結局さ、手マンなんてものは慎重かつ正直なコミュニケーションありきのものでしょ。一方通行の行為なんかじゃなくて、双方向の肉体言語なわけでしょ。その前提も踏まえずして手マンを語ったって何らの意味もなくなっちゃうじゃない。そんな世界なんて無味乾燥で殺伐とし過ぎているじゃない。
「あちゃー。肉欲のやつ、とうとう……」
と苦々しい気持ちを抱かれた皆様、待ちたもれ。別に僕は伊達や酔狂で手マンのことを論じようとしているんじゃあないし、僕が日記に書く内容にはいつだって意味がある。意味がない時以外は、絶対に意味がある。信じて欲しい。
野に咲く一輪の花と、手マンと。両者の本質的な相違点はどこにあるのか?と問われたとき、皆さんのほとんどは高い確率で言葉に窮してしまうだろう。迸る生命力を誇示しながら植わっている草花。対して、凛とした躍動感と共に繰り出される手マン。 "生命力" "躍動感" という観点からすれば二つの存在は非常に近しい存在だと言えることになるし、だからこそ、僕たちは野草と手マンとの間に峻厳たる区別を与えることに困難を見出すのだ。
この時、皆さんから 『そもそも生物としての区分が違う』 という反論が上がることが予想される。しかしながら、そんなものはマクロコスモス(大宇宙)的視点からすれば実に瑣末な問題に過ぎない。対象が野花であるか人間であるかの別など、大きな流れの中では大した意味を持ち得ないのだ。
そのように考えていくと、ここに一つの仮説が立ち上がってくる。
『ややもすると野に植わるカスミ草と、我々の手マンとは、観念的なレベルにおいて同一の存在と解されるのではなかろうか』
もちろん、手マンとは行為、事象、あるいは現象のことであって、物質・物体であるカスミ草とは自ずとその孕んでいる概念を異にしている。だが、そんなものはただの言葉遊びに過ぎない。なぜとなれば、手マンそれ自体は確かに現象ではあるものの、何もない場所から唐突に手マンという現象は生じ得ないからだ。
手マンが生まれる場所、そこには必然的に誰かの身体の存在が要求される。要するに我々という意思ある個体抜きにして手マンは発生し得ない、故に手マンは現象でありながらも物質・物体たる我々の存在と連続性を保ち続けており、その意味からすれば手マンを物質・物体的側面から捉え直すことも、当然に可能なのである。
だからこそ、手マンとカスミ草とは極めて密接に関係にある……と言わなくてはならないのだ。それがそれとしてある、手マン。それがそれとしてある、カスミ草。理屈は抜きにして、原初の時代から "そう" あるもの――仏教はこのような在り方を指して『タットワ』(tattva:それがそれとしてあること)と称した。
要するに、大局を踏まえて見たとき。
手マンも草花もそう大した違いはない――永くの間、通説はそう指摘し続けていた。手マンに対し固有の意味を、認めてこなかった。
しかし近時になって、この通説は崩される。
ある時、一人の学者がこう提唱したのだ。
「いやいや(笑)手マンと草花は全然違うでしょ(笑)」
学界に、激震走る――
なぜならばその主張は、荘子の教えである万物斉同(万物は道の観点からみれば等価値なのである一つであるという思想)という概念を根底から覆さんとするものであったからだ。
当然、学界はこの主張に猛反発を示した。
しかしその反論は、同じ学者から提起された再抗弁により完璧に封殺されることとなる。曰く
「いやいや(笑)だって草花には手もマンもないじゃないですか(笑)」
学界に、電流走る――
完全に虚を衝かれた格好になり、諸学者たちは色を失った表情を浮かべた。草花に、手は、ない。それは当たり前の事実であった。しかしそれは、皮肉なことに、当たり前であり過ぎたがため誰しもが見落としていた、見失っていた。大事なことが、見えなくなっていた。
それでもなお、諦めきれなかったとある学者は、重々しい口調で言葉を紡ぐ。
「……本当に草花界に手マンが存在しないと、そう断言できるのか?1%の例外もなく?」
議事堂を厳粛な沈黙が支配する。しかしそれも少しの間のことで、すぐに場内からは 『そうだそうだ!』 『草花に手マン、あっていいじゃないか!』 『お前に草花の何が分かる!』 『金返せ!』 などの怒号が飛び交いはじめた。
(麒麟児の奇説もここまでか)
誰もがそう思った。それでいいと考えた。無理に通説を捩じ曲げる必要などどこにもない。旧態依然とした状況を揶揄する輩もいるが、世の中には変わらない方が良いものも数多存在する。
草も木も、オケラもカマドウマも僕たちも、手マンも。あらゆる存在は全にして無なのだ――
だから、議論が妥結しかけた、その刹那だったのである。
「お父ちゃん」
「せ、節子?!せつこーーーーーー!!」
「お父ちゃん、草花も、うちのアサガオも、手マンするん?手マン、するのん?」
「せつこ、せつこーーーーーーーー!!」
麒麟児が、場にジョーカーを登場させたのは。
「皆さんが "そう" 信じるのならば、確かに "それ" は "そう" 在るのでしょう。それは認めます。しかしそのロジックを親に、伴侶に、あるいはご令嬢に!果たして、主張できるのでしょうか」
「うちがせっせとせっせと、毎日水をあげたったこのアサガオも、朝な夕なうちの知らんとこで、手マンしとったんやね……」
「違う、違うで!!せつこ、そうやない!!」
「何が違うのん!ガマも仁丹もひやひやひやの樋屋奇應丸も!!全ては同じもんやって、皆一緒なんやって、お父ちゃん、そう言うたやんか!!やからアサガオやって手マンしとるんや!いいや違う、アサガオが手マンなんや!!うちも手マンや、うちが手マンや!!せつこはせつこちゃう、手マン子なんや!!」
「せつこ、せつこぉーーーーーー!!!」
見れば、議事堂内には数人、数十人、いや数百人もの子供が押し掛けていた。その子供たちは口々に叫ぶ。俺が手マンだ、私が手マンだと、学者の前で、次々と次々と、いつまでも押し寄せる波のように。
気付けば、誰もが泣いていた。
子供を抱きかかえながら、謝罪するように、あるいは、祈るようにして、泣いていたのである。
その光景を、しばし醒めた目で見つめてから、麒麟児はゆっくりと口を開いた。
「皆さん。どうでしょう、そろそろお認めになっては」
水を打ったような静けさが空間を定義する。嗚咽の声も、洟をすする音も、既に止んでいた。
「あらゆるものは同一である、事象も現象も、丸ごと全て同じことである――そんなものは詭弁なんだ。そんなものは、あなたたちの弱い心が生み出した幻想に過ぎないんだ」
ある者は俯き、ある者は頭を抱え、ある者は麒麟児をじっと正視する。しかし、彼の言葉に口を挟もうする者は、もう誰もいない。
「僕たちにあって草花にはないもの。それは "相手を思い遣る気持ち" です。それはとても陳腐な表現で、抽象的で、学術的には何も意味を持たない概念かもしれない。しかし、それでも……僕は言いたい」
「僕たち人間は、意思ある存在だ。意思があるからこそ、誰かを愛し、誰かに手マンを、する。"そのような存在" であるところの僕たちと、草花との違いを認識すること、それは "誤った差別" などではなく "正しい区別" なのではないでしょうか」
「始めましょう、正しい手マン認識を。手マンは自然発生的なものなんかじゃない、万物に等しい行為事象なんかじゃない。心ある人と人との間にのみ許された、愛のある営みなんだと、そのことをきちんと理解していきましょう」
議事堂内に再び嗚咽が木霊し始める。
皆、被害者なのだ。
かつて手マンを体験し、けれども己が不手際ゆえに相手から詰られ、責められ、距離を置かれた。そういう人たちなのである。
『あなた、下手ね』
その言葉の前に傷つき倒れた、英霊たちなのだ。
だからこそ。
彼らは自らへの鎮魂歌として――通説を紡ぎ上げた。
『手マンに上手いも下手もない。そもそも、万物は同等なのだ』……と。
『俺も手マン、お前も手マン、すべてが手マン。それを下手と言うのであれば、それはそもそも、森羅万象における構造的瑕疵なのである』……と。
「俺は、間違っていたのか」
麒麟児は目を瞑り、首を横に振る。
「正しいとか間違いとか、そんなのはどうでもいいことです。大事なのは、ただただ "善く" あることでしかありません」
「"善く"?」
「誠実さ、と言い換えてもいい。要するに、『下手だ』と言われるのであれば、その事実と向き合う。相手と対話を重ねる。ないし、自学自習に励む。無理矢理な自己肯定はしない……そんな、単純な話です」
思い出す、あの日のことを。
新宿のつぼ八で、彼女が泣き叫びながら 『キュウリもいい、茄子も我慢する、でもトウモロコシはやめて――』 と私に懇願した、あの夜のことを唐突に、鮮明に、思い出す。次の日から同級生連中から 『もろこし輪太郎』 と呼ばれ始めたあの朝のことを、思い出すのである。
「今日、この日から。新しい世界が始まりを迎えます。誰もが互いに手マンを高め合い、批判し合い、そして認め合う、そんな世界が、始まるのです!」
「スパシーバ!!」
「コングラッチュレーション!!」
「ブラーヴォ!!」
「ばんざーい ばんざーい」
場内に万雷の拍手が鳴り響いた。
手を叩きながら、誰もが泣いていた。泣きながら、笑っていた。
麒麟児も泣いていた、笑っていた、嗚咽を上げていた。
「始めましょう、僕たちで、否、皆で!さあ皆さん、ご唱和下さい!」
そこで言葉を止め、うやうやしく全体を見渡すと、深く息を吐く。
ああ、ようやく誕生を迎えるのだ。新しい社会が、世界が、あるいは、宇宙が。
――物語が、始まる――
「手マン、ルネッサンス!」
【19○○年、ヴァチカンにて行われた第42回WHC(*)の議事録より抜粋】
*World HandJob Conference
■追記(ある識者からの提唱)
本日、僕が以下に書き記す文章は、 肉欲氏から「手マンの極意を御伝授頂きたい」というオファーを受けてしたためたものである。
皆様方の中には僕の事を「オレイズムのヨッピー」「オモコロのヨッピー」として認識してらっしゃる方も多数含まれていると思いますが、 今日はそういった認識をすべて捨て去り、 僕の事を「手マンの鬼」、つまり、「マン鬼(まんき)」と呼んで頂きたい。
〜マン鬼が語る至高の手マン〜
○至高の手マンとは男と女が共同で作り上げる芸術作品
まず私、マン鬼が肉欲氏の該当記事、及びそれに寄せられた多数のコメントを拝読して真っ先に思った事。
それは「女性の、手マンに対する意識の低さ」であります。手マンに対してされるがまま、男性側のスキルにまかせっきりの完全なる受身体制を取っている方が余りにも多い。
中でも「痛いけど演技してる」などという発言には大変驚いた。こういった行為に心覚えのある方は猛省して頂きたい。
「手マン」という単語から連想されるイメージとして、
男性が一方的に「する」ものであり、女性が一方的に「される」ものだという認識がまかりとおっておりますが、 これは明らかな間違いです。何故なら究極の手マンとは男と女が二人で作り上げるものだからだ。
たとえば貴女が足を捻挫して病院に行ったとしましょう。
その際、貴女を診察するお医者さんは、足の色んなポイントを触ったり、曲げたりしながら、 「ここは痛いですか?」「これは大丈夫ですか?」などと聞いて来るはずだ。
それに対して、本当は痛いのに「大丈夫です」などと答えたり、 全然痛くない場所なのに「そこが痛いです」などと返答したら正常な診察が出来るはずがない。その結果見当違いな処方をした医者に対して「あいつはヤブ医者」などという烙印を押す人間が居たらそいつはただのキチガイである。
「演技する」という行為はまさにこれと同じだ。
「痛いけど演技してる」などと言ってのける女性に、その男性に対して「ヘタ」という烙印を押す権利は無い。
もう一度言いますが、至高の手マンとは男と女、二人の協力があって初めて成立するものなのです。
男性が運転手なら、女性は地図を持ったナビゲーターであり、 貴女が上手に導いてあげないと我々男性陣は至高の手マンの頂には辿り着けません。ここのところをしっかりと認識して頂きたい。
○手マンの心得
次に男性諸君へ。
君達が「至高の手マン」の大いなる頂にたどり着く為に必要な事を今から述べる。
・爪は短く、清潔に
今更言う事でも無いのかも知れないが、「短く、なめらかな爪」というのは「至高の手マン山」への入山許可証のようなものだ。これが備わっていない人に、手マン山の頂を目指す資格は無い。
短く切るのは勿論、ヤスリがけも忘れずにしておこう。
その際には、爪切りの裏についているギザギザの部分を使うのではなく、ネイルアートに使う女性用の爪ヤスリを使うと良い。高いものでも無いので一本くらい自分の部屋に常備しておく事をお勧めする。使い勝手も良く、早く綺麗に磨けるのだ。
・摩擦では無く振動で
女性器の中への愛撫は、「こする」のではなく「ノックする」事によって行う。
それぞれのポイントを、「トントン」とノックする事によって快感を高めていくのだ。これを「こするものだ」と勘違いしている人は結構居るんじゃないかと思う。
女性器内の「気持ち良い」ポイントは、直接指で触れられる範囲には無く、皮膚よりも下のもっと深い層にあるのだ。
だからそこの部分まで届くように深く、刺激を与える為には、皮膚の表面をなぞる「摩擦」では効果が薄い。それに「摩擦」によって手マンを行う場合は、高確率で痛みが伴うし、下手をすると粘膜を傷をつけてしまう事に繋がりかねない。人間の肌は「振動」に強く、「摩擦」には弱く出来ているのだ。洗顔した後に、顔をタオルでゴシゴシとこするのではなく、ポンポンと叩くようにして水分を取りなさい、と薦められるのも同じ理由から来るものだ。
女性器への愛撫は摩擦では無く振動で。
指を出し入れする必要はまったくない。
・「触診」の意識
もう何度も体を重ね合わせ、感じるポイントを全て知り尽くしてる、というくらいの間柄なら必要ありませんが、二人にとってそれが「はじめての夜」だった場合、医者が捻挫した患者に対して触診している、くらいの意識で接するといいでしょう。
良く言われる「感じるポイントは女性によって違う」というのは本当で、しかも我々の持つポコチンのように外側に露出しておりませんので、我々は真っ暗な中を手さぐりでその「ポイント」を探さなければなりません。これは相当に至難の技であります。
じゃあどうすれば良いか?
答えは簡単。相手に聞けばいいのです。
お医者さんが「こうすると痛い?これは?」と聞くのと同じように、ポイントを少しづつずらしてノックしながら、「こっちとこっちならどっちが気持ち良い?」「じゃあこっちとこっちなら?」という具合に聞いていきましょう。
童貞諸君におかれましてはたいそう時間がかかると思いますが、ある程度経験を積むと「大体この辺にある人が多い」ってなくらいにはポイントを絞れますので、そんなに時間もかからないはずです。
更に女性が顔をしかめた場合は気持ち良いか痛いかのどっちかですので、その時も「痛かった?大丈夫?」ってな具合に質問し、「痛い」というポイントが無いかどうかも平行して探っていきます。
・・・
・・
・
(非常に残念なことに、これ以降の資料は未だ見つかっていない。というか、率直にいえば私が3月の時点で「ヨッピーさん!手マンについて熱く語って下さいよ〜」と揉み手でオファーしたところ、氏は「よしゃ!すぐに書いたる!」と快諾して下さり、本当にすぐにこの文章を寄越して下さったのだけれども、当の私が今日の今日までこの文章のことを完璧に忘れていたため、氏も以降の論文を執筆されることなく、このように不完全な形の発表と相まってしまった。もちろん、誰が悪い、という話ではないのであるが、強いていうなれば、世間が悪いと言うほかありますまい。ありますまい)
・・・
いやー、すげー久しぶりに二日連続更新した。
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読ませたい…
まじまじと読んでしまいました。
そんな私はコンジローマになってしまい、しばらく本番はご法度なので当分彼氏の指にお世話になります。
男性も女性も、自身の性器を月に一度は手鏡片手に観察するよう心がけた方がいいと思いました。
特に、彼氏・彼女が変わったりした場合には重要。
尻もたたけばたたくほど
柔らかくなりますからね
やっぱり拒絶する事は言いにくいからねぇ。
しかし「ノックする」は為になりましたm(_ _)m
深けぇー!
全米が泣いた。
チクショウ
ただ、当方マン鬼のツメが伸びているのをみた事があります。
アホだわあんた
ゆっくりする出し入れもきもちいいです
「いれられてる」感がするので
このトピック大変参考になりました
せつこ