜなら意味がよく分からないからである。だが、その言葉がどれだけチープな輝きを見せているのだとしても、彼の中で "優しさに" "賞味期限はない" という事柄、これは真実であり真理でもあるのだ。場末の居酒屋で声高にシャウトせずにはいられないほどに。

気持ちは分かる。知識欲を捨てながら毎夜の如く中性脂肪値とガンマGTP値だけを高め続けてきた僕だ。安い酒を舐めながら 「男らしさっていうのはさぁ……!」 型の宗教を叫び散らしたことも、一度や二度ではない。

だが、多感な時期を過ぎた頃から、どうにも酒の場でそういう話をしたり聞いたりすることが、おそろしく眠たく感じられるようになってしまった。具体的にいえば、飲み会も4時間を経過した辺りで、トイメンの人間から 「でも結局女っていうのはさ……」 式のタームが飛び出した瞬間

「そんなことよりチンポの話をしようぜ」

切り返すことを心に決めてある。

意外なことに、この対応はかなりの汎用性を秘めている。チンポトークに興味津々丸な人々は 「そうそう、チンポってさぁ!」と食らいついてくるし、チンポトークに興味のない (心の乾いてしまった) 人たちは 「コイツとは真面目な話はできない……」と、悲しげな顔で哲学の話を諦めてくれるからだ。まさに三方一両得である。チンポの孕む可能性は果てしない。

哲学の話が嫌いなわけではない。抽象的なことを考えるのは好きな方だし、広い意味でいえば "チンポとはそもそも一体?" というテーマ、これも一種の哲学命題と理解できるだろう。

思うに、あまりにも間口が広すぎる哲学的テーマに対して取り組むことが、ある瞬間から完全に嫌になってしまったような気がする。

愛や優しさ、あるいは思い遣りといったテーマ。これらの概念は生きとし生けるものほぼ全ての人間が享受し、あるいは触れることのできるものだ。結果として、社会を構成する99.9%の人間がそのテーマについて一家言を有するに至り、小さな小さなマイ・教義を具備するようになる。

そこまでは自然な流れであるが、インナーワールドでしか通用し得ないその哲学を取り上げ、あまつさえ酒の場で討論し始めると、99.99%の確率で泥沼と化してしまう。普段は和を以て尊しとしている柔和なあの人まで 「ノー、それは違うよ!」 と、アメリカ人のマインドで雄叫びを上げ始める。

最終的に待ち受けているのは、「まあ、価値観は人それぞれだし……」 タイプの、赤痢より価値のない場当たり的な結論ばかりだ。机の上に横たわる、からからに乾いてしまった枝豆が、展開された議論の不毛さを物語っているようでもあって。

翻って、チンポの話はどうか?これにしても議論としての間口は広いが、それでも愛だの優しさだのに比べてみれば、相対的に話者の質を選ぶといえる。持たざるもの、それは要するに女性のことであるが、彼女たちは生半には議論に参加すること能わない。もしかするとそれは "強者の論理" (チンポ所有者たちの傲慢)と評価されるのかもしれないが、それでも我々は性差というものから逃れることができない以上、仕方のないことと言うほかない。

「どうして我々のピーナス (penis) には、生得的に皮が実装されてあるのか?陰毛巻き込み型の案件は、古来より枚挙に暇がない。責任者はどこか」

この哲学的テーマ設定の場合、話者が仮(真)性包茎であることが前提であり、また、パイパンではない事実も想起できる。よって、ズル剥けあるいはパイパンである男性は議論の輪から外されることとなり、結果として議論のスケールはミニマムなものとなるわけで、その一点だけでも百家争鳴の事態を避ける可能性は増していくことだろう。誰にでも発言権がある、というのは、平等ではあるが実益に乏しい場合が多い。

「彼のチンポが勃起時で5センチくらいしかないのですが、これは一体どういうことなのでしょうか?どうにかして大きくする方法は?」

これは先日、実際に僕が聞かれたテーゼである。女性の中にも豊穣な人生経験からチンポ・トークに花を咲かせられる方もいらっしゃる。こんなとき、僕はいつでも女性ならではのヴィヴィッドな着眼点に驚かされるものだ。それにしたって、誰もが発言権を持ち合わせていた場合、相対的にその発言の新鮮味みたいなものは薄れていたことだろう。ちなみに、その際に僕が述べた回答は 「無理だ、諦めろ」と、非常に示唆に富んだそれだったことを付記しておきたい。

「私、オチンポは見たことがなくて」

このような発言であっても、僕は一向に構わない。なぜとなれば、この言葉からは "オチンポには積極的に接しない、という接し方" という、話者の生き様が垣間見えるからだ。ウォッカという酒は、しばしば 「無個性という個性」 そんなキャッチがつけられる。それと同じで、"無い" という形での "在り方" というもの、それは確実に存在する。ちなみに、数年前にこの発言をさる女性から受けたとき、僕は「生娘ぶってんじゃねえよ!なんなら今ここで人生教えてやろうか?!」 と、非常に含蓄深い言葉を寄せたものである。ブチャラティの動作で。

要するに、僕が酒を飲むときは、可能な限りそういう話ばかりをしたいのだ。人には、ときに、愛や優しさというものについて考えを深める時間が必要なこと、それについて誰かと語らい合うことが求められる瞬間があること、それは認める。

ただ、そういう話題はシラフのときにやるべきなのだ。経験則になるが、実に皮肉なことに、聞こえのいい概念を語るときに限って、人は平気で誰かのことを傷つける。自分の中の正しさを押し通すという行為は、誰かの中の正しさを否定する……という結果に至りやすい。

そんな話をつぼ八でしてはならない。

つぼ八でしていいのは、ウンコ・チンコ・マンコの話。
僅かそれだけなのである。


posted by 肉欲さん at 00:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
素晴らしい
Posted by 無題 at 2011年04月07日 13:27
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