肉欲企画。

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1966年12月19日

伝わりにくいことではあるけれど

帰省した時の話とか

2008年3月12日

下ネタを一概に否定する人というのは絶対数居て、その気持ちは僕にとっても確かに理解できる。TPOもわきまえずに下ネタをサクレツさせる人というのは嫌われても仕方のないことであり、僕だって出会ってすぐさま経験人数を云々言う人とは喋っていたくない。『事実行為』としての下ネタにばかり話が終始する人のトークは、聞いていてあまり心地よいものじゃないからだ。

『あー、あそこに座ってるあいつと今すぐセックスしたいな!』

男暦24年の僕としても、その気持ちは理解できる。が、この発言には会話としての深みがない。セックスがしたい!その思いは誰しもが抱く可能性のある性質のものだけれども、いつでもどこでもそんな感じのことをシャウトしていれば、『嫌ねえ、いつもいつもあの人って……』ということになりかねないだろう。僕自身も『セックスしたいよねー』ということを語る場合はあるものの、相手は選ぶ。

セックスをしたい!だけで話が終わってしまえば全てのことはそれまでである。でも、そこから先に話を深めていくのであれば、そこには意味が生まれ始める。全ての会話に確定的な意味が必要だとは思わないけれど、一般的に言って『内容のある会話』を紡いでいる方が、飽きはこないだろう。

あの人とセックスがしたい!と表明するのであれば、『どうしてあの人とセックスをしたいと思ったのか?』という部分にまで触れて欲しいのだ。そうまで至った時、初めてそのトークは単純な『下ネタ』という枠を越え、その人の来し方ゆく末を判断する材料となりうる。セックスをしたい、という思いそれ自体はただの本能であり、僕らが動物である以上思って然るべきリビドーである。そうではあるが、どんな人とセックスをしたいのか?という部分に関して考えれば、それは『価値観』や『理性』などの本能的な部分以外の要素が介在してくる。その辺りを掘り返す行為は、端的にその人の人間性を示す指標となり得るし、それはある意味でカウンセリングのようなものだ。ブログの中でも再三言っていることではあるが、たまたまその会話中に『セックス』や『射精』という品のないレトリックを用いられているだけで、会話内容それ自体は結構真剣なものである。

『貧乳の女としかセックスをしたくない』

断片的に切り取れば、非常にコクのない表明だ。けれど、どうして俺は貧乳じゃなきゃならないのか?という部分にまで立ち入れば、そこに潜在しているのは彼の抱く貧乳への哲学だ。例えば貧乳を好きになったきっかけが、幼稚園の頃に自分のことを親身になって面倒を見てくれた先生の存在が遠因となっている……というトークがあるのであれば、それは面白いドラマだろう。興味深い話だと思うし、かつて彼が抱いた恩師への感謝の情が現在において性欲に転化している、というのも人間の罪深さを分析する上で意味のあることだ。

その場合に、最初に彼が『実は貧乳の女の子とセックスがしたくてね……』という表現の問題にばかり囚われ、盲目的に忌避し、「アイツは下ネタしか喋れないヤツだ」と断定することは、少しばかり寂しい。もちろんTPOの問題もあるし、『セックス』というテーマでトークをしている以上、頭ごなしにそれを嫌う人がいることも致し方ないとは思う。が、その人が結論として『とりあえず射精したい』と語ることと、『セックスがしたい』と語ることとは、内容においてかなり様相を異にするのではないだろうか。

単純に誰でもいいから射精をしたい、という『対人オナニー』としてのセックスを語ることは全面的に価値のない下ネタである。けれど、心を通わせた上でのセックス、あるいは深い哲学に裏付けられたセックスを語ること、それは安易に下ネタという尺度で判断することはできないのではないだろうか。かなりエゴが強い主張だとは思うが、議論としては一応成立することと思う。話の性質上『チンコ』とか『マンコ』という単語が出てきているだけでしかない以上、そこだけに囚われて『この人は品のない人物だ』と判断することは、あまり理性的ではないだろう。まあ全ての事象をセックスを通してしか断ずることができない人、というのも大いに問題があるが。

そんなような宗教に入信している僕と僕の父親は、いきおい『ニンゲン』という存在に関して議論を深める場合に、下ネタ的な要素を介在させることがよくある。ただそれは、『本能をいかにコントロールするか』という部分に各人の性格がよく表れる、ということを理解しているからであり、だからこそ便宜上の問題として下ネタフィルターを用いているだけのことだ。分かってくれ、とは言わないが、別に僕は本気でオヤジとオナニーの話をしているわけじゃない。単純に

「人はいつオナニーを止めるのか?」

というテーゼを扱う場合、必然的に『いつオナニーを始め、どのような動機でオナニーを継続しているのか』という部分も検討する必要があるだけである。あくまでもそこが本質なのでなく、結論を得るために回避できない経路としてそこを通過しているだけだ。そして『オナニーを続けている人間と、やめてしまった人間とは、社会生活を営む上でどのような相違があるのか?』というところにまで議論が至っている現実も、正しく認識して欲しいのである。

「アンタらええ加減にしときんさいよ……」

僕ら親子がそんな会話をスパークさせていると、母親がついにキレた。今日のことである。切なくて悲しいことではあるが、男女という性差がある以上、そのように憤る母親の気持ちも理解しなければならないだろう。でも、別にやましい気持ちがあってオナニーの話をしているワケではないんだ!という思いは強く主張したいところだ。

もちろんそのことを母親に対して主張はしたのであるが、結果としてはより一層キレられた、という切ない事実も併記しておく。僕たちは正しさだけでは生きていけないのであり、帰省した息子が意気揚々とオナニートークをカマしていた、その時に母親が抱く切なさを理解していなかったのは、僕の弱さだ。ただ、親父との絆がより一層深まったこともまた確かなことなのである。

あの場合、オナニーという単語を『手淫』と言い換えておけばベターだったのかな?振り返って今、僕はそんなことを思っている。下関に帰って参りました。
posted by 肉欲さん at 00:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
怒られたら次回から、
「下ネタじゃない!性ネタだ!」
と、高らかに宣言してください。
Posted by らうゆ at 2008年08月15日 16:07
オレのブログは支持されているんだ!

と高らかに宣言してください。

多分、マジギレされると思います。
Posted by 安寿 at 2008年08月15日 22:26
色ネタというと深みがあるよ
Posted by ぞ at 2008年08月16日 22:36
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