時あたかも夏本番、老若男女を問わず夏といえば即座に 「飲尿・食糞の季節だ!」 との連想を抱かれることと推察いたしますが、皆さんにおかれましてはどのようなスカトロ・ライフをお送りなのでしょうか。
電通・博報堂などの大手広告代理店による誤ったイメージ戦略の結果、世間一般では 『スカトロ=何だかよろしくないこと……』 といった印象が定着しつつありますが、それが健全な結論ではないこと、聡明な皆さんは十全にご理解されていることと思われます。
"愛" の対義語は "嫌い" ではなく "無関心" である――マザーテレサが残したとされる至言も示す通り、僕らが真実真正な意味で誰かを愛した場合、その対象に向けて並ならぬ関心を抱くのは当然のことであり、その考え方をとことんまで突き詰めれば、当然彼(ないし、彼女)の生み出す排泄物、これにだって無関心じゃいられない。
「ウンコまでも愛したいんだ、俺は!」
言葉にして見ると相当にクレイジーなこのシャウト、しかしこのセリフが意味するところをロジカルに読み解けば
「汚い部分までも丸ごと大好きなんだ、汚れっちまったお前だって愛しているんだ!ウソじゃない!」
こうなることは自明であり、そこにあってコウンだとかpissなどの表面的なタームに囚われ、あまつさえ 『やだ、あの人ってば暑さで頭がどうにかしちまっているんじゃないのかしら……』 との認識を抱いてしまうこと、甚だ理不尽なお話であります。
また、古来から伝わっていないとされる "沈黙は金、大便は銀" という格言も示す通り、百万の睦言よりも一本の野糞が放つシャウトの方が遥かに意味深な場合、あります。例えば、朝起きて何だか体調が優れない……という際に、口頭で 『あなた、何だか今日は体調が悪いの』 といった趣旨のことを伝えても、あなたが日ごろからウソつきであれば
「どうせ仮病だろ?さっさと朝飯作れよ!!」
という、非常に悲しい結末を導きかねません。言葉というものは、それが外部に現れた時点から発話者の手を離れ、結果としてその解釈の全てを受け手 (この文脈では旦那) に委ねなければならない――という宿命を背負っているからです。言葉は、残念なことに、万能では有り得ないのです。
ウンコはどうか。実のところウンコは言葉ではないため、ひとたび外部に露出してしまったからといって、その意味するところを受け手 (この文脈では旦那) が自由に解釈して良い、ということにはなりません。放たれるカラーやスメル、あるいはデザイン。それら全てが相まって、揺ぎの無い "確定的な真実へ" と収束していくことでしょう。
「あなた、これ、今日の便を見て欲しいのだけれど……」
「ワイフ、今日は僕が朝食を作るよ」
如何か。言葉では全く伝わろうとしなかったものが、コウンを一瞥しただけでしっかりと伝達されるという、この現実。愛する人だからこそ、その体調までも丸ごと把握しておきたい!という僕たちの本音。そこから導き出される答は、確実に 『毎朝のように愛する人の便を確認しておきたい』 という、純愛のリリックなのです。よろしいかな。
これらのことは、冷静かつ理知的に状況を整理すれば、あまりにも自明な真実ではあるものの、世の中にはしばしば理解力に優れない方も存在するわけであり、彼らを前にしてついうっかり 『僕は愛する人の便まで愛したい』 型の表明を行ってしまうと、光よりも早く
「何この人!?ヘッドがクレイジーなのかしら」
式のアンサーをぶつけられること請け合い。僕らも誤解されたままではたまったものではないので、そうではない、己が欲求をいたずらに満たしたいからではなく、愛すればこその行動なんだ!愛しているから便が見たい!といった理屈を能弁に語るも、時すでに遅し。『あの人は専ら自己の性欲・射精欲を満たしたいがために彼女の大便を閲したがる金髪糞野郎に違いないわ』 という印象を抱かれてしまいます。これを悲劇といわずして何を悲劇と形容すれば良いのか。
それでも、どうでもいい他人に誤解される程度のことなら、まあ辛くはないとは言いませんが、まだ我慢もできましょう。しかし、愛する彼 (ないし彼女) にあらぬ誤解を抱かれてしまえば、どうか。
「君の便が見たい」
「法廷で会いましょう」
自害すら辞さない構えです。お仕着せの愛が疎まれることは当然ですが、この場合相手のことを思った末の "敢えて" の検便なのであり、そこを理解されないままパートナーに訴追をカマされては、世を儚むほかありますまい。かつ、残念なことにこのケースにおいては、『どれだけ自分があなたの便を見たいのか』 ということを熱便、もとい熱弁すればするほど、相手の側から 『やだ、この人の大脳新皮質は軒並み腐ってしまっているんじゃないのかしら』 という感想を抱かれてしまう結果となってしまいます。これを惨事といわずして、何を惨事と形容すれば良いのでしょうか。そのあたりのこと、今の僕には理解できない。
ここまで丁寧な説明を施せば、皆さんの側でも 『ああ、コウンを閲されることって、何も特別なことではないのだ』 ということを、言葉のみならず 「心」 で理解できたと思われるのですが、この議論は何も大便のみに当て嵌まるわけではなく、もっと広くお小水、放屁、ケツ汗、女子高生が裸足で履いていたローファーから放たれる悪魔的なスメル、浴衣姿の掘北真希さんがにんにくラーメンチャーシュー抜きを食べた後に吐き出す荘厳なるゲップ、なども対象に含まれるわけで、なぜとなればそれら全ては "身体の調子が悪いほど、臭い" という点において共通しているからです。
もしも大好きな片のワキ部分から、漁港並みのフレイバーが漂ってきたとすれば。あなたが理性的であればあるほど 『あの人の危険が危ない』 ――そのような考えに至ることでしょう。
"あの時に、もっときちんとケアしておけば!"
"失くして気が付くいつでも!"
……誰しもが、一度はこのような想い抱いたことがあるでしょう。大切な人は、いつだって気づかぬ内に僕らのもとを去ってしまいがちです。なればこそ、大事なあの人のお小水を、ヘソのゴマを、耳垢を――全て、チェックしておきたい。もう二度と後悔しないためにも。そのような結論に至ってしまった人を、一体誰が責められるというのか。責められるというのか!
だからそういう時、ですよね。僕が恋人の大便を見たいと思い、結果としてトイレの鍵を十円玉でこじ開けて 『ウンコを見たい。見せれ!』 とシャウトする刹那っていうのは。僕はいつだって不器用だから、生身の現場だったら能弁ではいられないから、上述したような理由を全部をはしょって、彼女に大してシンプルに
「ウンコ ナウ」
的なことを要求するのだけれど、言葉はいつだって無力だったよ。罵倒され、叱責され、時には殴られることさえ、あったよね。その時々に、僕は強くこう思った。愛って、何かね――そんなことを、祈りながら、願いながら、時に哀哭しながら。僕はあの夜、銀河に瞬く幾千の星に向かって。
という論理で以て無理やり大便拝見派・大便友愛派を擁護しようという試みの副産物が今日の日記なのですが、正直に申し上げてどう考えても詭弁でしか有り得ず、また、冒頭に掲げた 『夏、まさにスカトロの季節』 的な一節を書きたいがために延々と文章を紡いではみましたが、どう考えても好ましい人に対して 『ちょっとウンコを見せて欲しいのだけれど』 と言った瞬間に娑婆よサヨウナラ、実刑よこんにちは、となるであろうことは確実でありますので、真っ当な人生を歩んでいる皆様におかれましては、万が一 『彼女の排便シーンをこの目に収めたい』 という想いが胸に生じたとしても (それは例えば彼女がハードな排便する際に顔面の造形が女優・ハーマイオニーさんに酷似する病気を患っている……という事実が露見した五分後、など) 、それを口頭で伝えるのはあまり得策ではありませんので、避けた方が無難な案件です。
なお、個人的な感想としては、彼女の排便シーンを覗こうとする⇒それがバレて烈火の如くキレられる⇒土下座をして謝る⇒もう、仕方のない男(ひと)ね……⇒セックス、という流れまで込みで一種のプレイ、という風に位置づけておりますので、これまでも、そしてこれからも、別に愛する人のウンコそれ自体に興味があるわけではないけれども、果敢に彼女の排便シーン、ないし放屁スペクタクル、これらの瞬間を飢えた獣の如き目つきで狙っていこう、そのように考えております。
人生を豊かにする要素みたいなものがあるとすれば、結局、そんな感じの激しいパッション、言葉では説明できない迸る情熱――そういうものに尽きるんじゃないかな、と、小生愚考する次第であります。
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うける。
というか今時スカってないのって肉欲さんだけデスよ。
みんながしてることを、さもスゴイことのように言ってしまう男の人って…。
あっ、ボクのブログへのアクセスを稼ぎたいのでURLを貼っておきました^^
ちなみにうんこっていう言葉の響きと汎用性の広さが好きです。
ウンコをしたとき貴方は素の自分を解き放つ賢者になれよう。
肉より糞だろ。
ウンコをしたとき貴方は素の自分を解き放つ賢者になれよう。
肉より糞だろ。
このブログは、狂うとるで。
と思った僕でも勇気が持てました