肉欲企画。

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1966年12月23日

戯言のような

コメント欄についてとか

2007年11月09日

ブログのコメントにどう向き合うか、っていうのは一つのテーゼとして重要であることは確かなんだけれど、あまりそのことについて考え過ぎても仕方がない。所詮ブログなんだから。コメント欄がないならないで、それは世界に何の動静も与えない。

けれども、運営している側からすればそこまでドラスティックに割り切れない側面も確かにあるわけで、端的に言えばコメントを気にする人ってのも結構いるし、僕だってその辺りのことに例外ではいられない。昔に比べりゃ楽にはなったけれど、やっぱどこか気にする部分はある。

僕のコメントに対する考え方は結構適当だ。ブログを運営している人がいたとして、その人がコメントを閉じたきゃ閉じればいいじゃん、と思う。それと同時に『批判される覚悟もなけりゃブログなんてやるなよ』という意見も理解できる。それらは要するに見解の違いでしかない。

色んな意見を見てきた。『匿名で、何も失うものがない人が安易に批判をするな!』という意見。『コメント欄がなくてもトラックバックは開放しているのだから、意見があればトラバを打てばいいじゃん!』という意見。『コメントは開放してるけど、自分はコメントを見てませんよー』という意見。様々あった。

どれが正しい、って話じゃない。僕は正しさを求めたいわけじゃない。ただ、コメントっていうものに対する性質に対して、もっと分かりやすい分析ができないものかな、ってことだけはずっと思ってた。

それで最近、ちょっとだけ『お、これは』という考えに至ったのである。ブログにおけるコメント欄ってのは、どうも母親の料理に対する意見に似ているんじゃないか。

たとえば、毎日更新しているブログがあるとする。アクセス数もまずまずだ。当然、コメントも付く。

コメントが付くとなると、やはり一定程度の割合で否定的なコメントもくるものである。『今日のはツマンネ』とか『面白いのか?これ』とかいった声だ。

その声は貴重だ。賛成しかないような状況はどうしても気持ち悪いし、正しい批判(という基準をどこに設定すべきかはまた難しい話だけれど、ひとまず置いておくとして)であれば、それはむしろ積極的に受け入れるべきものだろう。

けれど、どれだけ日記上で冷静に対処している人であれ、そういうコメントが付いた瞬間にあっては

「なんだよコイツ……せっかく苦労して書いた日記だってのにさあ!」

と、多少の憤りを覚えるものではないだろうか?少なくとも僕に関しては、そういう部分はある。表立ってそんな感情を出すことはないけれど、ちょっとした鬱屈とした気持ちは澱のように溜まっていくものだ。

『今日のご飯、あんまり美味しくない』

そういえば僕は、母親に向かって何度となくそんな言葉を吐いた記憶がある。そこに大した悪意はない。ただ、美味しくないと思ったからそのままに伝えただけのことだ。けれど、あの時々に母親は何を思ったのだろうか?その気持ちを想像することはできる、しかし事実として母が僕の言葉をどう受け止めたのかは、今となってはよく分からない。

ブログも人も、そして母親の料理も。閉鎖するか死ぬかするまでは『当然に』『ただそこにあるものとして』僕らの前に存在し続ける。もちろんブログのコメントと母親の料理への品評とを同列に扱うことは乱暴だし、評論において過度に比喩表現を用いることはルール違反ではあるのだけれど、ある程度通じる部分もなくはないように思う。

その意味でいえば、ただそこにあるものに対し、誰かが何かを言ったり、言わなかったり、暴言を吐いたりすることは、発信者の側の問題として捉えるのではなく、むしろ受け手の問題として捉える方が幾分か理性的で、かつ精神的にも穏やかでいられるのではないか、と最近思う。

『どうしてこんなことを言うのだろう?』と考えるのではなく、『ああ、こういう声もあるのね』と受け入れること。それは結局、誰かが出したのと同じ結論ではある。けれど、自分なりの思考経路の果てにそこに辿り着いた、という事実はやはり大きい。それは『息子はどうして私の料理を嫌いだと言うのだろう?』と考えるのではなく、『こういう味付けにすればもっとマシにはなるのかな?』と考える、みたいな状況に対置できるかもしれない。

考え方はそれぞれだ。別にこういうのってブログだけのことではないだろうし、企業製品にしてもCMにしても、人為的な要素が介在する全てのことに敷衍して言えることだとも思う。ただ『無償である』という点においてのみ、母の料理と個人ブログとはある程度の親和性を有する。そして、いつかいきなり失われる可能性がある、という点に関しても。

だからといって過度に有難がる必要もない。不味いものをきちんと不味いと言うこと、言ってあげること、そこに私怨がないのであれば、それはどちらかといえば優しさだ。もちろん、その当時に味覚障害でないのであれば、の話であるが。一番怖いのは、母親同士だけで『この味がいいのだ』と決め付け、押し付け、意見を排除し続けることであるのには間違いがないだろう。あるいは、息子の嗜好だけを過度に気にして、毎晩ハンバーグだけを出し続けることも同様に。

だから、母親同士の意見交換はあってもいいけれど、馴れ合ってばかりではいけないんじゃないだろうか。なぜなら、そこで培われるのはただただクローズドな関係性でしかなく、いざという時に柔軟な対応ができなくなるように思われるからだ。もちろんそのことと、ハンバーグの美味さを職人的なレベルにまで昇華させることとは、全く別の話である。


でもまあ、やっぱこの論理は厳しい。だって僕は母親じゃねーもの。大体が、母親って選べないものですしね。ブログはブログ、料理は料理。やはり分析的なものに比喩はそぐわないですね。どうも最近頭が固くてかなわんなあ。寝よう!
posted by 肉欲さん at 00:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
寝ながら戦争はできない。

そうだ。みんな寝よう寝よう。
Posted by 安寿 at 2008年08月15日 11:00
こういうの、日記ぽくて、好きです
Posted by かいい at 2008年08月16日 23:15
やっぱブログと料理じゃ、有難さが違いますよね(笑)
Posted by ま at 2008年08月16日 23:51
ブログと母の料理じゃ、有難さが違いすぎます(笑)
Posted by ま at 2008年08月16日 23:52
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