先日某ショッピングモールの中で用を足すべくトイレ(和式)に駆け込むや否や、僕の膝先あたりから川のせせらぎライクなサウンドが流れ始めた。すわ、妖魔の仕業か、と思いつつ辺りを確認してみると、そこにはトイレ用擬音装置・商品名『音姫』が鎮座ましましていた。
絶え間なく流れる川のせせらぎ音を鼓膜に受け止めつつ、僕の肛門が激しいビートを刻み続ける。いつしか穏やかなせせらぎ音は何の断りもなく鳴り止み、後に残ったのは、そう、マイアヌスから放たれる激しい自己主張の残滓ばかり。
狂ってやがる。菊の辺りから青春の燃えカスを垂れ流しつつ、僕は確かにそんなことを思った。
自分の放つ便の音を聞かれたい!そんな欲求を抱く方が絶対にいない、とは言わないが、おそらくそれは極めて限られたカーストに所属する人たちだけに顕著な心のシャウトであろう。
通常の精神を有する方であればなるべく自分の便音を聞かれたくない……と願うのが当然だろうし、あるいは誰かから 「あなたの便音を聞かせて欲しいんだけど」 と水を向けられても、100%の確率で拒絶することと思う。
ただ理性が、あるいは心が、どれだけ強く 『自分の便音を聞かれたくない!』 と祈ったとしても、我々が自分たちの便音を根こそぎ消失させること――それは不可能である。身体の構造がそれを許してくれないのだ。
幼なかったあの日、皆さんも一度くらいは 『自分の体から痛覚がなくなってくれないかな』 的な想いを胸に抱いたことがあるのではないだろうか。痛みという感覚は、辛くて苦しい。痛みなんてこの世からなくなってしまえばいい!……僕自身、虫歯や切り傷に苦しめられる度にそんなことを思ったものだ。
そんなある日。僕は『ドラえもん』のとあるエピソードの中で、印象的なメッセージと出会うことになる。
「『痛い』という感覚が消えることは、大変なことなんだよ……もし、人間がなんの痛みも感じないままだったら、怪我をしたときにも気づかない……病気だってことにも気づかない。そして、もっと恐ろしいことは『心の痛み』もわからなくなってしまうことなんだよ……」
(てんとう虫コミックス25巻収録 『ヘソリンガスでしあわせに』 より引用)
無知蒙昧だったあの頃、僕は目の前にある "痛み" という辛さ・苦しさを 『意味のないもの、無用なもの』 とし、その根絶を願った。しかしドラえもんは、あるいは藤子先生は、その考えに対してきっぱりとNOを唱えて下さった。もちろん当時、メッセージの真意を完全に理解したわけではなかったが、とにかくも 『あらゆる痛みには総じて意味があるんだ』 ということを、おぼろげながら理解することはできた。
そしていま、僕は思う。
便音も同じことではないだろうか、と。
痛みにせよ便音にせよ、そこには必ず固有の意味が潜んでいるのではなかろうか、と。
例えば世の中から全ての便音(ないしそれに付帯する放屁エフェクト)が霧散してしまえば、どうなるか。
放屁、あるいは排便には常に緊張感が伴うものだ。授業中・就業中・通勤中における放屁など特に顕著であるが、あれらは人生における数少ないクライマックス・シーン、生きるか死ぬかの局面、まさしくデッド・オア・ダイのスペクタクルと言っていい。衆目を浴びる中、生半可な気持ちで放屁をカマしてしまった場合、社会的な意味での死を迎えてしまいかねないのである。
なぜか。我々が屁をひる際、8割以上の確率でキャッチーなサウンドが漏れ出るからだ。そのポップでキュートなララバイは、瞬時にあなたの隣人の鼓膜をノックし、遅れて後、温泉街のスメルが場を支配するからだ。ごく簡単にいうと、音が出て臭いから、ということである。
放屁、それは生理現象の話であり、本来であれば 『屁くらい仕方がないよね』 という形で優しくそして暖かく迎え入れられて然るべきシーンだ。しかし我々の取り巻く社会は、そのようには成らなかった。屁を、排斥した。
そこには、しかしながら、明確な理由が眠っている。屁は、臭い。世の中には "ケミカルウェポン" の名に相応しいレヴェルにまで高められた屁も存在する。社会の中に生きる僕たちは、常に 『周囲に対する配慮』 を意識するよう強いられるているが、そうであればこそ、屁の来し方行く末には強い注意を向ける必要がある。屁が臭ければ、臭いほどに。
かくして、我々の中に 『屁はタブー』 という鉄の掟が誕生した。
紀元前2世紀頃の話である。
話を少し戻して。
そのような前提を踏まえつつ、では、仮に我々の放つ全ての屁がノー・サウンドであったらば。一体世の中はどうなっていたであろうか。
その場合、確実な意味でテロ国家が産声を上げることになるだろう。
・・・
音もなく忍び寄る刺客、誰もその存在に気が付かない!
そして気づけば鼻腔を貫く別府のスメル!
教室は、職場は、阿鼻叫喚の坩堝に陥った!
そして始まる魔女裁判、誰かが叫んだ――「犯人は、屁ロリストは誰だ?!」
罪なき弱い者は順番に裁かれ、真に断罪されるべき歪な強者は高らかに笑う、哂う、嗤う!
いつしか皆は、悟った――
放屁、それは生存戦争なんだ、と――
制作費100億円!全米がこいた!ハリウッドの放つ超巨編歴史大河時空ラブロマンスパニックホラーノンフィクション 『屁怨 -the HEON-』 間もなく公開中止!
・・・
一体僕は何を言いたかったのか?要するに 『屁音が存在することによって救われる人もいる』 という話である。
全ての屁から音が奪われてしまえば、僕たちの周りでは濡れ衣のような放屁が横行してしまうだろう。『俺がこいてしまった屁、だけど誰にも聞こえてないのだから、アイツがこいたことにしてしまおう……ムカつくし……』型のイジメが全国で流行するであろうことは、想像に難くない。それはひどく切なく、恐ろしいまでに乾いた、世の中の実像。
『痛みの存在意義、それを知らなければならない』
あの日のF先生の言葉に倣わせてもらえるならば、僕はこう言いたい。
『便音の理由、それを認識しなければいけない』
便が出て、音が出る。それは皆さんからすれば、特に女性の方々からすれば、心苦しい現実なのかもしれない。できることなら便の音なんてなくなって欲しい!様々な経験の果てに、そんなことを思った淑女もおられることだろう。
けれど、覚えておいて欲しい。
あなたの放つブボ音、そこには確実に "何か" の意味があるのだということを。その音によって守られている "大切なもの" が、確かにどこかに存在しているのだということを。
恥ずかしがるなとは言わない。
だが、目を背けてもいけない。
僕たちはがヒトとして生きていく以上、絶対に便音から逃れることはできないのだから。
老若男女を問わず、それは等しく。
ここでようやく冒頭部分に話を戻したい。
僕たちが便音・屁音から逃れることができないのは確かであり、だからこそ 『せめてその音を聞かれないようにしたい……』 という願望が生じるのも理解できるが、その結果至った境地というのが、何ですか。
【川のせせらぎ音で便音を誤魔化しちゃえ★】
川に謝れよ……ええ?!お前らなぁ、ホントここでハッキリ言っておくけれども、そうやって川のせせらぎで便音を消さんとしているアンタら、長良川ライクなサウンドで全てをない交ぜにしようと目論んでいるお前さんたち、おまはんらは木こりを何だと思っているのか。マタギに申し訳が立たない、とか一度だって思ったことはないのか。僕は声を大にしてふざけるな、と言いたい。
まあよくよく考えてみれば木こりとかマタギとかは今回の日記に一切関係がないのだけれども、とにかく。僕が申し上げたいのはシンプルな話で、もちろん 『便音は恥ずかしいです♪』 というキュートな乙女心(時に男心)は理解するけれども、その心情、そもそも論で考えれば
『ブボ音がする⇒ウンコをしているのがバレる⇒それは避けたい』
という因果経路の末に生まれたのでは、ないのだろうか。であるならば、僕たち私たちが真に心に抱くべき事項は
『ブボ音を消したい』
という趣旨のことであるはずだ。
間違っても
『川のせせらぎ音でブボ音を誤魔化したい』
こうはならない。
いや、なってはいけないのだ。
なぜかと言えば、現在の 『とりあえず川のサウントで便音を誤魔化しちゃえ!』 式の風潮を押し進めれば、あるいは、僕の考えによれば、このままいくと
『トイレから川のせせらぎ音が聞こえます⇒私してます、ウンコを、全力で』
こうなるからである。要するに意味がないのだ。ブボ音が消えた代わりに、川のせせらぎ音が新たなるウンコ・シグナル、大便の符丁へと転化してしまっているのだ。
「それは暴論ですぅ!!確かにせせらぎ音が響くことで『あっ、ウンコしてるんだ……』ってことはバレるかもしれねーですけど、それでもブボ音がトイレ中に響き渡るよりはマシなんですぅ!!」
黙れこのジャンクが!!いいかよく聞け、世間が言わないなら俺が言ってやるけどな、本当の意味で切羽詰った場合のコウン、二年に一度くらいは確実に訪れる魂のビッグウェーブ、正に "地龍" の名に相応しい境地の恐るべし大便、そういうスペクタクルにおいて、あんなチンケな川のせせらぎ音なんてものは児戯よ児戯。意味がないんですよ。川の流れる音でジェットエンジンの爆音を掻き消すことができるわけがねーんだ。
そのレベルにまで至らずとも、往々にして我々の便音量なんてものは川サウンドのそれを凌駕している場合が多いものである。それは僕が男性であるからこその感想なのかもしれないが (現に先日、公衆便所において、僕のバック・イン・ザ・USSRから極めて激しい便音が木霊してきたものである。そう、人工的な川のせせらぎを突き破りながら――)、冷静に考えてみれば女性だって同様であろう。いや、ことによると女性の方が優秀な作曲家である可能性だって否定できない。そうである場合、あの川のせせらぎ音なんてものは、本当に無意味なのである。
とはいえ、僕は何も企業バッシングをしたいわけではない。ただ、もしも真実の意味で便音を亡き者にしたい……と願うのであれば、もっと別なアプローチもあるのではないか?と、提言したいのだ。
・甲子園のファンファーレ
いいじゃない。かっとばすぞ!という気持ちが心の底から湧いてきそうである。
・ソーラン節
いなせじゃないか。腰の重い便秘も思わず裸足で駆け出してしまうに相違ない。
・『もうダメッ!ウンチ出る』のコピペ
若本規夫さんのシャウトを添えよう。自分は一人じゃないんだ……という暖かな想いが全身を包み込むだろうね。
他にも様々考えられるが、とにかく 『川のせせらぎが全てじゃないだろう』 ということだ。このままでは【川べり=ウンコ】という誤った認識を全世界に向けて発信してしまいかねない……という点も看過できないところである。
だが、僕の本音はもっとフランクだ。
思うのだが、そもそも我々がトイレに赴く状況にあっては、正味の話
ウンコをするか/しないか
この二択しか存在していない。換言すればトイレでウンコをしていない瞬間以外、誰もがトイレでウンコをしているのである。
食卓でウンコをカマせば大問題であるが、トイレでウンコを産出する行為に、誰が疑義を差し挟むことがあろうか。だからそう、トイレでウンコをしても、あるいは音なんて消さなくても、大丈夫。僕は気にしないよ。なぜならそれは自然の摂理なのだから。僕たちは人として生きているんだ――という、確たる証なのだから。
排便、それは我慢や諦念の中で行われるべき行為ではない。
漫画家・さいとうたかおは著作【サバイバル】の中で、次のようなことを言った。
「孤独な生活の中では排便も重要な娯楽である」
"許された" はずの空間の中で、どうして誰かに気兼ねをする必要があろうか。あるいは音を消すことで何がしかの体面が保てるのだとしても、その際に抱くであろう 『欲求のままに排便することができなかった……』 という精神的な損失は、一体どれほどのものになるのだろうか。
ならばこそ、僕は。
音を消さずに堂々と、凛として雷雨のように、思うままコウンを産み落としたい――
そんなことをあの日、確かに博多のトイレの中で、思ったのである。僕は確かに、しみじみと腰を落としながら、独り個室の中で。
芯で拭うかチラシで拭うか、そのことだけを思い悩みながら、あるいは、そらに祈念しながら。(ソラリアプラザさん、紙だけは切らさないでおいて下さい、ホント、後生だから)
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どう死ぬかですね、わかります。
しかるに屁音には対応していないと思われ、別の音を使い「音殿」など開発してはいかがだろう。音姫の川のせせらぎ同様、自然感を大切にしたいため雷鳴や暴風音などどうだろう。
がるるるる。
福岡行きの同乗の皆様には申し訳ありませんが…
個室に入る=排便
では無かろうか?
(同伴で入るのは別として・・・)
そんな時、私は彼のお尻に無言で手を当ててオナラの振動を楽しみます。
こんな二人ですが、今秋、結婚します。
肉さんのエキセントリックな文これからも期待します。
頑張って下さい。
翠星石のウンコなら食えるし、肉さんの言葉を借りればブバ音というんですか、翠星石のそれを着メロに設定したいくらいです。
バイト先のトイレに、川のせせらぎ音やクラシックなどいろんなBGMが設定できるものもありました。
やっぱり尿のチョロチョロ音を隠すのに対応する音は入ってましたが、うんちする音をごまかせるようなBGMはなかったですね
まぁ尿音も隠しきれてないのが実情ですが
それにしても25秒(多くの場合で)という時間は誰が設定したのでしょう
または屁&ウンコ排出サウンド収録音源をトイレのBMGにすればどれがウンコでどれがBMGか分からなくなる。
正にステルスウンコ!!僕らはカメレオンになる!
これだ!
で結局肉さんは芯オアチラシのどちらで拭ったんですか。
もっと頑張れ
このキチガイクオリティを維持してくれるなら
月2更新でも待ち続けるんだけど。
間が空かないように連打します。
※うんかちん:うんこかちんこの話ばかりしてるひと≒ぶんかじん