肉欲企画。

twitterやってます。

2015年04月20日

日記

俺の話をしよう。
まあ、いつだって俺の話なんだが。

ブログを始めたのは、厳密に言えば11年前だ。肉欲企画、という名前にしたのが10年前だった、という話で、このブログの前身を含めれば、11年も前から俺は俺の話しかしていない。

11年も自分語りをする気持ちってのは、一体、どういう感覚なんだろうな。

それはもちろん、俺が語ることはできる。なぜなら11年もずっと、俺は自分のことしか語っていないからだ。誰の得にもならないことを、誰の損にもならないことを、ひたすらに、11年、俺はただ自分に向けてしか語っていない。なぜか。俺は自分が好きだからである。それ以外にあるのか?俺は自分が好きで、好きでたまらない。一生そうだろう。よく知らない誰か、見もしない誰かのことを好きになれるヤツなんて、どこにいるんだ。

俺はずっと、自分しか好きではない。自分が好きだ!それを突き詰めた結果が、溢れて、外に出ているだけのことだ。

優しさ、というものは存在する。俺は結局、誰かから寄せられる優しさのさざ波の中でしか生きていけない。
だから俺は人に優しくなりたい。自分しか抱えられない人生なんてまっぴらだ。俺は誰かを抱えて生きたい。誰かを背負って生きるくらいには、余裕を持って生きたい。

その誰かが、いまのところ、どこの場所に存在するのかは分からない。

俺はこのブログを始めて10年が経った。事実関係としての10年だ。昨年も一昨年も、ロクに更新しちゃいない。俺の人生にしたって、同じようなもんだ。更新しちゃいない。更新しようと思う。俺は随分と長い間、自分のことを是として、そのままでいいと思っていた。でもそれじゃダメなんだ。俺はずっと胡乱だった。だけど、それでは、ダメなのさ。

離脱症状は相変わらずにキツイ。酒は好きだ。酒は俺のことを好きなのだろうか?俺はもう、酒に酔ってしか文章を書けない。シラフで自分のことを見つめるなんてまっぴらだ。酒は飲む。酒に罪はない。学ばない俺が悪いと、ただそういうことしか思わない。

誰かの、何かのせいにして、自分の人生がマシになったことが一回でもあったか?そんなことはあるワケがねえんだよ。

呪詛は吐け。人は呪え。思ったことは口にしていい。それと同じようにして、自分のことも罵れ。苦しんで、怒って悶えろ。人に向けていい言葉は、自分にも向けていい言葉だけだ。自分に向けてキツい言葉なら、そいつは人にも向けていい言葉ではない。

「お前、もうちょっと楽に生きろよー」

口の悪い俺だが、よくよく考えてみれば、俺はそういう言葉しか親しい人にしか吐いていなかったかもしれない。

「お前、不器用だよなー」

俺はたぶん、自分が欲しかった言葉を、欲しそうだった誰かに与えていたに過ぎない。

「人生は楽しいんだからよ」

自分と向き合うのは、きついな。本当に。言葉というものは、放った当人から、直接的に自分に襲いかかってくるものだ。そういうことを、改めて感じてしまう。

「まあそういうもんだからしょうがないんじゃん。嫌だったら口を噤んで貝のように生きれば?」

青写真のように人生が進むのなら、誰だって苦労もしないだろう。

「違うんだよ。言葉っていうのは呪いでもあるが、願いでもある。祈りだ。なんでこうできないんだ!って思うこともあるだろう。だけど、こうしてほしい、こうなればいいなあ……って思うよすがを、誰に止める権利があるんだよ」

俺はずっと胡乱だった。一度言った言葉は撤回できないと思っていた。でも、そんなことはないんだ。

「じゃあ、過去の言葉を信じた人については?」

「謝ればいい。ごめんなさい、間違っていました。間違ったことは、それはもう、間違ったことなんだ」

「間違ったまま、引き返せないとこまで行った人については?」

知るかそんなもん。勝手に生きて勝手に死ね。俺は強要した覚えはない。そんなもんだろ。いつだって自分の人生にケリをつけんのは自分しかいない。俺のせいにするヤツがいたとすれば、そんなのは最初からクソみたいなもんだ。

人生って何なんだろうな、俺は最近よくそういうことを考える。そしてそいつは俺にも分かんないさ。だからブログやってんだよ。俺の俺による俺のためのログ、ここはそういう場所だ。

笑いも何もねえ箇所に。そういうところに行き着いちまったのが、結果としてのものだ。笑いを求めて読んでる人には申し訳ないが、俺はまあ、こういう形で自分を吐露するのが好きなんだよ。

日記だ。酔っ払いながら書いたけど、これでも結構推敲したんだぜ。もう俺の頭はパーだ。肉欲企画10周年に寄せるつもりだったんだけどな。
posted by 肉欲さん at 04:13 | Comment(24) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年04月19日

ヒモになる人ならん人

世の中にはヒモという存在がいる。

ヒモ。

他者という存在に関して紐をくくってぶら下がって生きているもの、そういう方々のこと全てを指して紐といえば、それは誰もが紐だ。どんな人だって、大抵の場合、何かをよすがに紐をくくって生きている。

しかしながら、ヒモ。カタカナで『ヒモ』と語った瞬間、綴った刹那、それは明確に人外魔境の領域へと区分される。『紐』ではなく、『ヒモ』。紐とヒモ、音は同じであっても、後者のそれは極彩色の意味を纏う。

ざっくりと言えばクズかカス、ちょっと上品な表現を施せばクソ野郎。そういったカースト、そういった連中、そういったリズム・アンド・ブルースに生きている人たち、に、侮蔑を込めて贈る言葉。

それがヒモである。

『肉欲さんのヒモに対する考察を訊きたいのですが』

先日のことであった。俺は初めて会う女に、そのようなことを問われた。

「なぜですか」

『いや、ヒモにお詳しそうですし……』

熱い風評被害だが、その風評をばら撒いたのはきっと俺自身の言動であろう。そもそも自称が肉欲である。それは、まあ、そうですね……僕はヒモではありませんが……思うところはありますよ……など、そう返すのがせいぜいだった。

そもそもヒモとは何なんだろうか?この話の行き着く先は、そんな哲学的なテーゼでしかない。ヒモとは何か。あの日からこっち、俺はずっと考えてきた。ヒモの定義、それのことだ。そして考え至った。

ヒモは主観できない。
ただ客観があるのみである。

「あいつヒモだからやめときなよ!」 VS 「そんなことはないんだよ」

無限回廊の如き様相を呈しながら、古代の昔よりそういった論争が繰り広げられてきたはずなのだ。誰がどー見たってアイツはヒモ!あんたは騙されてんの!という熱い客観視点と、それを受けて、違うのそうじゃないの!私が勝手に頑張ってるだけだし……見返りなんて求めてないし、という浪花節じみた主観視点と。確実に、厳然として存在するのは、その『対立構造』それだけでしかない。

いやいや割り切ってやっている人もいるでしょ……と思った方がいるとすれば、それは主観と客観が一致した意味での乾いた関係性、換言すればただの愛人契約というヤツだ。ヒモのケースとは内実がまるで異なってくる。ベン図で言えば重なり合うところもあるだろうが、おそらくにして、重ならない部分の方が面積として広い。

愛人的な位置づけにいる人間は、そもそもにして自らの立ち位置に自覚的だろう。それは己の価値をクレバーに判断した上でのことだ。虚ろな目で、しかし実直な声色で睦言も吐くだろうし、薬剤を飲んででも性器をそういった状態へとバーサークさせていくことと思う。

ヒモは違う。自らの立ち位置に関してひたすら無自覚だ。己の価値について、いつだってウェットで、また、ぬるい判断しか与えない。俺はやれば出来る子だから……それがヒモだ。ネバーランドでシャブを打ち続けているピーターパンなのである。

「あの人は違うの」

同じようにして無自覚にシャブを与え続ける存在、つまりヒモをヒモとして存在させ続ける心優しくも罪深い売人、それがピーターパンを使役するのである。金というシャブをピーターパンに打ち続けるのだ。

ギブ・アンド・テイクという言葉がある。あるいは、義務と権利、といった言い方もある。何かをすれば何かを得られる。何かを得るためには何かをしなくてはならない。施せば、返ってくる。そういった考え方は、古今東西、どこにでもあっただろうし、あって然るべきだ。

「あの人、最近、仕事探し始めてるし」

ヒモ界隈に生きる人からすれば、それすらもギブ。『仕事を探し始めている』、そんなギブ。常人からしてみればギブなんてどこにもない、ただのテイク・アンド・テイク・アンド・テイクである。失うことしか確実なだけだ。が、ネバーランドの住人にはそれが分からないのだ。

「この前、お皿も洗ってくれたし……」

察するところ、これが現実なのだ。俺は常々言っているが、ヒモは才能であり、愛人は努力である。どこの世界に皿を洗っただけで毎月を養ってくれる人間を探せるというのか。それを是とできる人間を、どうして探し当てられるというのか。

「セックス?面倒だな……まあちょっと手マンでもして寝るか……たまには機嫌もとらねーとな……」

彼らの思考回路はこれである。面倒なことは徹底的にパージするものの、その中で 『たぶんここでワガママ言うと怒るな……でも眠いから……手マンでいこう!』 そういう帰結に至る。どうしたってネバーランド(≒己の大事にする楽な世界)からは出たくないピーターパンなのだ。

いつかこんな話を目にしたことがある。

「だからさ、パチンコ打ちたいからって女に3万円借りるだろ。で、どうあるにせよ、その1000円でハーゲンダッツを買って帰るんだ。そしたら女はそいつを喜んでくれんだよ。これで完璧だ」

俺は確かに完璧だと思った。結局、3万円貸してる、というか、あげてる時点でその話は終わりなのだ。それでも、貸した相手の思考のリソースに『借りた義理もあるしな』というものが残っていた、その事実で、ある一定層の人は

『この人は私のことを気にかける余裕があったんだ……』

満足するのだろう。返す返すも、これはテイクアンドテイクアンドテイクの話である。一方的なギブと、一方的なテイク。それしか存在しない。

「肉さん〜、僕ね、ヒモになりたいんですよ〜」

初めて会った、よく分からん若い連中と酒を飲んでいると、たまにであるが、そういうことを言われることがある。

「ピーキー過ぎてテメエにゃ無理だよ」

俺は毎回そう答える。ヒモというのは状態だからだ。なるものではない。酒酔いの人々が 『俺は酔ってない!』 と強弁するように、ヒモの連中だってヒモの自覚はない。

ヒモは状態。
ただ無自覚に誰かに寄り添うだけ。
なのに自分の力で、足で立っていると、考えている。

「ヒモってどうやったらなれるんですか〜」

『ヒモに対する見解を訊きたいんですが』

俺はいつでも思う。
テメエじゃなにも考えないクセに答ばっかり求めてんじゃねえよ、と、そういうことを。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


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posted by 肉欲さん at 01:43 | Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 このエントリーを含むはてなブックマーク

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