肉欲企画。

twitterやってます。

1999年12月31日

日記8/10

昨日の日記に書いた

「『彼氏のオチンポが勃起時に5cmしかなくて……』という相談を受けた」

というのは、別に念を押す必要もないのですが、まあ本当の話でして、ただ実際に "5cmで……" と具体的な数値にまで言及があったわけではなく、彼女はただ自らの華奢な親指をクイッと持ち上げつつ(いわゆるサムズアップのジェスチャーをしながら) 「勃起時にこれくらいしかなくって……」と悲しげに、実に悲しげに物申していたわけです。要するに親指サイズ、とか、まあ、そういう感じなんじゃねえの。だったら大体5cmくらいだろ。色を付けても5.2cmくらいか。

「ご覧、アリエッティだよ」

件の彼について、己が股間を指さしつつそう言ってのけるメンタリティが備わってさえいれば。思うに議論は紛糾しなかったのだろうが、しかし現実はそうならなかった。それを悲劇と言うべきか、あるいは耐えるべき辛苦と称するべきか、いずれにせよ今の僕には判断がつかない。

「チンポはでも……大きくはなりませんからね……」

口に含んだワインがその苦味を増す。心苦しい真実を告げるとき、いつだって僕の味覚はその鋭さに磨きをかけるのだ。チンポは大きくならない。おためごかしでも何でもなく、それは、成人男子の誰もが至る真理であろう。

難儀なものだな、率直にそう思った。若年層のモラルの低下が嘆かれて久しいが、それでも多くの若者が、他者における "如何ともしがたい部分" を声高に糾弾することは少ない。例えば、身長の大小。例えば、髪質の硬軟。そういう部位を指して、「あいつって変だよな」などと揶揄する輩は、本当に稀である。

私見になるが、おそらくそれは、高年齢層に比して若年層の間ではかなり多様化した価値観が根づいたからだと考えている。様々なメディアが発達した帰結として、望むと望まざるとに関わらず、若人たちは直に眼前では知見し難い様々な情報に触れる術を得た。「こんなことあり得ないよね」という事態を目の当たりにすること、着想を得ること。そんなのは軽々に起こり得なくなったのである。

個人的な体験談から語らせていただければ、例えば僕が20前後の頃。暇にかまけてインターネットを斜め読みしていると、唐突に "爆乳小学生!" という、ひどく知的好奇心を煽る惹句が目に飛び込んできた。当時から 『知の亡者』と呼ばれて久しかった僕は、あたかもそれが義務であるかの如き所作で、マウスポインタを当該テキストへと運んでいた。

リンク先に映し出されていたのは、入江紗綾という当時まだ11歳の少女であり、確かにその胸のあたりには豊満な乳房、ヘイポー的に例えれば『カイデーなパイオツ』 がぶらさがっていた。その画像を見た刹那、幼き頃より儒教的なマインドを父から叩き込まれていた僕は、心の中で 『太郎さん (祖父の名前。他界) 、日本は、復興したんだよ』 と、虚空に向かって語りかけたものである。

このエピソードから何を演繹するのか。単純な話で、爾来僕はカイデーなパイオツを具備する少女たちを街中で見つけても、それほど驚かなくなった。ひとえにそれは情報化社会から享受した恩恵であると言えるし、仮にあの時インターネット上で入江紗綾というパイオツカイデーな少女のことを知っていなければ、僕は街中で出くわした胸の大きめな少女に対して

「君のお母さん、牛?」

悲惨な声かけ案件を爆誕させていた可能性もある。無知は罪なのだ。

やや極端な例になってしまったが、それと同じように、現代を生きる我々は 『世の中には様々な人がいる』ということを、実感を伴っているかは別としても、認識している。身近に身長が200cmある男性が存在したとして、彼に対する "コミュニティ内での特異性" を覚えることはあっても、"生物学的な特異性" を覚えることは、ほぼない。

「周りでは珍しいけど、世界にはたくさんいるよね。きっと」

相対化する術を、我々は身につけているからだ。

しかし、もしその辺りの話に 『数少ない例外』 を見つけるとすれば、チンポ・マンコ・金の話へと帰納していく。なぜか?それは、その三者はいずれも 【切迫した状況にあって、人それぞれでは済まされない問題】 へと繋がっていくからだ。

こればかりは、どれだけ価値観が多様化したとしても、変わらないのである。別に僕が下卑た心でチンポ・マンコ・金の話をしたいから、という訳では一切ない。

結果として、冒頭のチンポ・トークへと話が結びついていく。形而上の愛情だけでは解決することの出来ない問題、それがチンポを取り巻く我々の現状なのでもある。耐えて正視しなくてはならない。

身長であるとか、バストサイズであるとか。そういった要素が生み出すフェノメノン (現象) について、愛する二人に直接利害を生み出すといったケースはほとんど想像できない。ゼロではないが、相当に稀有な例だろう。例えば、彼女の乳が大きすぎてハグができない……であるとか、彼の身長が大きすぎるが故に立ちバックが出来ない……等の、そういう事例である。

だが、それはあくまでも例外に過ぎない。
僕は人外魔境の話をしたいわけではない。

チンポが小さい。
これは切実な話である。

下世話な話になって恐縮であるが、身長あるいはバストカップと異なり、チンポという器官は、有事のとき、卑近な言い方をすればセックス、に際し、機能面において一方通行であってはならない。くだくだしく説明するまでもなく、男がいて、女がいて、セックスがある。そういった各構成要素を考えれば、それは当然の結論である。

だからこそ、人それぞれではいられないのだ。
いや、確かに彼の擁する "チンポサイズそれ自体" は、身長と同じく人それぞれ的な論で片付けられる部分もあろう。だが、ことセックスの場面に立ち入れば、そこでは

【彼女の受け入れる、彼女だけの、チンポ】

現象は、そのように変容していく。

独りで生きていくだけであれば

【ただそこに植わっているだけで良かったチンポ】

しかしそれは、あの日、あの場所、あの夜に−−

【彼女と一体化すべきチンポ、インターコミュニケーションとしてのチンポ】

こうなってしまうのだ。

そこにあって、チンポの在り方。
それは決して、「人それぞれ」 という言葉で、片付けることは、出来ない。

なぜなら、彼の等身大のチンポが、あまねく現象の中で "人それぞれ(として在っていいもの)" と許容されて然るべきであるなら、その瞬間、彼女のマンコが求めるチンポ (それはある意味で、非常に狭いレンジでのチンポ)もまた、"人それぞれ(として求めていいもの)" と許容されなくてはならないからである。

そして、両者の主張する "それぞれ" が、異なってしまった。
どれだけ語らいを尽くしても、擦り合わせることが出来なかった。

これは、確実な意味での悲劇である。


この悲劇を回避するにはどうするべきなのか。それにはやはりチンポ (ないしマンコ) について、新たなる可能性を見出すより途はない。

チンポといえば、どうしても射精か排尿の場面ばかりにフォーカスが当てられがちであるが、我々はチンポに対してもっと積極的な視野を備えるフェーズに足を踏み込みつつあるのではないか。

例えば、まぁー、チンポって平常時はすごく柔らかいんですけど、だからそのー、それを一種のマスコット的なそれと捉えて、ちょっと手持ち無沙汰なときにでも、こう、ポニョ・ポニョと弄るとか、そういうのは、とても心豊かな発想だと思いますし、そこにあってチンポがso bigな感じだと、どうしてもポニョ・ポニョとはいかずブルン・ブルンみたいな様相を呈してしまうのですが、そこから逆算すれば、小さいチンポっていうのも、不思議だね、なんだかとっても愛しい。

あるいは例えば、まぁー、これを読んでいらっしゃる方に貞淑な女性とか一人としていないとは思うのですけれども、それでも一縷の望みを賭けて、もし処女の方とかいるのであれば、そのー、あまりにも小さいチンポとかである場合、初めてのイン・ザ・ベッドの状況にあっても、全然痛くないんじゃないの。それってとってもラッキーなことだと思うし、あまつさえ彼のチンポが小さすぎるがあまり処女膜が破れなかった!ということになったとしたら、その人と別れてまた違う男と付き合うに際しても、いけしゃあしゃあと

「私処女ですねん」

とか言えるわけでしょう。まさに永久機関だぜ。すげえよ。


−−そういったロジックを瞬時に頭の中で導き出した僕は、件の女性に対し、こう言った。

「小さいチンポであっても、いいところを見つけていきましょう」

そして彼女はこう言った。

「でも、どうにかしてチンポを大きくする方法はないんですか?何か、マッサージとか。思想的な話はどうでもよくて」

だから僕はこう言った。

「無理ですね」

「無理、ですか?」

「諦めて別れた方が早いです」

「ああー、なるほどー」


posted by 肉欲さん at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

メールフォーム
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。