御堂さんの講習を受けてから、三ヶ月。僕は駆け出しの手マン師としてバリバリ働いていた。落ち込んだりもするけれど、仕事は概ね順調だった。
この仕事を始めて強く感じたのは、世の女性たちはパートナーの手マンにあまり満足していないということだ。付き合いが長くなればなるほど、彼あるいは旦那からの手マンはルーティン化していく。それはつまり手マンが”ぞんざい”になっていくという意味でもある。愛のある愛撫、あるいはセックスという概念は次第に抽象化されていき、いつしか射精ばかりにスポットが当てられるようになる。
そのことを一概に良し悪しで判断することはできない。恋人関係、あるいは夫婦関係といったものは性生活ばかりが重要なわけではない。ただ、女性たちは不満を抱いている――そうであればこそ、我々手マン師への需要が生まれてくるのだ。
「こんにちは、テーマンの者ですが……」
今日の依頼主は世田谷区に住む人妻だった。年齢は26歳、僕と同い年である。若い方からの依頼は珍しいものではないが、全体として見ればやはり40歳から上の方からの依頼の方が多い。もちろんどんな方が相手であるにせよ、自分がプロの手マン師である以上は粛々と業務を行うだけであるが。
「どうも、いらっしゃ……」
「あ……」
しかし、この時ばかりは僕も絶句した。なぜなら、目の前にいた女性は――僕が高校の頃の同級生だったのだから。
「下曽根くん……だよね」
「うん……朝丘さん、久しぶりだね」
「アハハ。わたし結婚したから、今は高見なんだよ」
「ああ、そうだったね……」
二人の間に微妙な空気が流れる。何かを喋ろうとはするのだけれど、どうにも言葉が出てこない。緊張や恥じらいといった気持ちは当然にあった。ただそれ以上に――朝丘さんが僕の初恋の人だったという事実が、僕の胸を強く締め付ける。
「だ、代理の人を呼ぶよ!朝……高見さんも、このままじゃ気まずいだろうし。それに僕だっ」
「いいの!いいから……とりあえず家に上がってよ。ね?」
強い力で右手を掴まれた。狼狽と共に朝丘さんの方を見ると、彼女は俯きながら『お願い……』と力なく呟く。色んなお客さんを見てきた、色んな女性と接してきた。その経験則が、だから、目の前の女性――朝丘さんに、ただならぬ事情があることを僕に告げてくる。
「話、聞くよ」
その言葉を聞くと朝丘さんは無言で頷き、スリッパを履きなおしながら奥の部屋へと進んでいった。
「そう。旦那さんがお亡くなりに……」
「一年前に、交通事故で。突然のことだったわ。今はようやく心の整理が付いたけれど、しばらくは呆然としちゃって」
愛していたから、ね――朝丘さんは最後に息だけの声で呟いて、言葉を締めくくった。26歳、人生の成熟をみるには早いが、それでも様々なことは十分経験できる年齢だ。愛する人との出会い、そして別れ。朝丘さんの胸中はいま、如何ばかりのものなのか。
「どうしてウチの会社に依頼を?」
「寂しいから。そんなのって当たり前のことでしょう?」
野暮なことを聞いてしまった。相手の事情には決して踏み込まない――それは、この仕事に従事する上での不文律。僕はその規律を破ってしまった己の不明を恥じながら、どうにか『お察しします』とだけ声を返す。
「まさか下曽根くんが来るとは思わなかったわ。でも、よく分からない人が相手じゃなくて良かったのかもしれない」
「え?」
「仕事。してくれるんでしょう?」
朝丘さんは浅く腰掛けていたソファーから腰を上げると、機敏な動作で衣服を脱ぎ始める。気付けばあたかも最初からそうであったかのような風情で、彼女は全裸となっていた。
「ま、待ってくれ朝丘さん!」
「なに?同級生とは仕事ができない、ってわけ?」
「そうじゃない、そうじゃないけど……」
君は、僕の初恋の人だから。
そんな言葉が口をついて出そうになる。
でも、それは『僕の事情』だ。
決して『朝丘さんの事情』ではない。
「下曽根。自分の都合で仕事をするな」
偉大なる手マン師・御堂さんからの大切な教えが耳朶に蘇る。
「身内にだって手マンする。その時、俺たちは初めて一流になれるんだ」
一流の手マニスト、その前に聳え立つ巨大な『壁』。
御堂さん、僕は今その壁の前で立ち尽くしているのでしょうか――。
「分かったわ、どうしても無理だというのなら別の人に……」
「……やるよ」
「えっ、でも」
「俺はプロだ、プロの手マニストだ。同級生だろうが親戚だろうが、たとえ親だろうが――依頼があれば何でもこなす。それがプロのプロたる所以なんだ、朝丘さん」
それだけ言うと、鞄の中から愛用の手袋(マン・グローブ)を取り出して装着する。この手袋で何デシリットルの、何ガロンの愛液を吸い取ったのだろうか?僕はそんなつまらない思考に身を委ねながら、心の中の仕事スイッチをそっとオンに切り替えた。
「横になって下さい」
3LDKのマンション、その奥まった位置に寝室があった。ベッドの上に初恋の人が産まれたままの姿で横たわる。うっすらと生えたアンダーヘア、たわわな乳房、芳しい香りを放つ長い髪。それら全てが一体となって、僕の琴線をかき鳴らす。
『Y=1/X、これを忘れるなよ下曽根』
(分かってますよ、相武さん――)
ノスタルジーに溺れそうになる弱い我が心に鞭を入れ、再び手袋(マン・グローブ)を握り締める。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、朝丘さんは目を瞑ったまま動かずにいた。
「始めさせていただきます」
まずは下の具合を確かめるべく、そっと下腹部に手を伸ばす。特殊素材で作られた手袋(マン・グローブ)は、素材越しでも相手の体温、湿度、感度などが伝わってくるようになっている。肌に触れるか触れないか、ぎりぎりの間隔を保ちながら時間をかけて門前まで指を導いていく。そしていよいよ、僕の商売道具が朝丘さんのご本尊に触れた。
(カラッカラやないか!)
口には出さず、心で叫んだ。もちろん、こういうケースがないわけではない。ただ、こんな仕事だ。依頼を受ける場合、高い確率で相手は欲求不満の状態なものである。だから湿度0%という状況はほとんど存せず、あるいは低い湿度でも時間をかければ熱帯雨林と化すことが専らなのである。が、この乾き具合。それは下曽根にとって初めての経験だった。
「乾いているでしょう?正直に言ってくれていいのよ」
「…乾いて、います」
「いいの。自分でも分かってる。あの日から、主人が旅立ってしまったあの日から…私の心は、身体は、ずっと乾いたまま。だからこうしてプロに頼んでみたの。でも、それも無駄だったみたいね」
「待って下さい。僕の仕事はまだ始まったばかりです。きっと、あなたの乾きはきっと僕が――!」
「……分かったわ。続けて頂戴」
威勢のいいことを口走りはしたものの、内心で僕はひどく焦っていた。突破口が見当たらない。活路が、見出せない。社外秘のファイルにあった『ヌレヌレ!秘伝のツボ69』にあった経絡秘孔も全て試した。しかし朝丘さんの身体は何らの反応も見せない。
(あるいはローションを使えば――)
そんな悪魔的な囁きが鼓膜を揺らす。しかしそれでは何の解決にもならないこと、それは僕自身が最もよく分かっていた。
『この手一本、この指一本』
それは御堂さんの、そして創設者馬田種之助氏の放つ金言。僕だけがその伝統を反故にするわけにはいかないのである。しかし、一体どうすれば。
「…やっぱりダメみたいね。いいの、下曽根くんが悪いわけじゃないわ。全部、全部あたしの問題だし、あたしが乗り越えなきゃいけない問題なのよ。分かってた、そんなの最初から、全部」
肩で息をしながら朝丘さんの言葉に耳を傾けた。やはり僕では力不足だったのだろうか。過去の、旦那の幻影に、僕は打ち勝つことができないのだろうか。だったら手マン師って……手マン師って……
「何のために存在するんだよ!」
ベッドから立ち上がり、玄関に向けて駆け出そうとする。耐え難い忸怩が胸中に広がり、言いようのない敗北感が全身を覆っていった。もう辞めよう――ただそれだけを考え、寝室のドアを開けようとしたその時。
「なんだこれ……」
足元で何かを踏みつけた感覚があった。思わずしゃがみ込み、違和感の正体を探る。
見れば、それは遺影だった。
「これ、旦那さんの」
「イヤァッ!!言わないでぇっ!!」
刹那、それまで冷静さを保っていた朝丘さんが正体不明の叫び声を上げた。夫に対する羞恥心?いや、これはもしかすると――。
『大事なのは【相手が何を求めているか】というのを冷静に読み解くこと。マッサージと同じです。肩こりの患者には肩揉みを、腰痛の患者には腰のマッサージを。手マン師は手マンを。簡単なことなんです』
そうだった。
大切なことは全て御堂さんが教えてくれていたのだ。
今までも、そしてこれからも。
(続く)