その流行は常に変化していく。時間という存在が不変なものではなく、必ず流れていくという概念である以上、それは不可避なることだ。芽生えて、盛る。潰えて、消える。移ろいやすい世の中にあっては、『変わっていく』という事実のみが、ただ変わらずに在り続ける。
股間に響くファッション。それは必ずしもホットな流行とは一致しない。オシャレだな、と思う気持ちと、ヤリたいな、と感じる心とは、一致しなくてもいいしする必要もない。ファッション業界が垂れ流すロジックと、我々の抱える切ない男心とは、基本的に、同調することの方が珍しいくらいだ。
ハイウェストな服装。どうやらこれが現代のホット・ファッションを彩っているのであろうことは、流行に胡乱な俺でも察知できる。流行り廃りに合理性はいらない。売れ線は売れ線としてキープできればそれでよく、売れるようになる過程に大した意味など存在しない。
「これが今年の流行りらしい」
そういった集合無意識的な合意が形成されれば、後は黙っていても水は低きに流れ、浸透していくだろう。『こうだから、こうなのだ』 、心の弱い部分にダイレクトに訴求してくるプリミティブな同調圧力。皆が着ているんだけど……あなたは着ないのかしら……?という、軽佻浮薄で粗野な恫喝。

(これがハイウェストだ)
俺が初めてこのファッションを目にしたとき、率直にいえば 「いかれポンチだ」 と思った。そして、およそ4年ほど前にサロペットが流行ったときも、同様の感想を抱いた。その時の日記はこちらだが、あの頃は今よりも少しだけアクセスが多かったゆえ、多少言葉に配慮した表現になっている。ただ俺ももう少しで31歳になるし、最早失うものなど僅かしかないので、ハッキリ言おう。若い人には皆リクルートスーツを着て欲しいんですよね、僕は。ホントその辺、気をつけてもらわんと。ハイウェストとか、別に買ってもいいけど、買ったそばから燃やしてもらわんと。マジでそういう配慮というか、俺に優しい世界作りを心がけて欲しいと言いますか。皆さんに関して足りないのは、想像力、ただそれだけなんですよ。少し立ち止まって考えてみれば、当たり前の話でしょう?そういうのって。
春咲く花は秋には枯れる。泡沫(うたかた)は結んでは消え、消えては結ぶだろう。万物は流転する。現象は止まらない。誰かの心の在り方を一方的に決めていい道理など、どこにもない。故に俺は、いつでも自ら抱える欲求のみを肯定する。生きていくっていうのは、簡単にいえば、そういうことだからだ。
若い女を彩るリクルートスーツ姿は股間に響く
これが俺の真実だ。百万言の否定の呪詛も、決して俺の心には届かない。魂に触れることすら能わない。気持ち悪い……反射的にそう感じてしまう誰かの内心の自由は尊い。俺は気持ちいい!その地点から一歩も動けない、動く気すらない俺の姿勢もまた、気高い。これはディベートなどではない。実にシンプルな生存戦争なのである。
パン線、浮かねえかな
目の前を歩くリクスー姿の女の臀部を凝視しながら、俺は必ずそう願う。祈る。あるいは、信じる。夏を彩る葉脈は、冬には朽ちる。目の前に生じるかもしれない真実の一瞬を、俺は決して見逃したくない。ダメならダメでケセラセラ。望むものが望むように訪れる世界なんて退屈なだけさ。そうだろう?
その意味からすれば、サロペットやハイウェストなムードが世間に流れることも、そう悪くはない。幸福や不幸、快と不快というものは、両者が同時に存在して初めて成り立つものだからだ。世の中全てが己の望むものだけに席巻されたとして、それは果たしてアガルタと言えるのだろうか。俺の考えからすれば、そのシーンは逆説的なディストピアとしてしか成立しないだろう。苦味があって甘味がある。甘味ばかりの世界について、いかばかりの価値があるというのか。
「リクルートスーツが好きなんだよね?今度着てあげようか?」
そういうことでは、ないのである。心意気は買いたい。優しさ、思いやり、という言葉の意味も、少しは分かっているつもりだ。だが俺の求めているものはそういう地平には存在しないのである。
「前人未到の虫食いに所有していた衣服の全てがヤラれちゃってさあ……なんとか無事だったのがこのリクルートスーツだけで……変だよね、こんな。家で、別に就活してるわけでもないのに、リクスーなんて……アハハ」
怒張のあまりチンポがはち切れてしまいかねないタッチである。
『仕方なく』
『必要に駆られて』
このたまらない侘び寂びの加減、分かるだろうか。勝手に(あるいは仕方なく)纏ったファッションに対して、勝手に(あるいは必然的に)欲情する俺。エレクトのダイナミズムというのは、往々にしてそういうところにだけ眠っている。
「こういうのがいいんでしょう?」
演出家は不要なのだ。何がいいかは俺が決める。理屈の上で計算された艷さなんて、乾いていてしょっぱいだけでしかない。まあ、そういうのに騙されることも、数多くあるのだけれども。分かっていながらあえて、敢えて……篭絡される、これはこれで大人のタッチだ。させてくれ!不意に出会ったボインにそう叫んだとて、それはそれで風流というものであろう。
「そんな、何でもかんでも性欲の対象に結びつけるなどと……恥ずかしくはないのか!」
ないですね。股間に響く対象というものは現実に存在するのだから、仕方のないことなのです。だからせめてちゃんと言うようにしています。「最低でも2回はしたい」 と、そういうトーンのことを。ホッピーを飲みながら。
言うまでもなく、未来永劫にわたってファッションの在り方というものは変化していくだろう。それは善し悪しの話ではなく、事実関係の問題でしかない。文化を持った我々と服飾という概念とが不可分である以上、何を着ようと何を着まいと、そんなものは個々人の自由でしか有り得ない。
ただ、股間に響くファッション。こいつに関する時間の流れ方は、見えやすい流行よりもずっと遅い……と、そのことを。俺はただ主張したいだけだ。肉欲の名のもとに。