意図して書いているわけではないのですが、気づくと日記の中に『オマンコ』あるいは『陰茎』などのホットワードが紛れ込んでしまう。別にそのことを悪いだなんて思ったことはないけれど、
「ややもすると、僕はあまりにも品性を欠いているのではないか?」
という疑問を唐突に抱いたため、本日はそういった下劣なワードを使わずに日記をしたためてみよう…と、そんなバイブスです。
僕たちは極めて相対的な基準の中で生きている。
例えば『幸福』という概念について考えてみる。
幸福、幸せといった考え方は我々の社会の中に強く根付いているものの、
『じゃあ一体何を以て幸せとするのか?』
と聞かれれば、それに対する答は曖昧なものになる。
幸せの基準、あるいはその形。それは決して一定ではない。
【幸福は心の問題】
過日に放送されたNHKの『監査法人』というドラマの中で橋爪功が口にした台詞だ。心の問題……とはまた曖昧な定義であるが、要するに『己の主観ひとつで幸福にも不幸にもなり得る』といった意味合いではないか。
『一杯のかけそば』という寓話を思い出してみると良いかもしれない。一杯きりのかけそばを家族三人で囲む。傍から見ればそれは非常にひもじく、また哀愁を誘うものだろう。
しかしながらそれは"外"から見た時の話だ。『ひもじい』だとか『可哀想に』といった気持ち、それは僕らが一方的に抱く主観でしかない。一杯こっきりのかけそばであれ、普段の生活が苦しいものであればあるほど、当人たちにとっては『幸福の一杯』になり得る。詰まるところそういう状況を指して橋爪功は『心の問題』だと指摘したのではないか。
上述したドラマの中で橋爪功は言う。
「幸福は心の問題。成功は金と権力の問題。でも敗者や失敗者の中にも幸福な人間がいるってことは私も認めるがね」
言い換えれば『成功したとしても幸福になれるとは限らない』ということであるが、おそらくそれは正しいのだろう。心が満たされるか満たされないか、という問題は本質において『社会で成功するか否か』という部分には直結しない。
もちろん
「成功欲を満たすことが最大の幸福」
という方も多くいることだろう。ただ、そうじゃない人 ――成功なんてしたくない、つつましやかに生きていきたい、と願う人―― も、当然存在する。当たり前の話である。
どのようなものに価値を、あるいは幸福を見出すかは人それぞれだ。そして『不幸に思う事項』『嫌悪感を抱かされるもの』についても同じことが言えるだろう。僕が大好きなものを、別の誰かは大嫌いと思っている――世に生きていれば、そんな事態は頻繁に生じ得る。
例えば、身体的特徴についての話題は扱いが難しい。僕の身長は170cmを少し超える程度であるが、目の前に190cm弱くらいの男性がいれば、あまり熟慮せずに
「いやあ、僕もそのくらい身長が欲しかったなあ」
なんて口にしてしまうこともある。それは僕が心のどこかで『高身長=グッドイナフ』と考えている節があるからだ。
けれど、相手までもが僕と同じように考えているとは限らない。高身長だからこその悩みというものも存在するわけで、僕がこれまで聞いてきた限りだと
・気に入った服があっても、自分に合うサイズがない
・勝手に『バスケの上手いヤツ』認定されてしまう
・待ち合わせの目印にされる
・天井によく頭をぶつける
・アイデンティティが身長だけになってしまう
などのものがあった。文面にすればライトに見えてしまうが、語っていた当人たちの苦渋に満ちた表情を思い出すにつけ、安易に『そんなオーバーな……』などと言うことはできない。
個人的な見解になるが、この身体的特徴問題に関して頭を悩ませているのは女性の方が多い気がする。端的にいえばそれは"胸まわり"界隈の話だ。生後間もない我々を育んでくれたミルク状のブツをリリースしてくれる、"あの辺りのサイズ"の問題である。具体的な呼称に関しては明言を避けたい。
我々メンズにはあまり分からないが、あの辺りのサイズ問題は女性にとって割かしシビアな問題らしい。小さすぎてもダメ、大きすぎてもダメ。Cの人はDを求め、Dの人はEを求める。けれどもEの人は
「こんなデカさはいらぬ」
と叫ぶ。非常に微妙、かつ繊細なマターだと言わざるを得ない。
ただ、実際のところC〜Dのラインにいる方々の口からそれほど深刻な悩みを聞いた覚えはあまりない。『もっと大きければね……』と妖艶な笑みと共に語る方も中にはいたが、その口調には決して切実さは含まれていなかった。おそらくそれは、彼女たちのサイズが一般的にみて"バランスの良い感じ"だったからなのかもしれない。
しかし、それ以外の層に属する女性たちは、極めて高い確率でご自身の"サイズ"に対して一家言を有していた。それはつまり『小さすぎる/大きすぎる』問題のことである。もっと大きくなりたい!もっと小さければ良かったのに!飲み会という鉄火場で飛び交う彼女らの咆哮は、いつだって灼熱の温度だった。
気持ちは分かる。人は誰しも無いものをねだる生き物だからだ。大きめの人は小さめのブツを、小さめの人は大きめのブツを――ねだってしまうのだろう、心のどこかで。人の性(サガ)として。
けれども、僕は言いたい。サイズのことなんて、何も悩む必要はないんだ!と。みんな違って、みんないいんだ!と。本音で、心の底からそう思っている。
確かに個々人レベルにおける『好み』としてAがいい、Bがいい、Cがいい、Dがいい……というものは存在する。だが、そんなのはあくまでも補足的な問題だ。車の購入にたとえるなら、サイズの問題はその車に搭載されるカーナビメーカーの違い……くらいのものである。搭載されるカーナビから逆算して車を選ぶことはない。もしカーナビに何がしかの問題があるのなら、責任を持って対処していく気概だ。
「あたし、サイズが小さいから自信がなくって……」
大丈夫、古の格言に『揉むほどに、頭を垂れる乳房かな』というものがあるが、ないが、とにかくその場合は僕たちがたっぷりとお揉みしよう。むしろ揉ませていただきたい。そういうメンテナンスも、ある。
「大きすぎるから肩凝っちゃって……店にいってもあんまりサイズに合う下着がないし」
オーライ、あなたの肩が凝るのなら僕たちはいつでもあなたの肩を揉もう。そんな忠実な僕たちのことを『犬!』と呼んでくれても構わない。そしてサイズに合う下着がないのであれば、遠慮なく僕たちの手をブラジャーと考えてもらって結構だ。男気、その言葉の意味を肌で感じて欲しい。
敢えて触れなかったが、この問題については『同性からどう見られたいか』という部分も根深く関係してくるだろう。いつぞやか結婚式における女性の服装に対して日記を書いたが、それに寄せられたコメントにも
「ああいう場での服装は男よりも同性の目の方が気になるもんです」
というものが散見された。その意味でいえば、女性がサイズについて懊悩しているのは同性の目を気にしてのことではないか…という仮説も生じてくる。なるほど、もしそれが正しいのだとすればいくら僕が言葉を尽くして『どんなサイズだっていいんだよ。ゲートオープン』と説いても、それはドナドナに登場する死に行く子牛に向かって
『大丈夫、生きてればいいことあるって!』
と囁く行為にも似ている。意味が、ない。
仮説が真である場合、己のサイズを幸福と思うか不幸と思うかは、それこそ心の問題に帰着するだろう。いくら男性の側が『オッパイ(あっ!)はそれだけで神々しい!』と諭しても、その人の心の渇きが潤されぬなら――幸福は得がたい。求めても手に入らぬサイズを求め、人生という迷路をひたすら彷徨うのみだ。
男たる僕はそのことに対してあれこれ物申す立場にない。分かったフリをすることはできるが、どれだけ僕が『Aカップは辛いねん……』と訴えかけられても『へえ、揉ませてよ』以上の感慨を抱くことはないからだ。あなたの悩みはあなただけの所有物である。
それでも敢えて一言献上するなら、ひとつ語りかけてみては如何か。自分の胸に対し、己の来し方行く末を――正直な言葉で。
先日の日記で男性のサイズ問題について触れたが、決して大きいとは言えない僕のご本尊なので、やはり僕も『もっと大きくなりたい』と思う時期があった。その期間は、悩みのあまり眠っている時間以外は起きているような生活を送っていたのであるが、ある日僕は意を決して自分の股間に問いかけた。
「これでいいのか」
もちろん言葉は返ってこず、答は風の中に消えた。ただ、僕はその時 ――22歳の時分―― 初めて自分の本尊に、心で向き合えた気がした。よくよく見れば、小さいながらも生命力に溢れているマイ・アガルタ。考えれば22年(当時)も苦楽を共にした仲なのである。
「これでいいんだ」
もう一度声をかけた。今度は、確認するように。すると僕の本尊はそれに呼応するようにピクリと動き、そしてまた眠った。僕は慈しみと共にチーン・ポールを一撫ですると、深い眠りを眠った。
当時の僕が気づいたもの、それは『大切なものは既にこの手の中にあった』ということだ。確かに周りの子らに比べれば些か貧相な愛息ではあるが、それでも今日も元気な愛しい我が子。親子関係も良好である。
今、強く思う。無病息災、明るい父子。さて、それ以上に何か必要なものはあるのだろうか?ない、ですよね。
確かに『もし僕の想い人が息子のことを気に入ってくれなかったら…』という不安はある。けれど、その時に『相手が気に入るように自分の息子をスパルタ教育しよう』と思ったとすれば、それは親のエゴだ。醜い見栄である。そうではなく
『ありのままの息子を大事にしてくれる人を探そう』
という、柔らかなマインド。自分を相手に合わせるのではなく、身の丈に合った相手を見つけること――きっと、それが何よりも大事なのではないでしょうか。
同じようなことは女性にだって言えると思う。向上心を抱くことは尊いけれど、ありのままの自分を誇ることもまた大切なことだ。だからその意味で、もう一度ご自身のサイズと向き合ってみては如何だろうか。
世の中には様々な尺度があり、価値観は千変万化していく。それは止めようがない。けれど、確固たる自分の信念、あるいは絶対的な信条めいたもの――それを構築することは決して不可能なことではない。
移ろいやすい世の中にあって、自分がどの立ち居地にいるべきか?あるいは、居たいのか?それは常に意識されるべき事柄なのかもしれない。
(おわり)
【次回予告:確かに男にとってパイオツのサイズは大した問題ではないものの、乳輪のサイズはマジ大問題でござる の巻】
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狂おしいほど同意
大問題です
''胸まわり''で大事なのは、サイズうんぬん形うんぬんではなく「味」だとテレビで沢村一樹が申しておりました。
次回予告・・・ww
結構誉められるんですけど、皆さん共通で好きなんですかね?
次回 真面目に楽しみです!!
サイズはCと非常に良い塩梅となっているのですが、
乳輪に至っては仮にこれも良い具合のサイズがCという基準を設けますと、
Fくらいのものとなっております。
揉もうが、手ブラしようが乳輪だけはどうにもこうにもなってくれません
次回の日記で是非対策法をご教授下さい
乳輪は確かに大問題ですよね。
笑わせてもらいました。
やっぱり期待を裏切らない。大好きです。
オッパイが小さい子はその件でいじめるのが楽し過ぎる。
確認までの道筋も伝授下さいませ!
もう人のチンコサイズに文句はつけないよ…。
で、乳輪の話だ。重要なのは。
乳ビンタも出来ますが自慢にも何もなりません。
穴は民族の差がありますので、何とも言えませんが、小指サイズの方がいらっしゃるとドキドキします。
この大穴に・・
アジア風俗では直径3cm、長さ7cm前後方が宜しいかと。
次回作にとっても期待しています。
彼氏は貧乳好きなのにあんまりです
名前からなにからツボ、つぼくら大臣なのでちょこちょこ覗かせていただきまうす。
心に問題のある自分としては救いようの無いお言葉です。
なんか救われた感があります。
そして乳輪には一人の男として激しく同意です。