神経質そうな男の見解人が死んでるんでしょ?だったら殺人、それでいいでしょう。他に何か言うことあるんです?
殺す気はなかったかも……って、ねえ。いや、ま、確かにそうかもしれませんよ。でも、現に人が死んでいるんでしょう。そして、それが誰かの手によって起こされたっていうのなら、そりゃもう殺人でしょ。違うの?じゃ、何が違うっていうの。殺す気がなきゃ、人なんて殺せないでしょう。
事故?あなたね、事故っていうのは、車を運転していた人がハンドルの操作を誤った挙句、期せずして人を殺す、そういうのが事故でしょう。予測できないからこそ事故なんだ。で、今回の件はどうです?予測できるんじゃないんですかね。まともな教育を受けてる人間なら、こうしたらこうなる、ああしたらああなる、その程度の予想はつく訳でしょう。それを安易に事故だなんて、バカ言っちゃいけない。
別にね、この人がどうなろうが、僕にとってはどうでもいいの。事故なら事故、殺人なら殺人、どっちでもいいから。興味ないから。ただね、あんたらが『何か言え』っていうもんだから、私としても、そりゃまあ殺人じゃないの?って、そう主張してるの。
そうだ。あのさ、たまに街で暴れた頭のおかしな人が、裁判した挙句に無罪放免になるケースがあるでしょう。ああいうはやめて欲しいですね。どうして罪のない一般市民がそんなリスク負わなきゃなんないんですか?どう考えてもそれはおかしいでしょう。僕らがリスクを負うんじゃなくて、最初から頭のおかしい人は野に放たなければそれで済むんじゃないの?野生のクマとかイノシシとかと何が違うの、ああいう人たち。
だからまあ、とにかくね。
殺人、殺人者だよ。この人は。
無罪とか有り得ないね。
若い女の見解分かんないんだけど、まあ別に……あるっちゃあるんじゃないの?いや、分かんないんだけどね。あたしはその女の人じゃないしさあ。オトコとオンナってさ、やっぱ二人にしか分かんないようなとこがあんじゃん。それをアタシがどうこういうのも、なんか違くない?アタシ?逃げるでしょ、普通。自分から指切られたい!なんて思うヤツとかいんの?
あ、待って。ああ……うん、よく考えたら知り合いにいるかもね、そういう変なヤツ。そいつはね、こう、ベロ?舌をね、なんていうの、真ん中からスパッと切り分けてんの。ヘビみたいな感じで。ボディピの延長みたいな感じ?って分かるかな。初めて見た時はドン引きしたけど、今となっちゃあそれもそれでアリなんじゃん?っていうか。まあ自分の体なんだし、自分の好きにすればいいんじゃん。ほら、個性ってさ、大事だから。
だからさぁ、アタシはこのオンナの人のことなんて全然分かんないけど、そういう人もいるってことでいいんじゃないの?気の合う人たちでこっそりやってりゃいいよ、迷惑かけなきゃなんでもアリだって思うもん。アタシはしないけどね、痛いのイヤだから。
そういや、このオンナの人って死んでんだっけ。てかさ、こういうのもDVになんのかな。最近多いよねー、口論に負けたらすぐ殴ってくる男ってさあ。ウチらの周りにもそういうの相当多いよ。死ね、って思うし。
でもさあ、オンナもオンナだって思わない?何だかんだ言って殴られる方にも原因あんじゃないの?みたいな。ま、この人らだって最初は愛し合ってたワケでしょ。だったら、オトコも反省してるみたいだし、適当に許してやってもいいんじゃないの。
やっちゃったもんはしょうがないし、せいぜい次に活かしていくしかないと思うよ。アタシはね。
壮年の男の見解信じられないな、というのが率直な意見ですね。だってそうでしょう?死人に口無しって言いますけど、あれは彼女が何も喋ることができないのを良いことに、事実を無理やりでっちあげている。そう思えて仕方ありません。
二人の営んでいた夫婦生活について?そりゃあ、私だってきちんと検討しました。確かに、まあ……常識的に考えれば、夫の名前を自らの肌に焼印するだなんて、彼女の同意がなければ不可能かもしれません。どう考えても異常な状況ですし、一般的な感覚からすれば焼印を無理強いされた段階で逃げ出すことと思います。
ただ、こうも考えられませんか? 『異常な状況に置かれていたからこそ、彼女はまともな判断を下すことができなかったのだ』、と。何でしたか、あの、ストックホルム症候群でしたっけ。銀行強盗に遭遇してしまった人が、過度の抑圧状況に置かれるあまり、犯人に対して特別な感情を抱いてしまう――という現象。だから彼女も、夫と日々顔を突き合わせている内に、いつしかおかしな思考に陥ってしまった。私はそのように予想しています。
仮に。夫の述べていることが全て真実だとしましょう。妻に請われるままに彼女を傷つけた、彼女の言うがままになっていた……それが事実なのだとして。どうにも、僕にはそれが免罪符になるとは思えません。
常識で考えてみて頂きたいのですが、今回の被虐行為が彼女の意思に沿うものだとしても、それを許容して良いのかどうか。それを許すこと、それは 『相手が望むことだったら何をしてもいい』 という結論を導くことになるわけです。では、 "相手の望むこと" って一体何ですか? 望んでいることと望んでいないことと、その線引きをどこに求めるのです?ある人が何を考えていたのか、なんて誰にも分からんことでしょう。 『相手が望んでいたから』 という理由だけで何もかも許していたら、全ての犯罪者は無罪になりかねないわけだ。
彼女はきっと、幼い頃から愛に飢えていたのです。故に、己の体を売りながら糊口をしのぐような真似にも耐えることができた。私はそう見立てています。また、彼女は、ようやく手に入れた伴侶、それをどうしても手放したくなかった。だからこそ夫から加えられる暴力にも我慢できた、あるいは我慢することで、彼からの愛を保とうとした。違いますか?
しかしその結果、彼女は死んだ。夫がいたずらに自己の性欲を満たそうとするあまり、彼女の尊い命が散ってしまった。いいですか、こんなことはね、有り得てはならんのですよ。よって我々は、厳たる姿勢で以て彼を断罪せねばならない。違いますか?
生真面目な学生の見解私たちは神ではありません。だから、起こった出来事を完全な客観性と共に分析することは不可能です。しかしながら『唯一無二の真実』の存在、これを無視してもいけない。故に私たちは、あらゆる事情を斟酌し、全ての情報を総合した上で、出来る限り真実に近づく努力を尽くすべきなのです。
まず、彼らが愛し合っていたのは確かなことでしょう。では、愛し合っていた二人が、何故このような結末を迎えてしまったのか。それを読み解くことこそがこの事件を解決する鍵になると思われます。
彼女は自らの意思で彼と同居していた。ここが重要なポイントです。監禁されている場合を別にすれば、通常、嫌いな相手と一緒に住むことはありません。また一緒に住んでいる以上、同居人の性格、気性、趣味や嗜好、それらも熟知している筈です。そうであるならば、もしかすると彼女は、彼から向けられた暴力行為を積極的に受け入れていたのではないか?そのようにも考えられます。
少し話は逸れますが、現代では、被虐的な行為を好む人たちが相当数存在しています。通俗的な言い方をすればエスエムプレイ愛好家、と呼ばれる人たちです。その観点に立って考えると、あるいは今回の事件は、あくまでも『プレイの範疇』だったのではないか?
個人的な考えですが、今回の彼らの行為が『プレイ』の範囲内に収まるのであれば、これはやはり不慮の事故というべきです。そうではなく、彼らのやっていたことが『プレイ』の範囲内を逸脱しているのであれば――犯罪、このように考えた方がいい。
それを踏まえた上で、さて、実際どうなんでしょうかね。その、どこまでが『プレイ』なのか、結局これは各々の価値観によって違うわけですから。私などは、何と言いますか、経験が少ないため、通常の『プレイ』といっても、ちょっとどこからどこまでが、まあ、"そういう"ものなのか、これを判断しかねるんですけど、ええと……愛する人の要望は全て受け入れたい、という考えは何も奇異ではありません。それでも今回の件はいかにも……ただ、そういうプレイをしていた作品もどこかで……いえ、何でもありません。
結論ですか?ああ、その、ま、とりあえず。
今回は取り急ぎ保留、ということで、ひとつ。
・・・
被告人Kの供述をもとに構成した叙述文(訴訟外記録)
幼き日、蜘蛛の巣に悪戯をした経験はありませんでしょうか。
木々の間に張り巡らされた、幾何学模様の蜘蛛の巣。
別に蜘蛛のことが好きなわけではない、好きなわけではないのだけれど――太陽の光に照らされ、てらてらと輝くその巣を見て、得も言われぬ好奇心、興奮、あるいは陶酔を……覚える。その結果、心ならずも我が手を巣へと、伸ばす。そのような経験は、おそらく、多くの人にあるのではないでしょうか。
人間からすれば、蜘蛛は矮小なる存在です。
だからこそ余裕と、そしてゆとりを持って、我々は蜘蛛の巣へと近づくことができます。
しかしながら、ある種の蜘蛛には毒がある。
そしてそれは、人を死に至らしめる猛毒。
それに気付かぬまま、小さき蜘蛛を侮り、艶なる幾何学へと自らの手を伸ばしたとき。
哀れ人間は蜘蛛の巣に、蜘蛛に、絡めとられることでしょう。
――私にとって、あれは、そんな女なのでした。
・・・
「お客さん、こういうお店、はじめてです?」
やけに瞳の大きな女だな、と真っ先に思った。
僕は曖昧に頷きながら部屋の中をぐるりと見回す。
酔いに任せてやって来たはいいが、初めて訪れた風俗店は、僕に戸惑いと混乱を与えるばかりであった。
「大丈夫ですよ?」
僕の狼狽に気付いてのことだろうか。目の前の彼女は柔和な笑みを浮かべると、ゆるりと僕の肩に手をかける。瞬間、伝わるはずもない彼女の温もりが、ジャケット越しに肌へと届いてくるように感じられた。
「リラックスして下さいね」
できるはずもない。現に僕は、ベッドの上でまな板の鯉のような状態になっている。どうしてこんなところに来たのか……今更になってそんな思いが頭の中を駆け巡る。同時に、会って間もない自分の股間に顔をうずめる彼女の姿が目に入った。
顔も、名前も知らない彼女。
何故だろうか。
そのときの僕は、そんな彼女の来し方行く末が、ひどく心に引っかかった。
部屋の中では淫靡な音と、エアコンから吐き出される温風の音がひたすらに、ただひたすらに、響いている。
・・・
彼女の頑張りの甲斐もなく、僕は射精に至らなかった。
泣きそうな顔を浮かべた彼女は、僕に対して幾度となく謝罪の言葉を述べる。
僕は鷹揚に笑うと、店を出るまでの少し時間だけ、彼女と話をした。
彼女がこの店に勤め始めてまだ日が浅いこと、だから満足のいくサービスができなかったのであろうこと、そんなままで僕からお金を貰うのが申し訳ないこと――それは、実に他愛のない会話だったことだろう。けれどその会話は、ベッドの上で鯉になっている時よりも、余ほど僕に安らぎを与えてくれた。
「また来るよ」
彼女は一瞬、ぽかんとした表情を浮かべる。が、すぐに破顔して『ありがとうございます』と丁寧にお辞儀をした。何となく気恥ずかしくなった僕は、わざとらしい咳払いをして、そのまま店を後にした。
外に出ると途端に冷たい空気が全身に纏わりついてくる。未だ初冬というのに、ひどく底冷えのする夜だった。僕は両手を合わせるとそのまま口へと近づけ、温い息を吹きかける。刹那、ふんわりとした甘い香りが鼻腔を貫いた。
『ありがとうございます』
彼女の発した声が耳朶に蘇る。
恥ずかしいような、こそばゆいような、そんな名状しがたい気持ちを持て余しつつ、雑踏に向かって歩みを進めた。
・・・
「えっ、どういうこと?」
「だから……」
借金とかじゃなくって。
私は、これくらいしかできないから。
私には何もないから。
この店に通うようになって、何度目かのことだった。
僕が何気なく『どうしてこの店で働いてるの?』と聞いた時、彼女はそんな風に返したのである。
虚偽や謙遜の言葉ではなかった。
彼女は、自己の本心からそう答えた風だった。
「いや、でも……」
そこで思わず口ごもる。
僕が何を言うべきで、何を言わないべきなのか。
果たしてそれが分からない。
借金か、遊ぶ金欲しさか。その程度の動機で働いているのだろう、と高を括っていたものの、それはまるっきり見当違いであった様子だ。
「何もない、ってことはないでしょ。仕事なんて、それこそ腐るほどあるわけだし」
図らずも説教めいた声色になっていく。言いようのない苛立ちが胸の内に生じているのが分かった。
「ううん、違うの。何もないの、私には、本当に。勉強もできないし、人の気持ちも分からないし、だからこうやって、自分だけで頑張ってお仕事をするしか、本当に、それしか。私、何もないから、何もできないの」
いつものように朗らかな顔をしながら、彼女は語る。その表情には一点の曇りもなかった。だからその分だけ、彼女の発した言葉に深い影が落ちてくるようでもある。
「辛くないの?ていうか、それでいいの?別にたくさんのお金が欲しいわけじゃないなら、何もこんな、誰とも知らない男たちと……」
一体僕は何を聞いているのだろうか?誰にだって探られたくないことはある。見れば彼女は、どうにも困った顔をして僕の顔を見つめ返していた。今更になって、僕は己の不明を恥じた。
微妙な沈黙が部屋の中を包む。
僕はあれ以来、彼女と話すためだけにこの店へやって来ていた。
性欲が欠落しているわけではない。
ただ、彼女の顔を見ると、どうにもそんな気が起きないのである。
だから今日も、ただ彼女と話をするためだけにこの店へ訪れた。
それが、こんな――
「悪かっ」
「ねえ、しよう?」
僕の言葉を遮って、彼女は言った。『しよう』、その言葉の意味するところは、おそらく一つだろう。僕は黙ってかぶりを振った。
「いいんだ、そんなことをしなくても。別に僕は」
「ううん、違うの。そうじゃないの。ただね、何ていうか」
私が、あなたとしたいの――と、彼女は。確かにその時、はっきりとそう言ったのである。僕は目をぱちくりとさせると、半ば呆然としつつ彼女の唇を見た。薄い、でも艶のある、とても綺麗な唇だった。
「好きになっちゃったみたい。あなたのこと、大好きになっちゃった。だから、ねえ。しよう?」
「いや、だから僕は」
突然向けられた言葉の意味を僕は理解しかねる。好きだの、どうだの。いきなりそんなことを言われるだなんて、まるで思っていなかったからだ。僕は冷静さを保ちながら、彼女の言葉を押し止めようとする。
しかし、
「こんな店で働いている私はいや?だったら辞めるよ。私、何もできないけど、もしもこのお店を辞めて、そしたらあなたが私を好きに……ううん、違う。あなたが私のことを”好きにさせることができる”のなら、私、それでいい。私にできることがそれだっていうのなら、私はそれでいいの」
ほとんど独白するような調子で、彼女はそう畳み掛けてきた。僕の混乱は絶頂を極める。もちろん、彼女のことを好ましく思っていなかったわけではない。確かにそうではあるが――。
「……駄目なの?」
胸に芽生えつつあった反論の接ぎ穂、その全ては彼女の見せた涙によって打ち消された。僕は考えるよりも先に彼女のことを抱き寄せると、うん、分かった、と上ずった声で呟くのが精一杯だった。
「嬉しい……」
肩越しに聞こえてくる彼女の声は、相変わらず柔らかい。
「嬉しい……」
「俺も……うん」
彼女の告白を受け入れる前と、受け入れた後と。
それは、時間にすればほんの数十秒の違いでしかない。
そうであるにも関わらず、今の僕は、どうしようもなく彼女のことを『抱きたい』と願っている。
まったく、人の心はつくづくいい加減なものだなと、僕は苦笑いを浮かべた。
・・・
彼女は宣言通りあっさりと店を辞めた。多少の慰留も受けたらしいが、もとより人の出入りの激しい業界である。大きなトラブルもなく、彼女と店との縁は切れた。
程なくして、彼女と僕とは一緒に暮らすようになった。というか、彼女は想像した以上に積極的な性格だったようで、ほとんど転がり込むようにして我が家へとやってきたというのが実情である。
「駄目なの?」
僕自身思うところがなかったわけではない。が、彼女の困り顔を前にするとすぐに何も言えなくなった。幸いにして僕は一人暮らしだった。そのせいもあってさほど問題なく僕らの同棲生活は始まりを迎えた。
彼女は実によく尽くしてくれた。三度三度ご飯を仕度し、如才なく家事をこなす。隣近所にも愛想よく振舞っていたし、さして贅沢をしたがる様子もない。『良くできた内妻』、そんな言葉が相応しかった。
「ねえ、もう一回……しよう?」
だが、真夜中になると彼女は別の顔を見せる。普段の朗らかで愛らしい表情とは異なり、布団の中ではひどく淫らな笑みを浮かべた。一緒に住んでいるのだから、彼女が僕を求めること、あるいは、僕が彼女を求めること。それは至極自然な成り行きである。
「お願い、もっと……」
しかしながら、彼女が僕を求めてくる回数はおよそ自然なものではなかった。僕が音を上げるまで、もう一度、もう一度、と何度も懇願してくるのだ。最初のうちはそれでも良かった。けれどそれが毎夜のこととなると、どうしても体力が追いつかなくなる。
「ねえ、あと一回だけ……」
「……ごめん、明日早いから、寝るよ。おやすみ」
「そんなこと言わないで、もう一回だけだから」
「うるさいな……頼むから寝かせてくれよ」
日が経つにつれ、彼女の要求を断る回数が増えていった。
そんな時、彼女は何事も口にしない。
ただ、部屋を包み込む暗闇の中で。
布団を噛み、声を押し殺し、いつまでも飽くことなく――自身の体を慰め続けていた。
夜が終わり、朝を迎えるまで。
ひたすらに、彼女はただ、ひたすらに。
そんな日常だった。
・・・
「最近、だいぶ顔色良くなったなぁー」
その声に、思わず『へ?』と間の抜けた声を上げてしまう。
「いやぁ、お前さん、先月あたりまで随分元気ない顔してたからさ。みんな結構心配してたんだぜ」
同僚は、まあその調子なら大丈夫そうだな、ははは、と豪快に笑いながら立ち去った。僕はそのまま便所にいくと、壁面に設えられていた鏡に自分の顔を映しこむ。なるほど、確かにそこには血色の良い顔をした男の姿があった。
原因は明らかである。彼女との営みを控えるようになってから数ヶ月。僕を悩ませていた寝不足は完全に解消されていた。最初の頃は彼女も寂しそうにしていたが、近頃は慣れてしまったのか、僕のことを執拗に求めてくることもなくなっていた。
それにしても、と思う。
彼女は、どうしてああも僕の体を求めてきたのであろうか。
好きだから?確かにそれもあるだろう。しかし、確たる根拠はないが、どうにもそれだけではないような気がする。彼女が僕の体を求める瞬間、ただ『好きだから』という理由のみでは片付けられない何か、そんな得体の知れないものが在ったように思われた。
(もっと、もっと名前を呼んで下さい……私の名前を……)
ぼんやりと煙草を吸っている僕の脳裏に、彼女との情事の様子が蘇ってくる。行為の最中、僕は何度も彼女の名前を呼んだ。彼女がそれを強く好んでいたからだ。
僕が名前を口にするたび、彼女はその体を大きく捩じらせ、激しく身悶えた。それは何というか、性器の動きに感じ入っているというより、名前を呼ばれること、もっといえば自らを『認識されること』、それ自体に悦楽を覚えているような――有り体にいえば、そんな印象だった。
「ん?なあに?」
日常生活の中でその名前を呼んでも、彼女は大した反応を見せない。ただの杞憂なのだろうか?彼女は家事も、家計のやりくりも、全てのことをそつなくこなす。これで何か文句をつけようものなら、それこそ罰があたってしまうかもしれない。僕は色々なことを考えながら、食器を洗う彼女の姿をぼんやりと眺めた。
「今日もお疲れでしょう?私のことは気にせず、ゆっくりお休みになって」
「いや、いいんだ。おいで、一緒に布団に入ろう」
彼女との営みもしばらく休んでいる。きっと彼女も、内心寂しさを覚えているに違いない。僕はここ数ヶ月のことを少しだけ反省しながら、優しい笑顔で彼女を布団に招き入れた。彼女はほんのりと頬を紅潮させつつ、僕の体にしっとりと抱きついてくる。
「お願い、もっと……」
「ん……」
久方ぶりの情事は明け方まで間断なく繰り返された。
・・・
「おいおい、今日は随分顔色が悪いじゃないか。大丈夫かあ?」
同僚から発せられた無遠慮な声に、理不尽な憤りを覚える。誰に言われなくとも、自分の体調くらいは自分が一番分かっているつもりだ。それでなくとも昨夜は二時間と眠っていない。僕のことを一々気にかけるなら、いっそ放っておいて欲しいものだと思った。
「あ……」
作業に取り掛かろうとして、気付く。ひどく寝ぼけていたため、仕事に必要な道具の一切合財を自宅に置き忘れていた。これでは一体何のために職場にやってきたのか分からない。僕は職長に事情を告げ、大急ぎで家へと向かった。
家へと続く道を曲がると、通勤時間を過ぎた商店街が普段と違う表情を見せていた。忙しなく歩く人影はどこにもない。人々は思い思い家族のために買い物をしていた。
(なんか、いいな。こういうの)
正面からのすれ違いざま、母親の背中ですうすうと眠る赤子の顔が目に飛び込んでくる。
不意に、僕の脳裏に彼女の笑顔が頭を過ぎった。
(きっといつか、彼女と僕とも――)
何故かその時、何の脈絡もなくそんなことを思って、笑った。
・・・
自宅のドアを開け放つと、見知らぬ男の上に跨る彼女の姿が目に飛び込んできた。逆光を背に受け、髪を振り乱し、一心不乱に男の上で彼女は蠢く。僕は一瞬、それが僕のよく知っている彼女だと認識できなかった。あるいは、認めたくなかった。
僕は土足のまま部屋に駆け上がると、妻の下になってだらしなく笑う男の横っ面を容赦なく蹴り上げた。男が低い呻き声を上げた途端、彼女はバランスを失して横倒しになった。背中を見せた男に対し、更に蹴りを見舞う。男はほとんど声も出せないまま、布団の上で醜くもがいていた。
あの時、僕はどんな表情を浮かべていたのだろうか。
鬼のような形相だったのかもしれない。
喧嘩に負けた子供みたいに悔げな顔をしていたのかもしれない。
泣いていたかもしれない。
パニックのあまり、笑っていたかもしれない。
今はもう何も思い出せない。
唯一確かなことがあるとすれば――窓を背にした彼女が、どこかに感情を置き忘れてきたかのように無表情だった、それだけである。
・・・
彼女が間男と関係を持ったのは、僕が彼女との営みをはじめて拒んだ頃だった。最初は近所で顔を合わせる程度の関係であったが、間男は徐々に彼女へと近づいていった。
寂しかった、と彼女は言う。彼女がそう言うのであれば、事実そうなのであろう。僕はその言葉を素直に受け止めた。そして寂しかった彼女は、ごく自然に間男と関係を持つようになった。それだけである。それだけのことが、虚飾のない真実なのだ。
「……俺のせいなのか?」
苦虫を噛み潰すような声で聞いた。彼女は色の失った瞳で、ぼんやりと机の上を眺めたままだった。見る間に胸の内がざわついていく。
「黙ってたら分からないだろう!」
「捨てられると思ったから」
瞬間、二人の声が重なった。彼女の声は確かに聞こえた。だが、彼女の言わんとすることは、未だ胸には伝わってこない。
「私は、何もできないから。あなたに求めてもらうことくらいしか、できないから」
「何を」
「だって、求めてくれているときは、私のことを見てくれるでしょう?その時、確かに、あなたの中に私の居場所ができるでしょう?だから、私は、何もできないから、欲しかったの。いつも、いつでも。あなたの中に、居場所を、私は」
ぽつり、ぽつりと彼女は語る。その瞳は相変わらず虚ろであったが、声の調子はしっかりとしていた。
「でも、あなたは私を求めなくなった。だから、私にできることは、もうなくなったのだと思ったの。それはとても不安で、とても悲しいことだったの。だから、私は、新しい居場所が欲しくなって、あの男の人の中に、自分の居場所がまたできるかもしれないって、そう思って、それで」
彼女の告白を聞いているうち、間男が去り際に口にした言葉が想起される。
『ふざけるな。その女から誘ってきたんじゃねえか』
ただ、今はそんなことのひとつひとつが、ひどく瑣末なことに思えて仕方がなかった。
僕は怒りよりも悲しみよりも、知らずのうちに彼女を孤独へと追いやっていた自分が、ひどく情けなく思えたからである。職を辞し、贅沢もせず、懸命に身の回りの世話をしてくれた彼女のことを、この時はじめて、心から愛おしく思えたからである。
「すまなかった、本当に、すまなかった」
泣きそうな顔を浮かべた僕は、彼女に対して幾度となく謝罪の言葉を述べる。
彼女のしたことを許したわけではない。
間男と関係を持ってしまった彼女に対する猜疑心、それが晴れるまでにはしばらく時間がかかることだろう。
でも、今は。時間をかけてゆっくりと彼女のことを許して、認めて、愛し合って。
そうやって僕たちは――
「許せるわけないよ」
ひどく平板な調子の声だった。顔を上げた僕の目に、出会った頃と変わらぬままの彼女の瞳が映る。それは大きな、はっとさせられるほどに大きな瞳だった。
「確かに、すぐには許せないかもしれない。でも時間をかけてゆっくりと」
「駄目なの。そんなのじゃ、駄目なの。私がもう二度とあなたのもとを離れないように、私は私のできることをしなくちゃならないの。私にはできることがないから、できることは全部しないといけないの」
彼女はそこまで言い終えると、いきなり立ち上がって台所へと向かった。僕は思わず中腰になるのだが、彼女の挙動に一切の迷いはない。だから僕は、何もできぬまま、ただその姿を目で追うのが精一杯だった。
「これで」
彼女の手に握られていたのは真新しい火箸だった。火箸は窓から差し込む陽光を受け、鈍い輝きを放っている。こんな物がうちにあっただろうか、彼女はいつの間にこんなものを買ったのだろうか、などと愚にもつかない思いが頭に渦巻いた。
「私があなたのものであるという印を、消えない印を。私にちょうだい」
「は?」
強い力が右腕へと及ぶ。彼女は僕を掴むと、そのまま無言で台所へと導いた。陽の光の届かない台所は薄暗く、やけにひんやりとした空気が流れている。
「私の肌に。ヤキインで、あなたの名前を刻んで欲しいの」
ヤキイン、という言葉が、僕の中で『焼印』という言葉に結びつくまで、そう大した時間はかからなかった。彼女は手際よく火の準備を始める。
「馬鹿なことを言うんじゃない!正気か?そんなことできるわけがない……」
「じゃあ、今すぐ私を追い出して。私はこれ以上、もう何もできないの。私が何もできないんだったら、後はもうあなたに捨てられるだけだよね?だったらこの場で、今すぐに、私のことを捨てて欲しいの。でも、そうじゃないのなら」
「私を、あなたのものにして下さい」
静かな、ひどく静謐な世界の中で。
彼女は穏やかな声と共に、そう言った。
じっとりと、じっとりと。
赤く焼ける火箸を見つめながら。
・・・
「ああ……」
その身の内に僕を受け入れながら、彼女は恍惚とした声を上げる。僕は彼女の髪を手で梳くと、より一層その体を強く抱き寄せた。
「愛しているよ」
「私も……私はあなたの……」
彼女はそこで言葉を区切ると、遠い目をしながら己が二の腕に視線を向ける。僕はその視線の意味に気が付くのだが、その先に目を向けることはしない。
『
Kノ妻』
そこに何が刻まれているのか、そんなことは、もう十分過ぎるほどに了知しているのだから。あえてそれを視認する必要は、どこにもないのだから。
『
Kノ妻』
なぜなら、その刻印は
『
Kノ妻』
右腕のみならず、左腕にも
『
Kノ妻』
脇の下にも
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
鳩尾にも、臍の上にも
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
腿の裏にも肩甲骨の上にも足の付け根にも
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
『
Kノ妻』
およそ僕の目につく、全ての箇所に刻み込まれているのだから。
・・・
「あのね……今日ね、また知らない人に色目を使いそうになっちゃったの」
幾度目かの情事が終わったあと、彼女は神妙な面持ちで僕に語りかけてきた。あの日から既に随分の時間が経った。それでも、彼女はこうした告白をやめようとはしない。
「だから、私があなたのことを裏切らないように、あなたのもとから絶対に離れられないように、もっと強く、もっと確かに、私に刻み込んで欲しい。私、駄目だから、そのくらいしてもらわないと、またあの日みたいになっちゃうかもしれないから」
あれは、いつのことだったのだろう。
彼女の声は、遠く、遠く、本当に遠く。
僕の力なんてまるで及ばない、遥か地平の彼方から発せられているのだと、初めてそんな風に感じたのは。
「うん、そうだね、君がそう言うのなら、そうなのかもしれない」
そしていつしか、彼女の声に絡めとられて。
決して彼女に逆らえない自分の存在に気が付いたのは。
「きっとね、指のない女に興味を持つ人って、いないと思うんだ。だからね、私の指がなくなっちゃえば、どんなひとも私に寄り付かなくなると思うの。そうしたら、私はもっと、ずっとあなたのものになれるんじゃないのかな」
彼女は歌うように跳ねるように喋りつつ、くるくると蛸糸を解いてゆく。僕はぼんやりとその様子を眺めると、なるほど、確かにそういうものかもしれないな、と思った。
「ねえ。ちょっと糸の端を持って欲しいんだけど……」
「うん、これでいいかな」
「そうそう。すごくいい感じ。ありがとう」
いつかのように破顔しながら、彼女はぺこりと頭を下げる。僕はそんな彼女を愛おしいな、可愛らしいな、と感じつつ、固く結ばれた紐の中で刻々と血の気を失っていく彼女の薬指を眺めていた。
「じゃあ。お願いします」
「そうだね、そうしよう」
研ぎたての出刃包丁は、鮮やかに輝くその刀身とは裏腹に、ずっしりとした重みを僕に伝えてくる。すっかり冷たくなってしまった彼女の薬指、僕はそれを優しく掴むと、全体重を刃先に預けた。
「あ……あ、ああ……ああ、ああああああああ」
彼女の薬指に結婚指輪が嵌められることは、もうない。
・・・
被害女性の検死結果
火傷に伴う左胸から乳房にかけての化膿 1箇所
創傷 計13箇所
下半身・陰部における火傷 計28箇所
手指・足指の欠損 計6箇所
死因 敗血症
・・・
2009年7月下旬。
裁判員制度が、始まります。
■参考
google検索 矢作よね