『…時代の全体的傾向が、創造的でみんなで楽しむ娯楽から離れて、機械的で孤独な娯楽に向かっている…。手の込んだ社交儀礼があり、活気にあふれた会話に満ち、そして…歌やウィークエンド・コメディアンたちでにぎわうパブは、次第に映画やラジオの、受動的で麻薬のような快楽に取って代わられているのである』
(1943年 ジョージ・オーウェル)
今日はカン蹴りな!大声で叫んで僕たちは公園へと走り出す。照りつける太陽はどこまでも高く、高く上っていて、セミの鳴き声だけがやたらとうるさい盛夏の時節。みんなが揃うと誰ともなしにじゃんけんぽん、負けたあいつが数を数えて、僕らは茂みへ大急ぎ。見つかるもんか、見つけてやろう、駆け足の音と、屈託のない笑い声と、缶が蹴られる軽い音と、いつまでも途切れないセミの声と、声と、声と。
……そんな下らない遊びが、ひたすらに楽しかった。
そういう時期が僕らには確かに存在する。
いつか、それはいつか、本当に遠い昔に――
いま、『カン蹴りをして楽しいか?』 と問われれば、僕は即答できないだろう。いや、もしかすると 「いまはもう、楽しくないかな」 と答えるかもしれない。
あの頃と現在とを比べれば僕は確実に変わっているし、その変化の中で、カン蹴りという娯楽はノスタルジーの中に埋没してしまっている。昔日の記憶と共にカン蹴りを懐かしむことはできても、友人を集めて再びカンを蹴ろう!という気力は、どうにも湧いてきそうにない。
ジョージ・オーウェルの述べる通り、僕はひどく受動的になってしまった。溢れ出す洪水のような情報の渦に身を任せていれば、楽しげなオモチャは向こうから自ずとやってくる。僕はそれを受け止め、手に取り、しばらく弄ってはははと笑い、また新たなオモチャが訪れるのをじっと待つ。いつの間にか、僕にとっての娯楽とは "そういう" ものに成り下がってしまった。
それはいかにも切なくて、侘しい。テレビやラジオ、あるいは雑誌やインターネットなどの情報媒体、そういったモノの存在が悪いという話ではない。ただ、受け手の問題として、あらゆる楽しみをそういったメディアに依拠する――その状態がどうにも寂しくて、苦しいのである。
なぜか。受動的でいるばかりでは、こちらの意思や意図を発現させる機会に乏しいからだ。テレビは、一面において優れた娯楽道具であるが、反面、僕たちがテレビに語りかけてもテレビは何らの返事もしない。一方通行に支配される関係性にあって、こちらが選択できるのは精々 『見るか / 見ないか』 それくらいだ。言うまでもなく、それは極端に消極的な触れ合い方であり、そしてそれがメディアと我々との距離感なのである。
かかる娯楽の中で、僕たちの存在感は極めて希薄になる。ほとんどゼロに等しい、といって良いかもしれない。そして現在ではそういった類の娯楽がそこかしこに氾濫している。かつ、僕たちはほとんど無感動に、そういった "一方的な" 娯楽を受け入れ、当たり前のように咀嚼し、心に中に流し込んでいる。
カン蹴りが楽しかったのは、そのカン蹴りという "世界" を、僕たちが自由に演出することができたからだ。大げさな物言いになるが、僕たちがカン蹴りをしているとき、空間はいつでも無限の広がりを見せ、場を支配する規律は刻々と内容を変え、常に新鮮な喜びと感動とを僕たちに与えてくれた。だから、抽象的な意味で "カン蹴り" という遊びが存在していたのは確かだが、どの一回だって "同じカン蹴り" はなかった。
鬼ごっこにしても、かくれんぼにしても、長縄飛びにしても。単純な遊びは単純であるほどに優れて柔軟で、その分だけ僕たちは、遊びをより楽しいものにしようと懸命に知恵を絞った。きっとそれこそが『創造的』という言葉の意味なのだろう。そしてそれは、お仕着せの娯楽ではない、真実の意味での "あそび"。
なぜだか、大人になってしまったいま。
そんな "あそび" のことを、激しいノスタルジーと共に思い返してしまうのだ。
受動的なあそびも楽しいが、そこだけに留まっていては、世界は何の動静もみせてくれない。我々は、そんな世界の中において、名もなき路傍の石と成り果てるほかない。
そのことを一面的に罪だ、というつもりはないが、幼き頃に覚えたあの感動、あの興奮、そしてあの笑顔をもう一度味わいたい――そう願うなら、我々はなるべく能動的であらねばならないのではないだろうか。一方通行では駄目なのである。
していますか?能動的なオナニーを。「エーッ!!またそういう日記?!」 そんな声も聞こえてきますが、いいから黙って聞いていきなよ。詰まるところ僕たち人間というのは 『オナニーをする人 / たくさんする人』 の二通りにしか分類されないのであり、その意味からすれば、僕がこれから熱烈なオナニー・トークをぶち上げたとしても、意外と有益なる結論を導くやもしれませんぞよ。してるんでしょ?オナニー、あんたらもさぁ。
村西とおる監督の誕生、あるいは江戸文化史における春画の登場の例を待つまでもなく、いつからか僕たちのオナニーは受動的になってしまった。視覚的な華々しさを誇る性欲扇情媒体、換言するとオカズ、は怒涛の勢いで日本市場世界市場を席巻し、僕たちは好むと好まざるとに関わらず、エロ本、エロビデオ、あるいはエロ絵本などの類と遭遇、以て彼らをオカズとして選ぶようになった。
しかし、そこに待ち受けていたのは、皮肉なことに ――観念的なレヴェルでの―― オナニーの "死" であった。僕たちは自己の意思に基づいて 『ヌいている』 つもりが、いつの間にかオカズによって 『ヌかされている』 状態に陥ってしまったのである。
フェラ⇒正常位⇒バック⇒騎乗位⇒正常位⇒フィニッシュ
AVにおいてしばしば見受けられる流れである。作品によって多少の異同はあろうが、それでもほとんどのAVではプレイにおいてこの図式が成立している……と考えて頂いて間違いない。そして、我々がこの図式を覆す術は、悲しいことにどこにもない。正に 『一方通行』 なのである。早送りや巻き戻しをすることはできても、バック・イン・USSRのスタイルを対面座位へとチェンジさせることは能わない。
だから僕たちは、本音の部分において (フィストファックが見てえなあ……) という情念を持て余しつつも、それは叶わないので、ほとんど無理やり (まあ、バックでもいいか……) という風に思い込み、半ば事務員の如き手つきで己が御本尊に骨伝導刺激を与えるのである。それはひどく切なく、同時にやたら悲しい、オナニーの在り方。
だから、何度でもいうが、その意味において現代に生きる僕たちは、オカズで抜いているのではない、オカズに抜かされているのだ――皆さんにはそのことに気が付いて欲しいのである。
そして思い出して欲しい。
あの日、あの頃、あのオナニー。
僕たちがまだ若い時分、オナニーが僕たちにとって "どういう" 存在だったのかを。
いまのように受動的だったであろうか?
答えはおそらくノン、断じて否!である。
オナニーを覚えたてのあの頃、僕たちにはオナニーが輝いてみえたし、またオナニーこそが光だった。無知蒙昧な僕たちはオナニーという行為とどう向き合えば良いのか分からず、ただ押し寄せるミステリアスな快感に対して、悦びと、慈しみと、深い畏敬の念を、傾けた。
(僕、こんなに気持ちよくなっちゃって、いったいどうなってしまうのだろう?)
――あの頃のオナニーは、いつでもそんなエキサイティングな気持ちと共に、僕らの傍に。
何でもオカズになった、あの頃。
手に触れるものは、目につくものは、なんだってオカズできた。
水泳の授業、体育のブルマ、ヤンジャンの表紙、国語辞書に記載された 『クリトリス』 の文字、超能力学園Z……それら全ての光景を網膜の裏に焼付け、僕らはそっと瞳を閉じる。
目の奥で様々な映像が急速な勢いで形を変え、その姿を紡ぎ上げる。そして、その世界の中心にはいつでも自分が据えられていた。
それは "妄想" という名の、子供のホビー・トイである。これこそがまさにお仕着せではない、受動的ではないオナニー、想像と創造の手淫、世界を壊し世界を創るマスターベーション、絶対チンシュのオナス。
結局、カン蹴りと一緒なのである。
単純であればあるほど柔軟で、奥が深い。
出来合いの完成品ではないからこそ、様々に改良の余地がある。
そんな態様のオカズだからこそ、オナニーであるからこそ、幼きあの日、僕たちにとってはオナニーが太陽だったし、オナニーこそが宇宙だったのだ。並べて僕たちはそのことを忘れてはならない。
ただ、この言説は少々理想論に過ぎることも認めねばなるまい。なぜとなれば、大人になってからの創造的・独創的なオナニー、それには常に犯罪的なスメルが漂ってくるからだ。
想像してみて欲しい。
たとえばあなたが女性だったとしよう。
満員電車に乗っている際、隣にいた男から舐めるような視線をぶつけられたとして。もちろん彼はそれ以上には何もしない、しないのであるが、彼は帰宅するや否や、あなたのことを思い出し、その痴態を思い浮かべ、ティッシュを用意し、全裸になって、ハアハアと荒い息をつきながら、瞳を閉じて、チンポを、しごく――
『瞳をとじて』 平井堅
朝目覚める度に 君の抜け殻が横にいる
ぬくもりを感じた いつもの背中が冷たい
苦笑いをやめて 重いカーテンを開けよう
眩しすぎる朝日 僕と毎日の追いかけっこだ
あの日 見せた泣き顔
涙照らす夕陽 肩のぬくもり
消し去ろうと願う度に
心が 体が 君を覚えている
Your love forever
瞳を閉じて 君を描くよ それだけでいい
たとえ季節が 僕の心を 置き去りにしても――
どうであろうか。あの素晴らしい歌唱力を誇る彫りの深い人は 「心が、体が、君を覚えている」 と歌ったが、オカズにされた皆さんからすれば覚えられるとかマジ迷惑、かずい!マインドをアサシンして!な事態だろう。また 「僕と毎日の追いかけっこだ」 という部分、ここまでくると早急に官憲による取り締まりを要求すべき案件である。何が言いたいかといえば、やはり大人になってからの独創的オナニーは、少々危険な部分があるということだ。彫りの深い人の歌にはいつだって含蓄がある。
しかし現象は止まらない。好ましい女性の姿を網膜に焼付け、それを妄想の世界において弄ぶ行為、こんなのはまだマシな部類であって、例えばピーピング・トムの世界に足を突っ込んでしまった人なんていうのは、実に悲惨だ。
性的嗜好がそのまま犯罪に繋がるからである。その道に邁進し過ぎた結果、ミニにタコができてしまった御大の存在……皆さんの記憶にも新しいことだろう。想像的・創造的であり過ぎることは、かくも危険なことなのだ。
※ピーピング=のぞき。軽犯罪法1条23号により禁止されている。
それでも僕たちは配られたカードで勝負をするしかない。できないことばかりを嘆くより、自分に何が出来るのか?という側面から物事を語る、それこそがジェントルとしての嗜みだろう。犯罪行為に踏み切るばかりが創造的だ、ということにはならないのである。
ねんまにさんの話をしよう。先日、ねんまにさんからこの話を聞いたとき、僕は思わず虚を突かれた思いになったのであるが、彼については皆さんもご存知の通り、一種独特のコクと香りを放つ変態紳士であるところ、やはり性的嗜好に対しても一家言を有しておられるようで、曰く 「一日最低三回はオナニーをしないと気が済まない」 とのことであり、僕はそれを聞いた瞬間、ああ、これがねんまに流のギャグなんだな、と察知、曖昧に笑いながら 「へえ、すごいっすね」 と適当な返事をしていると、ねんまにさんは唐突に 「なに笑ってんの?するでしょ?普通」 とにべもなく吐き捨て、その言動に対して僕が驚愕の表情を浮かべていると 「最低、最低でも三回だよ。普通にもっとするよ」 と、極めて無価値な個人情報を僕に押し付け、しこうして後に 「肉欲くんもするでしょ?皆もするでしょ?」 と、あろうことか周囲に対しても理解を求め始め、かつ、同意が得られないことに気付くと、すかさず虎の目つきになって 「お前らおかしいよ」 と放言、同時に「オナニーしなくて何が楽しいの?」 と人生を哲学の側面から論じ始めるほど、オナニーに関して深い見識を有しておられるのであるが、そのねんまにさんは、続けざまにこうも語っていらっしゃった。
僕「でも、一日複数回オナニーするとしても、会社に行ってたらやれないんじゃあ……?」
ねんまに「やるよ。会社でも。普通に」
僕「えっ」
ねんまに「就業中に。オナニー。するよね」
何でも、就業中に行うオナニーにはある種独特のテイストが含まれるらしく、ねんまにさん自身も 「非常にグッドイナフ」 と恵比須顔で仰っていた。本来オナニーとは、自分の城たる部屋の中で行うべきものであるところ、かような既成概念を根底から破壊、流通経済の要たる会社組織のド真ん中でオナニーをカマす――蓋し独創的である、僕はそんなことを思った。ねんまにさんの行いがギリギリのところで犯罪じゃないところもミソ。あらゆる側面からみても非の打ち所がないロジックであり、日記サイトの管理人はかくありたいものである。
受動と能動、創造と想像。
いつかどこかでなくした、大切な何かを取り戻すために。
皆さんも節度を守って、楽しく独創的なオナニーライフを――
と玉虫色なことを書きつつ今日の日記を終えようと思っていたところ、いま、雷鳴のようにかつての記憶が蘇り、そのメモリーによれば、あれは確か中学一年生の頃、手を使ったオナニーも覚えて間もない時代(それまでは主に上り棒やビート板などを使用してことに及んでいた)、当時の僕は学ランに身を包んでいたのですが、学ランのズボンというのはその構造上、ポッケに深く手を突っ込むと、その、なんだ、容易にあの、アレだ、チンポ?まあそのチンポ的なサムシングに、手が届いてしまうんだけれども、だから男子高校生などもさり気なさを装いながら己がチンコポジションをポッケ越しに直したりしているんだけれども、それはさて置き、未だ血気盛んだった中学1年生の僕は、 "学ランのポッケからチンポに手が届く" という衝撃の事実に気が付くや否や、学校で、あまつさえ授業中、周りに気付かれないように表向き平静を装いながら、チンポを猛シェイク、そこにあったのはスリル、ショック、エキサイト、僕は様々な倒錯感に包まれつつ、あれよという間に興奮という名のステージの上で激しいダンス、尚も周囲に気付かれないよう配慮しながら、そして教師がサ行変格活用のことを教え始めた辺りで、なんていうの、果てまして。普通にその、フフ、射精、しちまいまして。とりあえず、まあ、正直この話は、あまりにもアレなので、今の今まで秘していた、というか積極的に記憶から消去していたのですが、もうそろそろ時効かな……と思い、今日、日記としてしたためた次第です。つーか!?!皆にもあるよな?!ひとつやふたつくらい、そういう恥ずかしいオナニーの話とかさぁー。思わず木魚でオナニーしちゃった!とか、そういうモナニー(木魚オナニー)トークみたいな、あると思うよ、誰だってそういうの。
あるんだろ?あるよ、あるに決まってる。あるよ、あれ、あって、あれば、あるとき、あらまほしきことかな。かしこ。
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それと久しぶりのモナニーだなぁ
従姉妹の家でヌいた時はいよいよ死にたくなったわ。
当時住んでたマンションのエレベーターの中でした事はあるなあ。
もう時効ですよね。
あーこれ久しぶりに思い出した・・・。
ジョージウェルナーって誰だよwww
【肉欲より】
マジで間違えました……なんでこんな……
彼の当時のあだ名は下半身大震災でした。
【肉欲より】
素で間違えました……
ねんまにさんの同僚は・・・
親の前、可愛がってくれたばあちゃんの前、果ては幼なじみの両親の前でもテロ行為は続きました。
思い出しても死にたくなります。でも畳が一番だなって思いました。
ちなみに、僕の級友は柔道の時間にエレクトしたらしく、大変だったらしい
今だからわかるけど、あいつ果ててたな。スメルがしたもん
もう人間としてもどれないところまで来れたような気がします
幼稚園の二階のトイレをつかい皆の前でオナニーしました
そしたら急にそうじのおばさんが来て
危うく全裸で個室トイレにとり残られそうになりました
【肉欲より】
アンタ、サイコーに輝いてた
忘れているはず
具合が悪いのも相まっていつも以上に熱いオナニーでした。
ケース2→本屋で立読みオナニー。最後は店員に警察連れてかれそうになり、逃亡。
ケース3→妹(当時小6)の寝込みの身体を弄くりながら、オナニー。
ケース4→粗大ゴミの日、捨ててあるエロ本で耐えきれず、その場でオナニー。
全てソースは僕。
もう今はそんなことできない
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ
↑を思い出した
その頃の自分は家庭用の太鼓の達人の「バチ」をアナルに入れてエキサイトしてた。
マジで頭狂ってた…記憶から消したい…。
おなごは
殿方の生まれてかの永遠の恋人・右子(マルッと右手)の存在とテクには敵わないのでせう。。
旦那は正妻な私に
『アナタは右子には絶対に敵わない!』
断言します(笑)
かしこ。。
同時に複数居ても1人は3回の法則を研究中です。
サ行変格活用の覚え方
せ・し・す・する・すれ・せよ
→精子、す、吸う?すr、、、せよ!!
サランラップの芯とか…トイレットペーパーの芯とか…
キッチンペーパーの芯とか…
ありますよね!?
芯フェチ、あります。
昔の日曜日が過ごしたい
土曜日の授業の後が楽しかったな(>_<)
今回の缶蹴り論を敷衍し、オナニー論まで語る管理人さんの論理展開に脱毛、じゃなかった脱帽しました。
ところで、私は何故かAVではよっぽど過激なやつじゃないと抜けないので、オカズの身体部分(首より下)と電車の中の綺麗な女性、学校にいる女性の顔を合体させオナニーするという、ここで便宜上名付けておくと『アイコラオナニー』(※以下コラオナ)
というオナニーを良くするのですが、これは画期的なオナニー方法ではないでしょうか?
例えば、従来のAVをただ見て抜く、というノーマルオナニーではその女優しか味わえず、3日で飽きてしまいます。しかしコラオナは、そのAV女優の身体と街の女性の顔をアイコラ、また性的嗜好により貧乳、熟女、ロリなどを使い分ければ、オナニーの可能性は無限に広がります。
ところで、管理人さんはどういうオナニーをしてらっしゃるんですか?参考に教えて頂きたいのですが…
手を使わず写生できるので、バスの中でスーツ姿で(誰にも気付かれず?)射精したことがあります。
「想像力って偉大だな!」って思いました。
バスの中や本屋で立ち読みしながらしてました。
クリオナ。
隣のオジサン絶対気づいてたなぁ