どうして私たちメンズは、あるいはウィメンは、性的なマターから逃れられないのか。
ある時期には 『それはとこしえに続いていくカルマなのだ』 と考えた。永遠に繋がっていく "性" という罪業の中でのたうち続ける存在。それが僕らなのだと。
違う時期には 『やはり生殖本能を捨て去れない以上、性的な事象からは逃れられない』 という風に結論づけた。僕たちは生殖活動から自由ではいられず、その意味でのエロ欲求――ある、と思います。
けれど、いずれの論もどこかで目にしたロジックばかり。理解はできるものの、心の奥底まで響いてこない。意味のない言葉遊びを聞かされているような浅薄さ。
詰まるところ、いちいち理屈をつけようとする行為そのものがダウトなのではなかろうか。
"したいから、する"
僕たちのエロ・エナジーの源泉を探求すれば、この部分に帰着する。尤もらしい理屈なんてものは後づけのペテンでしかない。それらが正しいのだとしても、誰の心にも響かないんじゃ意味がない。
じゃあどうすればいいのか?たとえば僕たちが青春のド真ん中にいる頃、同級生の女子から 『どうしてオナニーなんてするの?』 と聞かれるが如き状況があったとして。その時あなたが
「したいからするだけさ!」
と答えたとしよう。確かにその言は正しい。が、それは循環論法でしかない。 『どうしてするの?⇒したいからさ』 この掛け合いは明快である反面、余計に真相を分かりにくくしている。
だからと言って
「オナニーの歴史は古く、その語源は旧約聖書に由来するんだ。オナンという男が兄嫁と再婚したものの、彼は膣内射精を嫌って膣外射精を好んだ。それが神の怒りを受けることになるんだけれど、まあそれは些事だよね。つまり本来的にオナニーというのは膣外射精のことを指すのであって、その点からすれば僕のしている行為はオナニーじゃないわけだ。どちらかといえば、キミには僕の行いを、そうだね、陰茎摩擦…といった風に認識して欲しい。分かるかな?」
マズ過ぎるのである。翌日からあなたの二つ名は【オナニー公爵】になるだろう。灼熱のオナニー野郎でキメだ。博識であることは尊いけれど、時に知性は己が仇となす。それは正しい説明を施すことが状況的に正しくない場合もある――という、切ない真理。
あるいは、何かの拍子で異性の友人とイン・ザ・ベッドの状況に立ち入ってしまったケースを考えてみよう。この場合、男に残された選択肢は多く見積もっても二つしかない。
ゴムを着けるか/着けないか
このの二択である。 セックスをするか/しないか の二択ではない。時たま異性をイン・ザ・ベッドまで誘導しておいて
「添い寝だけ!添い寝するだけだから!」
と下らない三味線を弾く下衆がいるが、僕だが、そんな物言いは決して信じちゃいけない。頭の中には、あくまで
クンニをするか/しないか
の二択しか存在していない。聞こえのいい言葉に騙されちゃいけない。
脇に逸れたが、たとえば僕らがそういった状況に直面したとして。古びたの煎餅布団の中、不意に相手からこんな言葉をぶつけられることがある。
「どうして男の人ってセックスしたがるの?」
チンポがマックスハートに近づきつつある瞬間、唐突に投げられる禅問答。その案件、週明けに回答を提出したいのですが……と心では思うのだが、目の前の取引先はそれを許してくれそうにない。そんな時、僕たちは何と言えばいい?
「ヤリたいからヤルのさ!」
とんだアニマル野郎である。いや、もちろんその論調は正しい。どうしてセックスをするのか?と問われれば、やはり "ヤリたいから、ヤる" という部分に帰着する。
女性がそのことを理解していない訳ではないのだが、時に女という生き物の一部は、そんな男の切ないリビドーを言語化させようとすることがある。
率直に『したいからするだけなのさ』と答えるのも良いだろう。しかしその場合、あなたは極めて高い確率で
「ふうん。じゃあ別に誰でもいいんだ」
というエッヂの効いた一撃を返され、静かにマットへと沈んでいく。正直であることは決して美徳ではない。彼女らが聞きたいのは男側のナマな本音などではなく、もっとセンスに富んだ言い訳、詐術、具体的には
「誰でもいいわけじゃない、お前だからさ」
「ずっと前からこうなれたらいいなって思ってて、それで……」
「ユアワンダフル トゥナイ」
と、前歯がマッハ7で浮き飛んでしまいそうなセリフなのだ。ジュテーム!モナムール!と囁き合いたいのであり、あるいは男たちから言質を取りたいのである。カラダを抜きにした時の、あなたの真意を知りたがっているのだ。そうじゃなきゃ午前二時、しこたま飲んだ後、二人きり、イン・ザ・ベッドの状況で――!
「どうして男の人ってしたがるの?」
言うはずがない。テメェで考えろ、の一言である。状況によっては強めのチョキで目の前のメスを殴打しても許される案件だ。
本気でそれを知りたいのであれば、僕らではなく渡辺淳一先生に聞くべきである。愛の流刑地には一人で赴いて欲しいし、僕らがしたいのはしょうもない禅問答などではなくあくまでセックス、それも腰が砕け散りそうなワン・ファックなのである。程度の低い質問は、およしなはれ。
それでも、この手の
"どうして男の子はオナニーするの問題"
ないし
"なんで男はすぐにセックスしたがるの議論"
から逃れることは難しい。
きっと、それは永遠の命題なのである。
しかし僕はその永遠の議論に今宵、ピリオドを打ちたい。
チンポがこるんですよ、男っていうのは。
肩こりと同じように。
チンポがゴリゴリになんの。いつもチンこり状態、僕たち男の真実はそれよ、とどのつまり。
本能?愛?カルマ?もうちゃんちゃら。ちゃんちゃらおかしい。そんな難しい概念、一度だってチンポに関係あったか?もしあったとして、それが男たちの欲求の根源に対して何か積極的な説明を施してくれた?
「教授。どうして男の人ってセックスしたがるんですか?」
「興味深い質問だね。ふむ、男がヤりたがるのは、繁殖しなければ…という考えに深く根ざしているのであって、だからその意味から考えれば――」
下北沢のカフェで、麻布のバーで、ジェントルを気取った男たちからそんなことを言われて。あなたたちは一度でも、ほんの一度でも!心から納得できたことがあったんですか。尤もらしい数多の言の葉の中に、真実を幾つ見つけることができましたか。
「きょ、教授……じゃあどうして今、コンドームを着けているんですか……?!」
「鋭い質問だね。高度に発達した文明社会、資本主義経済において "産めよ増やせよ" という考え方は馴染まず、だからこそ冷静に出産数をコントロールする必要があって――ウッ」
「……教授?」
「ふぅ。あれ、まだいたの?」
雄弁な人間にはペテン師が多い。自分が本質を知らないからこそ、相手の目を本質から背けさせようとするからこそ、不要な言葉を多く盛り込む。その時は 『なるほど』 と思わされるものの、後になって振り返った時に 『結局あの人は何が言いたかったの?』 と、より深い疑問に迷い込んでしまうのだ。
くだくだしい説明はいらない。また、"したいから、する" だなんてノーセンスなことも言わない。ただ僕たちはこう言いたい。チンポは、こる。この概念、新らしい時代の波を感じる。
肩もみをするのは、肩もみが気持ちいいからだ。そしてそれが気持ちいいのは、肩がこっているからである。
もちろんその時、どうして肩がこるのか?という疑問も生じ得るが、実際のところそんなことを深く考える人間はいない。だとすれば、チンポがこることに対しても深い疑問を与えてはいけない。もしあなたが 『なぜチンポはこるのか?』 と僕たちに聞きたいのだとすれば、その前にまず 『なぜ肩がこるのか』 という部分を明確にしておく必要がある。チンポこり問題についての検討は、その後である。
「どうしてチンポこり問題の方が後回しになるの?チンポも肩も、等しく人体の一部でしょう?だったら、チンポと肩に序列をつけちゃいけない、チンポフリーであるべきよ」
そんなテーゼを投げかけてくる淑女もおられることだろう。その優しい気持ちは大切にした方がいい。ただ、僕は伊達や酔狂でチンポは後回しにしろ!と論じているのではない。どうしてチンポが後に?と問われれば、僕は一点の曇りもない論理と共にこう答えるだろう。
「どうしてもだ」
人は酸素なしに生きていけない。
魚は陸上では生きられない。
地球は自転する。
宇宙は膨張し続ける。
チンポは肩こりの後に。
それらは全て、理屈じゃないんだ。
もちろん "こる" のはチンポだけじゃない。僕の場合、耳もこる。首筋もこる。アナルもこるし乳首もこる。全身コリコリ状態である。だからこそ、こった箇所には優しく接して欲しいし、こりの状態が激しければ激しいほど、人にタッチして欲しくなる。乳首を舐めて欲しくなるし、アナルに指を突っ込んで頂きたいのである。おっと、それはあくまで "たとえば" の話であって、僕の話じゃない。繰り返す。僕じゃない。アゲイン。ミー。
肩がこった時、マッサージチェアが欲しくなるでしょ?てもみん、行くでしょ?結局それと同じことなのだ。自分でこりをほぐすこともできるものの ――詰まるところそれがオナニーに該当するのであるが―― 他人からのマッサージとなればmまた格別の味わいがある。その意味で、あくまでも "癒し" の意味でのチンポ・マッサージ。二人 DE てもみん。チンポこりを解消する、最後のサンクチュアリ。
その行いをセックス、と呼んでもいい。別の側面からすればフェラチオ、あるいは手コキ、ないしオナニー…と名づけてもいいだろう。ただ、それはあくまでも現象レベルでの違いに過ぎない。どうしてセックスをしたいのか、フェラチオをして欲しいのか?と問われれば、やはり僕らはこう言うしかない。
「最近チンポがガチガチでさぁ……参っちゃうよね」
肩がガチガチにこるように、チンポだってガチガチにこる瞬間がある。理解して欲しい。それは抽象的な意味での "ガチガチ" なのであり、勃起的な意味でのガチガチとは議論の段階が違う。ゆめゆめ勘違いをしてはならない。
こう考えれば性的欲求の度合いに個人差があることにも全て説明がつく。肩こりをするかしないかというのがあくまで体質の問題であるように、チンポがこるかこらないか?も、やはり個人差が大きい。僕のチンポはひどくこりやすいものの、同級生の荒川君のチンポはあまりこらない。また、先輩の吉田さんの裏スジは滅法こりやすいものの、僕の裏スジは疲れ知らずだ。性治の局面においては個別具体的な判断が求められる――ということである。
マンコもこるだろう。何も恥ずかしいことではない。チンポがこっても、マンコはこってはならない!という法はどこにもない。マンコ、こっていい。むしろ積極的にこるべきである。僕たちの指が何のためにあるのか?その意味を考えてみれば、それは当たり前のことだ。だからマンコは、こっていい。こって欲しい。こるべきだ。これ。
こりがほぐれる感覚はひどく気持ちがいい。僕らは何度だってその快楽を求めてしまう。その時、無理に難しく考えて 『本能の部分で僕らは――』 だなんて論じる必要は全くない。チンポはこるものである、という当たり前の話を思い出せばそれで済むことだ。
「どうして私とセックスしたいの?」
「最近仕事が忙しくて……チンポがこっちゃって……」
瞬間、女のマンコは大洪水だ。ちょっと疲れた風情のアナタが素敵!アンニュイ!抱いてホールド・オン・ミー!女は確実にそう叫ぶだろう。そう断じる根拠は一切ないが、僕自身はそう願っているしあるいは祈っており、だから何の問題もない。日本人に足りないのは自分を信じる強い精神力だ。
ただ、そうであるからといって
「おじちゃん、どうしておじちゃんのおちんちんは大きくなっているの?」
「タエちゃん、それはね、おじちゃんのおにんにんがこっているからだよ」
アウトである。娑婆よサヨウナラ、ムショよコンニチワ、だ。子供は基本的に肩がこらないのを忘れてはならないのであり、そんな子供たちは "こり" という概念なんて理解できない。
『大人になれば分かるよ……』
これがベターでベストなアンサーなのである。こり解消の手段を幼女に向けるなどということは、決してあってはならない。無論ショタコンもダメだ。僕らには大人として負うべき責務があるのである。神木キュン!神木キュン!などと妄言を吐く行為、もっての他なのである。
常に、紳士たれ。
チンポのこりに苦しむ全てのメンズに、この言葉を捧げよう。
急いで口で吸ってくれ。
チンポのこりに無理解な全ての淑女に、この言葉を捧げたい。
(中部陰茎財団作成 『精神的疲労より生じる陰部の不調子とその対策についての中間報告』より抜粋)
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最近一人でこりほぐしてます
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それよりも明快で読みやすかった!
てっきり病気かと思いました。
だって、摩ってると白い膿が出てくるし・・・
そうなんですか!!??
kwskおねがいします。
疲れたお父さんの肩をマッサージする子供もいるということは…