その言葉がどんな文脈から放たれたにせよ、大抵の場合それは嘘である。なんでもいい、それはいつだって『なんでもよくない』気持ちへと収束していく。
人は決めつけられたい生き物だ。道しるべを示され、ここが歩く場所なんだよ、と言われること。ストレスを感じず柔らかに生きていくこと。それが望ましいものであること。何も考えずに生きていきたい、無意識的にそう考えてしまうこと。
楽園を生きたい。
そう願う気持ちを咎める理由はどこにもない。
「じゃあ、そこのモーテルでファックでも……」
人の言葉は脆くて儚い。願いは霧散し、祈りは滅失する。なんでもいいは、なんでも良くない。なんでもいい、と言った私の気持ちは、決してなんでも良くないからだ。
「モーテルでファックは、ちょっと……」
「なんで?なんでもいいって言ったじゃん」
切なくて、夏。言葉が通じなくて、2015。そういうことじゃ、ないでしょ!?そう思う気持ちも虚しく儚く、彼の胸には届かない。
「なんでもいいけど、なんでもよくないところって、ホラ、あるじゃん。空気感的なそれっていうか。いや、ホント、なんでもいいんだけど、モーテルはちょっと……」
「じゃあウチに帰る?」
言葉は、嗚呼、神様。こんなにも遠くて胡乱で、曖昧なものだったのでしょうか。沢山のことを望んでいるわけではないのです。ちょっとのことなのです。でも、そのことをつぶさに私は、一々の細かいところまで。言いたくはないのです。それは私の、我儘なのでしょうか。
「なんでもいいよ」
そう言ったのは私です。それは認めます。ですが別に、どうでもいいよ、と言ったつもりはないのです。言葉遊びなのは分かっています。でも、でも。なんでもいいことと、どうでもいいこととは、違うのです。そのことを察して欲しい、感づいてくれるだろうと思った私は、もしかして、愚かだったのでしょうか。
「じゃあどうしたいんだよ」
目の前にいる人が苛立っているのが分かります。私は悲しい気持ちになるのです。言葉の意味は分かるのに、理解できるのに、絶望的なまでに意思疎通ができない。一体これを何と言えばいいのでしょうか。私はそんなに多くのことを望んだでしょうか。
「そういう気分じゃ、ないんだけどなあ」
目を見て話すこともできません。
言葉を紡ぐだけで精一杯なのです。
なんでもいいけど、なんでもよくない。
少しずつにしか、私は私の気持ちを説明できないのです。
「じゃあどうしたいか、最初からハッキリ言えばいいじゃん。なんでもいいとか、なんでもよくないんじゃん」
そんな目で私を見ないで下さい。辛辣で厳しい口調で、私のことを責めないで下さい。私はただぼんやりと、なんとなく曖昧に……なんでもいい、優しい時間を過ごしたかった。
私には言葉が少ないから。
なんでもいいとしか言えなかっただけ。
それがそんなに。
あなたのことを怒らせるとは思わなかったのです。
・・・
切ないワンシーンである。
「なんでもいいよ」
古来より、人から放たれるこの言の葉に懊悩した人は多い。
なんでもいいって、一体なんだよ!
それは男女の関係だけに存するマターではない。
「先輩、昼飯買ってきますよ。何がいいですか」
「なんでもいいよ」
「ウッス。メロンパン3個買ってきました」
「お前殺すぞ?!」
ファジーな言葉は、危うい。
なんでもいい、それは往々にしてなんでも良くないものである。
「先輩、昼飯買ってきますよ。何がいいですか」
「どうでもいいよ」
「ウッス。とんがりコーン買ってきました」
「ありがと」
『なんでもいい』と『どうでもいい』、両者は近いようで遠く、浅いようで深い溝が存する。
なぜか。
それは考えてみればすぐに分かる話である。
「なんでもいいよ」
あなたがその言葉を投げる相手は、確実に信頼を寄せる誰かだからだ。なんでもいい、俺の文脈が生きるものなら、なんでもいい。なぜならお前は、俺のことを分かってくれているからだ。
そういう枕詞が確実に存在する筈なのである。
「ねえ、このベッドにさあ…新しいカバー買おうと思うの!どんなのがいいと思う?」
「そうだねえ、なんでもいいよ」
それは世の中に数多蔓延る人間が存在する中で、あなたが信頼するただ一人にしか分からない『なんでもいい』だ。限られた誰かにのみ丸投げできる、愛のある『なんでもいい』である。
「買ってきたよ!旭日旗柄のイカしたベットカバー!」
「ちょっと待てよ」
「なんで?なんでもいいって言ったじゃない!」
「言わなくても分かるだろ!このバカ!」
「なんでもいいって言ったよ!」
何のことを、どこまで言うべきなのか。
そのことに対しての答はどこにも存在しない。
「言わなきゃわかんないだろ!」
「言わなくても分かってよ!」
これは性差の話ではない。言葉を媒介にして社会生活を営む、生きとし生けるもの全てが向き合うべき問題である。
・・・
「この後さあ、どうする」
「うーん、任せる。なんでもいいよ」
察する魂の余白、read between the lines、読み解く心の行間。
そいつのあり方をつぶさに訊くヤツがいれば、それはただのアホである。
「じゃあちょっと、ラーメン屋にでも……」
「ハァァァ!?」
ファジーな僕たちである。
曖昧な言葉で真意を隠し、欲望を見えないようにする。
いつだって大切なことは、誰かに決められたいのだ。
「なんでもいいって言った……」
「ラーメン屋がいいとは言ってねーわ!そういう文脈じゃねーわよ!」
「じゃあそう言って……」
「言わせてんじゃねーわよ!家行ってヤルの!」
夜は過ぎる。
いつだって夏は終わり、秋を迎え、冬を過ごして春になる。
「なんか、僕、奪われた気分」
「一生言ってろ」
なんでもいい
なんでもいいは
なんでも良くない
どうでもいい
どうでもいいは
どうでもいい
なんでもいいと、どうでもいいと。
ちょっとした違いだけど、ちょっとしたところが、非常に大事なものである。